「陶器師の御手の中で」エレミヤ18章1~11節 岡山志伸師

救いと献身の証し
私は徳島市の出身ですが、東京の美術大学に入学し、卒業後は、婦人靴メーカーでシューズデザインの仕事に就きました。数年経って、人間関係で悩むようになり、そんな時にある牧師が書いた本を読んでいて、イエス・キリストに興味が沸いてきて、教会を探そうとしたところ、東京の新中野キリスト教会からの葉書が届きました。そこには「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というマタイ11:28の御言葉があり、この言葉は私の心を掴んで放しませんでした。人がうなだれた暗い葉書でしたが、私には「希望に輝いた一枚の暗い葉書」でした。すぐに教会に通い始め、半年後にイエス様を信じて洗礼を受けました。

それから10年ほど経って、主との交わりの中で、神様の召しに入るようにという語りかけを受けました。最初は何かの間違いかと思いましたが、その語りかけが増してきて、牧師に相談しましたが、まだ神学校に行く思いには至らず、3年後に「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」との御言葉を頂き、神学校に行く決心をしました。その頃、教会では村上師のお体に膵臓癌が発見され、先生も教会も大変な痛みを通っていました。入退院を繰り返される病床の村上知子師の傍らで神学校の相談をした時、先生は「やっと観念したのね。」と笑っていました。そして、フリーのシューズデザイナーに転身し、仕事をしながら夜間の関東分校に通いました。卒業後は母教会の要請により新中野キリスト教会に派遣され、さらに5年後、あすみが丘福音キリスト教会に転任して参りました。家族の中では弟がすでにクリスチャンとなっていましたが、その後、両親がキリストを受け入れ、洗礼を申し出て、あすみが丘教会の教会員となりました。家族が主によって新しく造りかえられる様は圧巻でした。主はまさに完璧な陶器師です。

一、陶器師の意のままに~壊され、煉(ね)られて

預言者エレミヤは、主から語られエルサレムのヒノムの谷の陶器師の家へ行くように命じられます。そこでエレミヤは、陶器師の作業を見つめています「粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(18:4)陶器師は一度、器を自分の手で壊しています。この陶器師は、製作中のものが自分の意にそぐわないものとなり、再びそれを陶器師自身の氣に入った器に作り替えています。このたとえは、神が陶器師で、器として使われている粘土がイスラエルです。イスラエルの民には頑なな心がありました。その堅い部分が煉り壊され再生されようとしています。私たちもまた、神の民として新しい器にされるために、以前のかたちは壊されて跡形もない状態にされます。神様は、その愛の御手の圧力をもって私たちの生涯をご自身の計画と目的に沿ってこね上げ、新しく作り替える方です。私もまた、神の存在など信じずに育ちましたが、イエス・キリストが介入されたときには、神なき人生観を上からたたき壊され、そこから聖書の神の価値観が見えてきました。キリストを心に迎えると、それまで知らなかった神の創造された世界と人生が目の前に広がりました。

二、器となる粘土への集中力~削られ、整えられ

また、私たちは壊され、煉られるだけでは終わらないのだという事です。器は陶器師の気に入る形になるまで、陶器師の並々ならぬ集中力をもって、ろくろを回しながらその粘土を細部まで見つめ、手直しし、形を整えられていきます。神様はそれほどまでに私たち一人ひとりに大きな関心を寄せて、日々の生活の中で、我々に向かって取り組んでくださっているのです。私たちは鈍い者ですが、神様のその真剣な眼差しを知らなければならないのです。そして主のその技術力は最高のものです。

私が美大生の頃、彫刻の時間にモデルを見ながら粘土で創作をしました。しばらくすると彫刻家の先生がやってきて、作品をじっくりながめて不必要なところザっと削ぎ落としたりします。すると不思議です。モデルの人格が表れ息付くような作風になります。こういう達人の手を世間では信仰もなくゴッドハンドと言ったりしますが、私たちは、本物のゴッドハンド、生ける神の御手で取り扱われるのです。内なる聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り落としたり、霊的に必要なものを与えます。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント 4:7)とありますが、土の器でしか過ぎない私たちの内に、宝なる神が住まわれ、神の力が発揮されるのです。聖霊は、教会生活における期待と喜びや、祈りと御言葉を通して、更なる成長への飢え渇きを私たちに与えます。肉の性質が削がれると、そのところに聖霊が豊かに働かれ、私たちの霊性はキリストに似せられていくのです。

三、完成を目指して~火で焼かれ、麗しい器に

陶器師によって巧みに形造られたそれぞれの器は、最後の仕上げとして、完成させるため窯に入れて焼き上げられます。粘土自体は本当に価値のないものですが、焼き上げる火により、粘土は陶器として変えられます。神様は火を通して完成させる主権者です。そして陶器師は、名品ができるまで何度も破棄と作業を繰り返していくのです。失敗作になりかけた粘土のような自分を見ても、希望を捨てることはありません。

私たちの信仰の生涯は、主にあって名品として作り替えられていく過程と言えます。この過程を通してやっと強く輝く麗しい器になるのです。人間は自分の意のままに自分自身を作り上げようとしますが、私たちは、陶器を作る方の手に置かれて、その手に委ねて信仰の完成を目指していきましょう。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)私たちは神の作品です。主は土のような私たちに、限りない可能性を見出される方です。この方の願う器とされて、神の栄光を現していきましょう。

エレミヤ18章1~11節

  • 18:1 【主】からエレミヤにあったみことばは、こうである。
  • 18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
  • 18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
  • 18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
  • 18:5 それから、私に次のような【主】のことばがあった。
  • 18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──【主】の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
  • 18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
  • 18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
  • 18:9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
  • 18:10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。
  • 18:11 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『【主】はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。』