「キリストの苦しみの欠けたところ。」コロサイ1章21~29節

 ピリピ書に「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(3・10)とあります。キリストの復活は現実のものですが、パウロの言う復活は、人を拘束し限界を与える死という恐れを克服し、たとえ死ぬことがあるとしても「キリストの苦しみにあずかる」福音宣教の生き方を全うしたい、という願いです。ですから、パウロの願いは、「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです。」(ピリピ1・20)と叫ぶのです。

 人は、神を信じないで勝手に生き、自分の思い通りではないことに「敵意を抱き、悪い行いの中にあり」(21)ます。といっても、それに気がついておらず、興奮し、アドレナリンが出ても、「自分には正当な理由がある。」と信じるから、人を攻撃するのです。

 正しさであれば、神に申し開きも敵うこともできません。しかし、神は、私たちを責めるのではなく、ご自分を犠牲にして「御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(22)。私たち信者は、自分を非難し、攻撃する人々に対して、キリストを想うからこそ、腹を立てたり、仕返しをするのではなく、執り成しをすることができるのです。そして、そのような歩みと心によって「それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」(22)という言葉が成就するのです。

 神が、私たちの罪と悪に対して、責めるのではなく、却ってご自分を和解の代価として十字架に掛かられたこと、それは人の罪の故の多くの苦しみを経ても猶も変わらないイエス様の愛の姿を知ったのです。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2・14)。父なる神の愛、御子の犠牲を知れば知るほど、私たちは、「良いわざに熱心」になるのです。そして、この「良いわざ」こそ、「キリストの苦しみにあずかること」なのです。

 世の中では、立身出世や金持ちになること、或は立派な人になることを目標にするかと思います。しかし、私たちクリスチャンは、「キリストの苦しみにあずかる」ことを目標にするのです。それは、人々の自分勝手な攻撃や悪意に対して、むしろ愛を持って対応するのです。むろん、それは楽なことではありません。しかし、それを覚悟して行うことがキリストの歩みなのです。それは、親が子どもを愛することに似ています。子どもたちは勝手に自分の思い通りのことをしたがります。それができないと不平を言い逆らいます。それでも親は子どもを愛し、その苦労を厭わないのです。

 さて、今日は「キリストの苦しみの欠けたところ」という題です。一体何が欠けているのでしょうか。それは、私たちが生きる時代においては、キリストは自ら愛の為に苦しむという実際の行動を取れないということです。自分勝手な人間は、実際にキリストの愛の現われをキリスト者の内に見なければ、そのご自身を犠牲にした和解の働きを知ることが難しいのです。

 「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。」(25)。教会の働きというのは、全く割りの合わない仕事です。私たち夫婦は、この世の働きを全て教会の為、伝道や教会に献げるために行っています。教会が割りの合わない働きであり、経済的にも厳しく、信者になった人々も多くが、自分の生活を前提に献げています。それを承知して、私たちが死んでも経済的に維持できるように献げています。

 神は、私たちがそのようにすればするほど、「栄光に富んだものである」(27)ことを悟らせてくださいます。なんと多くのことをしていることでしょう。なんと報いが無さそうなことをしていることでしょう。疲れた時などは、虚しくなることもあり、愚痴が出ることもあります。しかし、兎も角も報いのないこと、苦しいことを働き続けます。そして、結果としては栄光に富んだものであることに気が付きます。名誉なこと、栄光になりそうなことをしているわけではありません。これが奥義です。奥義とは、キリストにあって、報いのないことを行い続けるならば、復活があるということです。この世で報いがないからこそ、苦しいからこそ、神が報いてくださるのです。

 愛とは、行動で示されます。愛情深いと言いますが、愛の行動が深い・大きい・強いというべきでしょう。そういう面で、失礼ながら若い人の恋愛は感情が先立っており、犠牲が少ないので愛が強いとは言いづらいでしょう。最近の多くの人の行動は、人の思惑を探り、嫌がるならばしない、というものが多いようです。それでは伝道はできないでしょう。自分が良いと思うもの、特に福音について、はっきりと証しするべきです。それで拒まれたら、相手の問題ですから、退けば良いのです。

 「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」(ルカ9・26)。「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(へブル11・16)。終末の様相を呈していますが、救われていない人々のことを想うと、為すべきことの多さに困惑します。主よ。お助け下さい。我らが祈りをお聞きください。

コロサイ1章21~29節

  • 1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、
  • 1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
  • 1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。
  • 1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
  • 1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
  • 1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。
  • 1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
  • 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
  • 1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。