「イエス様の母マリヤの後先。」 ルカ福音書1章1~14節
マリヤと呼ぶかマリアと呼ぶかは自由ですが、カトリックでは聖母マリアと呼んでいます。プロテスタントでは、「最も気高い婦人」(ルター)などと尊敬していますが、カトリックは「聖母」として特別扱いをしています。そして、「聖母マリア」に神への執り成しを求めて祈ります。情緒的には、父なる神や御子イエスへの祈りよりも、「聖母」としてのマリアへの祈りは身近になるでしょうが、プロテスタントは聖書的なものではないとして否定します。
マリヤの優しさと強さ、そして信仰深さ、敬虔さは多くの人の憧れであり、その存在は大きなものです。ルカ3・23からの系図はマリヤのものであり、先祖はソロモンの兄ナタン(ユダ部族)です。レビ人ザカリヤの妻エリサベツが「親類」(ルカ1・36)で親しかったので、エリサベツは元はユダ部族の家系だったのでしょう。ただ、受胎告知の前後に家族のことも両親のことも記述がなく、エリサベツに相談に行ったのは、親のいない状態で親戚に預けられていたからなのかもしれません。決して、裕福でも幸せでもなかったのでしょう。
突然、御使いガブリエルがマリヤに話しかけます。「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(1・31.32)。マリヤは御使いに言います。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(34)。御使いは彼女に答えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。神にとって不可能なことは何もありません。」(35.37)。
乙女マリヤには、一方的な働きかけです。事前の同意もなく、多くの困難があることを示されるのです。ところが、マリヤは、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と受け容れます。
最近は、多くの人から愚痴や批判の言葉を聞きます。妻や夫、家族や知り合い、買い物や通りの人、会社や政府…何に対しても、文句を言います。天使が語り掛けても、素直に聞く人は殆どいないでしょう。その人の心の内にあるものが表に現れるのです。
夫となるヨセフは、本籍地はダビデの町ベツレヘムであったけれども、「ガリラヤの町ナザレ」(ルカ2・4)に住んで「大工」(マタイ13・55)をしていました。やはり貧しく、親の話は出てきません。もし親がいれば、一緒にベツレヘムに行っているはずです。
ともかく、貧しく独り身のヨセフとマリヤが婚約して、どうにか暮らしていく予定でした。二人とも頼るべき人もいないようです。そんな中、マリヤが妊娠していることをヨセフは知ります。「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、密かに離縁しようと思った。」(マタイ1・19)。実際には、隠し通せるものではなく、マリヤは姦淫の罪で殺されてしまうでしょう。ヨセフが結婚するしかなかったのです。しかし、不義の子を身ごもった女性と結婚しようとは思わないものです。そこに、天使が夢に現れて、「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。胎に宿っている子は聖霊によるのです。」(同20)と告げます。「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(同24)。ベツレヘムへの旅路は、実際上は夫婦ではなかったのです。カトリックの「聖処女」という捉え方も否定されます。
マリヤもヨセフも、全く普通の人ですが、非常に信仰深く、天使のお告げに対して、自分の試練や不幸を覚悟する信念を持っていたのです。
46節からのマリヤ賛歌は、驚くべき信念と信仰告白です。これほどのものを直ぐに告白できるのは、強い信念と人格を形成していたからです。「マリヤの後先」として大事なことは、マリヤが貧しく、孤独で、幸せではない状況の中で、このような信仰と人格、そして品性、さらには強い正義感を形成したことです。
毎日の生活で、周囲に対して不満を漏らさず、試練に耐え、感謝と祈りを献げて生きる人には、天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」(ルカ1・28)と語り掛けてくださるでしょう。
自分に都合の良いことを求め、不満や不平ばかりが飛び交う社会ですが、あなたがマリヤやヨセフのように生きるならば、人々は慰めを受けるでしょう。「あなたがたは世の光です。」「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5・14.16)
ルカ福音書1章1~14節
- 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
- 1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
- 1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
- 1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
- 1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
- 1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
- 1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
- 1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
- 1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
- 1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
- 1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
- 1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。
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