「黙って神に付いて来い。」ローマ書11章25~33節

夢を見ました。困難が続き奮闘しても解決せず、困惑しているのですが、妻はニコニコして、子供たちに「黙ってお父さんを信頼していればいいのよ。」と言っているのです。

結婚した時、妻は重度の鬱で、動きも止まり、異常な様子がはっきりとしていました。体調も悪く、卒業もできず、私たちの将来も見えない状況でした。私は、結婚して仲良く過ごしたら治るのではないかとも考えていましたが、改善しない様子を見て途方に暮れたものでした。結婚に関しては神の明確な印も幾つかあり、信仰と確信を持っていたのですが、次々に起こる不安要因と困難もあり、私自身も蕁麻疹や不整脈が現れてきました。

最近は、妻の笑顔に慰められ、喜びを感じています。妻は私がいれば、どんなことがあっても平気だと信じているようです。まるで神様のようです。実際には、罪深さや弱さ、欠点を強く感じるこの頃ですが、私もまた、私の背後におられる神に強い信頼を抱くようになりました。

「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり」(25)。先週お話ししたように、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)は1878年続いたのです。「パウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。』」(使徒13・46)と、福音に対して最も攻撃的だったのがユダヤ人だからでした。

ユダヤ帰還法では、「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義していますが、実際には多様なユダヤ人が世界中におります。ユダヤ人は、「神に選ばれた選民」と自負して異邦人を汚れたものとみなしていたのですが、キリスト教社会からは「神を殺した賤民」と差別され、迫害が続いてきました。しかし、迫害差別されながらも、民族性を残し、シナゴーグを中心として律法を守る宗教民族として存続してきたことは、神の導きと選びであったとしか説明できません。また、その宗教性故に迫害されても、棄教しないで団結してきたことは確かに選民であると証明されます。

ユダヤ人は1340万人で世界人口の0.2%ですが、ノーベル賞受賞者の2割がユダヤ人であり、世界の富豪8人のうち4人がユダヤ人です。ユダヤ企業は、ロックフェラー、ロスチャイルド、マイクロソフト、アップル、フェイスブック、インテル、ディズニー、多数であり、「神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(33)とあるように、世界の富と知恵を支配しているのです。だからこそ、イスラム圏のど真ん中にイスラエルが存続しているのです。神の祝福は間違いありません。聖書は、そのユダヤ人が民族的にキリストの福音に従うと預言しているのです。「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。』」(26)

 「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。」(28)。父祖というのは、主に忠実に歩み、子孫への祝福を約束されたアブラハムたちです。「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。」(Ⅱ列王13・23)

 最近はスポーツ指導者の横暴や暴力が問題となっていますが、本来、武道やスポーツでは指導者は絶対であり、服従は当然なことでした。それは、指導者の技量や人格が卓越したものであり、知的な理解や努力では身に付かないものだからだったでしょう。家庭でも、親や年長者への服従は当然なものでした。私は明治の両親に反抗や意見を言ったことはありません。自分の子供たちから反抗を受けた時、義を身につけさせなかったことに気が付きました。時代の趨勢かもしれませんが、逆らったり疑ったら、祝福はなくなることが義というものです。

 同様なことが信仰の世界でも起こっています。神の戒めを守るということは、自分の判断を差し入れないで、どこまでも守るということです。「伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6・17.18)。救いの確信に悩んでいるのは、どこまでも神に従うというよりも、自分の基準でごまかしているからです。

 多くの困難がありましたが、妻を裏切ったことはなく、妻の悪口も他人に言った覚えがありません。多くの夫婦が、お互いの非難を他人にしています。明らかに不義です。そんなことで、信頼が確立するはずがありません。まして、神への不満や不信仰は、神の側ではなく、私たちの側の不義です。神の祝福があるはずがありません。それでも、神はあなたを捨てません。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(29)。神が捨てるのではなく、人間が神を捨てるのです。私は、そういう背信者を多く見てきました。キリストの嘆きであり、私もまた、悲しく思います。私でさえ、それらの人の執り成しをしているのですから。

ローマ書11章25~33節

  • 11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
  • 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
  • 11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
  • 11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
  • 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
  • 11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
  • 11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
  • 11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
  • 11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。