1月10日 「自分の誠実さを堅く保つ。」 ヨブ2章3~10節

全身に蕁麻疹ができて痒くてたまらないので祈りながら、アトピー性皮膚炎の方々を想いみ、更にヨブのことを想いました。サタンは、「ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。」(7)。膿も出るけれど、痒くてたまらないので、「土器のかけらを取って自分の身をか」(8)いたのです。「灰の中にすわった。」のは、膿を止める為でしょうか、痛さを和らげるためでしょうか。「彼の痛みが非常に大きい」(13)というだけでなく、「ヨブであることが見分けられなかった」(12)ほどに身体が崩れ、無残な様子だったのでしょう。

信仰者が病気になる時、その穏やかな様子と覚悟に驚かされます。愚かな人々は、「神をのろって死になさい。」(9)と言うものですが、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(10)と言います。神が私たちを呪うわけではなく、サタンが私たちを陥れるのですが、私たちの人生には、不満を言いたくなることは山ほどあるものです。サタンは、私たちに不平、不満を言わせたくするのです。

「誠実」を辞書で調べると、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。」、「真面目で嘘や偽りがないこと」、「真面目で人や物事に対して真心があること」とあります。ところが、人というものは自己中心であり、自己判断が中心ですから、多くの人が自分は「誠実」だと思っていることがおかしくもあります。人の誠実は、相対的なものですから、確かに誠実な人はいるのですが、絶対的には「誠実」は自己満足の所存かと考えたのです。自分を「誠実」でない、と自覚するならば、真に悔い改めて神と出会うと思いますが、詐欺師でも「自分は誠実だ。」と考えているから、平気で罪を犯すのです。私自身は、そういう人の心を知って、「誠実に生きる。」ことが馬鹿らしくなり始めた時に、神に出会い、救いを体験したのです。「義人はいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」(ローマ3・10)に共感しました。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(へブル4・12.13)とあるように、神の前には自分を義とすることも、誠実であるとうぬぼれることもできないのです。「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは取り除かれます。」(Ⅱコリント3・16)。そして、「主の御霊がおられるところに自由があり」(17)、私たちは「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。」(18)

つまり、聖霊に満たされ導かれなければ、誠実ではありえないのです。そして、「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」(詩篇7・8)とあるように、自分の義が、神の義に変わらなければ、神の前には出られず、弁護もされないのです。

「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。」(2・3)と褒められたヨブが、神にサタンの誘惑を許されたのは、この自己義を悟るため以外のものではありません。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」(ヨブ42・3)、「しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(42・53.6)。

ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」(ヨブ1・5)と案じて、「それぞれの全焼のいけにえを献げた」(5)のですが、全員死んでしまいました。救いは神のものであり、それぞれの息子の心が大事なのに、ヨブの義で救おうとしていたのです。

「神を呪え」と悪態をついたヨブの妻は死んだかどうかわかりませんが、その後、「息子七人、娘三人を持った。」(42・13)ことは事実ですので、先の息子たちが大きくなってから死んだので後妻かもしれません。「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。」(42・17)。これは、どういうことでしょうか。神の祝福は、家族にもありますが、その人が神の国に行くということとは別ということです。

ヨブに悔い改めを迫った3人の友人は、「自分たちのために全焼の犠牲を献げよ。わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。」(42・8)ということになり、人を責めるのではなく、自らの自己義を悔い改めよと諭されるのです。「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。」(42・10)も注目すべきことです。

神を信じる信仰生活の上で大事なことは、神に委ねて生きることであり、人の救いは、その人自身の心の問題であって、親であっても友であっても、執り成ししかできないのです。そして、私たちは、神に褒められるように「誠実を堅く保って生きる」べきなのです。そのようにしてこそ、裁きの座で、自らを弁護する誠実さを確保するのです。富については、あろうとなかろうと、神の国を受け継ぐには関係ありませんが、祝福を喜び味わうものとはなり、他の人を幸せにするためには役立つでしょう。

ヨブ2章3~10節

  • 2:3 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
  • 2:4 サタンは【主】に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
  • 2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
  • 2:6 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
  • 2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
  • 2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
  • 2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
  • 2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。