「時宜に叶った行動と伝道」使徒8章26~39節
「叶う」という文字は、十字架を口で告白すると書きますが、それは願望が実現するという意味です。不思議な奥義です。義という感じも、イエス様の下に我を置くということです。ところで「じぎにかなう」とは「その時、その場にふさわしい」という意味です。
エチオピアではソロモン王の時以来、エルサレムへの関心があり、女王カンダケに仕える高官がエルサレムの訪問と礼拝の帰りでした。その帰り道に出会うように天使がピリポに向かって告げます。
神が私たちに語り掛ける方法としては、聖霊によって直接に超自然な声で、聖書によっての示唆、内住の聖霊の示唆、そして天使による語りかけなどがあります。サムエルに語り掛けられた時のように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(Ⅰサムエル3・9)と神の語り掛けに耳を傾けていることも大事です。
高官は、イザヤ書を読んでいるところでした。昔は、読むという時には音読が多かったようです。声に出さなければ、神はそれに応答しません。祈りも声を出すことが必要で、黙想の祈りというのは、神への祈りというよりも、自己吟味に用いられることがありますが、神との会話としては声に出す習慣を身につけなければなりません。異言も大事です。人前では、聞こえないような小さな祈りでも構いません。
ピリポは行動の人ですから、その馬車に追いつき、高官に語り掛けます。「導く人がいなければ、どうしてわかりましょう。」この言葉は、私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。
宦官が読んでいたのは、イザヤ53章であり、イエス様が「私たちのすべての咎を」(イザヤ53・6)負って死なれたことでした。宦官は、短い時間でピリポの教えと聖書の真理、そしてイエス様の十字架の救いを理解し、洗礼を求めたのでした。
伝道というのは、いろいろなパターンや方法があります。簡単な言葉を伝えただけで救われ、忠実な信仰生活を送っている人もいます。劇的な回心をした人もおります。丁寧で長期間の教えとアドバイスを経てクリスチャンになった人もおります。通りがかりの人のために祈ったら、その人が教会に来て救われたというケースもあります。
この宦官にはいろいろと考えることがあったのでしょう。そして、神を求める心には強いものがあり、期待してエルサレムに登ったのに、解答がないので、苦しみながら聖書を朗読していたのだと思います。
いろいろな人生があり、苦しみ楽しみ、富や貧しさ、才能や愚かさもあります。ところが、神を信じるということに関しては、差はなく、却って恵まれた人生を過ごしている人が救われることは少ないのです。
「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1・21)とあるように、人間の知恵や能力などは、神を信じるには妨げになることが多いのです。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」(マタイ19・23)と言われているとおりです。
ところが、クリスチャンが自分の愚かさや貧しさ、能力の無さを恥じ、賢くなろう、強くなろう、と願い、そうしたら伝道ができ、人々が自分の声を聴くと間違って考えてしまっているのです。可能性としては、金持ちや優秀な人が神を信じることは少ないかもしれませんが、それらは神の手に委ねて、私たちは、賢さの中で伝道するのではなく、祈りながら神の導きに委ねて伝道することが必要なのです。
「神の祝福は流しそうめんのよう」と私はよく言っていますが、思い煩ったり、論理を求めたり、保証を求める人は、時宜を失います。先週の聖研で、「あなたが主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記28・2)という祝福を自分に思い描いてください、と語ったら、皆さん物質的な祝福を上げることができずに、心の中のものを上げていました。
大人にならなければ大人のことはわかりません。結婚しなければ結婚のこともわからず、子育てもわかりません。働かなければ、仕事もわかなないでしょう。ただ、それらを祝福のものにしようという意志と願いが無かったら、大人は苦しいものであり、結婚も子育ても仕事も苦いものとなるでしょう。信仰というのは、神の祝福を求めるものなのです。
神の祝福であって、自分の努力の成果ではないのです。例えば、幸せな家庭像を描き、その為に努力すればするほど、その実現が難しくなり、家族への不満や不平が募るものです。大事なことは、この家族を与えてくださった神を感謝することです。「神の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)とあるように、自分の内面や能力を思い煩うのではなく、神の御心を絶えず求めれば、そこに祝福と伝道の時があるのです。
しもべは主人の言葉を聞くことに集中します。主人の言葉に対して時宜を失ったら、その言葉は意味のないものとなります。そして、主の言葉の多くは、「与える」ことに結びつきます。「得ようとする」のは、この世の法則であり、「与える」ことは神の国の法則です。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6・38)。魂を得るために、必要なことも自分を犠牲にすることです。伝道とは、自己犠牲を覚悟することに他なりません。そのようにしてこそ、神の働きが進むのです。
使徒8章26~39節
- 8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
- 8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
- 8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
- 8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
- 8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
- 8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
- 8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
- 8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
- 8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
- 8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。 8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
- 8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
- 8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
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