「尽くさなければ自我は破れない。」マルコ12章27~34節

私が信仰者として最も注意していることが「尽くしているかどうか。」です。人は安逸を貪りたく、また無理をしたくないものですから、それを自己中心と呼び、そして、余裕があると人は堕落するものです。

 昔、ノミの実験を見たことが忘れられません。ノミは数ミリしかないのに、1mもジャンプできるそうです。しかし、透明なガラスの瓶にノミを飼い、ノミが高く飛び上がるとガラスの蓋にぶつかるようにします。何度も痛い思いをしたノミは、蓋を開けても高く飛び上がることをしなくなります。私は、貧しく文化的な環境ではない家庭に育ったので、潜在的な劣等感があることに気が付いていました。中学の時に、どんな恥をかいても、それで心が委縮したら一生後悔するだろうと悟り、自己の改造を決心したのでした。そんな私が、大学受験に失敗し、遊びを覚えた頃から、人生の希望と向上心を失いつつありました。

教会に導かれ、この「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛しなさい。」という聖句を読んで、「尽くすべき人生を見つけた。」と感動したのです。能力の限界、時間の制限、貧しさ、人々の反対、常識や慣習に囚われる人の無気力、そのようなものがいつも、私の行く手を遮りました。そんな時、祈りの中で自問しました。「この行動、この働き、この思いは、私の欲なのだろうか。」

その答えは、「忍耐できるかどうか。」であることに気が付きました。試練の中で私が燃え尽きてしまうならば、私の行動は我欲、罪に基づいてのものです。「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Ⅰペテロ1・7)。

 最初の会堂を借りる為に不動産屋を50軒ほど回りました。次の会堂は10日間断食しました。次は、生活費がなくなるほどの献金を続けました。次の会堂は、殉教を覚悟して後任の牧師が来られる家賃のものでした。この会堂は、7か月の間、朝夕に祈りに来て与えられました。次の会堂がないとは考えておりません。

 次男の非行の解決には5年の忍耐がありました。その他、いつも尽くして生きています。それは、祈りの中で、人の堕落の原因は、殆ど「尽くすことを止めるから」であることに気が付くからです。私は、堕落した人を責めたり怒ったりすることはありません。終わりのない執り成しと苦しみの祈りが続きます。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15・30)

「時間があったら祈る。」「導かれたら伝道する。」「お金があったら献金する。」「人助けをするほどの余裕はない。」「人には干渉するものではない。」・・・、すべて罪びとの論理です。そんな人は、「神の国から遠い。」のです。罪びとというものは、自分の人生を気ままに生きることが願いなのです。神が、そのような人を神の国に招き入れることは決してありません。

 安逸をむさぼるということは、罪であり、それでは心を尽くして神を愛することも、隣人を愛することもできないのです。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」(ローマ13・9)

 パウロは告白します。「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」(使徒20・19)。「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(使徒24・16)。

神の祝福、神による奇跡、それは人間の力の限界を尽くして、神を愛し、人を愛している人に十分に注がれるのです。「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。」(Ⅱコリント12・12)

 「そこまで無理をしなくても」、「平安と恵みの中に生きれば、それで良いのでは」、「自分は密かに神に仕え、神を愛していきたい」、・・・などと考える人は、それで構いません。おそらく、そういう人は、台風や災害の中でも、平静に生きていくのでしょう。終末の様相がさらに激しく呈してきても、そのように生きるのでしょう。

 マタイ25章には、主人が来る時、備えをしていなかった愚かな娘たちは「私はあなたがたを知りません。」(マタイ25・12)と言われました。忠実に働かなかったしもべは、「役に立たなかったしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(25・30)。ということになります。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25・44-46)

マルコ12章27~34節

  • 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
  • 12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
  • 12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
  • 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
  • 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
  • 12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。
  • 12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
  • 12:34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。