7月5日 「キリストが道です。」  ヨハネ1417

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

昔は山登り、山歩きが好きでした。人が歩いている所が道となり、管理者が危険防止や歩き易い為に整備して道が整ってきます。陽の当たる所は雑草が生い茂ると道がどこだかわからなくなります。先人が間違った道を歩めば、そこを道だと勘違いして迷うこともあり、あわてて来た道を戻ります。日本の山は入り組んでおり、迷うと危険です。遭難しかかった時もあり、その恐怖感を忘れることはできません。スイスの山下りは、妻が勝手な道を歩くので心配でしたが、人が登る山は、歩いていればどこかの道に辿り着くというので、楽しんで家の庭や路地を通り抜けて下ったものです。

イエス様は、「私が道です。」と言われました。この道を通らなければ、「神の御許に行くことはできません。」。スペインの巡礼路サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ヤコブの遺骸があるとされるサンティアゴに向けて、フランスなどからピレネー山脈を越えて800キロ以上を歩きます。スペイン語でカミーノとは道という意味で巡礼のことです。信仰者だけでなく、毎年10万人ほどの老若男女多彩な人が30日以上かけて5ユーロ程の安宿に泊まりながら歩くのです。信仰、健康、楽しみ、休暇、多様な理由で歩くのが目的の巡礼をするのです。次女のマリヤはその途中でアメリカ人の母と一緒のニコラスと会ったのです。

それでも多くの人々は、信仰心をも模索します。道中の人々は巡礼者に優しく助けてくれ、人生に疲れた人々の心を癒します。現代は情報過多であり、仕事に忙しいのに人との交流は浅薄になっています。身体も心も使い過ぎると、消耗して動けなく、動かないようになるそうです。そういう面での自浄行動としてカミーノに赴くのかもしれません。

神のもとに行く、神の国に入る、ということは、一般の人には全くわからないことであると思います。信仰者を認めても、現代社会に生きる人々にとって、信仰はなにか理解できない得体の知れないものに思われるでしょう。特に無神論教育を受けている日本人には、宗教者は現実離れした異常者のように見えるでしょう。

自らの青年時代を思い起こすと、次第に出世や富を求める嫌なタイプの人間になっていくことに自己嫌悪を感じていました。酒には強かったけれど、酔って自分を見失うことが嫌で酒は好きではありませんでした。中一の時に、泡のように消えていく自分を思い、涙した自己啓発の願いが、この世の流れに流されていくのを感じたのです。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・14)。殆どの人は、いのちの門を見出さないのです。

私たちは確かに、この門を見つけ、いのちの道を知ったのです。「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)。しかし、この道を歩むためには、努力や能力、そして人間的なこの世の生き方をしていては駄目であることを多くの人が悟っていません。キリストが「道であり、真理であり、いのちなのです。」。キリストという真理に従い、いのちに満たされなければ、この道は歩けないのです。ところが、多くのクリスチャンが、信仰とこの世での生活を別のものとしているので、「いのちの道を・・・、喜びで満たし」て歩けないのです。

 教会生活にはいのちと喜びがあります。しかし、いのちと喜びが無くても、教会には来ることができます。この世の空虚な暮らしに慣れた人々には、教会に来ることだけで楽しく、まるで自らが神の国への道を歩んでいるかのように感じるのです。カミーノを歩いても、実際には、この世の思い煩いを忘れ、健康を取り戻し、なんとなく憂さ晴らしをしているだけのようなものです。大事なことは、真理に生き、御霊に満たされることです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Tコリント1・18)。「召された者たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(同1・24)。現代社会では、クリスチャンは愚か者です。賢そうに見せる必要はありません。その愚かそうで誠実なクリスチャンに魅力を感じる人がいたら、その人は「いのちに至る門」を見出そうとしている人です。

 多くのクリスチャンや牧師たちが、コロナ騒ぎで感染しないように、感染源にならないようにとひたむきになっていることが、なにか愚かしく感じます。感染しても、感染源となっても、この世の空騒ぎです。神の国に行く道さえ迷わなければ、なんのこともありません。がんや心臓病、糖尿病、高血圧、内臓疾患、・・・、恐れる病気は山ほどあります。なぜ、そういう重大疾患よりも死亡率や重病率の低い新型コロナウイルスに大騒ぎするのでしょう。感染者数を話題にするマスコミに踊らされているだけです。

 私たちは医療関係者として、多くの死にゆく病気の人々を見ています。彼らもまた、死ぬまで死後のことを考えておりません。美味しい物を食べ、好き勝手をして生きようと考えているのです。或は、死んだらどうしよう、感染したらどうしようと悩んでいます。魂のことなど考えないでいるのです。霊魂の不滅を考えていない現代日本では、死んだらおしまい、なので、生きている限り楽しいことをしようとしているのでしょう。神に「愚か者」と呼ばれるのは、そういう人々です。


7月12日 「キリストが真理です。」  エペソ42232 

エペソ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
4:25
ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27
悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 『ファクトフルネス』という昨年ベストセラーになった本を読んでいます。世界の事実に関する12の質問をした1万2千人の平均正解数は2つで、11問正解が一人、全問不正解が15%もいたそうです。チンパンジーに答えさせても33%は確率的に合うのに、どうして不正確が多いのかというと、人間には偏見や思い込みが強くあるからです。
著者のハンス・ロスリング医師は「国境なき医師団」を立ち上げたスウェーデン人で、この本では10の間違った本能が正確な判断を誤らせていると指摘しています。中でもネガティブ本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、単純化本能、焦り本能など印象に残ります。
1989年、彼がコンゾという病気の研究の為にコンゴで血液検査をしようとテントで準備していると、村人の血を売って儲ける為に来たのだと誤解され、二人の男がナタを振りかざして近づいてきたそうです。逃げたくなるのを抑えて説明しても理解されません。しかし、一人の女性が、はしかが治ったことを同じだと説明し、事実を積み重ねて科学調査の必要性を訴えて村人の同意を促し、彼の研究は成果を得たのです。
私自身、牧師として、そして研究者として、信者や牧師たちの先入観が正しい信仰を阻害していることを訴えてきましたが、却って熱心な人々の方が、その立場を変えないことに気が付いています。
@人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと。22
A心の霊において新しくされる。23
B 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと。24
日本では、人の世話になるな、失敗をするな、などと小さい頃から躾けられます。でも、新約聖書には「互いに」という言葉が92回あります。一方的に与え、助けるだけでは「互い」とは言わず、それは愛の交流のない人間関係です。そういう日本的価値観で形成されている「古い人を脱ぎ捨てる」ことができないと、信仰者として次に進まないのです。与えられ、助けられる謙遜を身につけましょう。
心の霊において新しくされる。」とは、人格的霊的な頑なさを捨て、キリストの御霊に満たされることです。「こういうのは嫌い。」「こういうことはできない。」「生まれつき苦手」などということは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16・24)というようにイエスキリストの弟子にはなれません。
真理に基づく義と聖」とは、生ける神キリストに繋がる真理であり、自分が正しいと思っている真理ではありません。多くの人が、聖書を教理的知識的理解で信仰生活を送っています。自分の内にキリストの霊である聖霊が内在し、その御霊が「真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14・
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)。この内在の聖霊に導かれ、いのちと喜びと愛に満たされるからこそ、「真理」を身に着けるのです。そして、この「真理」なくして、「神の義」(マタイ6・33)を得ることはできないのです。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12・14)は、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」に続く言葉です。つまり、不平、不満、要求を他の人に持つならば、その人が聖くなることはないのです。そして、人の背後におられる主の導きも知ることがありません。
「神を信じている。キリストを信じ救われた。」というならば、それに相応しい生き方をしなければ、クリスチャンとしての祝福を得られないだけでなく、神の国にも入ることはできません。不正や悪に怒ることもあるでしょう。しかし、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与え」(26.27)るからです。
「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(28)。信仰者は勤勉です。それも「困っている人に施しをするため」なのです。私は未だかつて、献金や人に与えることを惜しむ真の信仰者に会ったことはありません。打算で生きる人は、神を信じていないのです。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)。自分の語る言葉を必ず振り返って吟味してください。おしゃべりな人は、言葉によって失敗をします。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)こういうことを持っている人からは、聖霊が去り、神の恵みと慈しみもなくなります。私たちに内在する聖霊は、私たちの悪に悲しみ、内在できなくなるのです。彼らは、神を信じていると自ら言っていますが、既に聖霊が去り、滅びの道を歩んでいるのです。悔い改めることができるのでしょうか。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(32)


7月19日 「自らのいのちを救う。」  マルコ82938

マル 8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
8:30
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
8:31
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32
しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
8:36
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37
自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
8:38
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

聖書で語る「いのち」は永遠のいのちのことです。現代日本では、このようなことを殆どの人は考えていないようです。世界では宗教者は、必ず来世のことを考え、天国に行くために命を犠牲にする人々も多くおります。ところが、日本人だけが天国信仰が少なく、桜のように散る、ことで満足しているのです。殆どの宗教は、天国だけでなく地獄も教えているので、天国でなければ地獄なのですが、死ねば灰になるだけと考えているのは、世界でも稀な進化論教育の故であると思われます。

自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6・25)の「いのち」とは、飲食や衣服に囚われて生きると永遠のいのちに繋がる大事なことをないがしろにしてしまう、という教えです。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(35)ということは、病気や怪我を恐れ、生き永らえようと思ってばかりいる者は、永遠のいのちを失うということです。コロナ騒ぎで礼拝や信仰をないがしろにしている人々のことを警告しているように思われます。

善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5・29)は、地上の人生は、神の国に行けるかどうかの試金石であり、地上で人を助け、良きことをしないならば人生の甲斐がなく、災害や不幸、日常生活の様々なことを通して、その人が神の国に入れる資格があるかどうかが吟味されるということです。金は本来、純粋な金として産出され、精錬の必要が無く高価であり、1gで3千mも延び細工がし易く、特殊な条件下で容易に合金となります。貨幣にも純度を落とせば多く作れ、装飾品に強度を加える為に合金にするので、価値を調べる為に試金石が必要になるのです。財産価値としては純金です。神の国の基準も純粋性です。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)は、善を行い、悪を退けるのは御霊に満たされていなければできないことを示しています。善行をするのは性格が良いからだと考え、悪いことをするのは性格が悪いからだと裁いているようです。そして、自らは、悪いことはしていない、たまには人助けをしていると考えているのです。

一生懸命祈って、他の人を変えよう、自分の気持ちを分かってもらおう、自分の願いどおりになるように、神に誓願を立てる人や、「祈っているから自分は正しく、神に導かれているのだ。」と思い込む人がおります。神様もお困りになるでしょう。信仰者というのは、自分の為には神に願わず、人を助け愛する為に祈るものです。自己中心な信仰者は、御霊に自分を委ねてはいないのです。あまりに欲が強くて、神をも人をも、そして、自分の人生をも思い通りにしたがるのです。そういう人が、いのちに、御霊に満たされているとは言わないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・8.9)。

 生まれながらの人は、自分を罪びとであるとは考えず、良きことができる善人であると考えているのです。しかし、聖霊によって悔い改めなければ、罪の奴隷なのです。そして、クリスチャンという水準が、洗礼を受けているとか、礼拝を守っているとか、献金をしているという程度のものであれば、コロナ災害のような試練によって脆く崩れ去り、信仰を失うのです。それは、いのちの御霊に導かれていないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8・2)、

 日本の教会でもコロナ感染があり、クラスターになったと報道され、牧師たちも戦々恐々としています。稲毛でも、ある店で感染者が出たとして、近づくなと噂が錯綜しています。この教会でも注意しましょう。まさに試金石です。感染しても死ななければ、数年後には思い出として懐かしむだけとなります。たとえ死んでも、天国での分かち合いになるでしょう。娘の婚約者も感染拡大のアメリカから来ます。すべてを覚悟しなければ前進できません。日本人は、人からの陰口を恐れて、行動を自粛し過ぎです。十分な注意をすることは当然です。しかし、恐れて自らの行動を過度に制限することは、健全ではありません。

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(34)、私は、教会員や家族、そして従業員が感染しないように、注意深く生活するように祈っています。でも、感染し、人々から非難され、クリニックにも患者が来なくなることも覚悟しています。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1・21

 


7月26日 「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」 Tテサロニケ512-28
                                                             大久保 仁牧師

Tテサロニケ 5:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
5:13
その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
5:14
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19
御霊を消してはなりません。
5:20
預言をないがしろにしてはいけません。
5:21
しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
5:22
悪はどんな悪でも避けなさい。
5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
5:25
兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。
5:26
すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。
5:27
この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。
5:28
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。

「一人で成り立つ自分はない。…他者との関係において自分が成り立っている」は哲学者ヤスパースの言葉。教会はまさにいろいろな人がいて成り立っている共同体です。現代の教会では「主にある兄弟姉妹」と呼び合いますが、かつては「主にある兄弟」でした。今は男性だけでなく女性たちも含めた表現に改められました。

日本語の「彼ら」という言葉には本来女性たちも含まれていると理解されています。男性ですべての性を代表させる表現は他にあるでしょうか。「看護婦」「助産婦」「保母」は、「看護師」「助産師」「保育士」という言葉に改められました。これは女性たちに限定させないための改称です。教会はいろいろな職業の人や老若男女が集う、いわばユニークな集団であり、お互いの違いを認めながら愛によって結びついている共同体と言えます。

今から二千年前の教会は性別や民族、職業や身分の垣根を越えた、当時の風潮からすれば時代の先を行く共同体であり、人々はクリスチャンの群れに魅力を感じ、主のみもとに居場所を見いだしたのではないでしょうか。私たちは聖書が伝える最初のクリスチャンたちの信仰生活から生き方を学びたいと思うのです。

T、悪をもって悪に報いず・・・12-13節は、クリスチャンの群れで強い立場にある人たちへの接し方を教えます。「指導し訓戒している人々」を重んじ尊重するべきです。一方で14節は、反対に弱い立場にある人たちへの接し方を教えます。弱さを覚えている人たちに対しては「寛容でありなさい」と。15節は、教会全体への勧めです。それはすべての人たちへの「接し方」、「勧め」でもあります。

だれも悪に悪をもって報復してはならない。」これは平和の教えであり、テサロニケの町のすべての人たちへの接し方でもあります。いつも善を行うよう務め、善をもって悪に打ち勝ちなさい(ローマ1221)と。聖書は教会の内と外とを使い分けることを勧めていません。むしろ、信仰の共同体である教会はこの世以上の倫理感を保って、教会の内外を含む「復讐をしない・対等な・一つの共同体」を作っていくのです。

U、喜び・祈り・感謝し・・・「すべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい」515)の直後に、16-18節の「いつも喜び・絶えず祈り・すべてのことに感謝しなさい」という有名な勧めが続きます。善を行うこととは、喜ぶこと、祈ること、感謝することです。これらは三つでありながら一つの善なのです。神は教会がこれを行い、各自が心の中に聖霊の火をともし続け、自らを「神から受けた聖霊の宮」(Iコリント619)となすことを望んでいます519)。信仰生活は、喜ぶことであり、祈ることであり、感謝することに尽きるのです。神を喜び神に礼拝をささげ、隣人を喜び喜ばせること。神に祈ること、特に隣人のための執り成しをすること。身の回りで起こる出来事を神に感謝し、隣人の存在に感謝をすること。喜び祈り感謝するにつれて、自然に私たちは、すべてを吟味し良いものは何であるかを大事にし、悪いものから遠ざかるようになるのです(521-22)。これは聖霊の働きによるものです。

V、真実な方・・・「平和の神」(523)は教会全体も、一人ひとりをも幸いにします。「霊、たましい、からだ」(523)とあるとおり聖書は人間を全体的なものとしてとらえていて、全体で一つであり、切り離すことはできません。

私たちは主イエス・キリストを贖い主としてたたえます。完全な贖いは主イエス・キリストの来られるときに実現します。それは人ひとりの救いの完成であり、「あの万物の改まる時(使徒3:21)」が実現されるのです。そのために平和の神は、イエスさまを恵みのプレゼントとしてこの世に送ってくださいました。神は「真実」なお方です。このお方が、私たちを招いています。だから、希望は決して絶望に終わりません。クリスチャン人生は、誠実な神と共に生きるやりがいのある旅です。旅は、救い、贖いの完成を目指す一歩一歩の歩みなのです。

私は共同体を形成していくための知恵は教会がモデルとなっているのではないかと思います。今の企業や職場、学校にも思いやりとか温もりとか絆ということを大切にする考え方が出てきました。これは広く社会全体にもとても大事なことだと思います。教会には実に様々な人たちが集っています。他のいろいろな集まりと教会との違いはなんでしょうか。教会という集まりが大切にしたいことは何でしょうか。教会に神の平和がつくられていくために、聖書は喜ぶこと・祈ること・感謝することを勧めています。皆さんは、何を喜んでいるでしょうか。何を祈っているでしょうか。そして、何を感謝していますか。聖書はイエスさまのことを思いながら、喜び、祈り、感謝することを勧めているのではないでしょうか。イエスさまのことを思うとき、私たちの喜び、祈り、感謝は、どのようなものになっていくでしょうか。

 


8月2日 「主は私の羊飼い。」 詩篇23

詩篇< 23 > ダビデの賛歌
23:1
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

終末の裁きの時に、全ての人は裁きの座の前に集められます。「人の子は、羊飼いが羊を山羊からより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25・32.33)。羊とは、「世界の基が据えられた時から、あなたがたの為に備えられていた御国を受け継ぐ」(同34)と区別されていた信仰者のことです。

羊も山羊も「ウシ科ヤギ亜科」に属し、ヤギ属かヒツジ属かの違いであり、羊は温厚でおとなしく、臆病です。山羊の性格は自己中心的、攻撃的、好奇心旺盛で活発、近づくと危険であり、羊と性格が逆です。羊は草食で、山羊は雑食なので木の実や残飯も食べ、その肉はかなり匂いがきついそうです。羊は牧草を食べ、糞を出し、それを繰り返すので土地が豊かになるそうです。山羊は何でも食べてしまうので、痩せた土地や高い岩場でも育ちますが、農作物も食べてしまうそうです。山羊が増えすぎて環境破壊した例も各地で報告されています。

羊の聴力は良く、水平に広い瞳孔を持つので視野は270〜320度もあるのですが、奥行きは知覚できず、影や窪みにひるんで進めなくなります。群れたがり先導者に従い、群れから離れると強いストレスを受けます。群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向があり、混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動きます。羊にとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことです。

なぜ、聖書では羊が信者で山羊は信者でない人なのでしょうか。肉が旨いからではないでしょう。土地を豊かにするからでもないでしょう。性格が温順で、群れを作り、指導者に従うからであると思われます。

主は私の羊飼い。」と喜ぶ人は、間違いなく信者です。普通の人は、「神に飼われてたまるか。」と拒むものです。罪とは自己中心であり、自分の欲に引かれてやりたいようにやろうと思うのが普通の人です。普通の人同士の夫婦が、本当に仲良く愛し合い、助け合えるのか疑問です。夫婦が主導権争いをしいるからです。お金があり、老後の貯えがあれば、どうにか我慢しているでしょう。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」と言える信仰者がどれだけいるでしょうか。クリニックニュースで「もし妻がコロナに罹ったら、私も罹って共に過ごします。」と書いたら、多くの反響がありました。私にとっては、「病める時も健やかな時も、妻を愛し助ける。」と誓ったのですから、当然なことです。夫婦が共にこの意識を持たなければなりません。

イエス様は「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・11.)と、羊である信者を救う為には命も犠牲にする覚悟を伝えます。この主イエスに信頼するからこそ、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。」と言えるのです。

 今週は私が夏風邪をひき鼻水が出て熱も出たので、「私がコロナだったら御免ね。一緒に仕事を休み、休暇を取ろうか。」などと話したのですが、検査では陰性でした。相変わらず味にうるさいので違うと思っていましたが。主イエスを救い主として信じる、ということは、どんなことがあっても、神が私のことを命がけで守ってくださる、と信じることです。

 世界のコロナ情勢を見ると、日本人は他国の中途半端な感染対策を馬鹿にしているようなところがあります。ついに岩手県でも感染者が出たということで、その会社は大変な攻撃・批判を受けているそうです。第2次世界大戦の際の言論統制は、対外強硬論一辺倒のマスメディアによるものでしたが、それに同調して、愛国心を啓発しない人々を非国民扱いにするものでした。

 わたしは、日本のキリスト教会が同じような轍を踏んでいるようなきがします。私たちの教会は、感染対策は十分行った上で、通常の礼拝や教会活動を行っています。しかし、周囲を見ると、私たちが異常に思われる程、活動自粛をしている教会ばかりです。「コロナごときに、信仰者の気概を失わさせてたまるか。」という信仰者魂はあるのでしょうか。

 信仰は戦いです。恐れないで、主を信じることが大事です。「感染したら、どうしよう。」などという思いが不信仰以外に理由づけられるのでしょうか。「あなたは弱者、障碍者、病者のことを配慮していない。」と私を責める人がいるでしょうか。私は牧師であって、病気の癒しよりも健康よりも、信仰を重視し、神の国に入る人が増えることの為に働いています。むろん、医療従事者としても、当たり前以上のことは夫婦と家族でしていると思いますが。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


8月9日 「主は門であり、良き牧者です。」 ヨハネ10章1〜14

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2
しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7
そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

「大道無門」という書の書かれた将棋の藤沢秀行の扇子を持っています。その意味は、「大きな道路に門がないのと同じように、悟りの世界に到るには、決まった入り方はない。」ということです。禅や仏教の悟りの考え方でしょうが、実際にはどの教えにも門閥や宗派があります。キリスト教に何故多くの教派があるのかと問う人々が日本には多いのですが、キリスト教は悟りの教えではありません。

イエス様ご自身が、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13.14)と教えておられます。

出口治明の『哲学と宗教全史』を読みました。大変聡明な方で、生命保険会社を設立し、大学の学長になり、歴史や哲学・宗教に造詣の深い方ですが、単に宗教を分析し、分かったふりをして論述しているだけで、すぐに浅薄な書であることがわかります。「宗教全史」とは、一介の人の書名とは、不届きなものです。残念ながら、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23・13)と、救いの門に入らせないように知識をこねくり回して教えている知識人ということになるでしょう。

先週、信者は羊で、神を信じない人々は山羊であると聖書が区別していることを説明しました。神を信じて生きるということは、知恵も知識も、能力も力も、富も地位も要らず、忠実に神を信じ従っていくということなのです。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Tコリント1・21)。

先週、仕事上で醜い権力争い、騙し合い、裏切りを見せられました。私の前では善人ぶりを見せていた人々が、金や権力の為に争う姿を見て、牧師で良かったとつくづく思いました。私も世の中では成功者に見られるので、多くの儲け話や旨い話を持ってきます。しかし、私は酒の出る席や歓楽街には行かず、自分には益でも他の人の害や損になることはしません。儲け話に乗って挫折した人も見てきました。失敗しても懲りずに悪徳に走る人々の末路を心配するばかりですが、間違いなく地獄だと思っています。主は、貧しい人々、弱き人々を配慮されます。馬鹿だから負けていると考えられていますが、主はその人々の味方です。

 

 教会という羊の囲いに過ごして、つまらなくはないのか、と人々は馬鹿にします。そうです。「宣教のことばの愚かさ」、信仰生活という純粋で愚かな生き方に、私たちは満足しているのです。実は、教会成長や教会を通して成功者になろうと訴えていた牧師たちが挫折してきています。私は、教会員を通して自分を成功させようとしたり、儲けようとしたりしたことはありません。必ず牧師給以上のものを献げてきました。神はご存知です。

 私は、「主がお入り用なのです。」(マタイ21・3)と夢で語りかけられて牧師になりました。私の仕事は、「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21・15)であると覚悟しています。日夜、教会員のことを心配しています。その食料である神の言葉を準備しています。過ごし易い緑の牧場と憩いの水辺に導こうと苦心しています。なぜなら、それが神から与えられた仕事であり、使命だからです。妻もその同労者です。その為に、神から与えられたのです

 クリニックも、会社も、私の研究や全ての活動も、福音の為です。多くの人々を助け励まし、自分を注いで来ました。それでも、私たちの意図は理解されないでしょう。単に、良い人くらいにしか思われないでしょう。

 生きていくだけでない、人々の罪や悪を思い知ります。自分の思い通りになるために、人々を排除し押しのけ犠牲にして、自分は生き残ろうとするのです。自分の人生を自分の思い通りに生きようとしているのです。彼らの最後は間違いなく地獄であると思い知ります。私は、そういう世界の中で生きているのです。

 そろそろ、後継者が必要になってきています。牧師になる方が、この教会の中から起こることを願っています。自分の成功や願いの達成は、諦めてください。苦労や報われないことは常にあります。病気や体調が悪いといって、礼拝や奉仕を休むことは許されません。神と人との前に、命がけで生きなければなりません。受けることを求めず、与えることを心掛けなければなりません。人々が、私たちの労苦に報いるとか、感謝するなどと期待してはいけません。主の御霊が導くならば、嫌なことも、得意でないことも拒まないで、従わなければなりません。

 報いは神の国であります。それ以外のものを地上で求めるなどは、主の僕に相応しくありません。「自分を捨て、自分の十字架を負って、従わなければ」主の弟子にも、主の御心に適う牧師にもなれません

 献身者も求めます。職業的な牧師にならなくても、同じように主に従う人を神は求めています。羊飼いになりましょう。主の模範に習って、良き羊飼いになりましょう。


8月16日  誰もが向かう地獄。限られた者の天国」黙示録20章1215  説教 櫻井圀郎師

T 神の書物 20:12-13

地の終わりの図です。地の初めからの全人類が、神の裁きの座に引き出され、立たされています。死者には、ミクロスとメガロスがいます。小さな者と大きな者です。権力や、能力や、職責や、財産や、働きの大小、地位の上下などでしょうか。

大小が問題になるのは、多く与えられた者、大きく用いられた者、上の地位に挙げられた者には大きな責任が伴い、少ししか与えられなかった者はそれなりの責任で果たせるからです。ただし、小さなことが自己責任なら話は別です。地を治める「神の代官」として創造されたことを忘れてはなりません。権限を忠実に履行してきたでしょうか。

希語では、小さい、大きいという意味ですが、現代日本語では、ミクロは微細、メガは巨大の意味です。単に、小さい、大きいの次元ではなく、微々たる細部から、巨々大々なる処まで、完全に掌握され、完全な裁きの対象とされていることに注意。

当然、悪行を重ねてきた人間は、言い逃れを企てるでしょう。神の御座に出されてもなお嘘をつき、責任転嫁することでしょう。しかし、嘘が通用しません。各人の行状が完全に記録された書物が証拠として出されているからです。

U 業火の池 20:14-15

神の裁きは、書物の記録により、各自の行いに応じて行われます。虚偽、不正、嘘、ずる、賄賂、隠匿、隠蔽、偽物、賭博、犯罪、企み、脅迫、強制などで人生を渡っている人もいれば、コツコツ忠実に、不正を行わず、誠実に務め、悪を退け、正義を行って、不当な処分を受け、家族や財産を失い、生命を失い、苦労に苦労を重ねた人もいます。完全に、各自の行いに応じて、神の正当にして絶対の裁きが実行されるのです。

その裁きに、「火の池」が想定されています。1920?21節では、悪魔と偽預言者が先に投じられているところです。いわゆる「地獄」です。「第二の死」と呼ばれています。

地上における死を第一の死と捉え、死後の地獄を第二の死と呼ぶのではありません。人間は罪の結果、生きながらに死んでいたのです。現世が第一の死です。そして、第二の死に投じられるのです。第一の死と第二の死とは連続線上にあり、別々の2つの死があるのではありません。 

基督による罪の贖いによってのみ、第一の死から生命への転向できます。これで生命に移行し、死は断絶され、第二の死に至ることもないのです。

 V 天国入禁 20:15

 15節は、「誰でも生命の書物の記録にない者は火の池に投棄された」と言います。それなら、生命の書物のみで裁きを行えば十分なように思われます。

しかし、神の裁きは、先ずもって、各自の行状により、書物の記録によって行われるのです。第一に、各自の行状を記録した書物により、第二に、生命の書物の記録によるのです。「各自の行状に応じて」が、神の正義として存在するのです。

 「各自の行状に応じて」である以上、一律に、「天国か地獄か」ということではないでしょう。天国にも「各自の行状に応じて」それぞれの場があり、地獄にも「各自の行状に応じて」それぞれの場があるはずです。

 単純な二者択一ではなく、一人一人の一つ一つの行いから判別される千差万別の道なのです。それでこそ、生涯の労苦は報われ、障害は回復され、悪徳悪行は処断されるのです。神の正義とは、人間の個別性を無にした単一なものではなく、一人一人の人間に完全に対応したものなのです。

誰もが地獄への道を歩んでいます。地獄への道は広く、世的には、楽しく、面白く、愉快な道です。一方、天国への道は、険しく、狭い門で仕切られています。蔑まれ、侮辱され、傷つけられ、非難され、投獄され、処罰されなど、大変です。あくまでも、限られた者の天国なのです。

 いよいよ終末の近さを覚える今日、真摯に、自分の行状に自己監視の目を向けたいものです。


8月23日 キリストはいのちの光です。」 ヨハネ1章1〜14

ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2
この方は、初めに神とともにおられた。
1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6
神から遣わされたヨハネという人が現れた。
1:7
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

灼熱の太陽、暑いですが、夏至からは2か月も過ぎています。暖かくなるのに時間が掛かったわけですが、太陽の光は確かに動植物に命を与えます。地軸の傾き23.4度が季節を与えるのですが、傾きが無ければ暑過ぎ、寒過ぎることになります。イエス様のご配慮は凄いですね。この1章によれば、そのような造作を考え行われたのはイエス様です。

地球温暖化の危機が叫ばれますが、もし大気中に水蒸気や二酸化炭素が無ければ地球の平均気温は零下19度になるそうです。二酸化炭素の量が丁度良いように造られ、もし増えてもそれを吸収し酸素に替える機能を神は地球に備えられたのです。これを経済重視の人間が壊してしまったのです。二酸化炭素が大気に過剰に増え、熱が宇宙に逃げなくなったのです。そして、氷河が解け、砂漠化が進み、異常気象が通常化して、不可逆的な地球破壊が進むのです。つまり、人が住めないような状態になるのです。異常気象による災害が日本中で起こり、更に洪水や地震、噴火が起こり、コロナ災害で破綻した経済は、もはや回復不能となり、社会秩序は崩壊していくのです。光が地球を温暖にするのですが、人間の罪が宇宙との熱の交流を妨げたのです。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3・21)。神には、全てが知られているのに、人間は罪責感を感じると、ばれるのを恐れ隠そうとします。神の前にへりくだり罪の赦しを求めないで、神との境を作り、熱ならぬ罪をため込んでしまうのです。

クリニックニュースの9月号では、災害に備えて助け合う家族、仲間を大事にしましょう、と伝えました。世界中で日本ほど国に期待し、信じている国民は少ないのですが、その国も経済的に破綻し、なおかつ誤魔化して政治家は権力に固執しています。企業もIT化が進まず、上意下達の組織では、潰れていくだけでしょう。外食に頼り、自炊をしない家の経済は破綻するでしょう。遊興費に掛ける金はなくなるでしょう。誠実に生きるということが、何よりも大事なのですが、罪はそれをさせまいと活発になります。罪とは閉鎖的になり、問題を外に出さなくさせるのです。ため込んだ罪深さは、その人の人生を崩壊させ、多くの問題を自然災害のように噴出させるのです。

神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(へブル4・13)。主義主張や、頑固さは、自らの義を主張する罪の隠れ蓑です。どんなに自分が正しく、国の為、会社の為、家族の為、

教会の為、神の為、と唱えても、神の前には悔い改めた方が良いでしょう。義人はいない。」(ローマ3・10)のですから。

神の国には、夜も陰もありません。「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示録21・23)。神の光は、物質を貫くのです。そして、人の心も貫くのです。同居している家族から、信仰者であると認められないのは、その人の信仰が未熟で、自己義の部分があるからでしょう。或は人目を気にした信仰だからでしょう。神だけでなく、人の目も誤魔化せないものです。家族を救いに導くことも、信仰を理解してもらうことも難しいものですが、家族からあなたが信仰者として呆れられ、馬鹿にされるならば、それで充分です。いつの日か、この世の生き方に躓いたら、あなたのことを思い出し、救いを求めるでしょう。

 姦淫の現場で捕らえられた女性がイエス様の前に出されました。律法によれば石打ちの刑で殺されることになっています。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)と言って、地面にものを書き続けられました。そうすると、誰も彼女を罰することができずに去っていきました。イエス様は、彼らに心当たる罪状を書いていたのかもしれません。

 イエス様は、「誰もあなたに裁きを下さなかったのですか。」(8・10)と尋ね、「わたしもあなたに裁きをくださない。これからは決して罪を犯してはなりません。」と告げました。そして、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(812)と宣言されました。

 イエス様は、罰するために人として生まれたのではなく、救うためです。しかし、人間は、「神を信じている、間違ったことをしていない、人のため会社のためだ。」などと自分の義を主張し、正しく生きることができない弱者を裁きます。大事なことは、「イエス様に従う」ことであり、自分の信じる信仰生活ではありません。「いのちの光を持つ。」ことは、自分のいのちをイエス様に掛けることです。

 「すべての人を照らすそのまことの光」(9)は、人の全てのことをさらけ出すのですが、最後の審判の時には、まさに罰するために使われる罪状となります。地上で生きている間に、悔い改めておいたほうが良いでしょう。


8月30日 「キリストは王の王。」 黙示録19616

黙示録 19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
19:10
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
19:11
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
19:15
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
19:16
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

独裁的な権力を握っていた安倍首相が体調を崩して突然の退陣となりました。トランプ大統領もアメリカ国粋主義が極端になって反発が大きくなり、立場を追われかねません。中国の習近平国家主席も、10年以上の多選への道を制度付けて独裁体制を強化したけれども、強引な中華主義が国際的な批判を浴びて中国経済を危うくしているので、失権する可能性が出てきました。

国家が国民のためにあるという建前が全うされたことは、歴史的には悲惨な状況からの回復という状況以外には殆どありません。国家は権力者が権力を握るためにあります。近代国家は法の支配によって公正かつ適切に国家権力を行使するということになっていますが、マックス・ウェーバーの指摘したとおり、官僚たちが自分たちに都合の良い立法をして、合法的に権力構造を保っています。それでもなお、違法行為をして利権に走るのですから人間の強欲は留まるところがありません。

今回のコロナ騒ぎで指導者の在り方の難しさ、安易な行動に走りがちな危険性を覚えました。一律の助成金は、犠牲を払って活動しているように見えますが、実際には殆ど人々には助けになりません。却って財政破綻を起こします。継続的な活動を支援できるようなものでなければならないのです。また、組織自体の刷新をして、支援体制の強化もしなければなりませんが、ネット申告や手続きによって日本の組織の未熟さをさらけ出しただけとなっています。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22・25.26)。年の若い者、仕える者、給仕する者は、人々の役に立つように、いつも注意を払い、心を配り、動き回っています。自分が正しいと思ったことを人の指示を受けずにしたい人が多いのですが、人がして欲しいと思ったことを、その人の気持ちを配慮して行動する人は少ないのです。指導者は、自分のしたいことをするのではなく、その構成員が望むことを、使える姿勢で行動せよ、と言われるのです。

私自身は、悔い改めて告白しますが、説教を通して、牧会を通して、教会員を変え、立派なクリスチャンに成長させようと苦労してきました。しかし、そうなって都合が良いのは私自身であり、人を思い通りにしようとする世の人々と根本的には変わらないことに気が付きました。ところが、イエス様は、赦しだけを宣言して仕える人であったのです。

 

養っている家族に対して、給料を払っている従業員に対して、命令する権利があるように考えていたのです。良いことの為、成長させる為、給料を払う為、権威を行使するのは当然だと考えておりました。しかし、イエス様は、「あなたがたは、それではいけません。」と私に語り掛けられました。私は、これらの人々を幸せにし、仕事を楽しませ、そして福音の喜びを体験してもらうために、この世の職を与えられているのに過ぎないのです。確かに、この悟りの後、仕事や人を思い通りにしようという気持ちがなくなってきたので、楽になり、能率が上がりました。教会員にも仕事を頼みますが、もしやらなかったら、いつでも私自身が行うという意識をもって見守っています。仕事などはそれで十分なのです。神は、私に十分な知恵と知識と力と体力を与えてくださいます。自分の思い通りにするという意識さえなくなれば人生は簡単です。

あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。」22・28.29)。神の国でも、この世でも、支配者は必要ですが、試練の時、つまり、自分の思い通りにならない時に、仕える気持ちを持った人ならば、神の国でも指導者になれるのです。

さて、「王の王、主の主」と神の子、イエス様が賞賛されるのが、この最後の審判の時です。その時、主は、「『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり」11.12)という公正な裁きをされる王として立たれるのです。神は、「信頼できる真実な方」であり、悪がはびこるので、必ず義をもって裁きをしなければなりません。その時まで、慈愛に満ちたイエス様が、「なぜ、このような忍耐を持った愛にも拘わらず、悔い改めずに罪を起こし続けたのか。」と裁きをするのです。

そして、この時、クリスチャンは、「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。」(黙示録19・1.2)と讃美を献げるのです。「水戸黄門」や「遠山の金さん」その他の時代劇で見る勧善懲悪の末路は、聖書の裁きにおいて実現するのですが、大事なことは、私たちは、それを見る者というよりも、裁かれる側であるという怖さが聖書の警告なのです。




9月6日 「キリストは救い主。」 Uテモテ1914

Uテモテ 1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
1:11
私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
1:13
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
1:14
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

救い主キリスト・イエス」という救いとはどういうものなのか、もう一度確認しましょう。魂の救い、罪からの救いとは、教会でいつも語られることですが、そういうとクリスチャン以外からは、気休め、悩みからの言い逃れのように軽んじられます。

第一には、肉体的な救いです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(10)。どの宗教も天国信仰はあり、聖書の教えの「天の御国」と変わらないように思う方もおります。しかし、それでは「死を滅ぼし」にはなりません。「死を滅ぼす。」ということは、「永遠のいのち」(マタイ19・16)を持つということです。永遠に生きるとは、霊魂の永遠性ではなく、身体の永遠性です。

墓に入れられて4日も経ったラザロが、イエス様によって生き返ったヨハネ11章の記事は知られています。しかし、その後ラザロは死んでおり、「死を滅ぼし」てはいません。ラザロの癒しは、永遠のいのちの「しるし」(ヨハネ12・18)なのです。「神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカ9・2)とあるように、病の癒しは死を滅ぼし、神の国が現れることのしるしであり保証なのです。

第二には、心の救いです。自己中心という罪性を持って生まれてきたので、人が罪を認めて悔い改めるということは、殆ど不可能なことです。牧師になって、そのことを伝えることを使命として生きて、つくづく感じます。そして、よくも、この私が救われたものだと心から感謝します。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。」(9)。救いというものが神の召しによるものならば伝道しなくてもよいのでしょうか。「このような苦しみにもあってい」(12)るのはなぜなのでしょう。

心は、知識・知性・知恵を求め、自らの成長や成功、そして幸せを求めます。ところがそれができないので、「彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。」(ローマ2・15)。つまり、他人の悪を指摘して自己弁護し、自分の失敗や罪の理由を挙げて正当化するのです。すべて他人を裁く者よ。あなたに弁解の余地はありません。」(ローマ2・1)。「自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っている」(ローマ7・15)ということが、心の現実です。「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。」(ローマ8・27)。私たちは、神の前に悔い改めるしか、心は救いようがないのです。

 第三には、霊魂の救いです。この霊というものは、その人の人格であって、心に影響を与え、理性よりも知識よりも、人の判断や考えを左右します。霊魂の救いがなければ、人は救われておらず、悔い改めも、犠牲的な歩みもしないのです。ですから、罪を認め、洗礼を受けたといっても、相変わらず自分中心な生活を送っているのならば、その人の霊魂は救われていないという証拠なのです。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)。地上での生き方は皆が自分の利益と長寿を優先して、他の人のいのちを犠牲にしてしまうものですが、それを「憎む」ということは、そういう自分勝手な罪性を嫌うということです。

子供の頃は多くの人が、社会や人の為に生きるという希望を持つのですが、自分の限界と能力を悟り、生きていくことの困難に気が付くと自己利益を求め排他的になるのです。でも、聖書は、その罪性は生まれながらのものであると言います。つまり、親が守ってくれず愛してくれずに、立身出世、成績向上などの競争社会で勝利するように育てると、罪性が子供の頃から根付いて、悔い改めが難しい人になってしまいます。

教会には、自己犠牲的な人がいて愛してくれ、良くしてくれます。そういう人々との交流に喜んでいても、自分が犠牲的に生きていないのならば、あなたの魂は救われてはいないのです。救われている人々の愛を利用する罪びとなのです。それでも魂の救われた信仰者は、あなたが教会に来ていることを喜び、いつの日か、魂が救われ、神と人の為に犠牲となることを書くそして生きるようになることを願うのです。

 「キリストが救い主」とは、人の魂を救おうと日夜働く信仰者の源であり、その仕える主がキリストであるということです。キリストが、私たちの「手本」(13)であり、キリストは、私たちを「守ってくださる」(12)のです。さらに、主キリストから遣わされた聖霊が「私たちのうちに宿る」(14)のです。このようにキリストは、私たちをこの世の全てから、私たちを救い続け、神の国へと救い出してくださるのです。

 もう一度言います。あなたが神の国へ導かれるかどうかは、あなたがキリストの弟子として、自己犠牲的にこの世に生きるかどうかで、現実的に証明されるのです。


9月13日 「キリストはいのちのパンです。」 ヨハネ64858

ヨハネ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52
すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

ヨハネ6章の前半では、イエス様の病の癒しを見て男だけで5千人の人々が集まり、人々のお腹が減っているのを見て、「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。」(ヨハネ6・5)とイエス様が尋ねています。過越しの祭りの為に各地からエルサレムへの旅人ですから、自分たちでは持っていません。「二百デナリのパンでも足りません。」(6・7)は200万円くらいですから、当時の商いではガリラヤ湖の周辺にそんな供給はできなかったでしょう。

しかし、少年の持つ五つの大麦のパンと二匹の魚を祝福してイエス様が分け与えられると、群衆は満たされ、「余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」(6・13)のでした。人々は湖の反対側までイエス様を追います。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(6・26.27)。

このイエス様の訓戒に対して、人々は「神のわざを行う為には、何をすべきでしょうか。」(6・28)と、やはり奇跡やしるしを起こして、目立とう、儲けようと考えているのでした。人々にとっては、モーセが天からマナを降らせたように、不自由なく食料が与えられることを求めるという自分勝手さです(31)。人は、神の国を求めるというよりも、むしろ、地上の利得を求め、そのついでに死んでも天国に行けたら良いな、と調子よく考えているのです。

イエス様が「神が遣わした者をあなた方が信じること」と答えているのに対して、「私たちが見て、あなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。」(6・30)と信仰を持つことによる利益を求めます。実は、多くの信仰者が信仰による利得を求めているのです。奇跡や癒しを体験しても、神に従い十字架を負う信仰者になる人は少ないものです。信仰によって利益を求める人は、神を信じ従うのではなく、信仰によるメリットを求めて「神を信じてあげる。」という意識をもつのです。その代価として献金をし、奉仕をしているから当然という考え方であり、御利益宗教となります。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」(6・35.36)というのが信仰者の現実であることをイエス様は糾弾します。

イエス様が大工の子であり、育った様子を知っている、と考えても、イエス様が為さった技や、語った教え、そして超自然の現象を見て、神の子と信じることは普通の人にはできないことは当然です。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(6・44)とあるように、真に信仰を持つことができるのは、神に選ばれた人だけなのです。

 生まれながらの人が、神を信じ、従い、犠牲を払って、そして自我を捨てて信仰生活を送るということはできないのです。ですから、そういう人は、必ず信仰生活に躓きます。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9・33)とあるように、信仰者は躓くことなく、失望することなく歩むのですが、魂の救われていない人は、信仰生活を送ることができなくなるように神が躓かせるのです。

 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6・51)。人は躓き始めると何にでも文句を言い、不信を募らせます。神を信じて生きるという義性的な生活が嫌になってくるのです。或は、もはや抜けられない信仰生活に苛立ってくるのです。

 イエス様の教えを、生きる糧、いのちの源と悟る人だけが、「永遠に生きます。」(6・51)。大事なことは、悔い改めるか、不遜になるか、選択をするということです。私の人生には、多くの苦労があり、困難があり、自分の主義主張を変え、自分の立場や名誉や維持を捨て、それでも神を信じてきました。そういうことを乗り越えてきたからこそ、自分が神の恵みによって、確かに信仰者になっているという確信を持つことができます。

 「弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(6・60-63

 「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(6・66)。終末とは、そういう時代です。


9月20日 「キリストは教会の花婿です。」 エペソ52133

エペソ 5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
5:22
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24
教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30
私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
5:32
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

キリストが夫であり、教会が妻であると言われて、何のことかとわからない人は多いでしょう。22節を引用して、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」という男性牧師が多いのですが、私はそういうことを言う男性たちが亭主関白であることが、聖書的ではないと感じています。そう言われた妻たちが、「自分の妻を自分と同様に愛しなさい。」(33)を実践してくれたら従うけれど、と言い返すと、従うことが先だ、というやりとりの夫婦では、愛し合っているはずがありませんが、この世の基準では、仲が良いと思っているのが不思議です。

1.教会がキリストの花嫁とはどういうことでしょうか。

神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)。神は、キリストの花嫁になる教会を構成する私たち、一人ひとりを既に選んでおられたのです。しかし、それは無条件の選びではなく、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」(エペソ4・22-25)。というように、聖められなければ身体の構成部分とはならないのです。

イサクとリベカの結婚までの経緯には、両親の息子への愛と親に忠実なイサクの誠実さ、そして、神のご配慮と導きを知らされます。二人とも、大層な試練、苦難、迫害の中で、信仰者として歩み、そして結婚し、神の栄光を現わしました。「選ばれたのだから、間違いなく天国にいく。」と考える人がいますが、選びの証明は、その人がどんな試練でも神に従い、自らを聖めていくことによって為されていくのです。教会に来ているから、救われたから、癒されたから、自分は神の子として選ばれたのだ、と考えたら間違いです。

花嫁の条件は、花婿に会うことを願い、迎える準備をしていることです。この世のことに関心があり、欲望に囚われているのでは、花婿を迎えることをしていないのです。

 2.キリストが教会の花婿とはどういうことでしょうか。

 父なる神が、キリストの花嫁として教会を選んだということです。私たちは、結婚が個人の思い、親の思い、縁談、利害、などの理由で為されていることを知っていますが、実は神の御許しがいるのです。生まれた子には、全て霊があります。赤ん坊が産声を上げる時に、人間としての霊が誕生するという説もあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創世記2・7新共同訳)。生まれた子が全て神の御手の内にあるならば、すべての結婚も神の御手のうちにあります。それを壊すのは、当事者である人間です。人は、そのように神の御手の中にあるのに、自分勝手に生きるのです。それでは、人が生まれなければ良いと思うかもしれませんが、人は自由意志で生き、自分で罪を犯し、稀に悔い改めるのです。生まれた霊が死ぬことがないので、神は慈愛をもって、人間を赦し、見守り、祝されるのです。しかし、義なる神は、罪を犯す者を裁かないでいることはできないのです。

 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」(5・25)のは、神の御心に従ったからです。人は、なぜ、そのようにして自分が愛されるのか、と疑うでしょう。自己中心な人間には、そのような愛はわかりません。

 私自身の結婚の時、花嫁は重度のうつ病で大学を卒業できず、身体も弱く消化不良で、何もできない状態でした。普通の夫ならば仕事をするばかりですから、料理も家事もできない娘の結婚を親が反対するのも当然です。私自身、大学の教員は無理だと諦め、公認会計士も仕事に集中しなければならないので、牧師の召しが語られた時に、神学校に生きながらならば、妻の世話ができると考えたものです。それほどの状態でも結婚をしたのは、神がこの結婚を明確に示した以外にありません。人は、神が明らかに示したことを逆らうことはできないと、聖書に書いてあったからです。

 通学、買い物、家事をこなし、妻のカウンセリングを2時間ほどして過労で5月には全身の蕁麻疹、9月には不整脈が起こりました。うまくいかないで、相変わらず、うつの妻に暴言を吐き、神に文句を言い続けて、不整脈で動けない自分を嘆いて2時間くらいして、神に助けを乞いました。そして、「あなたは信じていない。あなたの信じる信仰によって、わたしは栄光を現わす。」という声を聴いたのでした。悔い改めると身体中が熱き聖霊に満たされ、妻の祝福を祈ると、21日間の切迫流産の妻と私自身が瞬間的に癒されました。そして、長男が生まれたのです。長男を生むために、妻も私も命を懸けたのですが、神は聴いてくださいました。薬を飲んでいたら、長男は生まれていません。私たちに信仰を教えてくれたので、主の人、主人と名付けました。

 キリストが教会を愛し、いのちを献げたのは、神の御旨だからです。神のみ旨であると受け入れたら、信仰者もいのちを献げることができるのです


9月27日 「キリストはよみがえりです。」 ヨハネ113-623-2739-40

ヨハ11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:23
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

よみがえりとは、普通、蘇りと書きますが、『黄泉がえり』という映画もあったようです。黄泉とは古事記、日本書紀などにあり、日本神話で死者の世界のことを言います。漢字での黄泉は、中国で死者の世界を意味しています。旧約聖書のシェオル(ヘブライ語)、新約聖書のハデス(ギリシャ語)を漢文訳で黄泉と訳し、口語訳聖書では黄泉、新共同訳では陰府(ヨミ)、新改訳聖書ではハデスと訳しています。ギリシャ語のゲヘナは、口語訳と新共同訳では地獄、新改訳ではゲヘナと訳されています。

ゲヘナについて、イエス様は何度も警告されています。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ5・29)。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23・33)。「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカ12・5

ハデスについては、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(ルカ1623)とあるように、死んだ後に苦しむ所ですが、そこからアブラハムらの義人のいる場所もあるとイエス様が言われています。「ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16・25-26)とあり、義人が報われる所と悪人が苦しむ所の間には大きな淵があることがわかります。

ペテロは、「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。」(使徒2・31)とイエス様も死後にハデスに行かれたことを示し、しかし、そのままではなかったことを語ります。それが、よみがえりです。

『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」(エペソ4・8-9)とあり、キリストが死んだ後、ハデスに行き、ハデスにいた義人たちを連れ、パラダイスへ行くのです。ですから、ハデスにあった義人の場所、通称アブラハムの懐と言われていた所はなくなるのです。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・2-3)。

 ですから、隣りで十字架に掛けられていた犯罪人が「「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23・42)と願った時、 イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23・43)と、彼に言われたのです。

 パウロは、リステラで反対する「ユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。」使徒14・19.20)。パウロはここで確かに死んでいるのです。Uコリント12・4で「パラダイスに引き上げられて」と語り、「その啓示があまりにもすばらしいために」(12・6)、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。」(12・10)と語るのです。

 このようにラザロは確かにハデスに行ったのです。そして、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(39)という肉体の死から、よみがえったのです。もし、死んで直ぐに癒されたのならば、癒しと言われます。しかし、ラザロは癒されたのではなく、よみがえらされたのです。おそらく、パウロも、「立ち上がって」という時、死んだのによみがえって、何が何だかわからずに伝道を続けたのでしょう。後で、冷静になって、それがパラダイスだったことを悟ったのだと思います。パウロは、死後にパラダイスを体験してよみがえったので、あれだけの命がけの伝道をしたのでしょう。

 「マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』」(24)。しかし、死んだ後の天国信仰は、どの宗教でも持っています。語るだけならば、誰でもできます。癒しも、本当に死んだのかどうか、疑う人もいます。しかし、イエス様は、この信仰が死に打ち勝ち、身体をもってよみがえり、永遠のいのちに繋がることを示されたのです。殆どの人は、死んだら天国に行ければ良いと考えるけれど、それを信じ求めて命がけに生きることを愚か者と考えます。そういう人を、神は受け入れず、神の国に迎えることをしないと示されているのです。