4月2日 忠実な管理者。  Tコリント417

新改訳 Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
4:3
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
4:5
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
4:6
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
4:7
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

私は今、ながらハウスの管理人もしています。四季折々に咲き実を実らす草木の管理し、使いやすいように設備や庭を手入れします。草木の世話は、それぞれの特徴が全く違い、必要な土質や肥料、そして剪定や水分などを理解するのに年月が必要です。手を抜き、世話を怠ると弱くなり、枯れてしまうこともあります。私は、手の掛かる草木の管理を通して多くのことを教えられます。先日は、記念会に用いるマイクシステムの為に、ネットで1時間以上調べた上で家電ショップで相談し、埒があかないのでヨドバシカメラの専門スタッフに2時間も質問し、更に2時間掛けて取りつけました。合計するとかなりの時間が掛かりましたが、非常に参考になりました。

 管理者には、確かに「忠実であることが要求されます。」先日、「コピーの仕方がわからない、先生やってください。」と言ってきた方がいました。何回失敗したのですが、と聞くと一回だけだったそうです。一回の失敗で挫折するとは、失礼ながら根性無しです。私は週報を印刷しなければならないのに、PCが土曜の夜に壊れて徹夜したことなど数限りなくあります。愚かな管理者は、壊れたので印刷できなかったことを強調します。忠実な管理者は、何事もなく、いつものように印刷したものを配ります。

 できないものがあれば、その原因を探り、丁寧に対処します。これを繰り返すと有能な人間になります。管理というものは、適切に対処しなければ、機能しなくなり、壊れていくので、怠ることはできないことなのです。ところが、「自分には出来ない。」と言い訳を言う人が多いものです。どうしてなのでしょうか。

 小さい時から、自分にはできないことを人に頼んできたのでしょうか。放置してきたのでしょうか。今更、一つ一つ、学んでいくことは嫌でしょうが、忠実とは、自分がするべきことをコツコツと取り組むことです。むろん、自分の能力ではできないこともあります。その時は、教わったら良いのです。そして、交流が生まれます。しかし、自分でやろうとしないで、人に頼む人が成長することはありません。

 3節に、他人の判定だけでなく、「自分で自分を裁くことさえしません。」とあります。「早くやれ、へたくそ、だめじゃないか。」。そのような評価を気にすると、じっくりと物事に取り組むことはできません。現代社会は、学校の成績を気にして子どもを育てます。試験の点数などを評価すると、子供は成績を気にする習慣が身について、真の力を付けようと努力することを怠ってしまいます。神にも、人にも、用いられる人になるには、点数評価ではなく、物事をしっかりと理解し、対応する習慣を身に付けることです。「先走った裁き」、成果を気にしてはいけません。インスタントな成果は、インスタントに崩壊します。コツコツと生きる習慣を身に付けないと、試練に対応することはできません。

 怠惰な人は手早くすること、簡単にすることを求めます。しかし、料理にしても手早く味付けをしたものと丹念に味付けをしたものとは全く違います。簡単にすることも必要ですが、人生は、安易に生きようとする者にとっては、難攻不落な壁が立ち向かいます。例えば結婚生活も、安易に幸せを求める人々は破局に遇います。仕事の成果も、手早く求める人々は、直ぐに破綻がきます。勉強も山を掛けて試験に臨む人は、人生そのものを落第するでしょう。ラッキーや運、或いは神頼みをする人々が、神によって祝福されるということは決してないのです。

 自分を「すぐれた者と認める」、神に何も「もらっていないかのように誇る」のは、自分の成果を確認したいからであって、忠実な管理者にはふさわしくないことです。ルカの福音書16章に、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」という言葉があります。これは、この世の金銭などたかが不正な富であり、取るに足りないものであるから、それを神の国のために忠実に用いなさい、ということです。金持ちになろうとしたり、この世の成功者になろうとして、安易な成果を求める人は、神の国にはふさわしくないのです。どんな小さなことでも、自分の利益と都合を優先する人は、神にある管理者としては、不忠実であり、神がその人に祝福をもたらすことはないのです。

 忠実な管理者としては、忠実な管理簿を付けることが必要です。教会の財政の管理に関して、この34年間、不足している金額は、私が献金してきました。週報も作り続け、記録も付けています。全て、私の責任です。私は、教会員の責任として無理を強いたことはありません。教勢が上がらないことも、教会がうまくいかないことがあった時も、その原因を他に転嫁したことはありません。すべて私の責任として、神の前に悔い改め、負担をしてきました。うまく成長しない信者の為に執り成しの祈りをし続けてきましたが、怒ったり、批判にしたことはありません。神はご存知です。しかし、私は、教会を去ったり、問題を起こした人々から、非難され、攻撃されました。だからと言って、管理者は、管理を放棄することはできないのです。黙々と、神に仕え、働き続けるのです。

 何かと言うと、「牧師先生助けてください。やってください。」という子どものような教会員が多くおります。しょうがありません。私は、牧師なのです。私は祈り続け、働き続け、神にある責任を全うしようといのちを注いできました。そして、私の前には、天の住まいが迎えられることを望んでいます。本気で信仰を持たなければできないことです。なぜならば、殆どの信者は、未成熟で、自分の都合と利益ばかりを考えるからです。牧師というのは、そういう仕事です。だれか、牧師を継ぐ人はいませんか。間違いなく、神の国に凱旋できます。私の献身は、神の国に行くだけの信仰と生き様を持った人々をなるべく多く確保するためです。それは確かに狭き門であることを知っています。皆が自己中心だからです。


4月9日 天の御国を待ち望んで。  ヘブル11816

ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9
信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

昨夜は、メールのパスワードが盗まれ、フェースブックが乗っ取られて、多くの方に携帯電話の番号を求め、そしてビットキャッシュを寄こせという悪事を私の名前でされてしまいました。8時からの1時間でされ、その修復に3時間半掛かりました。忙しい時には、更に悪事が起こって、平安を失わせようとし、また物事を中途半端にさせようとするものです。その後、謝罪や後始末に追いまくられ、この週報に着手するのは、夜中の1時です。

 私が、このようなことに気落ちすることなく、為すべきしっかりと取り組むのは、いつ、天に召されても良いように、手抜きをしないように心がけているからです。過労や病気、或いは事故で死ぬことがあっても、神の国に行くことができる状態であることを、いつも意識しています。

 パウロは、「私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1・20-21)と語っていますが、死ぬことの恐れなどは毛頭もなく、地上の歩みは、神から与えられた使命であり、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(1・23)とも言っています。

 ところが、多くの人、信仰者を見ていて、「今、再臨の主が来られたら、まずいだろうな。」とか、「今、死んだら、本当に天国に行けるのだろうか。」などと心配してしまうこともあります。この人達は、全ての行動が神の前に記録されており、「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21・43)となることを忘れているのか、知らないでいるのでしょうか。

 私は、来週のパーティーの為に、日夜準備をしています。丁度、桜が咲き始めました。花桃も咲くでしょう。庭のそこかしこにテーブルとイスを並べ、歩きやすいように道や階段を整備し、タイルやレンガ、セメントや固まる土をはっています。食事もレストランに頼むと共に自分でも調理します。クリニックの為に働いてくださった方々を招待するのです。それは、天国への招待のようなものです。神の為に働いたものだけが招かれるのです。マタイ22章にあるように、招いても「来たがらなかった。」(マタイ22・3)人々は、一生後悔することになります。既に招待に答えた人は55人になります。最後は、「何も持たず、ともかく祝いにきてください。」という聖書的なものでした。

 平凡な日常を過ごし、感動もなく、あれやこれやの用事を済ませて生きており、また誘惑にも惑わされながら生きているということは、神の招きを忘れているということなのです。私自身は、この日の為に30年を掛け、記念誌と祝会という一つの締めを飾るのです。この華やかな日の為に、自分を注いできたのです。それは、神の国への私なりの道しるべです。

 アブラハムは、暑い日に3人の旅人が来るのを見て、テントに招き御馳走します。それは23リットルの上等の小麦と子牛、豊富なヨーグルトや牛乳で接待します。日常の雑用に心がかまけている人では、とてもできない接待です。その接待に報いて、神の人は、年老いたアブラハムに子どもを与えます。

 神の国を待ち望む人は、日常生活に心を蝕まれません。罪や誘惑に惑わされません。神の国への準備に勤しみ、労苦を厭いません。人々を神の国に誘うために、多くの犠牲を払い、その為に人生を献げます。全ての人生の目的を神の国に行くためのものと捉え、他の誘惑や望みを打ち捨てます。

 来週の復活祭を待ち望みましょう。


4月16日 「基督の復活・・・単なる期待か、事実か」  Tコリント書1519節 櫻井圀郎師

新改訳 Tコリント15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11
そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12
ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 

Tコリント15:19直訳「仮に、この生命において、単に、我々が基督の中に期待するだけの者であるなら、我々はすべての人間より憐れまれるべき者である。」

 9億円の国有地+8億円の値引き+1億円の補助金=実質無料?

 問題の本質は「虚偽の書類」「虚偽の申請」にありましたが、虚偽の書類や申請を見抜けない、否、見抜こうとしない忖度体制のほうが、大きな問題でしょう。

 基督教の根幹に関わる「基督の復活」……、事実でしょうか、虚偽でしょうか。パウロの言う「信者の単なる期待」では信者は哀れです。当時の帝国総督らや猶太教祭司長らは「弟子らのでっち上げだ」と言うでっち上げを測りましたし、直弟子ですら信じられませんでした。

 「基督の復活」、本当に信じていますか、本当の事実として確信していますか? もしかしたら「忖度」では? 私たちの生命に関わる大問題です。虚偽と事実を見抜くことが必要です。

T 信者の生命の源としての基督の復活

 世界中の人間はすべて、神に対する罪のゆえに、「罪人」であり、罪人であるゆえに「死んでいる者」です。生きていると思っていますが、実は死んでいる者なのです。

 それに対して、基督者は、「基督を信じる」という意思表示により、基督との契約関係が成立し、基督と一体の関係に置かれました。基督と一体であるゆえに、基督が神に対して為した贖罪の効果を受け、神に対する罪から免れ、「罪人」から「義人」へと変えられました。

 同時に、基督者は、「死」からも解放され、「生きる者」とされました。そもそも、聖書で「生命」とは、神との関係を意味していますから、神との関係を損なえば死に至のは当然です。

 「生きる基督者」、その生命の源は神との関係ですが、その原因は基督にあります。まさに、死を克服した「基督の復活」、それこそ、基督者の生命の源泉です。

U ただ単なる期待としての基督の復活

 基督者が基督者となったのは、「基督を信じた」ゆえですが、日本人は(未信者だけでなく、信者も?)、これを誤解しています。

 「信じるだけで救われるなんて」って、しばしば耳にします。「苦行を重ねてのことなら分かるが……」とも。日本人にとって「信じる」という意味は軽いのです。聖書で「信じる」とは「口で告白する」ことで、「口から出した言葉は守らなければならない」を意味しています。

 基督教信仰を背景にした西欧では「契約は守らるべし(Pacta sunt servanda.)」が当然ですが、日本には「口約束」という言葉があって、「口で言っただけ」「重要ではない」「軽い約束」ということを意味しており、問題です。

 その上、日本の宗教感覚では、「信仰とは信心、つまり自分の思い(自分の思い込み)」という理解ですから、「基督の復活」は「基督教の信仰」「基督者の信心」「信者の思い込み」という感覚になってしまいます。

V 証明された事実としての基督の復活

 パウロは言います、「単なる思い込みなら最も哀れな者だっ!」と。当然ながら、パウロには「基督の復活は厳然たる事実だっ!」という確信があります。

 十二弟子は、基督の復活を自分の目で見た者であり、疑問の余地がありませんが、パウロは、私たち同様、基督と生活を共にした者ではありません。そのパウロの確信の根拠は何でしょうか?

 私たちにとって、「基督復活の証拠」は何でしょうか? それとも、証拠もなく、単に信じているだけでしょうか?


4月23日 「新しい歩みの模索」  ヨハネ福音書21114

ヨハネ21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
21:2
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

次女のマリヤが泣きべそをかきながら出かけるのを見送りながら、私たち親も泣きだしてしまいました。5月4日には長女がカナダヘ引越をし、9日には3女が長期旅行に出かけます。長男は経営者修行を私の下で積んでおり、次男は新しい家を持って歩みを始めています。それぞれ強き歩みを志しているのを見て、私たち夫婦の影響が強かったのだと感じます。強く生きる為には、強い心が必要で、その為には多くの試練と困難を経なければなりません。それを知っていて、子ども達が進むのですから、ただ神の守りを祈るばかりです。

 さて、先週が復活祭で、主の復活を知った弟子たちの驚きを学びました。人の理性と経験では、主の復活はありえないことです。その事実を悟った弟子たちは、どのようにしたでしょうか。実は、どうして良いかわからなかったのです。主の復活を知っても、自分達の罪深さ、弱さ、そして主が傍に居られないという心細さを悟り、混乱していただけだったのです。

 最初に復活の主が弟子たちに現われた時、主は、「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20・21)と言われ、「聖霊を受けなさい。」と助け主なる聖霊の力を受けるようにアドバイスされます。さらに、「だれかの罪を赦す」という働きの重要性を説きます。

 次に復活の主が現われた時には、「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20・29)として、現実や理性に捉われることなく、信仰によって歩むべきことを教えます。

 それでも、弟子たちはどうして良いかわかりません。それで、ペテロは弟子になる前の働きである「漁に行く。」(21・3)と言うと、他の弟子たちも従います。どうして良いかわからない時に、今までどおりのことをやる人が多いものですが、気が紛れるのは事実でしょうが、そのようにして御霊に導かれ御心にあって生きることを失ってしまうことになるのです。

 主に従わず、勝手なことをしても祝福は得られません。「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。」(申命記30・19.20)。

 聞き従うということは、いつか従います、として、保留の時を持つことで猶予を願うということは認められません。ましてや、違うことをしていたら、「死と災い」(申命記30・15)を受けることになります。私は、命令や規則に従わず、平然と誤魔化したり、疎かにする人々が多いことに驚きを覚えます。「最善を尽くした。」、「しょうがなかった。」などと言い訳をするのです。これは、不適切な人間教育の結果です。従わなかったら、祝福は受けず、罰を受けるのは当然です。

 この時の場合、「遣わす」という主の意味がわからなかったのですから、まさにしょうがありません。聖霊も受けていませんでした。しかし、夜通し働いても、何の収穫もありませんでした。そのような弟子たちに、声を掛けたのが主でした。主は、魚を焼き、パンを出して弟子たちをねぎらいました。

 主はペテロに、「あなたは、この人達以上に、わたしを愛しますか。」(21・15)と聞きます。この人達程度にでも、この人達以下でもなく、「誰よりも主を愛するか。」と問うのです。日本人は、平均が好きで、他の人と同じように同じ程度にすることを大事にします。しかし、主の命令は、平均的ではなく、平均以上最善、できるだけを要求されます。

 私は、指導者として、十分な働きができない人々に共通していることは、自己評価が低いこと、諦めが早いこと、仕事の基準が最初から低いことに気が付いています。最善を尽くすのではなく、適当に仕事をするのです。だから、出来上がりは、かなり低いものとなり、さらに点検や確認をすることなく、仕事を終えてしまうのです。これでは、失敗するのは当然です。自らが神の働きをするなどとは考えもしないのです。自らが偉大なことをするなどとは思いも寄らないのです。

 妻が女性大会の証しの原稿を書きますが、私は殆どダメだと言います。どうしてでしょうか。思いつきで書いている。自分への神の取り扱いを深く思いだし、祈り考えていない。自分の特徴、自分の歩み、自分の苦労、自分ができたことを深く吟味していない。どうしてうまくいったのか、漠然と神の恵みとして捉え、その法則を理解しようとしていない。困難の内に神の取り扱いと導き、訓練があったことを悟っていない。将来へと続く主の導きを求めていない。その他一杯あります。気が付いたことは安易なことです。

人生は、ラッキーではだめなのです。主の祝福と導きの法則を見出そうとしなければならないのです。主は、羊のように迷い、弱い、信者を育てなさい、とペテロに命令し、「わたしに従いなさい。」(21・19)と命じられました。

主は、私たちと共におられます。大事なことは、主が共におられることに気が付き、注意してその御声と導きを聞きとり、そして、主に従って生きることなのです。まず、無難な道を歩もうとする人が、主を求めているということは決してありません。自己意識の低い人が、自らを主の僕、主の弟子と考えているということもないと思います。傍にいる人を無視してはいけません。


5月7日 未熟から成熟への年月  創世記43614

創世記43:6 そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」

43:7 彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか。』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」

43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。

43:9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。

43:10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

43:11 父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、

43:12 そして、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。

43:13 そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。

43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

 

私は明治生まれの両親の下で育ち、親に意見を言ったり、逆らったりするなどということは考えられないことでした。ところが、最近は、平気で親にも上司にも意見や文句、或いは反発をするようです。言葉づかいも、敬語などは全く身についておらず、社会的マナーも未成熟です。このような人々が、社会でまともな仕事に付けないのは当然で、人間関係も良好なものは築けず、そのような原因が自分にあることにも気が付かない始末です。能力があれば、仕事ができ、出世もすると考えており、人間関係の重要性に気が付いていないのです。

 人が人としてなるのは、互いに助け合い、愛し合うからですが、人に要求ばかりをしていて、愛するということがわからない、身についていないからだと思われます。そのような人々が結婚でもしようものなら、家庭は修羅場となり、主義主張のぶつかり合いとなります。

 昔、愛についての説教を聞いたことがあります。こんなものではない、これは愛ではない、こんな人たちはダメだという批判的な言葉を聞いているうちに息苦しくなってきました。そして、「愛は寛容」という言葉が浮かび、この人は自分に愛がないのに、愛を求めている寂しい人なのだな、と執り成しの祈りをしたことを覚えています。

 さて、聖書の人物について、どういうわけかすべて肯定的に捉えようとする傾向があるようです。私は何万もの小説を読んでいますが、最初に聖書を読んだ時、確かにこれは神の書であると思いました。それは、人の弱さ、脆さ、罪深さがあからさまに描写され、かつ神の義、神の愛、神の強さが貫かれているからでした。

 双子のヤコブとエサウは性格が全く反対でした。ヤコブはリベカに愛され、エサウは父イサクに愛されていました。親は自分に似ている子を好む傾向があります。実際には、似ていると思っても人格と経験が違うので、全く違うことを考えるものなのですが、自分と同じように考えると思い込むのも、人の愚かさでしょうか。

 ただ、野生の人エサウは信仰よりも戦いが好きで、牧畜の人ヤコブは人との交流や信仰を知っていました。父イサクは穏やかな人で決して争うことをせず、神の尋常でない祝福があったので信仰の人として尊敬されていました。しかし、エサウは自分の強さで父の財産を継ごうと考えていました。リベカは、夫の繁栄は神の祝福の故であったことを知っているので、不信仰なエサウでは継ぐ資格は無いと考え、ヤコブに信仰を教えようとしました。我が子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」箴言1・8)とあるように、家に住むヤコブは、身に付かないながらも、それらを聞いて育ちました。エサウは40歳で2人の妻を娶りましたが、その2人が親を嘆かせました。

 27・46や28・1のリベカやイサクの言葉からすると、よほどひどい嫁だったようです。ヤコブは親の言われるままに嫁探しに故郷に帰ります。ヤコブは、叔父ラバンに騙され利用されながらも耐えて20年間働きます。60歳を超えているヤコブが帰る際には、エサウに膝まづいて礼をします(33・3)。こういう謙遜な行動を取れるということは、家族を持ち、僕たちを持つ家長としての成熟からでしょう。頭を下げることができる人しか成熟への道を歩むことはできません。偉そうに振舞い、自慢話をしたり、批判や非難をしている高齢者はみっともないものです。

 ヤコブの試練は、歳を取るほどに惨いものになります。息子シメオンとレビが、シェケムの町の男子を欺いて皆殺しにしてしまうのです。ヤコブは、「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」創世記35・2.3)と言って前進します。

 しかし、12人の子どもの中で最も愛するヨセフが、兄達に妬まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいますが、それをヤコブは死んだと知らされます。「ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。」(37・34)。息子達は父の深い嘆きを見て、自分達の罪深さを思い知ったことでしょう。ヤコブの悲しみ、苦しみは続き、息子達は、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」(42・21)と、自分達の犯した罪におののく人生を送ることになります。

 交読した聖句のユダの言葉は、父なる神の深い愛と悲しみを知っているからこそ、罪人の身代わりとなったイエス様のようです。人は、己の罪深さを知らなければ、人の罪を赦し、その罪が自分に振り掛かっても、敢えてそれを受け留めるようにはなりません。先週、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」(マタイ16・24)の言葉をお話しました。自らの罪深さを知るためには、多くの人との交流に入って行き、そして騙され、裏切られ、嘲られ、なおのこと、苦しみ悲しみが心に残って、しかし、愛する者のために、それでも前進することが必要なのです。

 自分の悲しみ苦しみが理解されなくても、敢えて、十字架を負い続け、主に従っていくことが、キリスト者の成熟であり、弟子となることなのです。思い通りの人生を求める愚かさを捨て去らなければなりません。


5月14日 主を恐れる女は褒め讃えられる。  箴言311030

箴言31:10 しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
31:11
夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。
31:12
彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。
31:13
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。
31:14
彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。
31:15
彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。
31:16
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
31:17
腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。
31:18
彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。
31:19
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。
31:20
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。
31:21
彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。
31:22
彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。
31:23
夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。
31:24
彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。
31:25
彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
31:26
彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
31:27
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
31:28
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。
31:29
「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。
31:30
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。

今日は母の日です。ご自分の母を想い、感謝の涙を流す人は多いと思います。失礼ながら、独身の女性や若い母親を見て、感動する人は少ないと思います。母親は、子どもの成長の為に、特に成人後の子どものために苦労し、また子ども自身も、成人した後に苦労を掛けた、面倒を掛けたと感じて感謝をするのでしょう。つまり、子どもの成長には母の愛が不可欠であり、母の愛が、人を優しくしていくのです。

 「憂」という漢字は、頭、心、下向きの足からなり、「心を悩ます、心配する」という成り立ちであり、「おだやかに行なわれる」の意味も持つようになったそうです。この字の横に人偏がある「優」になると、「憂える人」、「良くないことになるのではないかと心配する」という成り立ちになり、「他人を思い遣る気持ちを持った人」、つまり「優しい」を意味するようになります。

 人間は本来罪人ですから、子どもに対しても手が掛からず、うまく成長することを願います。ところが、子ども自身も罪人であり、勝手なことを考え問題を起こすので、親も手を焼きます。先週のリベカの話も、双子の個性的な男の子を産んだ母の苦労は、数十年続きました。「私は・・・、生きているのが嫌になりました。・・・私は何のために生きていることになるのでしょう。」(創世記27・46)とあるように、母の苦労を偲びます。

ヤコブの妻は2人、妾はそれぞれの奴隷で2人となり、それぞれ妻として母としての争いを繰り広げるので、男の子たち12人は十分な愛を受けず育って荒々しい性格となります。その中で正妻ラケルの子としてヤコブが老いてから生まれたヨセフは、愛情豊かな人として成長し、神の業をなします。しかし、その弟の末っ子ベニヤミンは甘やかされて、どうしようもない子になります。

親の姿と愛情が子どもの性格に形成されていくのです。親は注意しなければなりません。子どもは親の真実さを見抜いていて、誤魔化して生きたり、不誠実に生きたら、子ども達は親を通して社会を悟り、そのようなものとしての人生観を身に付けるのです。この人生観は、本を読んだり、立派な指導者に会って、その後に成長しても、終生付きまとうものとなり、子どもの幸せに関わってきます。特に、結婚観や伴侶に対する態度は、親の夫婦間のありようによって多く形成されてきます。しかし、「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(Tテモテ2・15)とは、子育てを信仰と愛と清さによってしなければ呪われていくことを暗示しています。そして、それが真理であることを私たちは、社会の中で体験しています。父もまた、同様です。

 イエス様の母マリヤは、産後にシメオンによって「剣があなたの心さえも貫くでしょう。」(ルカ2・35)と預言され、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(2・51)というような様々な出来事に遭いました。

う人は多いようです。今日の聖句をもう一度お読みください。彼女は、夫に依存しているでしょうか。子どもに依存しているでしょうか。財産や家族にいぞんしているでしょうか。彼女のすばらしさと祝福の原因は「主を恐れる女」30であったことです。

 世界3大悪妻をご存知でしょうか。ソクラテスの妻は、人前で夫を罵倒し頭から水を浴びせたりしていますが、ソクラテス自身は「水を浴びせられても「雷の後は雨はつきものだ」と我慢したり、「よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」といったような考え方を持っていたりしたそうです。また、「そんなにひどい妻ならなぜ別れないのか?」という人に対して、ソクラテスは「この人とうまくやっていけるなら、他の誰とでもうまくやっていける」といったそうです。

 トルストイが宗教的になったのは妻のせいのようです。理想を求めるようになった夫と、現実的な生活をしたい妻の夫婦喧嘩が絶えず、そしてトルストイは家出をし、駅で肺炎で亡くなったようです。他にはモーツァルトの妻がいます。

 信仰者としては、ウェスレーの妻が有名です。ある牧師は、家に帰ると息子に「今日初めて、人を殺したいと思ったよ。あのりっぱで気高い神の器の髪の毛を夫人がむしり取っているのを見た時、打ち倒したいと思った。」と告白しています。ある方は「ウェスレー夫人は、狂的に近い憤怒の性癖と嫉妬心の権化であった。」と言っています。怒りっぽく、年じゅうイライラしていて、機嫌の良い日は無かったそうで、結婚して4ヵ月目から、それが爆発しています。別居を勧める人々に対して、彼は奥さんをかばい遠し、愛したのです。

 実は、そのウェスレーの母スザンナが立派だったのです。20歳の時に牧師と結婚して15人の子どもを生み、一人一人に毎晩神の話をしたそうです。躾は厳しく、人に対して失礼な言動を赦さず、キッチンで人々にイエス様の話をして感動させ、ついには200名を越える人が集まったそうです。子ども向けの本を3冊も書き、貧しい人、病人、獄中の人などを慰め励ます仕事を常にしていたそうです。

 他人にあるべき姿を要求する人が多いのですが、神のしもべは、自らが仕える人となり、自らに厳しさを課すけれど、人には赦しと寛容、そして愛をもって接するものなのです。子どもを育てるということは、それがどうしても要求されます。それを実践するのが母親であり、そういう人には神が共にいて祝福と救いを為すのです。父親は、勝手な人が多いのですが、仕事だけ頑張って家族や隣人に愛し仕えることが無い人が、祝福の人生を生きることはないでしょう。母の日に料理ができる夫は幸いです。なんの料理も出来ない人は、恥入って家事を手伝い、料理ができるようになろうではありませんか。


5月21日 主を待ち望みます。  ローマ書81930

ローマ8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
8:26
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
8:30
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

人間は、自己中心ですから、何の苦労もなく思い通りに生きられるのを天国、極楽として期待し、地上では、それを達成するために権力を握ろうとし、金や富を積み上げようとします。しかし、イエス様は「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」(マタイ19・23)、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)とそのような願いを一蹴して、神の国に行くための法則は全く異なることを教えます。弟子たちも、自分こそ一番弟子として、偉くなるだろうと考えていたので、「それでは、誰が救われることができるのでしょうか。」(マタイ19・25)と、そんな益無きことをする人間がいるものかと、疑問に思います。

 ところが、「神の国を待ち望んでいた人」が多くおりました。シメオン(ルカ2・25)、アンナ(ルカ2・36)、アリマタヤのヨセフ(マルコ15・43)らは、この世の在り方や、人々に疑問を持ち、理想としての神の国を待ち望んでいたからこそ、幼子が神の子であることや、十字架に掛かった方が神の子であることに気が付いたのです。

 「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」(ローマ8・19)とありますが、それは人間の罪によって「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。」(創世記3・17)からです。

 エデンの園では、人間の食物は「種を持つ草と、木の実」(創世記1・29)でしたが、罪を犯したゆえに「苦しんで食を得、土地はいばらとあざみを生えさせ、野の草を食べる」(創世記3・17.18)ようになりました。私の趣味はガーデニングですが、花々の咲き誇り、木々が実を実らすことは、天国の模倣でありながらも、それは多くの労苦の結果としてでなければ、獲得できないものなのです。

 野外礼拝から帰った後、庭の夏ミカンからマーマレードを作りました。実はパサパサで痩せていて種も大きくなっておらず、皮だけは厚いので、10キロくらいは作りましたが、ペクチンが不足していてとろみがありません。調べてみると、一本の果樹に肥料を2,3キロもあげなければならないようで資料によっては五キロです。十分な世話をしなければ甘い実を得ることはできないようです。黙示録にある新天新地では、「いのちの木があって、一二種の実がなり、毎月、実ができた。」(22・2)とありますから、確かに楽です。良い収穫を得るために、地上では多くの労苦が必要なのです。店で果樹や野菜を買って食べるだけでは、農作業の困難さは理解できません。

 それでもブルーベリーは昨年の倍以上の実を付けました。孫が好きだというので、株を増やし、肥料も多くあげた成果です。一生懸命育てた実を食べる孫が今年はいないのが寂しくもあります。地上では、困難や戦いばかりですが、それがまた、神の国への渇望になります。歳をとって、園芸をやる人が多いのは、労苦に耐えることができるようになるからでしょうか。そして、収穫の喜びを期待する思いが強くなるからでしょうか。

 「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」(Uコリント5・2)とは、イエス様が再臨される時、私たちの肉体が神の国の肉体に変えられることを意味しています。肉体の衰えを感じる時、地上の罪人の様相に疲れ苦しむ時、私たちは確かに神の国に憧れるのです。

 「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3・19.20.)。

正しく、聖く生きようとする時に、私たちはこの世では、愚かな者となります。それを受け入れる者のみが、神の国への渇望を持つのです。賢く、聡く、この世を立ちまわる者は、神の国への渇望を持ちません。彼らの知恵も信仰も、この世での成功だからです。或いは、自己都合の最善の判断からくるものです。

 信仰にしても、生き方にしても、自己利益のための材料にしようとする人は、神の友にはなれないだけでなく、真の友も持つことができず、夫婦としても真に愛し合うことはできません。自信家も神の国には遠い気がします。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5・3)。

 娘のマリヤがスペインの巡礼で教会からチラシをもらいました。それを皆さんにお配りします。最後にこう書いてありました。「巡礼はあなたを観想へ、驚きへ、歓迎へ、内省へ、立ち止まることへ、沈黙へ、聴くことへ、感嘆へ、祝福へと招きます。また、自然へ、旅路の仲間へ、私たち自身へ、そして神へと。」

 巡礼のように目標を明確にすることは、歩みを確かにし、困難を耐えさせ、自らを節制させます。私自身も、この地上で願いや目標の達成に執着しないでいられるのは、神の国への道のりそのものが困難がなくてはならないことを覚悟しているからです。しかし、歩むことを放棄し、毎日をだらだらと好きなように過ごすことが、堕落への道であることは自戒しています。

 神に仕え、人に仕えて歩みを続けることを放棄してはならないのです。自らの好む道、一人だけで行く道は、滅びの道です。嫌な人であろうと、罪人であろうと、変わり者であろうと、手間のかかる人であろうと、この神の国への巡礼の道は、一人で歩むことは危険なのです。道のりは毎日、何回もみ言葉と聖霊に教えられて、主と共に歩むのです。


5月28日 配するのはやめなさい。  マタイ62534

マタイ6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

先程は、全国聖会での妻の証しを語りました。能力や気力や信仰力を誉める人がいますが、そういうものは結果を見て、人が評価するものであって、そういうものを求めて生きるとろくなことはないと思います。私たち夫婦は、やはり「神の国とその義を第一に求めた。」ということに付きます。

 結婚を決意した時も、その後も全く経済的には保証がありませんでした。でも、神から3つもしるしをいただいたので、神がどうにかしてくださるという気持ちがありました。確信というほどのものではありませんが、「神の御旨ならば、結婚するしかない。」というものでした。でも、妻は病気で、医学部も卒業できない状況でした。経済力も手持ち資金もなかったので、無謀といえば無謀で、多くの反対がありました。こういう話をすると、「愛があれば反対があっても結婚する。」などと自己都合で捉える人がいますが、そういうものではありません。

 ともかく、礼拝はどんなことがあっても守りました。どんなに体調が悪くても働き、どんなにお金がなくても什一献金は守り、さらに教会のために働き続けました。成功のためとか、幸せのためとかではなく、ただ、神の戒めを守ること、教会を守ることを第一としてきました。

 振り返ってみると、よく生きて来られたものだと呆れます。お金がないと断食をしました。経済的にはいつも切羽詰まっていたのに、教会には毎月40万円くらい献金していました。会堂を維持する献金額が足りなかったからです。5人の子どもには力も手間も尽くしましたが、ともかくも全て神頼みでした。批判する人も多くおりましたが、反論してもわからないだろうと相手になりませんでした。

 奇蹟と恵みは常にありました。また、それがなければ生きていけませんでした。そして、信仰と神への信頼を強くしていきましたが、当時は、信者にも通じないと感じていました。自分の判断で信仰を持とうとする人が多く、教会の出入りも多かったのです。「教会員は祝するもの、要求する対象ではない。」と諦めて、信仰を語り守り続けました。まともに什一献金をする信者も少なかったのです。さすがに、教会堂を借り続けて20年になり、家賃累計が8千万円くらいになった年の暮れに、我慢が出来ずに泣き崩れました。祈り疲れてネットで検索して出て来たのが今の会堂です。

思い煩い、心配する暇もないほど、働かなければ生きていけませんでした。祈らなければ、思い煩いが、心を占領しそうでした。「信じるしかない。」という人生でした。今となって、全てが益となっています。

 「神よ、私たちの歩みと、私たちの心を全てご覧ください。」と告白することができます。嘘、偽り、虚言は無かったと思います。神に仕えて来たと思います。そして、信仰はやっと実を結んできました。時間の掛かることです。

 神に人生を献げると誓った献身者としての夫婦の歩みは、自己の利益を計らない、ということに集約できます。すべてが、神の為、神に人々が繋がるため、として人生の全てを献げて生きることができるからです。

 自分の趣味、考え、好みで生きようとする人は多いものです。しかし、自分の力で生きる人のことを神は祝し、責任をもって守ってくれるというものではありません。むろん、私たち夫婦は、そういう人々に喜んで仕えます。しかし、そういう献身で祝されるのは、私たち自身であることを体験してきました。不思議な奥義です。

 牧師、伝道者として歩んでいる多くの人が、失礼ながら、その職業を保てば献身生活であると考えているのではないかと思います。心も、身体も、時間も、好き嫌いも、趣味も、全て、神に委ねて生きるのが献身生活と言うと思います。

 説教を信者への説得や講演と考えてはいけません。信仰者としての信仰告白であり、同じく神に仕えようとする人々へのお勧めです。或いは解説です。昔は、説教すると胡散臭く思われていることを感じました。今は、感謝です。同労、同心の信者が共感して、共に神に礼拝を献げているからです。

 同信の妻を持つということは感謝です。信者は、心通じて歩める人と結婚するべきです。結婚している人は、伴侶に人生を献げて、相手の喜ぶことをすることに献身したらどうでしょうか。自己主張というものは、壁を作ります。それが信仰という自己主張であろうと、献身とは言いません。正しさや正論というものは、人を責めるだけです。愛しあうことが奥義です。

 人から見返りを期待しないで、自らを献げること、これがイエス様の姿であり、愛です。信仰というものは、主張するものでも、考えるものでもなく、自分を与えるものなのです。

 幸せになろうと願うなら、幸せになろうとする願いを捨てて、神と人に身を委ねたらいかがでしょうか。

 神は、自分の力で生きて行こうと考えている人を助けることはないことに気が付きます。神に執拗に求める人には応答します。もっと簡単なことは、神と共に歩む人には、いつも共にいて助けて下さることを感じます。

 願いや祈りは、増えるばかりです。そして、自らを献げる術を探りながら、さらに献身生活を模索するものです。

 


6月4日 聖霊を受けなさい。  使徒の働き138

ヨハネ2021イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

使徒の働き1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

“いのち”というものは不思議なものです。植物にしても動物にしても、“いのち”のあるものは生きており、なくなると死にます。家内が「冷蔵庫のキュウリが腐ったから捨てた。」と言いました。でも、ヌカ漬けのキュウリは、いのちは無いのに、腐っておりません。それでも、ヌカ漬けもしばらくすると腐ります。冷凍保存や塩、干物などにして腐らせない方法もあり、現代では受精卵の凍結保存などもあります。マイナス196度にすると一切の化学変化がなくなり、解凍すれば“いのち”があるそうです。

 人間の“いのち”も不思議なもので、普通は心臓が止まって脳に栄養がいかなくなり、脳死となります。ところが、脳の心肺機能が止まっても、器械的に心臓に血液を送ると身体をしては生きているのです。日本では、脳死を死と認める法律はないようです。

聖書的には、死とは魂が肉体から離れることであり、罪の結果とされています。「私の霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉に過ぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう。」(創世記6・3)。「愚か者、お前のたましいは、今夜お前から取り去られる。」(ルカ12・20)。しかし、「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(Uテモテ1・10)とあり、救いによって永遠のいのちが与えられ、身体は不滅のものとなると示されます。

 先々週、美味しい果物や野菜を得る為には、土にいのちが必要なことを語りました。科学的には水耕栽培などが試みられていますが、科学の結果で健康が得られるかどうか、却って科学の発展によって疑問が明らかになってきています。例えば、最近は腸内環境が明らかになり、腸内には身体の全ての細胞60兆個よりも多い300兆個以上が必要であることが分かって来ました。身体の健康は、腸内細菌のいのちに依存しているのです。従って、抗生物質などの細菌を殺す薬剤が却って健康を損なっているのではないかと懸念されるようになりました。

 聖書は、「地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として緑の草を与える。」(創世記1・30)とあり、“いのちの息”こそが、生きている力であることを示しています。しかし、罪を犯し、神に逆らった人間はいのちが不足したので、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」(創世記9・3)と、動物を食べることが認められます。

 人間は、「霊、魂、身体が完全に守られますように。」(Tテサロニケ5・23)と3つに分けられます。霊的な死とは、罪が赦されていない状態であり、自分の霊と魂(心)が結びついていない状態です。心が肉体の欲求に従って生きる状態でもあります。魂という言葉は、心だけを意味する場合もあり、心と霊をまとめていう場合もあります。

 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8・13)。救いということは、御霊(聖霊)が私たちの中に入り、霊に結びつくことです。そして、御霊が私たちの霊に働き掛けるので私たちは教えられ変えられていくのです。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15・26)。

 ところが、多くの救われたはずの信者が、聖霊に導かれるよりもむしろ、自分の欲求、考え、打算に従って生きているのです。それは、聖霊に満たされていないからです。聖霊に満たされるということを、なにか力強いとか、超自然的であると誤解する方がいます。聖霊に満たされるということは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5・22.23)です。残念ながら、伝道熱心、祈りの時間が長い、などということによって証明されるものではありません。どうして、そういうことを説明するかというと、信仰に一生懸命な人で、他人に批判的な人がいるものです。それは、信仰的には若い証拠で、御霊の実というのは、成熟した愛の結果なのです。

 さて、そのような聖霊に満たされ、聖霊の実を結ぶことが、信者の祝福なのです。その為には、イエス様は「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20・22)と言われました。そして、決して、人を批判非難せず、その人の「罪を赦す」(20・23)業なのです。

 そういう赦しの力を与え、どのような人に対しても伝道をする力を与えるのが聖霊のバプテスマなのです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」


6月11日 神の国にふさわしい者とするため。  Uテサロニケ1312

Uテサロニケ1:3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
1:4
それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
1:5
このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
1:6
つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
1:8
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
1:10
その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。
1:11
そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
1:12
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです

イングリッシュガーデンを中心に庭園の本を5‐6冊読んでいますが、庭園造りはエデンの園への憧れとして人々の喜びであり、理想でした。フランスの庭園は王侯貴族の特権であり自慢であって、民衆のものにはなりませんでした。豪華であるけれど、品のないものです。イギリスでもハンプトンコートのように豪華ですばらしい城と庭を作ったらヘンリー8世に取られてしまったというものもあります。イングリッシュガーデンの良さは、コテージガーデン(個人の手作りの庭)にあり、自然風に造られ、ハーブや宿根草で地面を覆い、なるべく手間のかからないようにしながら美しく安らぎの場所になるように造られたものです。仕事に一区切りを付けた引退者が夫婦や家族で作り上げたものが各所にあり、大きなものはナショナルトラストとして寄付や奉仕で維持されるようになりました。エデン(神の国)への憧れが個人のものとして定着し、自然を守る運動になってきたわけです。

 神の国の民とこの世の国との争い、葛藤は歴史を通じて繰り広げられてきました。エジプトでの奴隷化によって独立性を失いつつある中でモーセによる出エジプトがあり、カナン占領闘争があり、北イスラエルの捕囚崩壊、南ユダのバビロン捕囚とカナンへの異邦人の移民、そしてクロス王の帰還命令、セレウコス朝シリアによる略奪と神殿崩壊、ローマの支配とイスラエルからの離散命令、そして歴史的に繰り返すユダヤ人迫害、ナチスの迫害、そしてイスラエルの建国、その後の戦争。クリスチャン個人への試練も続きました。

 途中、出エジプト、捕囚解放、ローマ帝国キリスト教国教化、イスラエル建国、宗教改革、リバイバル運動、聖霊リバイバル、聖霊刷新運動、その他、多くの復興もありましたが、勝利と敗北の繰り返しでした。日本でもホ―りネスリバイバルや一千万救霊運動がありましたが、それほどのことではありません。キリスト教のリバイバルが驚異的であった韓国も、現在は経済的国家的危機の中で人々の心は荒れているようです。

 人はみな、現世での勝利を願っているようです。信仰者と言えど、その誘惑と願いは大きなものであったのでしょう。しかし、聖書は言います。「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っている」(1・4)ことが大事なのです。私に対して、「先生は全て順調で祝されていて良いわね〜。」と言う方もいますが、私の心の葛藤、苦しみは、理解されるものではありません。少なくとも、私自身は、「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、・・・苦しみを受けている」(5節)という語り掛けが自分の心に食い込んでいます。人生は、そんなに甘いもの、都合の良いものではありません。そして、それを期待し願うから覚悟が足らず、愚痴や嘆きが湧いてくるのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16・24.25)が真理です。

なぜ、クリスチャンになるのでしょうか。それは、魂の葛藤に苦しみ、救いを求めるからですが、普通の人は、そんなことに苦しまずに楽をして一生を過ごしたいと思っているのです。「神が、あなたがたをお召しにふさわしい者に」(11節)しようと、私たちを名指しで選んだからなのです。他の人は、苦しまずに自分勝手に生きようとしているのです。それが普通なのです。しかし、恐ろしいことには、主が再び地上に来られる時、「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」(8節)とあるのです。

 多くの人が「神は愛。」として神を軽んじています。甘えています。神が愛情深き支配者、統治者であることを忘れているのです。罰を受けないだろうとして、自分の果たすべき使命を怠っているのです。神が愛であり、支配者であるならば、人間の勝手な生き方を許し放置するはずがないのです。

 私自身は試練の続きでしたが、これからも勝手なことをせず、神に仕えていくことを覚悟しています。そして、他の人の罪や身勝手さに対して恐れおののきながら執り成しの祈りをします。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(Uコリント5・10)ということを知っているからです。

 なぜ、神を知らない人が裁かれるのでしょうか。それは、神を求めないこと自体が大きな罪だからです。自分勝手に生きられるとは考えられないように、神は人間を造っているのです。「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。」(詩編53・1

 自称クリスチャンであっても、「主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」(8節)とあるのも怖い言葉です。要するに、神を信じるという者は、神に従って生きるしかないのです。神に従っているかどうかは、御霊の実としての品性が実っていることで証明できます。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ7・19)。

牧師伝道者には、なろうとしない方が良いでしょう。献身者にはかなり厳しい基準が課せられています。私は、その基準から落後した多くの人を知っており、言い訳の効かないペナルティーが科せられるからです。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Tペテロ4・17)。ところが、神がその献身者に召し出す人もいるのですから、たまったものではありません。

 「あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。」(申命記11・26)。私は悪いことをしていない、などという言い訳は聞きません。神の命令を守り、聞き従って生きるしかないのです。そんなことはできない。やっていけない。と考える人は、それで良いでしょう。自己責任の人生です。


6月18日 地上の主人に従いなさい。   エペソ6章1〜9節

エペソ6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
6:5
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8
良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9
主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

今日は父の日です。日本や中国、韓国、などアジアでは現代、父親の役割や子育てにおける意義は、殆ど唱えられていません。むしろ、父親は生活の根拠となる収入を得ることに重点が置かれてきました。ですから、母親が子育てや家事を担当し、教育は学校が果たして、父親は一生懸命働く姿を見せることが大事とされてきたのです。しかし、私どもの教会形成の理念、そして聖書の理解からは、父親の意義と意味をわきまえないでは成立しないことを再確認したいと思います。

 カトリックの司祭であり、上智大学教授、栄光学園校長、理事長として活躍したグスタフ・フォスは『日本の父へ』で父親の役割の重要性について述べています。自信を喪失した日本の父親たちに「お父さんがどんな風に人生に伴う浮き沈みにぶつかってきたのか、どのように成功や失敗をしながら、人生の楽しいこと、辛いことを受け止めたのか、そのことを子供は知りたがる。抽象的な説教がましい感想は抜きにした実話こそ、息子は、娘は、心の糧にしたいのである」と父親の真摯な人生への対応を大事にします。そして、「身を立てて出世する人間よりも、むしろ、心を立てて、真心を持って自己の人生を聡明に送りながら、他人のために尽す人間を育てていくという人間教育こそが教師に求められている」として、教育論にも言及しています。

 子ども達が平気で親に逆らい、文句を言い、時には暴力を振るいます。それに対して、親もまるで対等の関係のように文句を言い、暴力を振るいます。親が敬うべき対象にならずに、最も不満をぶつける対象になっているのです。これは、人生の最大の悲劇でしょう。自分の愛する相手に責められ不満をぶつけられ、果ては暴力を振るわれては、その人の人生の意味合いを問われるものとなってしまいます。

 これらの最大の原因は、妻が夫に従っていないことがあります。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(5・22)。夫に従わず不満ばかりを伝えているのを見て、子ども達が従うことを学ぶでしょうか。清くない霊性は直ぐに感化します。大事なことは善悪でも、効果でもなく、学校の成績ではないことは当然なことです。従うということは、古き時代の迷信だったのでしょうか。納得がいったり、優しくしてくれたら従うというのは、従うということではありません。夫に従うということは、非常に人格的なことです。感情的な人は、従うことができません。そして、夫婦関係も、人間関係も、自らも崩壊させていきます。不満を持っている霊性を、まず御言葉と祈りによって聖くしなければなりません。幸せというものは、まず第一に聖い霊性から生みだされるのです。不満やイライラは、納得がいくことを求めますが、納得がいっても収まることはありません。霊的に汚れているからであり、相手の問題ではなく自らの問題だからです。「不品行も、どんな汚れも、また貪りも、・・・神の国を相続することができません。」(エペソ5・3-5)。

「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。」(5・28.29)。

 これを読んで、夫の愛が先だと考えた人は、霊性の汚れている人です。実は、非難や批判をして、自分を正当化する人は魂が汚れている人なのです。夫も妻も、聖書に従って生き、愛する、従うということは同時並行のものであり、どちらかが崩れると崩壊していきます。そして、ともかく、聖書の命令は妻が先です。これは、妻の霊性のほうが崩壊し易いことかもしれません。

 そのようにして、子どもを育てるということは、両親の霊性と愛が必要なのです。ここで、父親の在り方について戻りましょう。その後には、奴隷に対しても主人に対しても、主である神に従って生きることが教えられています。つまり、男は、社会において従うということが当然なこととして求められているのです。放漫になって、誰に対してでも、勝手な生き方を選んだ男は、組織からも人からも助けを受けることができなくなって崩壊していきます。つまり、男性は仕事や社会生活から、従うことを身に付けなければ生きていけないのです。

 男性だけでなく、女性もまた従順を身に付けなければ生きていけず、祝福も受けないのですが、聖書の時代には女性が社会で生きるということは前提ではなかったので、夫に対する従順だけが教えられたのです。

 そして、その従順とは、「うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(6.7というものでなければなりません。

 魂の救われていない人々の中にあって、勝ち負けや、ランク付け、敵意や攻撃が繰り広げられるのですが、自分が優れたものであることを主張することをやめることが従順です。これは、神の国に繋がる人であることを証明するものであり、たとえ、魂が救われ、洗礼を受け、また聖霊のバプテスマを受けたとしても、高慢な者は神の国から追い落とされることになることを心していなければなりません。

 夫婦や親子でも、優劣や勝ち負けを争うような修羅場を繰り広げる人生に神の祝福はありません。子育てや親の在り方は、ノウハウではありません。霊性なのです。


 6月25日 父や夫の為に祈る。   創世記49285012

創世記49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。
49:29
彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。
49:30
そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。
49:31
そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。
49:32
その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」
49:33
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
50:1
ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。
50:12
こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。

ヤコブの人生は、大変な波乱の人生でした。強健な兄に命を狙われて叔父の所に逃げ、そこでも騙され続けて2人の妻を娶るようになり、その妻同士の争いで妾も2人持ち、そして12人の男の子は荒々しく事件を起こし、そして娘は凌辱されました。災害にも苦労し、一家はエジプトに避難することになるのですが、その地で天に召されます。その時のことが今日の聖句です。彼は、そのような艱難辛苦の中で決して諦めずに神に従い通し、試練に負けなかったので、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32・28)と神によって名づけられます。その名には、「神の王子」という意味もあるそうです。

 「男は敷居を跨げば7人の敵あり。」と言われますが、戦う覚悟がない男性は必ず敗者になって挫折することになります。勝つか負けるかということは運や状況にもより、個人の力にもよりますが、戦い続けるということが大事です。神は、男性に対して、「一生苦しんで食を得なければならない。」(創世記3・17)とありますから、それを覚悟することが信仰生活なのです。ところで、女性には、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(3・16)とも宣言されています。

 理解しなければならない奥義とは、罪人は「苦しんで食を得」、「夫が(或いは妻が)支配する」という構図なのです。私は、妻の出産を見て本当に恐ろしくなりました。そして、もし私たち夫婦が罪人としての姿、歩みから解放されたら、妻の出産も楽になり、私の仕事も苦しまなくて良いのではないかと信じたのです。その奥義を教えたので、長男の名前は「主の人」と名付け、夫婦で愛し合うことを意識的に努力して安産で生まれた娘を「主の愛」と名付けたのです。

 熱心なクリスチャン夫婦でも、仲が悪く、いつもいがみ合っている場合がよくあります。神を信じるということは、神の命令に従うことによって証明されうのですが、個人的に神を信じ信仰生活に熱心であることによって自分の信仰を確認しているのでしょうか。結婚という木の実が苦いのに、信仰者としての質の良さを主張することはできません。

 伝道も難しいですが、自分以外の人に関わるということは難しく、夫婦でも相手に関わり、どうにかして仲良くなるということは大変難しいのです。しかし、それを抜きにして、自分は忠実な信仰者だと証明することはできないのです。信仰の歩みとは夫婦が愛し合い、親子が愛し合うということによって良い実として証明されるのです。偶然や運ではありません。

 私の妻は、結婚時に大変な鬱で、料理も家事も全くできない人でした。私の人生の成果は、妻に掛かっているのですから、神学校よりも妻を大事にしたので、神学校は完全に落第生となりました。そして家事や育児を優先し、妻とカウンセリングを毎日続けて、その原因が機能性低血糖症であることを見つけ出したのです。妻が料理が下手なので、教えるために私が料理を勉強したのです。不味い食事では、人生の潤いも、夫婦仲も悪くなりますが、結局のところ、不味ければどちらかが補えばそれで良いのです。今は、妻がこれほどの名医であり、天才であることに驚いています。料理もうまくなり、手際も良くなりました。

伴侶と仲良くできない理由を上げる人がいますが、そんな罪深い正当化は、神の前に一蹴されます。人生、どんな人とも相容れないものはあるものですが、自らの罪がそれを前面におかせて自分を堕落させているのです。自分の伴侶を愛せず、その為の努力をしていない人は、その信仰者人生は、全く偽善と見なされることを覚悟しなければなりません。自分の親や子供に対しても同様です。批判否定する理由は、棚に上げて祝福を祈り、助けてあげれば、神が祝福してくださいます。信仰者の人生というものは、もうそれで十分です。

ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4・8-12

 独身の人が伴侶を求める時、他の人の為に自分を費やしている人を探したら良いです。自己主張の強さ、配慮の無さは、人生に失敗してさんざ悔い改めないと変わることがありません。人を愛すると、相手の為に自分を犠牲にすることを厭わなくなります。私は、妻となる女性が、私のために犠牲を払ってくれることに感動し、この人に自分の人生を献げることに決意したのです。最近の恋愛は、殆ど条件の確認と様子見で終始し、うまくいくはずがないかなと感じます。自分の人生を献げる決意をしたら、すべてうまくいきます。相手に求めるものではありません。

 結婚している夫婦には、伴侶への要求は全て捨て去ることを提案します。そして、自分の幸せを伴侶に掛けるべく、尽くしたらどうでしょうか。「そんなバカなことできません。」と思う人には、相手もそう思うでしょう。悲劇ですね。

 親子もまた、同じです。父たちは、存在としては妻子に自分の人生を注いでいるのですが、どうしてもそれらしくは生きていません。だから信用されません。妻たち、子ども達、そんな夫、父親に対して、祈り優しくして、愛情を素直に出せるように助けてあげたらどうでしょうか。幸せになるということが、人生最大の戦いのなのです。祝福を祈ります。