「一緒に生きる。」 へブル書10章19~27節

教会員アンケートや葬儀アンケートの提出を求めましたが、提出しない人もおります。教会員アンケートを提出しない人は、教会の運営に関心がないという意思表明をすることになり、葬儀アンケートを提出しなかった方に対しては、教会はその人の葬儀に関してのフォローの義務を負わないということになります。わからない、できない、他のことで忙しかった、などと言っても、提出期限を過ぎた人に対して、教会は責任を負いません。人情的には、としてそういうことを放置すると、社会的責任や義務を負わずに勝手に生きることを黙認してしまうことになります。「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。」(申命記11・1)とは、人間的言い訳を認めません。教会とは、そういう戒めをきちんと教えなければならないのです。

今日のテーマ「一緒に生きる。」とは、一緒に生きる為には勝手な生き方をしてはいけない、ということです。食事の時間になっても、「後で食べる。」と言うならば、家族の交わりを軽んじることです。「宿題がある。忙しい。仕事をしている。お腹がいっぱいだ。」などという勝手なことを許していたら、その人の人生を崩壊するように教えるようなものです。人は罪びとであり、自己中心です。共に生きることを身に着けない人生を送ることを、親は子どもに許してはいけないのです。家族の関係は、相互利益の為ではありません。「父と母を敬え。」(申命記5・16)を身に着けない子は必ず不幸になります。親は子どもに断固として従順を教えなければなりません。成績が悪くても不器用でも問題はありません。家族や人と仲良く共にいることができなければ幸せにはなれないのです。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしない」(25)とは、礼拝の意義を認めない信仰者が、功利的に自分は信仰がしっかりしているから、一緒に集まって礼拝や教会を維持する必要はない、と言い張っていたようです。このコロナ禍の時期に、まさに私たちを惑わす罠です。私たちの教会では、たとえ礼拝に出られなくても、今はラインやメールや電話で交流をしています。それを面倒くさいと孤立したら、その人は「一緒に生きる」ことができなくなっているのです。

「かの日が近づいている」(25)のですが、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ」(エペソ4・12)、礼拝を守ろうとすることによって「成熟した大人になって」(エペソ4・13)いくのです。

実は、オミクロン株の感染力は強いものの重症化リスクはかなり低いものとなっています。それでも人々は恐れるのです。「悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5・8)。恐れによって左右される人は、サタンに捕まります。孤立しないで、「一緒に生きる」習慣を保持しなければなりません。

アメリカではもともとコロナウイルスを恐れる人は少なかったようです。イギリスでは、ついにほとんどのコロナ規制を撤廃しました。結局のところ、重症化したのは、失礼ながら健康管理の十分ではなかった慢性疾患の人が殆どです。慢性疾患こそ寿命を縮めることを、2月のMCニュースに書きました。この恐れで、膨大な経費がかかり活動が縮小されました。いまだにワクチン接種を勧めていますが、この株にはワクチンは効かないという報告もあります。日本人は、確かに感染が少なかったですが、恐れに弱いことが判明しました。今後も、悪魔はほえたけるでしょう。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5・9)。自分が何に弱いか、はっきり自覚することが必要です。弱点を克服しようと決心しなければ、生涯あなたは恐れに惑わされ続けます。また、弱点を克服できないと認めたら、私たちの救いを「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(23)。結局のところ、信仰とは自分の能力や力、あるいは恐れ逃げ惑うことではなく、それらが無力であると悟って神に救いを求めることです。

「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合い、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い」(24.25)ましょう。孤立して生きると、恐れた時、困った時に、助けを求めることができなくなります。

今回のコロナ禍で、ライン、ユーチューブ、グーグルミート、などのネット利用が交流に非常に優れたものであることがわかりました。乗り遅れた人も、まだ未熟な人も、いまからでも仲間に加わってください。「できない!」と意地を張っているとサタンの罠に陥りそうな時に、助けを求めることができなくなりますよ。

へブル書10章19~27節

  • 10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
  • 10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
  • 10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
  • 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
  • 10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
  • 10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
  • 10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
  • 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
  • 10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。