今週のメッセージ 「信じる者になる。」 ヨハネ20章24~31節
先週は、櫻井先生によって、「信じるとは、身を委ねること。自分の所有権を基督に移す信託」と教えられました。
ただ、死んだ人が復活したと信じることは、なかなかできないことです。私自身の信仰は、自分が罪人であることに気が付くことから始まりました。自分の存在や成功、幸せを願い、自分中心に判断することが罪であることを気が付いて、その醜さを認めて悔い改めたのでした。
キリストが神であるということは、その十字架と死を認めたので、すぐに信じられました。イエス様の復活は、神なので、そんなもの、できるだろうと判断しました。
しかし、自分が復活するということ、永遠のいのちを持つということを信じられるまでには時間が掛かりました。やはり、永遠のいのちを信じていないので、死が怖い、怪我や病気に対する恐れがあるということは自覚していました。それが、現実の生活に関する失敗や不始末に関する恐れと結びついていることも理解していました。事件・事故・暴力・攻撃などを恐れると、それが原因で強く歩めないことも意識しましたが、なかなか死を恐れないという段階まで達することはできませんでした。
それでイメージトレーニングを始めました。人から攻撃された時、暴力を受けた時、拳銃をこめかみにあてられて殺そうとされた時、にこやかに対処するというイメージトレーニングを続け、祈りました。
2年くらい経って、突然、死が怖くなくなりました。それからは、恐れがなくなったので、かなり堂々と生きられるようになりました。実際、やくざや酔っ払いに脅されても、毅然として対応できました。人生の諸問題に対しても、臆病にならずに対処しました。
「罪が死によって支配した」(ローマ5・21)とあるように、死の恐れは私たちを支配して罪を犯させます。「もし肉に従って生きるなら、あなたがは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだ行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」(同8・13)。「キリスト・イエスによるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」(同8・2)。多くのクリスチャンが、この罪の問題に関して、きちんと対処しないで過ごすので、恐れや病気、そして問題から逃げているのです。
また、気になることは、多くの人が自分の弱さや恐れを対処せずに抱えていて、自分はこんなものだ、と諦めていることです。或いは、自分の弱さ、罪深さを隠して過ごし、それが明らかになった時に、言い訳を繰り返すことです。これは、神の目を意識していないように思われます。
「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神の御心に従って、聖徒のために執り成してくださるからです。」(同8・27)。神にごまかしはききません。真摯に祈るならば、聖霊が私たちの心に、そのままではいけないことを示してくださいます。多くの方が完全に祈り不足なので、神に聞くこと、聖霊に示されることをできていません。
今日の聖句、トマスが「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25)と訴えたのは、理性的な人間としては当然なことです。信じていない、信じ切れていないのに、信じたふりをしているとその人生は破滅してしまいます。
イエス様は、トマスの率直な訴えに応え、復活の身体を現されました。それは、戸に鍵が掛けられていても通り抜けることができ、死ぬ前の瑕が残っていました。
罪人は、信じたふりをします。信じ切れていないのに、信じ切っているふりをします。神ではなく、人の目を気にしているのです。
私は、神を信じ信頼した生活をしています。神を信じたふりをしている人は、すぐに見抜きます。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と祈り見守ります。そういう人に「信じろ。」と言っても、わかるものでもなく、信じること、「身を委ねる、自分の所有権をキリストに託す」ことができるものではないことを知っているからです。悔い改めたふりをしたのですが、それを悔い改めたと思い込んでいるのです。だから、何気なく、誤魔化し、言い訳をし、この世の基準で生き、正当化をするのです。
「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7・14)。
ふだん、何を考え、何をしているのでしょうか。会堂計画を、率直な人は私たちが死んだら、どうするの、と聞きます。跡継ぎは、基本的に神に任せています。それよりも、終末と再臨を信じているので、私たちは、この世に財産を残す方がもったいないと考えています。これまで、無謀だと思われることばかりしてきました。それは信託によることなのですが、この世を基準とする人には理解されないようです。
ヨハネの福音書20章24~31節
- 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
- 20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
- 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
- 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
- 20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
- 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
- 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
- 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
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