「教会はキリストの身体です。」 Ⅰコリント12章17~27節
教会に高齢者が多くなり、病気や手術、障害も起こってきましたが、今回のコロナ感染者多発を通して、教会員の信仰の成長と働きの強化を感じました。
信仰者の信仰の真実は、試練の時に試されます。「みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。」(ルカ8・13)とあるように、試練や都合の悪い時に教会に来ることや信仰を保つことから「引いてしまう」人々は、その信仰に根がないことが明らかになるのです。18日の礼拝でお話ししたように、神の家族に必要なことは、信仰深さや性格の良さではありません。家族であり続けること、教会にどんなことがあっても繋がっていることです。
細胞が生存する為には、他の細胞と繋がっていなければなりません。そして、血が流れていなければなりません。聖書的には、孤立した信仰者はあり得ないのです。
最近はコロナやインフルエンザが流行っていて、どこに行っても感染することはあり得ます。「感染が怖い。」と言って、礼拝に集わないことも人間的には問題はありませんが、神の国よりもこの世の災いを恐れていることの明確な証拠です。確かに、人間的な理由で、礼拝を守らない正当な理由は山ほどあります。
人間的な理由とは罪であり、自己中心の自分の都合なのです。却って、病気や障害を持った人を助けるということは、罪との戦いの勝利なのです。実は、試練は覚悟さえあれば、それほど問題ではないのです。そして、その覚悟とは、信仰と信念をもって神の国まで生き抜くというものです。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10・13)。
人は、自分の観点と都合で評価判断するものです。「手」からしたら、「足」は不器用で邪魔くさいかもしれませんが、「足」が器用で柔軟であったら、とても長い距離を歩けません。「足」からしたら、「手」は軟ですが、「手」がなかったら痛い時に対処してもらえません。
「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」(22)。昨年胆嚢切除手術をしてから肉類や脂物を食べると、肝臓の辺りが重くなるので、あまり食べないようにしています。その前は、同様な物を食べると痛さを感じました。医師は、「胆嚢は単に胆汁を貯めるだけのもので、胆汁は肝臓から分泌されるものだから切り取っても問題はない。」と言いましたが、なくなってみると大事なものを痛めてしまった、私の弱さは胆嚢だった、と反省しています。要するに脂物を食べることを控えればよかったのです。そのような注意をしながら、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」(26)を実感しています。私は、胆嚢の苦しみを無視して過ごしていたのです。
「一病息災」(病気もなく健康な人よりも、一つぐらい持病があるほうが健康に気を配り、かえって長生きするということ。)と言われます。最近、この教会に高齢者が多くなってきたことを心から感謝するようになりました。私の心には、病者・高齢者・障害を持った方々のことがいつもあります。その執り成しをしている時に、私の心は主の平安と慈しみに満たされます。自分が若く、元気でいた時には感じないものです。
「私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。」(23)。若い時には、髪の毛が薄いことが気になっていました。ここまで薄くなるとどうでもよくなるのですが、髪の毛が頭の怪我から守ってくれていたことを知りました。
母は、45歳で9人目の私を産んで、55歳の頃、夜中に激痛が起こり、救急車で入院し、胆嚢が破裂寸前であったことで手術しました。胆石で胆嚢がいっぱいでレントゲンでもわからなかったそうです。辛抱強い母でしたから、それまで何も言わなかったのです。私にもその体質があったのでしょう。リューマチ体質もあり、年老いて介護施設に入った母の指関節は大きく曲がっていました。母は、父や子どものことを世話しながら、自分のことは黙って我慢していたのです。そのような母を思いながら、自分も高齢になっていき、また高齢の方々の不便さや痛みを思わさせられるものです。教会に76歳以上の「シメオンとアンナの会」を作り、交流を図り、情報交換や学びを共にすることを企画したのもそういうわけです。
身体は不思議に調和しています。「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1・2)。千葉県東方沖地震はしばらく頻発し、大きなものになる可能性もあります。不景気も拡大し、医療費は高くなり、感染や病気の恐れもあります。それでも、信仰を持ったことは幸いです。助け合い、祈り合いましょう。神の国までの山あり谷ありの旅路を手を携えて、楽しみながら歩んでいきましょう。私自身は、その世話役でありたいと思っております。
Ⅰコリント12章17~27節
- 12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
- 12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
- 12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
- 12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
- 12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
- 12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
- 12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
- 12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
- 12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
- 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
- 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
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