今週のメッセージ「ヨセフの執拗さの理由。」 創世記44章12~16、32、34節

クリスチャンがしっかりとした信仰者として歩むために欠かせないことは認罪です。言い訳や正当化をするクリスチャンは、信仰者としては危ういものです。認罪が不徹底なので、自分の立場や状況を、失敗や罪の理由として挙げてしまうのです。弁解にはならないのですが。

 そして、認罪が不徹底だと、救いも曖昧なものになって、罪や誘惑にも陥り易くなってしまいます。世慣れた人は、なあなあになって、人に寛容であり、寛大であることがあります。それは、自分も罪を犯しているから、他の人の罪を糾弾していたら自分の罪や悪事がばれたらまずくなるので責めないでおこう、という魂胆であって、本来の寛容とは異なります。

 最近の情報社会では、情報や知識が大事にされますが、偽情報は極端に多くなっており、情報漏洩や情報を盗むことも起こっています。情報を利用し活用するのには判断力が必要ですが、判断力の基本は人格です。この人格形成が、宗教不在の社会にあって情報に左右されて間違った判断をしてしまうケースが頻発しています。信仰者は、言い訳をせず、情報や知識に左右されない人格を形成していく必要があります。

 さて、エジプトの宰相となったヨセフのもとへ、兄たちが食料調達に来ました。兄だとわかったヨセフは、「かつて彼らについて見た夢を思い出して」(創世記42・9)、これらのことが神の計画と意図の内にあることを悟ります。その心が、未だに荒れていて嘘を言い、乱暴をする者かどうか確認しようとします。

 私も世の中で経営者として40年ほど働いていますが、話をし、生活や家族のことまで聞いていると、その人の性格や人柄が分かります。家族のことをないがしろにする人は信用おけません。自分の評価を上げようとして誤魔化したり、虚勢を言ったりする人もおります。きちんとした仕事をしていない人は、それが通ると思っていたりします。愚かなものです。

 ヨセフの兄は、「私たちは正直者です。」(11)と言いました。そこで、ヨセフは「末の弟を連れて来なさい。」(20)と要求します。すると、「我々は弟のことで罰を受けているのだ。あれが、憐れみを求めた時、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、我々はこんな苦しみにあっているのだ。」(21)と彼らは過去を悔います。「ヨセフは聞いていて、泣いた」(23.24)。そして、最も乱暴なシメオンを捕らえて、他の者を返しました。

 安易な人は、詫びたから、悔い改めたから、もう済んだ、と捉えます。しかし、自らの罪性を認め、悔い改めるということは、そんなに安易なことではなく、再び罪を犯し、信仰から離れることになります。

再び食料のなくなったので、エジプトに行かなければなりません。それは、ベニヤミンを連れていくことが条件です。ここで、ユダが「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。」(43・9)と告げて旅立ちます。悔い改めの許しは、イエス様が私たちの身代わりに十字架に掛かったから成し得たことで、単に詫びたからではありません。代価が必要なのです。反省などで済むことではないのです。

 ヨセフは銀の盃をベニヤミンの袋に隠し、それを後で暴いてベニヤミンを奴隷にすると伝えます。兄たちは途方に暮れますが、ユダだけは、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(44・16)と悔い改めます。他の兄弟は、無実を訴え、そんなことをしていない、というでしょう。しかし、ユダは、20年も前にしたヨセフへの行為の咎を思い出し、悔い改めたのでした。そして、今日の聖句が続きます。

 ヨセフは、これらのことを「大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(45・7)と諭します。しかし、真に悔い改めをして救いを得たのは、ヨセフとユダだけだったでしょう。「ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見た時、『ヨセフは我々を恨んで、我々が犯した全ての悪に対して、仕返しをするかもしれない。』と言った。」(50・15)というように、恐れたのでした。「ヨセフは彼らのこの言葉を聞いて泣いた。」(17)。真に救われていない人は、潜在心理の中で罪責感から抜け出ることができずに、言葉を駆使して自分を守ろうとするのです。

 救いとは、自分が死に値する罪人であることを認め、イエス・キリストが自分の身代わりに十字架に掛かって、罰を受けたことを信じることによって得られるものです。単に、神の存在を信じることではありません。自分の努力や行いによるものではありません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値無しに義と認められるからです。」(ローマ3・23.24)。

 ヨセフは、人の罪の執拗さを知っているので、このように時間と手間を掛けて、兄たちの救いを図ったのです。

創世記44章12~16、32、34節

  • 44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。
  • 44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
  • 44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
  • 44:15 ヨセフは彼らに言った。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」
  • 44:16 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」
  • 44:32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
  • 44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

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MYoshi
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