「キリストは救い主。」 Ⅱテモテ1章9~14節

 「救い主キリスト・イエス」という救いとはどういうものなのか、もう一度確認しましょう。魂の救い、罪からの救いとは、教会でいつも語られることですが、そういうとクリスチャン以外からは、気休め、悩みからの言い逃れのように軽んじられます。

 第一には、肉体的な救いです。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(10)。どの宗教も天国信仰はあり、聖書の教えの「天の御国」と変わらないように思う方もおります。しかし、それでは「死を滅ぼし」にはなりません。「死を滅ぼす。」ということは、「永遠のいのち」(マタイ19・16)を持つということです。永遠に生きるとは、霊魂の永遠性ではなく、身体の永遠性です。

墓に入れられて4日も経ったラザロが、イエス様によって生き返ったヨハネ11章の記事は知られています。しかし、その後ラザロは死んでおり、「死を滅ぼし」てはいません。ラザロの癒しは、永遠のいのちの「しるし」(ヨハネ12・18)なのです。「神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカ9・2)とあるように、病の癒しは死を滅ぼし、神の国が現れることのしるしであり保証なのです。

 第二には、心の救いです。自己中心という罪性を持って生まれてきたので、人が罪を認めて悔い改めるということは、殆ど不可能なことです。牧師になって、そのことを伝えることを使命として生きて、つくづく感じます。そして、よくも、この私が救われたものだと心から感謝します。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。」(9)。救いというものが神の召しによるものならば伝道しなくてもよいのでしょうか。「このような苦しみにもあってい」(12)るのはなぜなのでしょう。

心は、知識・知性・知恵を求め、自らの成長や成功、そして幸せを求めます。ところがそれができないので、「彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。」(ローマ2・15)。つまり、他人の悪を指摘して自己弁護し、自分の失敗や罪の理由を挙げて正当化するのです。「すべて他人を裁く者よ。あなたに弁解の余地はありません。」(ローマ2・1)。「自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っている」(ローマ7・15)ということが、心の現実です。「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。」(ローマ8・27)。私たちは、神の前に悔い改めるしか、心は救いようがないのです。

 第三には、霊魂の救いです。この霊というものは、その人の人格であって、心に影響を与え、理性よりも知識よりも、人の判断や考えを左右します。霊魂の救いがなければ、人は救われておらず、悔い改めも、犠牲的な歩みもしないのです。ですから、罪を認め、洗礼を受けたといっても、相変わらず自分中心な生活を送っているのならば、その人の霊魂は救われていないという証拠なのです。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)。地上での生き方は皆が自分の利益と長寿を優先して、他の人のいのちを犠牲にしてしまうものですが、それを「憎む」ということは、そういう自分勝手な罪性を嫌うということです。

子供の頃は多くの人が、社会や人の為に生きるという希望を持つのですが、自分の限界と能力を悟り、生きていくことの困難に気が付くと自己利益を求め排他的になるのです。でも、聖書は、その罪性は生まれながらのものであると言います。つまり、親が守ってくれず愛してくれずに、立身出世、成績向上などの競争社会で勝利するように育てると、罪性が子供の頃から根付いて、悔い改めが難しい人になってしまいます。

教会には、自己犠牲的な人がいて愛してくれ、良くしてくれます。そういう人々との交流に喜んでいても、自分が犠牲的に生きていないのならば、あなたの魂は救われてはいないのです。救われている人々の愛を利用する罪びとなのです。それでも魂の救われた信仰者は、あなたが教会に来ていることを喜び、いつの日か、魂が救われ、神と人の為に犠牲となることを書くそして生きるようになることを願うのです。

 「キリストが救い主」とは、人の魂を救おうと日夜働く信仰者の源であり、その仕える主がキリストであるということです。キリストが、私たちの「手本」(13)であり、キリストは、私たちを「守ってくださる」(12)のです。さらに、主キリストから遣わされた聖霊が「私たちのうちに宿る」(14)のです。このようにキリストは、私たちをこの世の全てから、私たちを救い続け、神の国へと救い出してくださるのです。

 もう一度言います。あなたが神の国へ導かれるかどうかは、あなたがキリストの弟子として、自己犠牲的にこの世に生きるかどうかで、現実的に証明されるのです。

Ⅱテモテ1章9~14節

  • 1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
  • 1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
  • 1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
  • 1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
  • 1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
  • 1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。