「救い、栄光、力は神のもの。」黙示録19章1~9節

私が讃美した『御顔を見ぬ時』は、『アメージンググレース』と同じくジョン・ニュートンの作詞です。彼は奴隷貿易に従事し船長にもなりましたが、嵐の中で回心し、牧師になります。そして奴隷貿易反対運動を始め、1807年、彼が81歳の時に英国で奴隷貿易が廃止されます。1779年に出版した『オウルニィの讃美集』にこれらの讃美が載せられているのですが、これらの讃美を聞く時、彼の生涯の困難さと、その真摯な信仰を知るのです。これは、彼の母の熱心な信仰と祈りによるものでもありました。

さて、今日の聖句は、終末における天国の大讃美です。大患難の後、信仰者の敵は滅ぼされ、神の裁きと主の王としての着座が行われます。教会は、花嫁としてたとえられ、「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(8)とあります。

マタイ25章には、キリストと花嫁なる教会の婚礼の時に、油を用意していた5人の賢い乙女と、用意していなかった愚かな乙女のたとえがあります。愚かな乙女とは、キリストを救い主と信じてはいたけれど、聖霊に満たされて歩んでいなかった信仰者を意味します。イエス様の教えですから、信者は注意して聞かなければならないのですが、花婿なるキリストは、言い訳ばかりを言う信者に対して「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」(マタイ25・12)と拒まれるのです。

マタイ22章には、王子の婚礼の披露宴に招待した人で「婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」(22・11)。その人に対して「あれの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」(13)と王が言ったという話をイエス様がされています。つまり、礼服というのは、神の国に行くための救いという義の衣のことです。

キリストと教会の婚礼という意味合いは、教会がキリストを愛し、実際にキリストとの日々を過ごしたいという思いから例示されるのでしょう。エペソ書には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と記されています。主キリストが、教会をそこまで愛されておられるということを、私たちはどこまで気が付いているでしょうか。夫婦で互いにあまり愛し合っていないならば、そういうことはわからないでしょう。妻を愛するということは、要求するということではなく、受け入れるということです。イエス様は、私たちを愛し、不十分不完全な私たちを受け入れてくださっているのです。

 ここで、教会は「キリストに従う。」(エペソ5・24)ことが当然なものとして要求されます。つまり、妻もまた夫に不満を漏らさずに、従順であることが必要になってきます。そして、黙示録19・8にあるように、「教会の正しい行い。」こそが、花嫁に相応しい「光り輝く、きよい麻布」なのです。愛されているからといって、夫に不満を漏らし、さらに逆らっているならば、それは「光輝くきよい衣」ではないのです。

 教会は、それほどキリストを求めて、自己犠牲的に従順を為し、愛しているのでしょうか。実は、それが教会を構成する信徒の真実性が問われるゆえんなのです。つまり、適当に信仰生活を過ごすということは、「油が切れている。」聖霊に満たされていないという証拠であって、その人は、愚かな乙女であるということなのです。なかなか厳しいことです。

 私は、ロシアに行ってみて、確かにそういう賢い乙女が多くいることを体験してきました。しかし、日本では難しいというか、少ないという実感があります。働く、稼ぐ、ということが、信仰よりも重視されています。世界中で、仕事や信条さらには命よりも大事に守られているのが信仰であるということは、現世思考の強い日本人にはあり得ないようなことです。日本だけでなく、経済社会の共通項です。

 終末の危機や熱心な信仰を強調することは、胡散臭い宗教のように思われ、日本では無理のない信仰生活を重視する傾向が強くなってきました。私自身は、「寛容を旨とする」ことを心掛けています。それは妻子に対しても同様です。しかし、自らに関しては、「主の御旨に損なわない。」ことに注意を注いでいます。それは、信仰や誠実な生き方というものは、本人の人格に依存するものであり、或は聖霊に触れてこそ変えられ、聖められるものであると悟ってきたからであります。

 罪とは自己義でもあります。神の義は、自らを義としては得られないものです。残念ながら、救われていない人々の自己義を打ち破ることは誰にもできるものでもありません。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。」(19・1.2)と、判断を神に委ね、自ら為しうることを行うことこそが、キリスト者としての生活です。そのように生きる者によって、超自然的に教会が形成され、営まれているのです。ジョン・ニュートンの「御顔を見ぬ時、全ては意味なし。」は真摯な信仰者の信条かと思い、またそのような人々によってこそ、真の讃美が為されるのです。

黙示録19章1~9節

  • 19:1 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
  • 19:2 神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
  • 19:3 彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
  • 19:4 すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ」と言った。
  • 19:5 また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
  • 19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
  • 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
  • 19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
  • 19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。