「天国を捕えようとして生きる。」 ピリピ3章10~20節
信者であろうと未信者であろうと、死ぬ間際の状況で、その人と周囲の実態がわかるようです。そして、その人が誤魔化してきたこと、装ってきたこと、偽ってきたことが表に出てきます。親や家族をどのように扱い、考えてきたかもわかります。自分の仕事や財産をどのように使ってきたかもわかります。その人の生き方、信条も表してしまいます。
葬式にどのような人が来たかも人生の縮図です。通夜・前夜式は、夜通し線香やろうそくを絶やさないように見守りながら、故人を懐かしみ、遺族を慰めるものでしたが、今は形式的になっています。妻の祖母が死んだ時、私の父が夜伽(故人の脇で寝ること)を躊躇する義父と共に布団を並べたことを義父が感謝していました。
私の印象としては、人の死に対する畏怖、感慨、嘆きが薄れてきて、まるで生物が死んでしまいなくなったかのような捉え方をしています。家族でさえ、何事もなかったかのように、その死の処理をし、変わらぬ生き方をしています。これでは天国に対する渇望や、如何にこの人生を過ごすかという責任も課題も持ちようがありません。無神論、進化論の影響が人々の心の底まで、感情の内部にまで浸透しているようです。「彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19)。
「その人たちの最後は滅びです。」(19)。滅びとは、消滅ではなく、ハデス(よみ)に行き、最後にゲヘナ(地獄)に行くということです。この世の生き方が、その人の永遠を左右するのです。それを教えても、キリスト教信仰の良いとこ取りをする偽信仰者は、自分にとって都合の良い教えだけを信じて、この世を安楽に生きています。
友人、村上密師は、すい臓がんと分かった時、「どうせ死ぬならばジタバタ延命して地上の人生に拘泥することはしたくない。手術も延命措置もしないでください。」と家族と医師に伝え、末期でも動ける限り日本全国を動いて伝道をしました。奥さんは「それは夫婦で行ったので仲良く旅ができました。」と証ししました。夫婦揃って福音に生きたのです。
「兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」(同1・12)と、死にゆく身が、神の国を切望して生きることを命がけで伝えたのです。壮絶な死と言えましょう。2週間前にふくよかな顔だったけれども、1週間以上水も飲めなくなったので、遺体はやせ衰えて髭が伸び、なにか十字架のイエス様を想うような姿でした。
パウロは、死刑がわかっていても、「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1・20)と告白して伝道に専念していました。
イエス様が金持ちとラザロの話をされました。死んだ後、よみ(ハデス)で苦しんでいる金持ちが、アブラハムに「私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。」(ルカ16・28)と頼みますが、「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(同31)と拒まれます。
イエス様は、神も神の国も信じない人々に対して、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」(ルカ24・25.26)と諫めました。自分都合で生きるのでは神の国は難しいのです。
私自身は、聖書を知り、救いを得て、神を信じて生きることを決心しました。それからは、信仰一途です。職業について模索しましたが、教員も、公認会計士も、自分の性格と信仰を捉えると無理があると迷っている時に、召しを受けたのです。牧師でなければ、辻褄があわないことはその時確信しました。その後、少しずつ、自分なりの信仰生活、教理、神学をまとめ実践してきました。それは、神への誠実さだと思っています。既成の考え方、神学で妥協できないものがありました。自分の生き方を人の教えや指導で治められません。神を信じる者として、誠実に生きるために、自ら神に問い、模索し、探し求めなければならないと考えています。
牧師として未熟ですが、神の求める道を歩もうと、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(12)。人に完全はありません。ただ、キリストイエスを求めて生きるだけです。
ピリピ3章10~20節
- 3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
- 3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
- 3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
- 3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
- 3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
- 3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
- 3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
- 3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
- 3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます
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