「ヘルモンの山々に降りる露のように。」 詩篇133篇1~3節 

ヘルモン山は、ガリラヤ湖の北方32キロにあり、イエス様が3人の弟子を伴って「高い山に登られた」(マタイ17・1)はここであると言われています。

ヘルモン山はイスラエルの北東にあって、3つの頂があり、標高2814mです。ガリラヤ湖の東のゴラン高原はイスラエル・レバノン・ヨルダン・シリアの国境が接しています。イスラエルを含むこの地域一帯は乾燥地帯ですが、ヘルモン山には雪が降り、山頂は一年中雪で覆われ、この水源を確保するために、領土争いが続いています。雪解け水がヨルダン川の水源ともなり、ガリラヤ湖を経て死海に注ぎます。

 「ヘルモン」はヘブライ語で「聖なる捧げもの」という意味があり、確かにヘルモンの露は人々を潤し、神からの恵みを感じるものとなっています。「シオンの山々」はエルサレムのことであり、ヘルモン山から200キロも離れているので、「ヘルモンからシオンの山々に降りる露」は、あり得ないのですが、イスラエルの人々は、全ての潤いの源はヘルモン山であると考えていたのでしょう。水はいのちの源であり、イスラエル全体に水を供給するヘルモン山を、神が「いのちの祝福」をしておられるしるしと感じているのです。

 一節には「兄弟たちが一つになって、共に生きることは、なんという幸せ、なんという楽しさだろう。」とあります。この節は、イスラエルの人々に歌われる「Hine ma tov」という歌にあります。信仰に一途のイスラエルの人々が、どんなに迫害されても平和を求め、単に同胞が一緒に暮らすことを神に願い求めて、日々歌ったのです。

 最近のコロナ禍、介護、認知症などの対処を経て、教会員が共に礼拝に集い、共に生き、助け合うことの素晴らしさを覚えました。今、ここに集う兄弟姉妹と共に、神の国にとこしえに住まう喜びは如何なるものかと感動し、また待ち望むものです。

 さて、次に祝福の奥義が記されています。出エジプト記29章に、大祭司の任職の儀式が記されています。「アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。装束を取り、長服と、エポデの下に着る青服と、エポデと胸当てをアロンに着せ、エポデのあや織りの帯を締める。彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付ける。注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。それから彼の子らを連れて来て、彼らに長服を着せる。アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ。」(4-9)。

 大祭司の油注ぎは、被り物の上から注がれ、祭司の誇りである長いひげに滴り、「衣の端にまで流れ滴る。」のです。大祭司は、決してひげを切りません。大祭司は、命を懸けてその職務を全うしようとします。「神の子イエスという偉大な大祭司」(へブル4・14)こそ、救いと祝福の源なのです。この大祭司の存在こそ、汚れ罪深い人々が、神の選びの民として生きる根拠なのです。

 多くのクリスチャンが、信仰を告白すれば、神の国に行けると安易に考えています。「教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされる為であり」(エペソ3・10)、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4・12.13)。

 教会において、罪深い人、未熟な人、愚かな人、弱い人、頑固な人、障害を持った人、病人、いろいろな人が助け合い、喜び合って生きる、そこに成長があり、神の祝福が注がれるのです。神を信じても罪深いことに変わりはありません。しかし、罪を悔い改め、救いを信じたのです。罪の認識は、隣の罪深い人と接し、愛さなければならないと考えた時に更に増します。悔い改めるということは、その人を愛し、助けるという行動で証拠立てられます。

個人的に信仰生活を営もうとすることは、罪人の特徴であり、自己中心であって、神がそんな人を神の国に迎え入れることはないのです。一人だけで信仰生活を送ろうとした人が、神の国において何をするのでしょうか。

 世の中は、能力が尊ばれ、頭脳明晰で健康、身体も強いことが評価の基準になります。「しかし、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(Ⅰコリント1・27.28)。そういう人間こそ、悔い改めて、神を愛し人を愛する者となるのです。教会に集わず、奉仕もしない人は、この基準から外れます。この世の基準ではなく、神の基準に合わせて生きることが大事です。

詩篇133篇1~3節

  • 133 <都上りの歌。ダビデによる。>
  • 133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。
  • 133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
  • 133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。