1月17日 「地上では旅人、寄留者。」 へブル11章8~16節

日本では創造主という概念は浸透せず、数多ある宗教の一つとしてキリスト教を捉えていて、神を求めて教会に来る人は少ないようです。社会での生き方に満足している人が神を求めることはなく、教会に来るのも一般教養や人との出会いを求めて、或は宗教を少しはかじってみようという程度の人が殆どです。そんな中で、影響を与えるのは、やはりクリスチャン自身に出会うということです。私たちが真に「福音に生きる」人生を過ごしているかどうかが、人々の目に奇異に映るならば、関心を与えるでしょう。

日本では創造主という概念は浸透せず、数多ある宗教の一つとしてキリスト教を捉えていて、神を求めて教会に来る人は少ないようです。社会での生き方に満足している人が神を求めることはなく、教会に来るのも一般教養や人との出会いを求めて、或は宗教を少しはかじってみようという程度の人が殆どです。そんな中で、影響を与えるのは、やはりクリスチャン自身に出会うということです。私たちが真に「福音に生きる」人生を過ごしているかどうかが、人々の目に奇異に映るならば、関心を与えるでしょう。

カルデアのウルは文明発祥の地とも呼ばれる栄えた都市でした。ヨシュアは伝説に基づいて「テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」(ヨシュア24・2)と言っているように、父テラはウルやハランで盛んであった月礼拝の宗教者であったようです。ステパノはどのような資料を元にしてか「私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。」(使徒7・2.3)と語っています。つまり、裕福な遊牧民であったテラの一族はアブラハムに促されてハランに移ったけれど、やはり繁栄し月礼拝をしているハランから離れて未開の土地に行く気などしなかったのです。

75歳まで父に従ってウルにいたアブラハムですが、神はアブラハムに「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12・1、新改訳2017)と言われました。住む場所を変えるだけではなく、親族や父の家で表現される生まれつきの価値観を離れることを指示されたのです。私たちが神と共に住み福音の中に生きる為に離れ変えるべきことは、生まれついての価値観、風習、そして家族との癒着です。時間が掛かるかもしれませんが、福音、つまり神の教えの中に生きる為には、これまでの価値観や習慣が価値のないものであるとして捨て去ることが必要なのです。

人間は自己義があるので、良きことを選んで自分のものにして幸せになろう、成功者になろうという思いが強くあります。しかし、しっかりとした基盤や法則を身に着けていなければ、結局は欲と選択肢に振り回されるだけなのです。コロナに関する選択肢できちんとした理念や判断に基づいたものがなく、経済社会の利益に振り回されているだけです。

私は、クリニックを始めるにあたって、医学というものが唯物論に基づいており、精神は神経の働きに過ぎないという前提に基づいて治療をしていることを確認しました。それで栄養医学を模索し、分子整合栄養医学に行きついたのです。教会の牧師としても、教会成長論というものが、牧師の成功欲に基づいていることに気が付き、信者一人一人の魂の救いと聖めを目標として人生を費やすことに覚悟を決めたのです。また、結婚してから、自分を主張することが妻を傷つけることにもなると気が付きました。

 アブラハムは、ハランからシェケムまで800キロ程の長い放浪・牧畜生活をしながら多くの土地と人々と出会いながら、自分の固定観念が次第に解け、信仰によって生きる方法と信念を神に教えられたのです。それが75歳からであるということに驚きます。そこで、主から「あなたの子孫にこの地を与える。」(創世記12・7)という言葉をいただきますが、アブラハムへではありません。なんと忍耐のいることでしょうか。アブラハムは、それを受け入れて祭壇を築きます。しかし、そこにはカナン人が住んでいたので、更に旅を続け、べテルでも「祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。」(創世記12・8)。

信仰生活は、簡単に安楽の生き方ができるものではありません。だからこそ、「主の名を呼び求め」るのです。「彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」(へブル11・9)のは、「信仰によって」なのです。信仰があるからこそ、安逸な妥協ではなく、孤立しても神の約束によって歩んだのです。カナン人と仲良く住み、平穏な生活をするよりもむしろ、「他国人のように」生きたのです。

「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」(13)のは、その地の住民のように生きると、堕落するからです。私は、人々と仲良く暮らし、親しく付き合っていますが、決して心を許してはいません。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12・14)。人と争うことなく生きるには、聖さが必要です。そして、人と親しくなることを優先すると聖さを失います。この世で報いられることを求めると、心は思い煩い、うまくいくことの為に平安を失います。

むろん、私たちは聖人ではありませんし、聖人にもなれません。聖人になろうと思うこと自体が、この世での報いを求める自己義です。うまくいかない、報いられない、それは私たちが「旅人であり、寄留者」なのだから、当然なのです。この世に安住したら、テラのように神の国への旅に出ることはなくなるのです。苦労を避け、責任を避けたら、魂の健全さを失います。失ったものを獲得することは非常に難しいことを私は見てきました。

へブル11章8~16節

  • 11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
  • 11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
  • 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
  • 11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
  • 11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
  • 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
  • 11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
  • 11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
  • 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。