「寛容はキリストの賜物。」 Ⅰテモテ1章12~17節
辞典を見ると、「寛容とは、広い心を持ち、他を受け入れるさま。具体的には、自分とは異なる意見や価値観を安易に拒絶せず許容しようと努めたり、他人の失敗や失礼な振る舞いをことさらに咎めだてせず許そうとする姿勢などが寛容と形容される。」とあります。
ウィキペディアによると、「寛容」(Tolerance) が最初に使用されたのは15世紀で、近世ヨーロッパ社会において産み出された概念だそうです。「宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられたが、やがて宗教戦争から平和に移行する段階になると、寛容はいわば必要悪として暫時的にではあるが肯定され、信仰の問題というよりも国家理性を優先する立場からカトリックとプロテスタントの平和的共存が実現される」という状況になったからだそうです。積極的に相手を尊重するのではなく、異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為をするためであった。宗教戦争を経験したヨーロッパにおける特殊事情が、寛容を強要されたわけであり、仕方無しの許容である。」そうです。
聖書で「寛容」と訳されている言葉は、原語であるギリシア語ではマクロスミアで、マクロとスーモスという2つの言葉が合わさってできています。マクロは長い・大きい、スーモスは受難・怒りという意味です。そこで、それらの合成語であるマクロスミアは、「怒らない時間が長い」「すぐに怒りを表わさない」という意味になるそうです。
英語訳では、Toleranceという単語は用いられず、PatienceやForbearanceという単語が用いられています。ともかく、寛容という言葉は社会ではあまり用いられず、理解されることも少なかったようです。しかし、寛容こそは神の属性であり、キリストにある教えの神髄です。「敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたがたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。・・・求める者にはだれにでも与えなさい。・・・自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでさえ、自分を愛してくれる者たちを愛しています。・・・裁いてはいけません。・・・赦しなさい。そうすればあなたがたも赦されます。与えなさい。・・・」(ルカ6・27-38)。
このような教えを聞いたことがあるでしょうか。さらに、このイエス様の教えを実践しているでしょうか。
その理由は、憐れみ深く寛容な神は、人にご自分と同じような品性を望んでおられるということです。「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」(ローマ2・4)。
「あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。」(ローマ2・5)。神は、寛容な者を裁かないで祝します。しかし、頑なで人を赦さない人には厳格な裁きを下します。信仰の実践の伴わない人には、神は不信仰者として遠慮のない裁きを下すのです。
「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3・12.13)
冒頭にお話ししたように、寛容は、信仰の弱い人々や努力をしない人々、そして悪人に対しても赦し、慈悲をもって対応するということから、信仰を強くすることからは堕落を促す妥協の態度のように見なされた時代がありました。実際、宗教的熱心を強調し、善行を促す立場からは、寛容は組織も理念も弱めてしまうように思われました。そして、日本人などは、社会規範を守ることが強調され、強く優秀であることが求められます。
高齢者、病人、障碍者、弱者などは、その矢面に立ちます。また、そのような人々に対する対応の有様も、批判されます。人を非難批判する人は、神の裁きの場に立ちおおせません。教会が、聖書の基盤の上に建ち、聖霊に導かれて形成されるために、寛容は欠かせません。「キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(Ⅰテモテ1・16)。
Ⅰテモテ1章12~17節
- 1:12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。
- 1:13 私は以前には、神を冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
- 1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
- 1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
- 1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
- 1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
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