「様々な楽器で主に向かって讃美。」 Ⅱ歴代誌5章1、2、11~14節

私はバグパイプと太鼓の軍楽隊が好きで、ユーチューブでよく見ています。戦争の時は、バグパイプを吹きながら前進して行き、兵士を奮起させます。スコットランド部隊は、現在でも従軍して行進しているそうです。

太鼓やラッパの軍楽隊は、何よりも兵士の士気を高揚させます。私もトランペットで「星条旗よ、永遠なれ!」(スーザ、元アメリカ海兵隊音楽隊隊長)を吹きましたが、まるでアメリカ国民になったように高揚したことを覚えています。

人生に音楽がなかったら、とても味気のない、つまらないものになるでしょう。演奏はできなくても、歌うことはできます。下手でも、音痴でも、感動には変わりがありません。聖歌にも行進曲風の曲は、2拍子ではありませんが、「進め主の兵士らよ」、「雄々しくあれ」などがあります。

クリスチャンになって神に讃美することを経験してから、自らの悲哀を歌うことはなくなりました。ただ、人々の歌うのを聞いて、神を知らない状態での喜怒哀楽を思い見ることはあります。それは、やはり解決と平安のない、この世の思いを現わしたものであり、私には自らの救いと福音を感謝するものとなり、また伝道の使命をも覚えるものです。

讃美は、それまでの苦労や試練を乗り越え、感激したからこそ生まれるものです。先週の小坂忠さんのように、「勝利者はいつでも苦しみ悩みながら、それでも前に向かう。」姿勢がなければ、感動の讃美はありません。

美空ひばりさんの「川の流れのように」には、「ああ川の流れのように、穏やかにこの身を任せていたい」と人生を悠然と生きていこうという思いがありますが、それは神を知らない人の悟りでしかありません。若い時によく歌った加山雄三の「旅人よ」では、「草は枯れてもいのち果てるまで、君よ夢を心に若き旅人よ」とこれも夢を持って生きようという呼びかけです。更に、ビートルズの「イマジン」ですが、「想像してごらん 天国なんてないんだと ほら、簡単でしょう。下には地獄はないし、僕たちの上には、ただ空があるだけ、さあ 想像してごらん、みんながただ今を生きているだけなんだ」。と、人間が欲を持たず仲良く生きれば、それが幸せという虚無主義のような歌です。意味を考えずに世の中の歌を歌ってはいけません。

つまり、神を信じない人々は、人生のある一面を歌い上げ、共感を持つ人々が同調しているのです。クリスチャンになって、演歌の惚れた捨てられたなどの歌を口ずさむのは、信仰が正常ではありません。

それでも苦労の多い人は、十字架の歌を讃美するかもしれません。自分を励まそうとする人は、「罪思い出さする」、「「疑い憂いに囲まるる時」などを歌うでしょう。私の信条の讃美は「歌いつつ歩まん」です。

讃美の理由は、神の偉大さ、神のはかりごとの奥深さ、神の私たちに対する慈愛と恵み、などがありますが、讃美の対象としては、神以外は相応しくありません。讃美ができるのは、試練や逆境においても神は必ず見守っておられる、益としてくださる、などの確信が必要です。従って、讃美こそ、その人の信仰のバロメーターになるのです。

果樹を植えてその実を3年は食べてはならず、4年目は「讃美の献げ物」(レビ19・24)で、5年目に食べて良いとは、収穫が神からの物であるという信仰告白であり、「収穫を増す為である。」(25)。

エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出したので、「この方こそあなたの讃美」(申命記10・21)。「主は御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。」(Ⅰ歴代誌23・25)ので、「朝毎に立って主を褒めたたえ、讃美し、夕べにも同様にすること」(同30)。敵の大軍に勝利することを信じて、「彼らが喜びと讃美の声を上げ始めると、主は伏兵を設けて、襲わせた」(Ⅱ歴代誌20・22)。

崩壊した神殿の再構築に際して、「主の宮が据えられたので、民はみな主を讃美して大声で叫んだ。」(エズラ3・11)。ネヘミヤは、エルサレムの再建に際して「感謝の歌を献げる二つの大きな讃美隊として配置した。一組は城壁の上を右の方に」(ネヘミヤ12・31)、「感謝の歌を献げるもう一組の讃美隊は、左の方に進んだ。」(同38)。軍楽隊です。

復活の主イエスに会った弟子たちは、「神を讃美し、民全体から好意を持たれていた。」(使徒2・47)。生まれつき足が萎えていた乞食の人は癒されて「飛び跳ねたりしながら神を讃美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。」(同3・8)。聖霊のバプテスマを受けた異邦人は、「異言を語り、神を讃美」(同10・46)しました。

今日の箇所は、神殿が完成した喜びと感動を讃美するものです。歌い手、ラッパ、シンバルが鳴り響き、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(13)と声を合わせて讃美したのです。このように、讃美の中で「主の栄光が神の宮に満ち」(5・14)るのです。私たちも、状況に関わらず讃美の声をあげましょう。

Ⅱ歴代誌5章1、2、11~14節

  • 5:1 こうして、ソロモンが【主】の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。
  • 5:2 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンから【主】の契約の箱を運び上げるためであった。
  • 5:11 祭司たちが聖所から出て来たときのことである。列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。
  • 5:12 また、歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。
  • 5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわち【主】の宮に満ちた。
  • 5:14 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。