今週のメッセージ 「桜の日」 ヨハネ11章1節~25節

聖 句 ヨハネ11:25

 「我こそ、復活にして、生命なり。  我に委ねる者は、死ねども、生くるなり。」

 主イエス基督の復活日、おめでとうございます。

 本日は基督復活記念日です。聖祭(ミサ)中心のカトリックでは「復活祭」と呼びますが、プロテスタントでは「復活日」「復活節」と呼ぶのが伝統的です。

 西方教会の羅語では「Pascha」、東方教会のロシア正教では「Пасха」(日本正教では「パスハ」)、仏語では「Pâques」。希語「Πάσχα」に由来。元々ヘブライ語「פֶּסַח」(過越)に由来。聖書的です。

 一方で、独語では「Ostern」、英語では「Easter」、日本語でも「イースター」。ゲルマン神話の春の女神「Eostore」に由来。

 日本各地で桜が満開なので「桜の日」と呼んでみました。桜の花は、葉っぱ一枚もなく、枯れ木のような樹木に、一斉にパッと咲く。まさに「復活」。

 Ⅰ 死者の蘇り

 ベタニヤ村(西ベタニア)。エルサレムから3キロほどの村(ヨハネ一一18)。「ユダヤ」に属しています。ヘブライ語で「ベタニヤ(בֵּיתעַנְיָה)」とは、「家(בֵּית)」+「貧しい(עַנְיָה)」で、「貧しい家」「貧者の家」の意味です。

 西ベタニヤに住むラザロという人が重い病気にかかり、今にも死にそうな危篤の状況にありました(一一1)。そこで、ラザロと同郷のマリヤとマルタが主イエスに助けを求めます。直ちに病気を治し、元気にしていただけるに違いないと考えてのことでしょう。

 主はヨルダン川東岸にある別のベタニア(東ベタニア)に滞在していました。西ベタニヤと東ベタニヤの間は30キロほどあります。マリヤとマルタは、主が直ぐベタニアに来て、ラザロの重病を、奇跡的に癒されると期待していたに違いありません。

 意に反して、主はなお二日間、東ベタニアに滞在し(ヨハネ一一6)、その後、西ベタニヤに向かいます。ラザロは既に死亡して、埋葬されて四日も経っていました(ヨハネ一一17)。

 死後数時間経つと腐敗ガスが発生し、1日ほど経つと腐敗性水疱が発生し、2日ほど経つとそれが全身に現れ、腐敗臭を感じるようになります。既に4日も経っていますから、「既に臭くなっています」(ヨハネ一一39)。死亡していた証拠です。

 主イエスは「汝の兄弟は復活する」(ヨハネ一一23)と言いますが、マルタは「我知る、終わりの日には復活すると」(ヨハネ一一24)と答えます。 それに対して、主の言は「我こそは復活かつ生命なり。我に委ねる者は、死ねども、生くる」(ヨハネ一一25)。

Ⅱ 復活とは

 「復活」と訳される希語は「ἀνάστασις」。「ἀνα」は「上へ」「再び」「後ろへ」「元へ」という意味、「στασις」は「存立」「場所」「反乱」「紛争」「騒動」という意味。主は、「ラザロは死んだ」(ヨハネ一一14)と言いながら、「ラザロよ、出て来い」(ヨハネ一一43)と言い、「死んだ人が出て来た」のです(ヨハネ一一44)。

 ラザロの復活は肉体的に死亡した人間が蘇ることでした。主の復活は黄泉に降られた主が天に上げられることで異なります。「復活」とは、死んで四日も経ったラザロが出て来たように、死なないことです。再び、元の

ように、上へと起き上がり、活動を続け、騒動を起こし、混乱させるものでしょう。

 「我こそが復活なり」とは、基督の十字架を予見させるものです。十字架に架けられ、地上の生命を閉じられ、黄泉に降ったとしても、終わりではなく、むしろ始まりという含みでしょう。復活の予言です。

 「生命」とは、神との交わりにあること。アダムとエバが、罪の結果、死んだのは、神との契約を破り、神との関係を切ったから。逆に生きるとは、壊れた神との関係を修復し、神との交わりの中に復活すること。その道が基督です。

   Ⅲ 信ずる者は救われる

 ポイントは、「我に委ねる者は、死ねども、生くる」(ヨハネ一一25)。 日本語で「信じる」と翻訳される希語の「πιστεύω」は、「委ねる」「任せる」という意味。人に何かを委ね、任せるのは、その人を信じているからでしょう。先ずは、相手方が信頼できるか否かを検討して、大丈夫だと思ってから決めることになるでしょう。

 「信じる」とは、希語で意味されているように、「委ねる」「任せる」ということであり、自己の意思や権限を相手に託し、相手の責任を引き受けるという人格的な行為です。聖書の宗教は、神の言葉に照らした真否確認を求めます。

 アブラハム契約の旧約宗教、タルムードの猶太教、新約聖書の基督教、クルアーンのイスラームはこの原則を守っています。

日本語「信じる」は「疑いを持たず真実であると思う」などという意味です。プロテスタントの「信仰義認(信仰義化)」の誤解問題。「ただ信仰のみ(sola fide)」原則にズレが生じています。

 日本語の感覚では、「『イエスが基督である』と信じたら救われる」と捉えられてしまうからです。イエスが基督であることを確信することは必要ですが、それでは義とされません。それで救われるなら、イエスが基督だと確信する悪魔や悪霊が天国に行きます。

 信じるとは、身を委ねること。自分の所有権を基督に移す信託です。

 「生命」である基督に信じ委ねる者は死んでも生きるのです。

 基督の復活は、私たちの復活でもあるのです。

ヨハネの福音書 ヨハネ 11節~25節

  • 11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
  • 11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
  • 11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
  • 11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
  • 11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
  • 11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
  • 11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
  • 11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
  • 11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
  • 11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
  • 11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
  • 11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。
  • 11:19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。
  • 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
  • 11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
  • 11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
  • 11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
  • 11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
  • 11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

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MYoshi
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