「復活したら食事を食べる。」 ルカ24章36~43節
先週、復活を信じることは常識的にはありえないので、信仰の段階としては高度のものであって、それを信じることを安易に要求してはならないことを語りました。
「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒1・3)とあるように、イエス様は復活された後こそ、信仰の奥義を真に理解するべく、弟子たちに40日間も掛けて教えられたのです。
私は、牧師としての長い牧会歴の中で、「信じている。」という人が、その信仰を確認或いは検証していないで、残念ながら口先だけで言っていることがあることに気が付いてきました。
「救いを信じている。」ならば、嘘や誤魔化しをしないものです。ところが、安易に嘘を言い、誤魔化しをするクリスチャンがいます。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。」(Ⅰテモテ6・9)。「教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。」(同3・7)。信仰者としてこのように生きることが大事で、世の中で評判を良くしようとしたり、金持ちになりたがる人は、「誘惑と罠と、欲望に陥る」のです。その人生は、信仰と世の誘惑に揺れ動き、不安となり、平安に生きられないのです。
「復活を信じている。」ならば、病や死を恐れないものです。むろん、
癒しを求めます。「その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。」(ルカ10・9)。癒しは神の国の到来と永遠のいのちのしるしなのです。病や障害の中で、私たちの信仰の実態が現れます。それは本人にとって苦しいこと、むごいことですから、私たちは癒しや解決を祈ります。ただ、主の御手の中にあることであることを受け入れなければならないのです。
「主イエスが共におられる」(インマヌエル)ことを信じているならば、恐れや怒りは起こらないものです。復活されたイエス様が共に歩いておられたのに、「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」(ルカ24・16)。彼らは、「話し合ったり論じ合ったりしてい」(同15)のです。指導者が主の霊に満たされていなかったら、会議や講演は暗いものになり、否定的なものになっていきます。話し合いで、建設的なものや創造的なものが生まれることはありません。物事は思い付きや思案によって成し遂げられるのではなく、希望に満ちたビジョンによって導かれるのです。だから指導者のために祈る必要があるのです。日本中が、非難や批判、分析や議論で満ちています。滅びていく傾向です。私は、批判的な人や議論好きな人とは話をしません。
イエス様は、「平安があなたがたにあるように」(36)と言われました。神の健在の中で、人は自らの罪を意識し、恐れます。イエス様は、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」(38)と語りかけます。
「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので」(41)、食べ物を求め、魚を一切れ「彼らの前で召し上がった。」(43)のです。ここでイエス様が強調されたのは、復活した身体は、私たちと同じ肉体を持ち、食されるということです。多くの人が、天国を信じていますが、それは霊的なものであって、肉体はありません。つまり、観念的なものと捉えているのです。死んだら、肉体は滅んで、霊魂だけが天国と考えるならば、それは観念的な安心を与えます。
現代は、そのような観念的な天国思想もなくなり、死んだら何もなくなると考える人も多くなっております。自然葬が流行ってきて、骨を灰にして海や木の根元に撒くようです。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に?み込まれた。』」(Ⅰコリント15・52-54)。このよみがえりとは、朽ちない身体によみがえるということで、「彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ」(黙示録22・14)るのです。
ルカ24章36~43節
- 24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
- 24:37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
- 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
- 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
- 24:40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
- 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
- 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
- 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。
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