「あなたのみことばを食べました。」エレミヤ15章15~21節

エレミヤが預言者に任じられたのは、ヨシヤ王の第13年(1・2)でした。ヨシヤ王は「全ての律法に従って、心の全て、魂の全て、力の全てをもって主に立ち返った王」(Ⅱ列王23・25)でしたが、8歳で王になった後、31歳でエジプトに対抗しようとしてメギドの戦いで殺されてしまいます。正義感でしたが、若気の至りでしょう。パロは、「あなたを攻めにきたのではない。」(Ⅱ歴代35・21)と告げているのですから。

その後の王、エホアハズも、エホヤキムも、エホヤキンも、ゼデキヤも「主の目に悪であることを行い、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。」(Ⅱ歴代36・12)。「祭司長全員と民も、異邦の民の忌み嫌うべき全ての習わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。」(14)。「彼らは神の使者たちを侮り、そのみことばを蔑み、その預言者たちを笑いものにしたので、ついに主の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒されることがないまでになった。」(16)

エレミヤは、「みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている」(エレミヤ6・13)ことを糾弾し、「あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。」(7・3)と神の警告を告げますが、「彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。」(7・24)。

主は、エレミヤを「陶器師の家に下れ。」(18・2)と命じ、「陶器師が粘土で製作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入る他の器に作り替えられた。」(4)。そして、土の焼き物の瓶を買い、人々の前でその瓶を砕いて、「万軍の主は言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このようにわたしは、この民とこの都を砕く。」A(19・11)と警告します。

残念なことに、毎日の生活で全く聖書のみことばを読まず、祈らないクリスチャンがいます。

子どもは、食べることによって成長し、大きく育っていきます。好き嫌いどころが、食べなければ死んでしまいます。そのように、霊的に成長せず、霊的に死んでしまったクリスチャンが多くおります。礼拝に参加して、どうにかいのちをつないでいても、日々のみことばがなければ、信仰者として成長していくことはありません。その人は、身体や心は成長しても、霊的には子供であるか、病人です。

みことばを食べるということは、それが十分に消化できなくても、食べ続けるということが必要です。食べ続けるうちに次第に消化できるようになります。聖書の通読を一度もしていない人は、信仰者としては未熟児であり、いつも肉の欲に惑わされ、「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」(ガラテヤ5・19-21)に支配されます。本人は巧妙に隠しても、霊的でないことは誰の目にも明らかです。

食べても、消化不良、吸収不良の人もおります。頑なな心、愚かな精神の故にみことばが入って行かないのです。そういう場合でも、食べ続ければ栄養となって、その人を霊的に成長させていきます。

祈りは、水のようなもので、霊的ないのちを保つために必要です。「いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を」(エレミヤ2・13)

壊れた水溜とは、知識です。信仰的に成長しないで、いのちがみなぎっていない人は、知識欲が強いのです。知識は、自分のために欲します。しかし、大事なことは、自分の存続と価値を高めると思われる知識ではなく、神と繋がる祈りなのです。祈らない人が、神に従い、神を信じて生きることはできません。だから、「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5・17)なのです。

聖書も読まず、祈りもしないクリスチャンは次第に信仰的な日々を過ごせなくなります。祈りができないと、行動や言葉でクリスチャンらしくみせようとします。長い信仰生活で、その人がみことばを食べ、絶えず祈っているかどうかは、明らかになってきます。

御霊の人となったら、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5・22-23)が身について来ます。その人は、「肉に属する人、キリストにある幼子に対するように」(Ⅰコリント3・1)、「乳を飲ませ」(2)、「水を注ぐ」(6)のです。

エレミヤは次々に起る試練の中で「主のことばは宣べ伝えない。」(20・9)と思っても、「主のことばは私の心のうちで、燃え盛る火のようになり、内にしまっておくのに耐えられません。」(9)となりました。主に召された者は、頑なで攻撃的な人々に対しても、決して自らは頑なではいられないのです。

エレミヤ15章15~21節

  • 15:15 「【主】よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。
  • 15:16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、【主】よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。
  • 15:17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。
  • 15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
  • 15:19 それで、【主】はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
  • 15:20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。──【主】のことば──
  • 15:21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」