「マリヤのような慈母を求める心。」Ⅰテサロニケ2章7~13節

白いマドンナリリーの花は聖母マリヤの純潔をあらわす聖花として見られるようになり、中世以降ルネサンスの画家たちは「受胎告知」の絵で天使が持つ花や聖母マリヤが手に持つ花に「マドンナリリー」を描きました。第二次世界大戦の300m離れたドイツとイギリスの塹壕を挟んでマドンナリリーの群生があり、兵士たちの心を癒したという記録が残っています。古代ローマ軍がその球根を戦場に持参したのも、その姿と香りに心が癒されたからであると思います。ちなみに、「マドンナリリーズ」で検索すると、当教会のフラダンスの乙女たちが第一位に出てきます。

プロテスタントは、聖母とは言わず、「イエスの母」と普通に呼びます。ローマカトリックや正教会では、聖母神学として「無原罪の御宿り、聖母の被昇天、仲介者マリヤ、共贖者マリヤ」などを聖書に基づかずに教えているからです。つまり、聖母マリヤという人間崇拝の故に信仰的な過ちをもたらすと警戒しているのです。

プロテスタントは、マドンナを含め、女性や母についてあまり認めていないところがあります。聖書研究や清貧の勧め、そして伝道重視などが多く、情緒的なことや家庭形成について男性主体の牧師たちはないがしろにしてきたように思います。

私はウクライナのバンドゥーラ奏者ナターシャ・グジーの「アベ・マリア」や「you raise me up」が好きですが、彼女はチェルノブイリの原子力発電所の爆発で被曝しています。ウクライナ正教の信者だと思いますが、「アベ・マリア」を歌う時の涙は、父なる神や御子イエスに直接祈り求めるのは申し訳ないというような謙遜な祈りを感じます。

スラム化した都市の空き地に花や野菜を植えると犯罪が減るというので、5年間その土地を耕すという条件をもって一区画1ドルで預けたところ、治安が回復し人々が戻って来たということを知りました。精神病や戦争の後遺症を持った人々が花や野菜を育てて癒されていくという研究もあります。

母親の優しさは、その人の情緒を安定させます。人の心は弱く、真っ直ぐに神に向けない時もあります。父なる神、御子なるイエス・キリスト、内在してくださる聖霊、その素晴らしさ、完全さ、無謬性の前で、罪深く、弱い人間はどのようにしたら良いかわからないことがあります。母の優しさがどれだけ多くの人々を励まし慰め支えてきたことでしょう。苦しみと絶望の時にすがるのは、どうしても母の優しさなのです。

「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(7)「自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思った」(8)とあるように、私自身の母も私にしてくれました。私が、試練や困難にめげないのは、この母に愛されたからであると感じています。神の御心への絶対の信頼は、この母の無償の愛によって守られてきたからであると思います。

魂が救われるのは、神の選びによります。ただ、その救われた人々のその後の歩み、生き方は、その育てられた家庭によってかなり影響を受けます。全国聖会の説教を聴いていて、それをどのように自分の内に入れて信仰的成長に結び付けるかは、本人次第であることを感じました。むろん、参加しない人、礼拝にも参加しない人は、神の呼び掛けに応じないので、神ご自身でも助けようがないのですが、種蒔きのたとえ(マタイ13章)を思いました。良い地は、良く耕され、地味の肥えた、石や堅い所のない潤いのある土地です。

そのような心はどのように育てられるのでしょうか。同じ両親から子が育ちます。怒り易い人、ウツの人、心の弱い人、考えない人、頑なな人、自己中心な人、色々な人がおります。優しい母に育てられようと、勝手な母に育てられようと、本人が成長しようとしたら、良い地になっていきます。しかし、逆境に遭った時の錨となり、支えとなるのは、やはり母の愛であると思います。育てるのは父親です。しかし、愛するのは母親なのです。「父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」(11.12)

優しい母は、どのように優しくなるのでしょうか。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会の為にご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)。未信者であろうと、妻や家庭を守るために命を掛けられる夫を持った妻は、優しくなると思います。最近は、妻に要求する夫が多いようですが、妻は守るものであって責めるものではありません。人は、責められると攻撃的になり、決して優しくはなりません。また、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5・22)とありますが、自分の夫を自分に従わせようとしたら、夫は決して守ってはくれません。その親を見ていると子供も不安定になります。

Ⅰテサロニケ2章7~13節

  • 2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
  • 2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
  • 2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
  • 2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。
  • 2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
  • 2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。
  • 2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。