「信仰か、欲望か。」Ⅱペテロ3章3~7節 櫻井圀郎牧師

新型コロナウイルス感染症による深刻な影響が社会のあらゆる側面に現れています。単なる疫病の流行に過ぎず、災害の一つと考えるのか、万物が神の被造物であると捉え、その深淵にある神の御心を窺おうとするのかによって対応が全く異なります。

非常時に要となるのは指導者です。情報の活用、先見の明、決断実行、責任体勢が指導者の責務です。時代は指導者を欠きます。大局を鳥瞰できず、目先の日銭政策に終始しています。

   Ⅰ 信仰を嘲る者出現

3節。終末の前兆です。「嘲る者(エムパイクテース)が出現し、自分の欲望(エピスミア)に従って歩む(ポリュオウ)」。「嘲る者(エムパイクテース)」とは、「愚弄する」「なぶる」「からかう」「いじめる」「馬鹿にする」という意味の「嘲る(エムパイゾウ)」に由来します。神や信仰者を嘲笑し、教会や教職者を嘲弄する者、神や信仰を否定する者、宗教に無関心な者も。現代日本人の8割、9割が嘲る者に当たるでしょう。

 彼らは「自分の欲望(エピスミア)に従って歩む(ポリュオウ)」。自分の欲望のままに行動し、自分の好き勝手に生きるのです。基督者は、「神の意思」に従って歩みますが、彼らが拠り所とするのは「自分の欲望」です。自分を神とする「自己神論」です。

 「歩む(ポリュオウ)」とは、「行く」「逝く」、「逝去する」という意味もあります。彼らは、自分の欲望のままに生き、自分の欲望のままに死んで行くのです。

 彼らが口にする言葉が4節。「彼(基督)の来臨(パリュウシア)の告知(エパンゲリア)(約束(エパンゲリア))はどこだ。父祖ら(パテール)の永眠(コイマオウ)以来、万事(パンタ)が創造(クティシス)の初め(アルケー)からの儘である(ディアメノウ)」。「儘である(ディアメノウ)」とは、「全く変化がない」という意味ではなく、「自然の儘」「神の意思に無関係な自然法則の儘」ということです。

Ⅱ 水による原状回復

 5節・6節。ペテロは「天が先ず存在し、地は水の中から、水を通して、神の言葉によって存在したが、当時の世界は、水没したという事実を、彼らは意図的に隠している」と言います。

 「天が先ず存在した」とは、天の被造物性の否定ではありません。創世記六章1節、日本語的には「神は天と地を創造した」となりますが、ヘブライ語的には「神は天を創造した。そして地を」となります。ペテロはそのことを踏まえています。

 嘲る者の言い分を否定します、「何の変化もないどころか、一旦、完全に滅亡している」と。「地上に人間の悪が増大した」ためです(創世記六章)。神によって水から出され、神によって水没したのです。出エジプト記一四章。神が分けた海底を通って逃走したイスラエルを、エジプトの大軍が追跡しますが、水が元に戻り、水没しています。

 「水による原状回復」です。自然現象ではなく、神の意思による悪の完全抹消です。「水による原状回復」には、肯定的・積極的な面もあります。水の洗礼・バプテスマです。

   Ⅲ 火に焼かれる裁き

 7節。ペテロの最終回答です。今の世界がそのまま存続しているのは、神の言葉によるのです。そのことを失念すると、自分の意思、自己の欲望が顔を出してきます。今の世界の存在自体が、神の言葉に従って生きることを選ぶのか、自己の欲望に従って生き、自己の欲望のままに死んで行くことを選ぶのか、二者選択を迫っています。

 定められた日には、水ではなく、火が備えられているのです。人間の一切の行為を裁き、人間の不敬虔を破壊する火です。

 「火」は、最終的な裁きだけではなく、逐次的な裁きにも用いられています。創世記一九章のソドムとゴモラへの「硫黄の火」、民数記一一章では、民の不平・不満への「主の火」など。「我らの神は燃え尽くす火である」(ヘブル一二章29節)。

 信仰か、欲望か……、今、私たちに強く迫られています。口先だけの告白だけではなく、頭の中の理解だけでもなく、行動としての信仰でなければなりません。どう考え、どう行動するか、信仰者の真価が試されています。

Ⅱペテロ3章3~7節

  • 3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
  • 3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
  • 3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
  • 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
  • 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。