「癒されることがないまでになった。」Ⅱ歴代誌36章11~21節

「この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(21)とは、レビ25・4にある7年に1年の土地を休ませる安息年とヨベルの年を合わせて50年に8年の安息年を守らなければならないことになります。イスラエルの民が王を求めたことにより守れなかったことの埋め合わせの期間とされます。サウルが王となったのが紀元前千十年代ですから、クロスの解放令(BC539年)までの480年程の期間の埋め合わせとしての強制安息となります。

 こういう主の掟を破った場合には、悔い改めたら回避されるということはなく、罰は罰として受け入れて、その上で正しい歩みをするということが必要になります。特に、国や社会の罪、堕落に対する神の裁きについては、個人的には、義人はその災害から免れることがあり、神の警告に従って逃れていれば助かるのですが、個人がいくら執り成しをしても社会への神の罰を無くすることを願うことは傲慢です。

最近の自然災害やコロナ災害も神からの警告であり、それを無くすることを願うよりも、その意味合いを悟り、正しい対応をした上で、注意深く生きることが必要です。預言者エレミヤが、国への神の裁きを訴え、悔い改め甘んじて捕囚に行きなさいと伝えても、多くの人が神の国イスラエルが罰を受けるはずがない、神は救ってくださると信じて、悔い改めに相応しい歩みをしていなかったのです。まるで、戦時中の日本のようです。国民は、日本が勝利することを願って、国に忠誠を尽くしたのですが、神の前には歩んでおらず、平気で人を裁いていたのです。

SDGs(持続可能な開発目標)が急に取り上げられるようになりました。貧困・飢餓・健康と福祉・教育・差別撤廃などから、経済活動への要請、自然保護、気候変動なども含めて、非常に広範囲な17の目標ですが、一般的な日本人や企業がこれを率先して意識しているかは疑問です。そして、自然環境については、既に遅い感があります。つまり、神の前に人間中心、利益中心の活動をして、「もはや、いやされることがないまでになった。」(16)のです。

「彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにした」(16)とあります。エレミヤ書には38の祭司という単語、85の預言者という単語がありますが、エレミヤ以外は殆ど偽預言者です。つまり、民衆が真実に神の言葉を伝える預言者を「笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにした」ので真実な預言者はエレミヤくらいになってしまったのです。「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」(エレミヤ28・9)とあり、「もし、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。」(エレミヤ3・20)とあります。

 裁きや試練、そして災害は、私たちが神の国に選ばれて行く為の関門のようなものです。愚か者は、そのような災害を避けて通ろうとしますが、神は「彼の前につまずきを置く」のです。その躓きに躓き、悔い改めないのならば、滅びの門に進むのです。

 このゼデキヤも、先週と同じように、「うなじを固くし、心を閉ざして、主に立ち返らなかった。」(13)のです。頑迷な人は、周囲の人から嫌がられ、阻害され、そして孤独になっていき、更に神の国への道から外れてしまいます。

悪人は、裁きの席でも、自分の非を認めません。二人を死なせた池袋の自動車事故の被告は有罪となりましたが控訴するのでしょうか。非を認めない加害者を皆が非難しますが、そういう人は多くおり、実は、それを非難する人もまた、神の前では厚顔無恥なのです。

バビロニアの兵は「剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。」(17)。神の裁きの前に立ちおおせる者はいないのです。聖所の中で殺されたのです。神の宮にいたら、まさか殺されることはないと考えたのでしょうが、無残に殺戮されました。多くの信仰者の義の水準が低いのです。

戦いや選挙で片方に付いたら勝利者、そんな甘い考えで信仰を考えてはなりません。バビロニアがペルシャに一夜にして打ち破られた時、バビロニアの高官であったダニエルは、その前夜に王を諫めていました。その王がペルシャによって殺され、国が滅びた後、ダニエルはペルシャでも高官に任じられたのです。義人の生き方とはそのようなものです。

Ⅱ歴代誌36章11~21節

  • 36:11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。
  • 36:12 彼はその神、主の目の前に悪を行い、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。
  • 36:13 彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。
  • 36:14 そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。
  • 36:15 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。
  • 36:16 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。
  • 36:17 そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。
  • 36:18 彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。
  • 36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。
  • 36:20 彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。
  • 36:21 これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。