「近道が良いとは限らない。」 出エジプト記13章17節~14章4節

料理にしても仕事にしても素早くすることが褒められる時代です。余った時間に、また仕事をするのでしょうか。或は、自分自身を楽しませる時間を確保するのでしょうか。

 長年生きて来て気が付くことは、丁寧に生きないとそれなりの幸せや繁栄は得られないということです。早く有能に仕事をしてきても、健康管理を怠ると、60歳を越えた頃から、身体に支障が出てきます。楽しく過ごしてきても、金銭管理を怠ると経済的に苦境に陥ります。 ところが、多くの人が、それを自分の管理能力の結果とは捉えずに、運命的な宿命のように捉えるのが不思議です。

 それは育つ時に、その分野の知識、教養、努力を教えられなかったこともあるようです。或は、そういうことに関心がない個性かもしれません。人間の幸せという基準は多様なので、社会的にはどのように生きようと、その人の勝手、ということになるのでしょう。

 しかし、聖書的に捉えると、預けられた人生と賜物(能力)を無駄にしたということで「この役に立たないしもべは外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」(マタイ25・30)ということになります。つまり、人生を努力しないで生きるということは、無神論的な思考であって、神と神の裁きをなおざりにしたものとなるのです。

 それでは、健康を害したり、貧乏になった者は、神の祝福を失うのでしょうか。そうではありません。そこで、神の前に自己中心な生き方をしていたことを悔い改め、自らの罪を認めて生きるならば、そこから新しい人生が始まるのです。

クリスチャンになるというのは、殆ど全ての人が、そのような道筋で悔い改め、信仰に導かれているのです。つまり、人は思い通りに生きたいのですが、そうは行かないようになっていて、神を求めるか、排他的に自分勝手に生きるかで、神の裁きに会うのです。子供を気ままに育ててしまう親は、滅びの教育をしているのです。それでも、子ども自身が悔い改めるならば幸いです。

「神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。」(17)。それは、「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」からです。つまり、荒野であれば、逃げようがなく、神に従うしかないからです。父なる神は、父として、長引いても、嫌がられ、怖がられても、私たちを正しい道に導こうとされるのです。

最近の父親は、子どもに嫌がられることを恐れ、或は躾けるということがわからず、放任することが多いようです。躾けられないで育つと、社会的マナーや配慮、そして従うということを身に付けずに、組織や人間関係から疎外されてしまいます。

 神が導いた道は、通常の道とは全く違っており、「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』」(14・3)と判断されるような、前が海の逃げようがない所でした。神を信じるしかない場所なのです。

 ところが、彼らは、「昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。」(13・21)とあるように、いつも導かれ守られていたのです。現代で言えば、聖霊なる神が「あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」(ヨハネ16・13)と同じことです。

 父なる神は、私たちが「心変わり」(17)しないように、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」(19)ことを信じ切るように、「栄光を現わす。」(14・4)ように、エジプトでさえ「わたしが主であることを知る。」(4)ように、私たちを試練の道に導くのです。

 信仰体験というのは、そういうものです。そして、信仰者ならば誰にも、そのような神の導き、試み、試練はあるのです。ところが、多くの信仰者がそれを厭うのです。楽な道、近道を求めるのです。そして「心変わり」してしまい、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」ことを信じ切れず、「栄光を現わす。」ことがなく、自らも周囲の人も「わたしが主であることを知る。」ことがない人生を歩んでしまうのです。

 神はなぜ、試練を与えるのでしょうか。それは、私たちを強くするために他なりません。人生は誤魔化しようもなく、逃げようもありません。甘い親ならば、言葉巧みに自分の思い通りに動かすこともできましょう。しかし、そのように暮らしていたら、必ずうまく行かなくなるのです。冒頭の言葉どおりです。

 私は命がけで子育てをしてきたつもりです。子どもを守るため、危ない人々の所にも乗り込みました。クリニックの倒産も覚悟しました。子どもたちからは嫌われたことも多くあります。人生を知らず、楽しんで生きたいと思う子どもに、そんな甘い考えは許しませんでした。努力をしなければ間違いなく不幸になると躾けました。そして、身をもって教えました。だから、神が近道をさせないことはよくわかります。

出エジプト記13章17節~14章4節 

  • 13:17 さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
  • 13:18 それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。
  • 13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。
  • 13:20 彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。
  • 13:21 【主】は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
  • 13:22 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
  • 14:1 【主】はモーセに告げられた。
  • 14:2 「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
  • 14:3 ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。
  • 14:4 わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが【主】であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。