「聖所から流れ出た水。」エゼキエル47章1~12節

途中、音声が途切れています。申し訳御座いません。

「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7・37.38)。私は、この箇所を読む度に涙が出るほど感動します。

仮庵の祭りは、イスラエルの民が奴隷であったエジプトから逃れ荒野を旅して肥沃なカナンに辿り着いたことを記念する為に、人々は仮の庵を作って7日間住む祭りであり、収穫感謝祭でもありました。「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。」(レビ23・40)。祭りとして喜んでいる人々の中に、「渇いている」人がいることをイエス様は知っており、大声で叫び呼び掛けたのです。

この世の繁栄の中で浮かれ騒いでいる人々の中で、魂の飢え渇きを覚え悩み苦しんでいる人々に対して、私も同じように大声で叫びたいのです。自らがこの世の虚しさや驕り高ぶりに絶望して、神を求めた日々を今でも忘れることはできません。私は、このイエス様の呼びかけに応じて魂の救いを得たのです。

コロナワクチンの害もまとめ上げました。今週には公表します。どうも日本の研究機関もその害を確認しているようですが、極秘にしています。多くの命の危機に関して、沈黙を通している組織や人々に呆れ果てます。彼らは自らの繁栄と享楽の為に、多くの犠牲を強いるのです。

また、繁栄の中で浮かれ、イエス・キリストの呼びかけに応じない人々は、終わりの日に裁かれることになります。多くの人は言います。「イエス・キリストが神だなんて知らなかった。」「自分は誠実に生きていた。」「私は神に罰を受けるようなことをしていない。」しかし、裁きの時に、人の人生はすべて吟味されます。櫻井先生は、その吟味は他の人々によってされると語られました。罪なき人はいないのです。

「わたしを信じる者」は、自らの罪を認め苦しみ、あがき渇いている人です。私も、神なき人生に絶望しておりました。「わたしのもとに来て飲みなさい。」の呼び掛けに応じたのです。罪を一般的な罪と捉える人が多くおります。しかし、飢え乾く者は、魂を拘束する「数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」(ローマ7・5)に苦しんでいるのです。救われていない人は、この罪の法則に無頓着なのです。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」なんということでしょう。神を信じて生きるということは、「神を知っている。」「信仰生活を送っている。」「教会に来ている。」などということではなくて、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」ことなのです。

今日の聖句は御使いがエゼキエルに見せたまぼろしです。神殿からチョロチョロと流れ出た水は、次第に水かさを増して、千キュビト(440m)で足首まで、さらに440mで膝まで、更に440mで腰まで、更に440mで泳げる程の水量になり、川となり、両岸には多くの木が生えて「あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

「イエスはご自分のからだの神殿」(ヨハネ2・21)から流れ出た水が信じる者の「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」として信じる者が増えるほどに水量が増えていくのです。例えば、私たち夫婦が誰も信者のいない千葉の地で伝道を始めて、今多くの人の心から「生ける水の川が流れ出る」ようになって水量が増えたのです。

アラバの海とは死海のことで、そこは魚も何も住めない死の海です。実際に死海が浄化されて「生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。」かどうかはわかりませんが、死んだような社会にいのちがもたらされるという例えです。死んだような日本社会に、「この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」ということが私たちの願いです。「私たちの日本は死んでない。」という人もいると思います。しかし、人の目を気にし、自主規制がまかり通り、どのように生きるかを理解していないことを「死んだような」社会と思わないならば、自由を獲得する為に飢え乾いてはいないと言わざるを得ないのです。

そのような社会にコロナウイルスと更にワクチン禍がいのちを脅かしています。今回の警告で私たち夫婦やクリニックが非難・攻撃されるかと思います。既に、それを警告した教授は攻撃されています。しかし、大声で呼び掛けなければならないと考えています。お祈り下さい。

エゼキエル47章1~12節

  • 47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
  • 47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
  • 47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
  • 47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
  • 47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
  • 47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
  • 47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
  • 47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
  • 47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
  • 47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
  • 47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
  • 47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。