「覚悟して生きる。」 Ⅱコリント1章3~11節

多くの人が、自分の都合の良いように生きようとしています。人とのしがらみは確かに面倒くさく、手間や時間を割きます。年賀状も書かず、家族や親戚との交流も果たそうとしない人々が増えています。人を喜ばしたり、助けたり、犠牲を払ったりしないのは、楽であり、気儘かもしれません。

仕事も、責任を持って自分の職務を果たさないばかりか、ミスや失敗を繰り返す人が多くなっています。厳しく注意すると辞めてしまうので、指導も丁寧にするしかないのですが、きちんと仕事をしようとする意欲がないのと、向上心がないので、次第にしっかりとした友人もいなくなり、遊び友達だけになってしまいます。

年末年始の出来事を通して、魂の救われていない人々は、楽しく生き、自分の欲望を満足させることを願っているだけのことがよくわかりました。考えてみれば、神の国を考えない人生では、そのように生きるしかないわけで、うまくいかなくなると自暴自棄になり、破綻したり、自殺してしまうのです。ところが、自分勝手に生き、人との接触を怠ってきたので、そういう時に助けてくれる人や相談する人もなくなってしまいます。また、相談しても、自分に都合の良いことを求めるので、呆れられてしまうのです。

キリスト教信仰は、教会を通して形成されるものです。「教会はキリストの身体であり」(エペソ1・23)、信徒によって形成される組織体です。新型コロナ禍で、そのような教会の奉仕や交流が阻害されることは、サタンの巧妙な罠であり、終末のあがきでしょう。ユーチューブやラインによって、どうにか交流を維持していますが、実際に会うことによる交流と意思疎通の深さをおぎなえるものではありません。

パウロは3回の数千キロに及ぶ伝道旅行をそれぞれ数年かけて行っています。それは伝道のためと諸教会にいる信者を育て教える為でした。それをユダヤ教に熱心な人々が命を狙う迫害の中で行ったのです。なぜそのように訪問を続けたのでしょうか。それは、信者の考え方や習慣がこの世のものに染まっており、信仰に生きること、それによって神の祝福を得られるということがわかっていないからでした。「この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。」(Ⅱコリント9・12)。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6・38)これらの信仰の奥義を信じ切れず、与えることも奉仕をすることも自分の余力の中でしか行わないので祝されないのです。

「慰めの神」(3)が慰めてくださるのは、信仰によって歩むが故に苦しむからです。「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(5)。そして、「その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(6)。「私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」(へブル10・38)。

神を信じて生きるということは、魂の救いを体験した後の人生です。「あなたは、神は唯一だと信じています。ですが、悪霊共も信じて身震いしています。」(ヤコブ2・19)。自分の人生を信仰によって生きようとしていない人は、自らの信仰を確認してください。聖書信仰とは、神の子であるという栄誉を受けると共に、天国に行くという確信がなければ、心の拠り所にも助けにもならないもので、神の助けもありません。パウロが、「自分の心の中で死を覚悟しました。」(9)と告白する試練は、「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9)と説いています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出して下さいました。これからも救い出して下さいます。私たちはこの神に希望を置いているのです。」(10)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22・31)。終末とは、信仰者がふるいに掛けられる時です。「御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心にまかれたものを奪います。」(マタイ13・19)。「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐに躓いてしまいます。」(同21)。「この世の思い煩いと富の誘惑がみことばを塞ぐため、実を結ばない人のことです。」(同22)。神はこういう人々を神の国に迎え入れることを良しとしないのです。

私は、人生を神に懸ける覚悟をして生きてきました。職業も、結婚も、子育ても、教会堂やMCビルが与えられることも。「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(へブル11・16)。

Ⅱコリント1章3~11節

  • 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
  • 1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
  • 1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
  • 1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
  • 1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
  • 1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
  • 1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
  • 1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
  • 1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。