7月5日 「キリストが道です。」  ヨハネ1417

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

昔は山登り、山歩きが好きでした。人が歩いている所が道となり、管理者が危険防止や歩き易い為に整備して道が整ってきます。陽の当たる所は雑草が生い茂ると道がどこだかわからなくなります。先人が間違った道を歩めば、そこを道だと勘違いして迷うこともあり、あわてて来た道を戻ります。日本の山は入り組んでおり、迷うと危険です。遭難しかかった時もあり、その恐怖感を忘れることはできません。スイスの山下りは、妻が勝手な道を歩くので心配でしたが、人が登る山は、歩いていればどこかの道に辿り着くというので、楽しんで家の庭や路地を通り抜けて下ったものです。

イエス様は、「私が道です。」と言われました。この道を通らなければ、「神の御許に行くことはできません。」。スペインの巡礼路サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ヤコブの遺骸があるとされるサンティアゴに向けて、フランスなどからピレネー山脈を越えて800キロ以上を歩きます。スペイン語でカミーノとは道という意味で巡礼のことです。信仰者だけでなく、毎年10万人ほどの老若男女多彩な人が30日以上かけて5ユーロ程の安宿に泊まりながら歩くのです。信仰、健康、楽しみ、休暇、多様な理由で歩くのが目的の巡礼をするのです。次女のマリヤはその途中でアメリカ人の母と一緒のニコラスと会ったのです。

それでも多くの人々は、信仰心をも模索します。道中の人々は巡礼者に優しく助けてくれ、人生に疲れた人々の心を癒します。現代は情報過多であり、仕事に忙しいのに人との交流は浅薄になっています。身体も心も使い過ぎると、消耗して動けなく、動かないようになるそうです。そういう面での自浄行動としてカミーノに赴くのかもしれません。

神のもとに行く、神の国に入る、ということは、一般の人には全くわからないことであると思います。信仰者を認めても、現代社会に生きる人々にとって、信仰はなにか理解できない得体の知れないものに思われるでしょう。特に無神論教育を受けている日本人には、宗教者は現実離れした異常者のように見えるでしょう。

自らの青年時代を思い起こすと、次第に出世や富を求める嫌なタイプの人間になっていくことに自己嫌悪を感じていました。酒には強かったけれど、酔って自分を見失うことが嫌で酒は好きではありませんでした。中一の時に、泡のように消えていく自分を思い、涙した自己啓発の願いが、この世の流れに流されていくのを感じたのです。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・14)。殆どの人は、いのちの門を見出さないのです。

私たちは確かに、この門を見つけ、いのちの道を知ったのです。「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)。しかし、この道を歩むためには、努力や能力、そして人間的なこの世の生き方をしていては駄目であることを多くの人が悟っていません。キリストが「道であり、真理であり、いのちなのです。」。キリストという真理に従い、いのちに満たされなければ、この道は歩けないのです。ところが、多くのクリスチャンが、信仰とこの世での生活を別のものとしているので、「いのちの道を・・・、喜びで満たし」て歩けないのです。

 教会生活にはいのちと喜びがあります。しかし、いのちと喜びが無くても、教会には来ることができます。この世の空虚な暮らしに慣れた人々には、教会に来ることだけで楽しく、まるで自らが神の国への道を歩んでいるかのように感じるのです。カミーノを歩いても、実際には、この世の思い煩いを忘れ、健康を取り戻し、なんとなく憂さ晴らしをしているだけのようなものです。大事なことは、真理に生き、御霊に満たされることです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Tコリント1・18)。「召された者たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(同1・24)。現代社会では、クリスチャンは愚か者です。賢そうに見せる必要はありません。その愚かそうで誠実なクリスチャンに魅力を感じる人がいたら、その人は「いのちに至る門」を見出そうとしている人です。

 多くのクリスチャンや牧師たちが、コロナ騒ぎで感染しないように、感染源にならないようにとひたむきになっていることが、なにか愚かしく感じます。感染しても、感染源となっても、この世の空騒ぎです。神の国に行く道さえ迷わなければ、なんのこともありません。がんや心臓病、糖尿病、高血圧、内臓疾患、・・・、恐れる病気は山ほどあります。なぜ、そういう重大疾患よりも死亡率や重病率の低い新型コロナウイルスに大騒ぎするのでしょう。感染者数を話題にするマスコミに踊らされているだけです。

 私たちは医療関係者として、多くの死にゆく病気の人々を見ています。彼らもまた、死ぬまで死後のことを考えておりません。美味しい物を食べ、好き勝手をして生きようと考えているのです。或は、死んだらどうしよう、感染したらどうしようと悩んでいます。魂のことなど考えないでいるのです。霊魂の不滅を考えていない現代日本では、死んだらおしまい、なので、生きている限り楽しいことをしようとしているのでしょう。神に「愚か者」と呼ばれるのは、そういう人々です。


7月12日 「キリストが真理です。」  エペソ42232 

エペソ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
4:25
ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27
悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 『ファクトフルネス』という昨年ベストセラーになった本を読んでいます。世界の事実に関する12の質問をした1万2千人の平均正解数は2つで、11問正解が一人、全問不正解が15%もいたそうです。チンパンジーに答えさせても33%は確率的に合うのに、どうして不正確が多いのかというと、人間には偏見や思い込みが強くあるからです。
著者のハンス・ロスリング医師は「国境なき医師団」を立ち上げたスウェーデン人で、この本では10の間違った本能が正確な判断を誤らせていると指摘しています。中でもネガティブ本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、単純化本能、焦り本能など印象に残ります。
1989年、彼がコンゾという病気の研究の為にコンゴで血液検査をしようとテントで準備していると、村人の血を売って儲ける為に来たのだと誤解され、二人の男がナタを振りかざして近づいてきたそうです。逃げたくなるのを抑えて説明しても理解されません。しかし、一人の女性が、はしかが治ったことを同じだと説明し、事実を積み重ねて科学調査の必要性を訴えて村人の同意を促し、彼の研究は成果を得たのです。
私自身、牧師として、そして研究者として、信者や牧師たちの先入観が正しい信仰を阻害していることを訴えてきましたが、却って熱心な人々の方が、その立場を変えないことに気が付いています。
@人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと。22
A心の霊において新しくされる。23
B 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと。24
日本では、人の世話になるな、失敗をするな、などと小さい頃から躾けられます。でも、新約聖書には「互いに」という言葉が92回あります。一方的に与え、助けるだけでは「互い」とは言わず、それは愛の交流のない人間関係です。そういう日本的価値観で形成されている「古い人を脱ぎ捨てる」ことができないと、信仰者として次に進まないのです。与えられ、助けられる謙遜を身につけましょう。
心の霊において新しくされる。」とは、人格的霊的な頑なさを捨て、キリストの御霊に満たされることです。「こういうのは嫌い。」「こういうことはできない。」「生まれつき苦手」などということは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16・24)というようにイエスキリストの弟子にはなれません。
真理に基づく義と聖」とは、生ける神キリストに繋がる真理であり、自分が正しいと思っている真理ではありません。多くの人が、聖書を教理的知識的理解で信仰生活を送っています。自分の内にキリストの霊である聖霊が内在し、その御霊が「真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14・
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)。この内在の聖霊に導かれ、いのちと喜びと愛に満たされるからこそ、「真理」を身に着けるのです。そして、この「真理」なくして、「神の義」(マタイ6・33)を得ることはできないのです。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12・14)は、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」に続く言葉です。つまり、不平、不満、要求を他の人に持つならば、その人が聖くなることはないのです。そして、人の背後におられる主の導きも知ることがありません。
「神を信じている。キリストを信じ救われた。」というならば、それに相応しい生き方をしなければ、クリスチャンとしての祝福を得られないだけでなく、神の国にも入ることはできません。不正や悪に怒ることもあるでしょう。しかし、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与え」(26.27)るからです。
「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(28)。信仰者は勤勉です。それも「困っている人に施しをするため」なのです。私は未だかつて、献金や人に与えることを惜しむ真の信仰者に会ったことはありません。打算で生きる人は、神を信じていないのです。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)。自分の語る言葉を必ず振り返って吟味してください。おしゃべりな人は、言葉によって失敗をします。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)こういうことを持っている人からは、聖霊が去り、神の恵みと慈しみもなくなります。私たちに内在する聖霊は、私たちの悪に悲しみ、内在できなくなるのです。彼らは、神を信じていると自ら言っていますが、既に聖霊が去り、滅びの道を歩んでいるのです。悔い改めることができるのでしょうか。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(32)


7月19日 「自らのいのちを救う。」  マルコ82938

マル 8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
8:30
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
8:31
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32
しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
8:36
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37
自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
8:38
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

聖書で語る「いのち」は永遠のいのちのことです。現代日本では、このようなことを殆どの人は考えていないようです。世界では宗教者は、必ず来世のことを考え、天国に行くために命を犠牲にする人々も多くおります。ところが、日本人だけが天国信仰が少なく、桜のように散る、ことで満足しているのです。殆どの宗教は、天国だけでなく地獄も教えているので、天国でなければ地獄なのですが、死ねば灰になるだけと考えているのは、世界でも稀な進化論教育の故であると思われます。

自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6・25)の「いのち」とは、飲食や衣服に囚われて生きると永遠のいのちに繋がる大事なことをないがしろにしてしまう、という教えです。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(35)ということは、病気や怪我を恐れ、生き永らえようと思ってばかりいる者は、永遠のいのちを失うということです。コロナ騒ぎで礼拝や信仰をないがしろにしている人々のことを警告しているように思われます。

善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5・29)は、地上の人生は、神の国に行けるかどうかの試金石であり、地上で人を助け、良きことをしないならば人生の甲斐がなく、災害や不幸、日常生活の様々なことを通して、その人が神の国に入れる資格があるかどうかが吟味されるということです。金は本来、純粋な金として産出され、精錬の必要が無く高価であり、1gで3千mも延び細工がし易く、特殊な条件下で容易に合金となります。貨幣にも純度を落とせば多く作れ、装飾品に強度を加える為に合金にするので、価値を調べる為に試金石が必要になるのです。財産価値としては純金です。神の国の基準も純粋性です。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)は、善を行い、悪を退けるのは御霊に満たされていなければできないことを示しています。善行をするのは性格が良いからだと考え、悪いことをするのは性格が悪いからだと裁いているようです。そして、自らは、悪いことはしていない、たまには人助けをしていると考えているのです。

一生懸命祈って、他の人を変えよう、自分の気持ちを分かってもらおう、自分の願いどおりになるように、神に誓願を立てる人や、「祈っているから自分は正しく、神に導かれているのだ。」と思い込む人がおります。神様もお困りになるでしょう。信仰者というのは、自分の為には神に願わず、人を助け愛する為に祈るものです。自己中心な信仰者は、御霊に自分を委ねてはいないのです。あまりに欲が強くて、神をも人をも、そして、自分の人生をも思い通りにしたがるのです。そういう人が、いのちに、御霊に満たされているとは言わないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・8.9)。

 生まれながらの人は、自分を罪びとであるとは考えず、良きことができる善人であると考えているのです。しかし、聖霊によって悔い改めなければ、罪の奴隷なのです。そして、クリスチャンという水準が、洗礼を受けているとか、礼拝を守っているとか、献金をしているという程度のものであれば、コロナ災害のような試練によって脆く崩れ去り、信仰を失うのです。それは、いのちの御霊に導かれていないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8・2)、

 日本の教会でもコロナ感染があり、クラスターになったと報道され、牧師たちも戦々恐々としています。稲毛でも、ある店で感染者が出たとして、近づくなと噂が錯綜しています。この教会でも注意しましょう。まさに試金石です。感染しても死ななければ、数年後には思い出として懐かしむだけとなります。たとえ死んでも、天国での分かち合いになるでしょう。娘の婚約者も感染拡大のアメリカから来ます。すべてを覚悟しなければ前進できません。日本人は、人からの陰口を恐れて、行動を自粛し過ぎです。十分な注意をすることは当然です。しかし、恐れて自らの行動を過度に制限することは、健全ではありません。

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(34)、私は、教会員や家族、そして従業員が感染しないように、注意深く生活するように祈っています。でも、感染し、人々から非難され、クリニックにも患者が来なくなることも覚悟しています。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1・21

 


7月26日 「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」 Tテサロニケ512-28
                                                             大久保 仁牧師

Tテサロニケ 5:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
5:13
その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
5:14
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19
御霊を消してはなりません。
5:20
預言をないがしろにしてはいけません。
5:21
しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
5:22
悪はどんな悪でも避けなさい。
5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
5:25
兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。
5:26
すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。
5:27
この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。
5:28
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。

「一人で成り立つ自分はない。…他者との関係において自分が成り立っている」は哲学者ヤスパースの言葉。教会はまさにいろいろな人がいて成り立っている共同体です。現代の教会では「主にある兄弟姉妹」と呼び合いますが、かつては「主にある兄弟」でした。今は男性だけでなく女性たちも含めた表現に改められました。

日本語の「彼ら」という言葉には本来女性たちも含まれていると理解されています。男性ですべての性を代表させる表現は他にあるでしょうか。「看護婦」「助産婦」「保母」は、「看護師」「助産師」「保育士」という言葉に改められました。これは女性たちに限定させないための改称です。教会はいろいろな職業の人や老若男女が集う、いわばユニークな集団であり、お互いの違いを認めながら愛によって結びついている共同体と言えます。

今から二千年前の教会は性別や民族、職業や身分の垣根を越えた、当時の風潮からすれば時代の先を行く共同体であり、人々はクリスチャンの群れに魅力を感じ、主のみもとに居場所を見いだしたのではないでしょうか。私たちは聖書が伝える最初のクリスチャンたちの信仰生活から生き方を学びたいと思うのです。

T、悪をもって悪に報いず・・・12-13節は、クリスチャンの群れで強い立場にある人たちへの接し方を教えます。「指導し訓戒している人々」を重んじ尊重するべきです。一方で14節は、反対に弱い立場にある人たちへの接し方を教えます。弱さを覚えている人たちに対しては「寛容でありなさい」と。15節は、教会全体への勧めです。それはすべての人たちへの「接し方」、「勧め」でもあります。

だれも悪に悪をもって報復してはならない。」これは平和の教えであり、テサロニケの町のすべての人たちへの接し方でもあります。いつも善を行うよう務め、善をもって悪に打ち勝ちなさい(ローマ1221)と。聖書は教会の内と外とを使い分けることを勧めていません。むしろ、信仰の共同体である教会はこの世以上の倫理感を保って、教会の内外を含む「復讐をしない・対等な・一つの共同体」を作っていくのです。

U、喜び・祈り・感謝し・・・「すべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい」515)の直後に、16-18節の「いつも喜び・絶えず祈り・すべてのことに感謝しなさい」という有名な勧めが続きます。善を行うこととは、喜ぶこと、祈ること、感謝することです。これらは三つでありながら一つの善なのです。神は教会がこれを行い、各自が心の中に聖霊の火をともし続け、自らを「神から受けた聖霊の宮」(Iコリント619)となすことを望んでいます519)。信仰生活は、喜ぶことであり、祈ることであり、感謝することに尽きるのです。神を喜び神に礼拝をささげ、隣人を喜び喜ばせること。神に祈ること、特に隣人のための執り成しをすること。身の回りで起こる出来事を神に感謝し、隣人の存在に感謝をすること。喜び祈り感謝するにつれて、自然に私たちは、すべてを吟味し良いものは何であるかを大事にし、悪いものから遠ざかるようになるのです(521-22)。これは聖霊の働きによるものです。

V、真実な方・・・「平和の神」(523)は教会全体も、一人ひとりをも幸いにします。「霊、たましい、からだ」(523)とあるとおり聖書は人間を全体的なものとしてとらえていて、全体で一つであり、切り離すことはできません。

私たちは主イエス・キリストを贖い主としてたたえます。完全な贖いは主イエス・キリストの来られるときに実現します。それは人ひとりの救いの完成であり、「あの万物の改まる時(使徒3:21)」が実現されるのです。そのために平和の神は、イエスさまを恵みのプレゼントとしてこの世に送ってくださいました。神は「真実」なお方です。このお方が、私たちを招いています。だから、希望は決して絶望に終わりません。クリスチャン人生は、誠実な神と共に生きるやりがいのある旅です。旅は、救い、贖いの完成を目指す一歩一歩の歩みなのです。

私は共同体を形成していくための知恵は教会がモデルとなっているのではないかと思います。今の企業や職場、学校にも思いやりとか温もりとか絆ということを大切にする考え方が出てきました。これは広く社会全体にもとても大事なことだと思います。教会には実に様々な人たちが集っています。他のいろいろな集まりと教会との違いはなんでしょうか。教会という集まりが大切にしたいことは何でしょうか。教会に神の平和がつくられていくために、聖書は喜ぶこと・祈ること・感謝することを勧めています。皆さんは、何を喜んでいるでしょうか。何を祈っているでしょうか。そして、何を感謝していますか。聖書はイエスさまのことを思いながら、喜び、祈り、感謝することを勧めているのではないでしょうか。イエスさまのことを思うとき、私たちの喜び、祈り、感謝は、どのようなものになっていくでしょうか。

 


8月2日 「主は私の羊飼い。」 詩篇23

詩篇< 23 > ダビデの賛歌
23:1
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

終末の裁きの時に、全ての人は裁きの座の前に集められます。「人の子は、羊飼いが羊を山羊からより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25・32.33)。羊とは、「世界の基が据えられた時から、あなたがたの為に備えられていた御国を受け継ぐ」(同34)と区別されていた信仰者のことです。

羊も山羊も「ウシ科ヤギ亜科」に属し、ヤギ属かヒツジ属かの違いであり、羊は温厚でおとなしく、臆病です。山羊の性格は自己中心的、攻撃的、好奇心旺盛で活発、近づくと危険であり、羊と性格が逆です。羊は草食で、山羊は雑食なので木の実や残飯も食べ、その肉はかなり匂いがきついそうです。羊は牧草を食べ、糞を出し、それを繰り返すので土地が豊かになるそうです。山羊は何でも食べてしまうので、痩せた土地や高い岩場でも育ちますが、農作物も食べてしまうそうです。山羊が増えすぎて環境破壊した例も各地で報告されています。

羊の聴力は良く、水平に広い瞳孔を持つので視野は270〜320度もあるのですが、奥行きは知覚できず、影や窪みにひるんで進めなくなります。群れたがり先導者に従い、群れから離れると強いストレスを受けます。群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向があり、混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動きます。羊にとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことです。

なぜ、聖書では羊が信者で山羊は信者でない人なのでしょうか。肉が旨いからではないでしょう。土地を豊かにするからでもないでしょう。性格が温順で、群れを作り、指導者に従うからであると思われます。

主は私の羊飼い。」と喜ぶ人は、間違いなく信者です。普通の人は、「神に飼われてたまるか。」と拒むものです。罪とは自己中心であり、自分の欲に引かれてやりたいようにやろうと思うのが普通の人です。普通の人同士の夫婦が、本当に仲良く愛し合い、助け合えるのか疑問です。夫婦が主導権争いをしいるからです。お金があり、老後の貯えがあれば、どうにか我慢しているでしょう。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」と言える信仰者がどれだけいるでしょうか。クリニックニュースで「もし妻がコロナに罹ったら、私も罹って共に過ごします。」と書いたら、多くの反響がありました。私にとっては、「病める時も健やかな時も、妻を愛し助ける。」と誓ったのですから、当然なことです。夫婦が共にこの意識を持たなければなりません。

イエス様は「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・11.)と、羊である信者を救う為には命も犠牲にする覚悟を伝えます。この主イエスに信頼するからこそ、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。」と言えるのです。

 今週は私が夏風邪をひき鼻水が出て熱も出たので、「私がコロナだったら御免ね。一緒に仕事を休み、休暇を取ろうか。」などと話したのですが、検査では陰性でした。相変わらず味にうるさいので違うと思っていましたが。主イエスを救い主として信じる、ということは、どんなことがあっても、神が私のことを命がけで守ってくださる、と信じることです。

 世界のコロナ情勢を見ると、日本人は他国の中途半端な感染対策を馬鹿にしているようなところがあります。ついに岩手県でも感染者が出たということで、その会社は大変な攻撃・批判を受けているそうです。第2次世界大戦の際の言論統制は、対外強硬論一辺倒のマスメディアによるものでしたが、それに同調して、愛国心を啓発しない人々を非国民扱いにするものでした。

 わたしは、日本のキリスト教会が同じような轍を踏んでいるようなきがします。私たちの教会は、感染対策は十分行った上で、通常の礼拝や教会活動を行っています。しかし、周囲を見ると、私たちが異常に思われる程、活動自粛をしている教会ばかりです。「コロナごときに、信仰者の気概を失わさせてたまるか。」という信仰者魂はあるのでしょうか。

 信仰は戦いです。恐れないで、主を信じることが大事です。「感染したら、どうしよう。」などという思いが不信仰以外に理由づけられるのでしょうか。「あなたは弱者、障碍者、病者のことを配慮していない。」と私を責める人がいるでしょうか。私は牧師であって、病気の癒しよりも健康よりも、信仰を重視し、神の国に入る人が増えることの為に働いています。むろん、医療従事者としても、当たり前以上のことは夫婦と家族でしていると思いますが。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


8月9日 「主は門であり、良き牧者です。」 ヨハネ10章1〜14

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2
しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7
そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

「大道無門」という書の書かれた将棋の藤沢秀行の扇子を持っています。その意味は、「大きな道路に門がないのと同じように、悟りの世界に到るには、決まった入り方はない。」ということです。禅や仏教の悟りの考え方でしょうが、実際にはどの教えにも門閥や宗派があります。キリスト教に何故多くの教派があるのかと問う人々が日本には多いのですが、キリスト教は悟りの教えではありません。

イエス様ご自身が、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13.14)と教えておられます。

出口治明の『哲学と宗教全史』を読みました。大変聡明な方で、生命保険会社を設立し、大学の学長になり、歴史や哲学・宗教に造詣の深い方ですが、単に宗教を分析し、分かったふりをして論述しているだけで、すぐに浅薄な書であることがわかります。「宗教全史」とは、一介の人の書名とは、不届きなものです。残念ながら、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23・13)と、救いの門に入らせないように知識をこねくり回して教えている知識人ということになるでしょう。

先週、信者は羊で、神を信じない人々は山羊であると聖書が区別していることを説明しました。神を信じて生きるということは、知恵も知識も、能力も力も、富も地位も要らず、忠実に神を信じ従っていくということなのです。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Tコリント1・21)。

先週、仕事上で醜い権力争い、騙し合い、裏切りを見せられました。私の前では善人ぶりを見せていた人々が、金や権力の為に争う姿を見て、牧師で良かったとつくづく思いました。私も世の中では成功者に見られるので、多くの儲け話や旨い話を持ってきます。しかし、私は酒の出る席や歓楽街には行かず、自分には益でも他の人の害や損になることはしません。儲け話に乗って挫折した人も見てきました。失敗しても懲りずに悪徳に走る人々の末路を心配するばかりですが、間違いなく地獄だと思っています。主は、貧しい人々、弱き人々を配慮されます。馬鹿だから負けていると考えられていますが、主はその人々の味方です。

 

 教会という羊の囲いに過ごして、つまらなくはないのか、と人々は馬鹿にします。そうです。「宣教のことばの愚かさ」、信仰生活という純粋で愚かな生き方に、私たちは満足しているのです。実は、教会成長や教会を通して成功者になろうと訴えていた牧師たちが挫折してきています。私は、教会員を通して自分を成功させようとしたり、儲けようとしたりしたことはありません。必ず牧師給以上のものを献げてきました。神はご存知です。

 私は、「主がお入り用なのです。」(マタイ21・3)と夢で語りかけられて牧師になりました。私の仕事は、「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21・15)であると覚悟しています。日夜、教会員のことを心配しています。その食料である神の言葉を準備しています。過ごし易い緑の牧場と憩いの水辺に導こうと苦心しています。なぜなら、それが神から与えられた仕事であり、使命だからです。妻もその同労者です。その為に、神から与えられたのです

 クリニックも、会社も、私の研究や全ての活動も、福音の為です。多くの人々を助け励まし、自分を注いで来ました。それでも、私たちの意図は理解されないでしょう。単に、良い人くらいにしか思われないでしょう。

 生きていくだけでない、人々の罪や悪を思い知ります。自分の思い通りになるために、人々を排除し押しのけ犠牲にして、自分は生き残ろうとするのです。自分の人生を自分の思い通りに生きようとしているのです。彼らの最後は間違いなく地獄であると思い知ります。私は、そういう世界の中で生きているのです。

 そろそろ、後継者が必要になってきています。牧師になる方が、この教会の中から起こることを願っています。自分の成功や願いの達成は、諦めてください。苦労や報われないことは常にあります。病気や体調が悪いといって、礼拝や奉仕を休むことは許されません。神と人との前に、命がけで生きなければなりません。受けることを求めず、与えることを心掛けなければなりません。人々が、私たちの労苦に報いるとか、感謝するなどと期待してはいけません。主の御霊が導くならば、嫌なことも、得意でないことも拒まないで、従わなければなりません。

 報いは神の国であります。それ以外のものを地上で求めるなどは、主の僕に相応しくありません。「自分を捨て、自分の十字架を負って、従わなければ」主の弟子にも、主の御心に適う牧師にもなれません

 献身者も求めます。職業的な牧師にならなくても、同じように主に従う人を神は求めています。羊飼いになりましょう。主の模範に習って、良き羊飼いになりましょう。