「主が共にある人の祝福。」 創世記39章1~6節

イサクの正妻ラケルの子として、「あや織りの長服」(37・3)を着せられ特別扱いで大事に育てられたヨセフは、兄たちに憎まれ、妬まれ、殺そうとされました。乱暴で粗野な兄たちに比べて、全く違う性格と習慣を持っていたヨセフですが、突然奴隷としてエジプトに売られてしまいました。

肉親に裏切られ、奴隷となって悲惨な状況に置かれたヨセフの思いはどんなだったでしょうか。兄たちを憎み、自分の不幸を嘆くことも当然なことでしたが、ヨセフはそのようなことをしませんでした。

イシュマエル人は、ヨセフをエジプトの高官ポティファルに売りました。もし、ヨセフが乱暴な性格だったら、自分たちの立場が危うくなるので、そんなことはしません。ヨセフに教養があり、知恵があり、性格が温厚で従う心があることを確認したからです。ヨセフは、自分の悲劇を嘆いたり、人を恨んだりするよりも、神を信じて生きていこうと考えたのです。むろん、イシュマエル人はヨセフが兄たちに売られてしまったことを知っていました。その心の苦しみ悲しみを察していました。しかし、ヨセフは、過去を嘆くよりも、今何をするべきかを考えたのです。おそらく、そのようなヨセフの心を理解したイシュマエル人たちは、ヨセフが幸せになるようにと最も良い働き口を探し、与えたのです。

「主がヨセフとともにおられたので」(2)、「彼は成功する者」となったのです。多くの人が普通に生きて、ある人は神を信じていると言い、ある人は神を信じないと言います。しかし、「神が共におられる」人は、全く異なる祝福の人生を生きることができます。それは、知恵でしょうか、熱意でしょうか、積極性でしょうか。違います。

「助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14・16)。聖霊が私たちと共にいる為にはどうしたら良いのでしょうか。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15・7)。神から離れるのは、私たち自身なのです。多くの人が思う通りにならないと不満を持ち、苛立ち、聖霊の臨在を損ねます。つまり、「神がともにおられ」ないようにしてしまうのです。祈りの時だけ熱心に神に求める人がいますが、大事なことは、「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。」(Ⅰテサロニケ5・16-18)なのです。呼吸ができなくても、血液が止まっても直ぐに死んでしまいます。

御霊を大事にしない人は、怒りや不満を持つと御霊がいられなくなってしまうことに気が付かないのです。ヨセフが、この不幸な試練の中にあっても、神を信じ、人を愛することを怠らなかったから、「主がともにおられたのです。」

私たちの人生でも、ヨセフほどではないにしろ、いろいろな試練や不幸はあるものです。しかし、神の前に、それを言い訳にして不満に満ちていることはあり得ないのです。A兄は、ペースメーカを付けてから、すっかり顔色が良くなりました。夜中に短時間、心臓が止まっていたそうで、良くなってからその違いがわかりました。私たちも、決して心臓を止めてはいけないように、聖霊の内在を止めてはいけないのです。

「主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。」(5)。人生を知恵や能力や努力で生きようとしていながら、「神と共に生きる」ことはできません。何度もお伝えしているように、人間力で生きようとすることは、神の力に頼らず、信仰を二の次にしていることだからです。神と共に生きるということは、罪人の人間にとって非常に難しいことです。でもだからこそ、神は、神を第一にする人を祝福するのです。「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6・33)。

「主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。」(6)。ヨセフには、私欲がありませんでした。神の祝福を得るには、自分の繁栄を求め、欲望の強い人は無理です。なぜなら、神は、ご自分の目的のために私たちを祝福させ、その祝福を人を愛すること、神の栄光を現わすことに用いさせようとするからです。しばしば、くじやギャンブルをして、それが当たったら、献金するから当てて下さいという人がいます。自分が儲けるために、神の祝福を求めるのです。そんな人に神の祝福があるはずがありません。

ヨセフは、働くことが好きでした。それで、知恵を尽くし、力を尽くして働き、それを主人の繁栄や仲間の喜びに結びつけようとしたのです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。」(マタイ6・38)。私たちの祝福は、神に捧げ、人に与えるために与えられたのです。

創世記39章1~6節

  • 39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
  • 39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
  • 39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
  • 39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
  • 39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
  • 39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。