「自らのいのちを救う。」  マルコ8章29~38節

聖書で語る「いのち」は永遠のいのちのことです。現代日本では、このようなことを殆どの人は考えていないようです。世界では宗教者は、必ず来世のことを考え、天国に行くために命を犠牲にする人々も多くおります。ところが、日本人だけが天国信仰が少なく、桜のように散る、ことで満足しているのです。殆どの宗教は、天国だけでなく地獄も教えているので、天国でなければ地獄なのですが、死ねば灰になるだけと考えているのは、世界でも稀な進化論教育の故であると思われます。

「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6・25)の「いのち」とは、飲食や衣服に囚われて生きると永遠のいのちに繋がる大事なことをないがしろにしてしまう、という教えです。

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(35)ということは、病気や怪我を恐れ、生き永らえようと思ってばかりいる者は、永遠のいのちを失うということです。コロナ騒ぎで礼拝や信仰をないがしろにしている人々のことを警告しているように思われます。

「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5・29)は、地上の人生は、神の国に行けるかどうかの試金石であり、地上で人を助け、良きことをしないならば人生の甲斐がなく、災害や不幸、日常生活の様々なことを通して、その人が神の国に入れる資格があるかどうかが吟味されるということです。金は本来、純粋な金として産出され、精錬の必要が無く高価であり、1gで3千mも延び細工がし易く、特殊な条件下で容易に合金となります。貨幣にも純度を落とせば多く作れ、装飾品に強度を加える為に合金にするので、価値を調べる為に試金石が必要になるのです。財産価値としては純金です。神の国の基準も純粋性です。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)は、善を行い、悪を退けるのは御霊に満たされていなければできないことを示しています。善行をするのは性格が良いからだと考え、悪いことをするのは性格が悪いからだと裁いているようです。そして、自らは、悪いことはしていない、たまには人助けをしていると考えているのです。

一生懸命祈って、他の人を変えよう、自分の気持ちを分かってもらおう、自分の願いどおりになるように、神に誓願を立てる人や、「祈っているから自分は正しく、神に導かれているのだ。」と思い込む人がおります。神様もお困りになるでしょう。信仰者というのは、自分の為には神に願わず、人を助け愛する為に祈るものです。自己中心な信仰者は、御霊に自分を委ねてはいないのです。あまりに欲が強くて、神をも人をも、そして、自分の人生をも思い通りにしたがるのです。そういう人が、いのちに、御霊に満たされているとは言わないのです。「 肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・8.9)。

 生まれながらの人は、自分を罪びとであるとは考えず、良きことができる善人であると考えているのです。しかし、聖霊によって悔い改めなければ、罪の奴隷なのです。そして、クリスチャンという水準が、洗礼を受けているとか、礼拝を守っているとか、献金をしているという程度のものであれば、コロナ災害のような試練によって脆く崩れ去り、信仰を失うのです。それは、いのちの御霊に導かれていないからです。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8・2)、

 日本の教会でもコロナ感染があり、クラスターになったと報道され、牧師たちも戦々恐々としています。稲毛でも、ある店で感染者が出たとして、近づくなと噂が錯綜しています。この教会でも注意しましょう。まさに試金石です。感染しても死ななければ、数年後には思い出として懐かしむだけとなります。たとえ死んでも、天国での分かち合いになるでしょう。娘の婚約者も感染拡大のアメリカから来ます。すべてを覚悟しなければ前進できません。日本人は、人からの陰口を恐れて、行動を自粛し過ぎです。十分な注意をすることは当然です。しかし、恐れて自らの行動を過度に制限することは、健全ではありません。

「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(34)、私は、教会員や家族、そして従業員が感染しないように、注意深く生活するように祈っています。でも、感染し、人々から非難され、クリニックにも患者が来なくなることも覚悟しています。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1・21)

マルコ8章29~38節

  • 8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
  • 8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
  • 8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
  • 8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
  • 8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
  • 8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
  • 8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
  • 8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
  • 8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
  • 8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」