「神の奥義の忠実な管理者。」 Ⅰコリント4章1~5節
管理とは、管理対象資源を活用して、目標を達成するためのものです。企業経営では、事務管理、財務管理、販売管理、人事管理などがあります。日本の経営では、コントロール(Control)的な管理が多く、支配や統率という意味合いが強いようです。アドミニストレイト(Administrate)は、組織的な管理の意味合いがあり、会社や行政などに関わります。マネイジ(manage)は、やりくりするという意味合いの管理です。ともかく、日本人、日本社会は管理が下手です。
その理由は、管理されること(支配されること)が嫌だからでしょう。最近の多くの会社における不祥事は、管理能力がないことが原因です。人格ある個人を、会社の駒のように扱い、ただ判断なしに忠実に上司の命令に従うことを重視し、要求されます。武士の時代を見ると、そのような絶対服従が要求されていたのかもしれません。
そのような社会では、個人の人格は無視され、家庭もまた、その機構の一部として組み込まれることになります。私は、日本人が一人一人は十分な個性と特色を持っているのに、その生き方や判断が画一的なことが不思議でした。
祈祷会で、「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。」(Ⅱテモテ1・10)、「私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。」(同11)と語りました。それは、強烈な名指しの召しであり、使命を持つべきものです。管理責任とは、自分の担当する部署と働きをしっかりと自覚して、なすべきことを自分の判断で行うことです。
神の招きとは、この世界で、神の国の住民らしく生き、その教えを示し、伝えることです。「神の奥義の管理者」(1)として、神の奥義がどのようなものか、しっかりと理解し把握しなければなりません。その働き、効能、使い方、注意点を十分に理解するのです。「管理者に要求されることは、忠実」(2)なのです。
信仰という賜物をどれだけ使っているでしょうか。あることは知っていても、使わなければ忠実とは言えません。「信じます。」と祈る人は知っていますが、信じて行動する人はあまりいません。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2・17)。
世の中は神を信じない人ばかりです。「あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。」
(3)。信仰で歩んだら、人々から馬鹿にされ、非難されることはあります。私が牧師になると決心したら非難しかありませんでした。千葉に引っ越ししてゼロから開拓することも、金もなくクリニックを開業することも、5人の子供を産むことも、会堂を買うことも、MYビルを買うことも。ところが、今はビルを建て替えると言っても、非難されることはなく、できそうだと思われています。ところが、最近は建築資材高騰で難しいのではと言われ始めています。また、いろいろと問題も起こり始めています。「私は自分で自分を裁くことさえしません。」(3)。信じて歩むことを裁くことはしないのです。
この世で、自分の環境にあるものは、神から与えられたものであり、「管理者」として、「何についても先走って裁いてはいけません。」(5)。「信仰の従順」でも伝えましたが、信仰で生きるということは、決して心配しない、愚痴らない、恐れない、ということです。
管理については、人的資源も忘れてはいけません。あの経営者たちは、管理というものが人の人生をマネイジすることであることを無視しているのです。
管理責任は、まず自分の心を管理しなければなりません。「ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」(ヤコブ3・2)。自分の語ることばの一つ一つに責任を持ち、よく管理しましょう。
他の人にも配慮をしましょう。神は私たちに、「力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1・7)。深くよく祈り、自分の霊を聖霊と結び付けていくと隣の人への愛や慎みが与えられてきます。
自分を管理できないと人生が崩壊してきます。そして、それは、年月をかけて管理するものであって、その管理の結果が少しずつ現れ実を結んできます。果樹を栽培してみて、美味しい実をたくさんつけるには長年の世話と努力が必要なことを教えられます。私たちも、御霊の実を豊に実らせ、人々と分かち合って生きるならば、「神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」(5)
Ⅰコリント4章1~5節
- 4:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
- 4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。
- 4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
- 4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
- 4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
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