1月3日 「一途に歩む。」 ピリピ書1章27節 櫻井國郎協力牧師

聖書直訳  「ひたすら基督の福音に値する市民たれ。」

Happy New Year! 新年、おめでとうございます。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大が続いていますが、神の恵みと摂理の中、神に生かされていることに感謝し、神に定められた目的を想起しましょう。神に生かされ、神に生きるのです。そもそも、私たちの存在は偶然ではありません。唯物論の世界では、何の目的もない、偶然の世界です。人間も単なる物質として捉えられ、人生も刹那的です。「物質に生き、物質に死する」姿です。「神に生かされ、神に生きる」姿と好対照です。

神は、意思をもって全世界の全物質を創造され、全物質の一切の動きを明確にかつ確定的に定められています。神の摂理に無意味はありません。偶然ではなく、神のご計画なのです。

   Ⅰ ひたすら

この御言葉は「モノン」で始まります。「唯一の」「のみ」「だけ」などという意味です。単色=モノクローム、単調=モノトーン、単軌鉄道=モノレール、ステレオに対してモノラルなどの「モノ」、日本専売公社の「専売=モノポリー」、一つの事のみに執拗にこだわる偏執狂が「モノマニア」、「神は一つ」とする一神教が「モノシイズム」です。

 本日の御言葉、「基督の福音に値する市民たれ」ということですが、いくつかある要目の一つとして、「基督の福音に値する市民たれ」というのではなく、「ただそればかり」「ひたむき」「いちず」に、かつ「すっかり」「まったく」に、「基督の福音に値する市民たれ」というのです。

   Ⅱ 市民たれ

パウロは、「信者たれ」ではなく、「市民たれ」と勧めます。その「市民」とは何でしょうか。今日では全ての人が市民なので理解ができないかも知れませんが、古代では特別の階層の人だけが市民で、他は非市民でした。

ピリピ書の筆者パウロは獄中です。使徒二八章三〇?三一節には、パウロは囚人なのに、牢獄ではなく、自費で借りた家屋に居住し、来訪者を受け入れ、宣教が許されています。ローマ市民権の効果です。

使徒一六章一九?四〇節では、ピリピで、パウロが鞭打ちを受け、足枷を着けて投獄されています。ローマ市民の鞭打ちや足枷は禁止で、裁判確定前に逮捕できませんでしたから、パウロがローマ市民と知った地方長官は恐れ慌てています。ローマ市民にそんな事をしたら、一般役人は死刑、上級役人は島流しでしたから。

「市民たれ」の希語「ポリトゥオー」は、都市国家=ポリスに由来。ポリテー=市民、ポリテイア=市民権。羅語では、市民=キヴィス、国家=キヴィタス、市民権=キヴィタス。英語では、市民は羅語から「シヴィル」、国家は希語から「ポリス」。

古代では、市民と非市民があり、市民のみが国家の構成員であり、法律上の権利義務の主体でした。ローマ法には「人と物」という最も基本的な概念があり、人のみが権利義務の主体となり、物は人の権利義務の客体となるにすぎないとされています。市民は共同体の構成員として、権利を有し、義務を負います。権利を有し、義務を負うということが、法律の考え方では、人であるということです。

「市民たれ」とは、社会において、権利を有し、義務を負う者であれ、ということです。権利だけを主張して義務を履行しない者は市民ではありません。共同体から離脱し、社会から隔絶して、隠遁生活を営む者ではありません。

コロナ禍の今、自分は平気だからとか、インフルエンザのようなものだからとか、交通事故の方が死者が多いのだからとか等々と言い張って、マスク着用を拒否し、大声で叫び、大勢で飲食に興じる……、個人と社会の関係が理解できていません。宗教団体の中には、社会との関係を無視した独善的な行動をとるところもありますが、社会内的存在という点を失念しています。「市民たれ」の意味はここにあります。

「市民たれ」には、一人一人の、市民としての、権利を有し、義務を負うという点も見過ごしできません。一人一人が、自由市民として自覚し、行動することです。一人一人が、自分の意思を持ち、自分の責任において行動するのです。

   Ⅲ 基督の福音に値する

その市民、基督の福音に値するという条件付きです。

「基督の福音」とは、一言で言えば「罪の贖い」。「罪」とは、神に創造された人間が、創造主である神を否定して、人間こそ世界の統治者であるかのように思い上がっていることです。人間の罪はアダムに始まりますが、現代社会はその極みです。

罪の世界の人間、進化論・唯物論の世界の人間には、今現在しかありません。存在する物は必ず消滅します。

世界が存在し、自分が存在するというだけで、無から有の創造が演繹され、神の存在に帰結します。その根本を否定したいという思い、それこそ人間の罪です。

「基督の福音」のあり方は、第一に、神の愛の発露、第二に、基督の犠牲、第三に、聖霊の内住でしょう。三位一体の神の働きに対応します。

求められるのは「三位一体の神の働きの価値がある市民たれ」ということです。単に「基督者です」という次元ではありません。「基督の福音の価値ある」と評価されることが必要です。極めて大変なことですが、その評価は他の人によるのではなく、基督によります。が、それは最後の話で、現在的には、自分自身の評価によるのです。自分の信仰の発露です。自分が本当に基督の福音に与っているか否かの指標です。極めて厳しい指標ですが、それこそがパウロの期待でしょう。

ひたすら基督の福音に値する社会人でありなさい、……。一途に、全くに、基督者たる社会人として歩む、ということです。地域社会の一員として、内住の聖霊の導きによって意を決し、神の愛に倣う愛によって行動し、基督の犠牲に相当する自己犠牲によって事を為す生き方です。

ピリピ書1章27節

  • 1:27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
  • 1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
  • 1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。