「慈しみ深い神」Ⅰペテロ2章3~11節
慈しみ深き 友なるイエスは、罪咎憂いを 取り去りたもう
心の嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を
慈しみ深き 友なるイエスは われらの弱きを 知りて憐れむ
悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたもう
慈しみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも 祈りにこたえて 労りたまわん
讃美歌312番(聖歌607番)
ウィリアム・ウッド先生の機関誌にこの讃美歌の由来が書いてありました。アイルランドの牧師ジョセフ・スクライヴェンが1855年に書いた詩に1868年アメリカ人チャールズ・コンヴァースが曲を付けました。1844年、ジョセフが牧師に就任してすぐ、結婚式の前日に彼の婚約者が落馬して川に落ち溺死しました。1954年にも結婚式の数週間前に婚約者が肺炎で死んでしまいました。失意の中にある母親を慰めるために一年後に書いたのがこの詩です。その後、彼は環境を変える必要があると考えて、自然豊かなカナダのオンタリオ州に移り、病人・未亡人・貧困者に仕え、「人から助けを求められて一度も断らなかった」という「ポート・ホープの良きサマリヤ人」と呼ばれたそうです。
ダビデに対して謀反をして神罰で地に飲み込まれたコラの子孫が、ダビデ王の時に「天幕の入り口を守る者となった。」(Ⅰ歴代9・19)とあり、どうも家系としては讃美の奉仕は割り当てられていなかったようです。そして、ダビデの30人の勇士の内に5人の「コラ人」(Ⅰ歴代12・6)がおり、詩篇の第2巻42篇から49篇は、その説明に「コラの子たちのマスキール」(教訓詩?)と書いてあります。Ⅱ歴代誌20章には、多くの敵の前で恐れるヨシャパテ王と住民の前で、「コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を讃美した。」(19)とあります。彼らは、自らの罪深さを悟っており、だからこそ、恐れや勝敗に関わらず、救いと神の恵みを感謝して、讃美の声を上げたのでした。
イエス・キリストとその教えは、「人には捨てられたが」(4・3)、「家を建てる者たちが捨てた石」((7)とあるように、処世術で生きる人や損得で人生を考える人には愚かな教えであり生き方です。「つまずきの石、妨げの岩」(8)なのです。世の中の人の価値観で生き、「それはできなくてもしょうがない。」などと悟っている人は救われていない人なのです。「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるよう定められていたのです。」(8)。十字架を負わない人に腹を立ててはいけません。神は救われていない人に十字架は負わせないのです。
今日は、この教会の召天者を記念しましたが、教会やキリスト教式で葬儀を挙げられた人は、教会に最後までつながっていた人です。奈良幸子姉の突然の事故による召天は、私達には衝撃でしたが、後になって、あの葬儀を通じて救われ敬虔なクリスチャンになっている人がいたことを知り、感謝でした。田中兄の死も残念でしたが、母教会からの問い合わせで詳細がわかり記念会をすることになりました。ある人は、教会を離れ、酒を飲んで酔っ払っては集会来て、後ろの席で寝ていました。死んだ後、遺体が教会に運ばれて翌日葬儀という真夜中に葬儀社が来て、教会ではしたくないという母親の指示で遺体を引き取って生きました。私は、告別説教をどのようにしたらよいのか苦しんでいたのでホッとしました。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9・27)とありますが、私は死ぬ前と死にざまにも裁きがあるように思います。「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12・20-21)。
私が感じることは、魂の救われていない人は、生き様が処世術で判断したものであり、教会に対しても損得で考えています。「つまずきの石」につまずくようになっています。特に、礼拝出席と献金で、その人の信仰姿勢はよくわかります。裁くのは神ですから、私はそういうことにはとやかく言わないことにしていますが、根本的には魂が救われているかどうかが、生きているうちにわかります。救われていない人は、必ず教会に来なくなり、言い訳をするのです。「たましいに戦いをいどむ肉の欲」に負けるのです。
そういう躓きの石は、誰にも感じることです。しかし、信仰者はそれを乗り越え、むしろ積極的自発的に献身的な人生を送ります。それは、罪、つまり自己中心な存在である人間に、神の救いが現れた印であり、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」(9)以外のなにものでもありません。
忍耐をもって信仰生活を送る人以外には、「主は慈しみ深い。恵み深い。」とは言えるものではありません。大事なことは、無理して信仰者らしく振る舞うことではなく、実際に神の前に自己中心の罪を悔い改め、救いを体験することです。
Ⅰペテロ2章3~11節
- 2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
- 2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
- 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
- 2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
- 2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
- 2:8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
- 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
- 2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
- 2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
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