「謙遜に生きる。」 Ⅰペテロ5章1~11節

教会はキリストの身体として働きます。その要(かなめ)となるのが執事です。当教会の理念には、「教会には多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくる。この信者を整え、神への奉仕という使命を果たすように導くには、キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者層が確立されなければならない。整えられ愛し合い一致した教会こそ神の栄光が現され成長する。」とあります。「多種多様な人々が神によって召し出されてくる。」ので、「その信者を整え、神への奉仕という使命を果たすように導くには、キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者層が確立」されなければなりません。

執事としての働きは、好きだから、頼まれたから、能力があるから、というものではありません。「キリストの弟子として十字架を負い主に従う」という意思がなければ果たせなくなります。主の弟子となる為には「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」(マタイ16・24)ということが必要です。自分の十字架とは、自分の罪深さではなく、周囲の人の罪深さが我が身に掛かり、苦しみ、そして、ついには自分の主張や在り方を捨てるということなのです。

牧師となるためには献身しなければなりません。献身とは、神に自らを献げ、自己主張や自分の権利を放棄するということです。そして、神の教えと命令にはどんなことがあっても従うということです。それで、私は自分の子には牧師になることを勧めていませんし、なれるとも思っていません。

執事や執事補に牧師がなることを勧めても、執事であり続けるということは、「キリストの弟子」でなければできません。奉仕というものを「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」(2)ということ、つまり十字架を負うことは、非常に難しいからです。「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい」(Ⅱテモテ5・17)とあるように、長年執事であり続けられた人は、男女に関わらず長老という尊称を与えたいと思っています。その人は「群れの模範」となるでしょう。そして、イエス様によって神の国で「しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

 誰でもなれるものではないからこそ、執事たちを尊敬し、従うことが必要なのです。実は、従うということは、いつでもどこでも、神にも人にも祝福される美徳なのです。

「謙遜」の逆が「高ぶる」ということです。「ヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、彼らの上に臨まなかった。」(Ⅱ歴代32・26)。神は高ぶる者を怒りますが、へりくだるならば怒りを収めるのです。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57・15)

へりくだることができるようになるためには、「心砕かれる」経験を多く積まなければなりません。自分の思う通りにしようとかできると思っているのは、まだ心砕かれる失敗をしていないからです。そういういろいろな試練の中で「思い煩いを、いっさい神に委ね」(7)、「身を慎み、目をさましていな」(8)ければ、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってい」(8)るので、身を滅ぼしていくのです。信仰生活は、神の国への道を歩んでいるのであって、趣味や悟り、教訓のためのものではないのです。踏み外したら、ひどいことになります。そのようなことで心砕かれ、悔い改めてへりくだかれることができたら、幸いですが、心には傷が残るでしょう。それが謙遜です。

そういう面で一度高ぶってしまうと、へりくだることはなかなかできないのです。悪魔は私たちをいろいろな誘惑で高ぶらせようとするのです。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(9)とは、自らのことというより、高ぶった人のために戦うということです。高ぶった人は、自らを高ぶっているとは思っていないので悪魔の罠に陥るのです。「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4・26.27)。怒りやすいと簡単に悪魔に騙され、道に迷うのです。

そのような人々を救い助ける為に、クリスチャンは「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着け」(コロサイ3・12)て、働かざるを得ないのです。伝道や牧会とは、そういうことなのです。他人を関わることなくして、私たちが信仰者として成長することはないのです。人に関わり合わないから、魂が救われないのです。「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(10)。

Ⅰペテロ5章1~11節

  • 5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。
  • 5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
  • 5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
  • 5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
  • 5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
  • 5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
  • 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
  • 5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
  • 5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
  • 5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
  • 5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。