「神の家族なのです。」 エペソ2章11~19節

聖書における家族は、あまり良い印象は持ちません。

 アダムとエバの夫婦は、妻が「食べるのに良く」、「目に慕わしく」、「賢くしてくれそう」(創世記3・6)という欲望に従って罪を犯し、夫も誘って神に従うことを破りました。

 その子カインは、弟のアベルの献げ物が神に受け入れられたのに怒り、「もしあなたが良いことをしているならば、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4・7)という神の忠告を聞かずに弟を殺してしまいます。

 ノアは「主の御心に適っていた。」(創世記6・8)ので箱舟を造り、洪水の後の人類の祖先となりますが、年老いて農夫として働き、疲れて「ぶどう酒を飲んで酔い」(9・21)、裸になって寝てしまいました。ハムの息子カナンがそのノアに悪さをし、ノアの呪いを受けてしまいます。(9・25)。

 信仰の父アブラハムの父テラは、息子たちを連れて「カナンの地に行くためにカルデヤのウルを出発した。」(創世記11・31)けれども、途中のハランで諦めて定住してしまいます。そこで、神は、アブラハムに「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(12・1)と父との決別を促します。

 同行した甥のロトは、財産が増えると祝福の源である叔父のアブラハムから離れ、良い地に見えるソドムに移り財産も家族も崩壊させてしまいます。

 アブラハムは、多くの困難に遭いながらも、神を信じ、神に助けを求めて生き、「あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22・18)と約束されます。妻の墓地を作る時も、無償で土地を受けることを良しとせず、高価な代価で買い取ります。信念の人です。

 アブラハムには、女奴隷から生まれたイシュマエルと愛する妻サラから生まれたイサクがおりますが、兄弟の争いを避けるために、事前にイシュマエルと母を去らせます。無慈悲と言われようが、神の指示どおりに「女奴隷とその子を追い出し」(21・10)たのです。

 イサクは、争いを好まず、神にも父にも従ったので、「主は彼を祝福された。」(26・12)。妬んだり敵意を持った周囲の人々や王も、イサクへの神の祝福をみて、イサクに盟約を求めます(26・29)。

 その子ヤコブは、活力と知恵に満ち、欲望も強かったので、誰よりも多くの試練に遭い、「私の生きて来た年月はわずかで、いろいろな災いがあり、私の先祖がたどった日々、生きて来た年月には及びません。」(47・9)とエジプトのファラオの前で反省を告げていますが、信仰の筋を変えない大人物です。このヤコブがイスラエル民族の始祖です。

 さて、このように聖書の家族の在り様を振返ってわかることは、アダムから続く選びの系統も罪によって洪水で滅び、アブラハムからイサク、ヤコブへと続く信仰の家系も、罪を犯そうが失敗をしようが、悔い改めて神を信じ続けた者は守られるということです。

 今日の聖句、「異邦人」(11)とは、未開人、或は野蛮人とも訳される言葉で、ユダヤ人からしたら律法を持たず、知らず、守っていない野蛮人となるわけです。その「無割礼」(11)、つまり、罪人として勝手に歩む者として卑下され、「望みもなく、神もない者達でした。」(12)が、イエス様を信じ、救われることによって「キリストの血によって近い者となりました。」(13)

しかし、実は、そのユダヤ人も、選びの民であるにもかかわらず、律法を守らずに神によって罰せられてバビロン捕囚に遭ったのでした。それが、歴史に介入する神の力によって、捕囚から戻されたのでした。「ペルシャの王、キュロスは言う。『天の神、主は、地の全ての王国を私に与えてくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。』(エズラ1・2)。

 ユダヤ人は、律法のない勝手に歩む異邦人を卑下し嫌い、異邦人は、律法に従い頑固なユダヤ人を嫌う、そのような敵対関係にあったのです。しかし、キリストの十字架によって「隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」(エペソ2・14.15)

 キリスト教会が、「聖徒」(19)とされるユダヤ人だけのものであったら、福音は世界に伝わらず、ユダヤ人を否定するものであったら、聖書の前提を否定する軽薄なものとなっていたのです。

 「神の家族」(19)とは、血縁によるものではありません。血縁を大事にしますが、聖書から開設したように、夫婦であっても、福音によって繋がっていなければ、憎しみ合い、こじれ、神の家族としての生活はできません。

 神の家族というと、信仰深く、性格が良く、善意に満ち溢れた人が集うように思うかもしれません。日本人は、信仰者でなくても、そのような理想を掲げ、無理に仲良くしようとして却ってストレスを溜め、或は外面を飾ります。家族であっても、善良であることが求められ、感情的興奮なく、全てを平安に生きることが理想とされます。しかし、それは、サタンの惑わしです。人間は罪人なので、それほど善良には生きられません。神の家族にとって大事なことは、教会生活を送ることです。行いによる義ではなく、性格による義でもなく、信仰による義が大事なのです。

エペソ2章11~19節

  • 2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、
  • 2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
  • 2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
  • 2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
  • 2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
  • 2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
  • 2:17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
  • 2:18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
  • 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。