「終末的現在を生きる。」Ⅱテモテ4章1~2節 櫻井國郎協力牧師

千葉福音キリスト教会創立37年、おめでとうございます。

 2021年の創立記念日に相応しく、終末期の教会として必要な信仰を確認し、主から委ねられた使命を全うする道を探ましょう。

   Ⅰ 基督の裁き

パウロは、基督を「生者と死者とをやがて裁かれる」と特定し、基督の未来の重大な職務に言及。後の使徒信条で告白されるように、終末的観点の手紙です。この「生者と死者」とは何か? 地上の有限の次元で考えると失念。永遠の次元で考え、永遠の生者と永遠の死者なのです。

「基督者は裁きを受けない」とは半分正しく、半分誤り。日本語「裁き」には、「刑罰」と「審判」という二つの意味。基督者が「受けない裁き」とは「刑罰」で、基督者も「審判」は受けなけます。審判がなければ、「天国」か「地獄」も定まりません。

「最後の審判」では、全ての者が、その行いに応じて裁きを受けることが定められています。行いの大小を問わず、善であれ悪であれ、一人一人について、その生涯になした一切の行為について。誰もが不平等にならないためです。とかく地上では、「正直者は損」「悪者が大手を振舞う」ですが、基督の審判では一切合切が完全に精算されます。

水一杯忘れられることなく、隠れた行為も明るみに出され、嘘も簡単に見抜かれ、被害者の声も聞かれます。のみならず、地獄に落ちる悪者どもからの非難や告発さえも聞かれるでしょう。これが怖いと、私は考えます。自分が地獄に落とされるのですから、残される者に不満もあり、批判や非難、大小の隠れた悪事を声を大にして言い立て、それを裁かない基督を不正と糾弾し、翻って自己の有罪を不当判決と申立てるでしょう。悪者共も必死ですから。

それには膨大な広さの法定が必要となり、莫大な時間が必要となります。それだけの施設や時間をかけるだけの必要が、最後の審判にはあります。「人を完全に裁く」ということは、それだけの負担がかかるのです。考えても見てください。自分一人のために、全地球的規模の法廷を貸切にし、自分の生涯に相当する時間をかけて審議するのです。

地上では考えられないことでした。バレなければ嘘は得です。知られなければ隠れてしたことは得です。最後の審判はズルを許さない審判です。なにしろ、時間と空間の制限のなくなった神の世界での審判ですから、自分一人の審判に、すべての人が参加し、聞かれたくなく、見られたくない行為も、すべて白日の下に置かれるのです。

無神論者・唯物論者なら、「死んだら終わり」でしょう。それなら生きている間に、好き勝手に、やった者勝ちです。人生の意味も希薄ですから、専ら金銭が人生の価値になり、金銭に執着し、金銭に仕える金銭崇拝者とならざるをえません。しかし、金銭崇拝者の末路は全く惨めです。何の見返りもなく、無に帰するだけですから。

    Ⅱ 好機と悪機

基督の裁きは、その意味で、人生の総決算です。

昨年来、コロナ禍で経営不振に陥り、廃業・倒産する企業が多発。企業経営に波があるのは当然で、1年・2年の資金措置は当然。それを怠る「今だけ経営」は経営とは言えません。

万事に好機も悪機もあります。神は良し悪し全てを支配。良い事だけを「神の恵み」と喜ぶのは信仰ではありません。好機も悪機も、神が私のために定め、与えられた機会。地上の人生は、天国で神に仕えるための教育・訓練・試験です。

「譴責せよ。叱責せよ。召喚せよ。」。罪科をとがめ、責めを質し、裁きの座に呼び出すことです。他人の譴責・叱責・召喚と聞こえるが、自分自身を譴責し、叱責し、召喚せよの主張。「御言葉を布達せよ」も、単に「御言葉を伝えなさい」の意味ではなく、「判決を言い渡せ」という意味でしょう。そう解してこそ、「神と基督との前で、その顕現とその王国にかけて誓って宣告する」と言う理由が見えてきます。

   Ⅲ 不屈の教育

 最後に「不屈の教育」です。

譴責せよ・叱責せよ・召喚せよを、一切の譲歩なく、完全に実行せよということです。例外規定を作り出し、特例措置を講じること、中途半端な実行や名目上の実行を許さないのです。

しかし、第二に、これを教育的に実行するようと言うのです。自分に対して教育的というのが理解困難かもしれません。基督者は、第一に、基督に献身し、基督のものであり、第二に、基督の体の細胞です。基督の体の細胞のDNAの働きでしょう。

世界の終末が目前に迫っています。予兆を見て、秘されたその日その時を想起しながら生き、歩むこと、つまり現在を終末とみなして歩むこと、それが基督者の生き方でしょう。