10月4日 需要に応じて製産される無認可の神 出エジプト記3214節 櫻井圀郎師

聖書直訳
モーセが山からなかなか下りてこないのを見て、人々はアロンの周りに集まり、言った、
「立って、為してください!
我々の為に、我々の前を行く(我々を導く)エロヒーム(神?/神々?)を。
エジプトの地から我らを連れてきたモーセに何があったのか知れない(何かがあったと思う)から。」。
アロンは言った、
「汝らの妻や息子や娘の耳にある金の耳輪を取り外し、私に(私の所に)持って来なさい。」。
人々の全ては、彼ら(人々/人々の妻・息子・娘)の耳にある金の耳輪を取り外し、
アロンに(アロンの所に)持って来た。
彼(アロン)は彼ら(人々)の手から取り、
それ(金の山?/土の山?)を鑿で型作り、それ(金の山?)を鋳物の仔牛にした。
彼ら(人々)は言った、
「これらは、汝らのエロヒーム(神?/神々?)である。
イスラエルよ、汝らをエジプトの地から連れて来た(エロヒームである)。」。
1 「神を作ってください」
2 「我々を先導する神を」
3 「これが汝らの神なり」


10月11日 主は人の正しさと真実に報いる。  Tサムエル267112125

Tサムエル26:7 ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。

26:8 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」

26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」

26:10 ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。

26:11 私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」

26:21 サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」

26:22 ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。

26:23 主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。

26:24 きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」

26:25 サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。

 

銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主箴言17: 3

人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。箴18: 12

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか箴 24: 12

顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。箴 27: 19

そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。使徒1・24

 長い人生を歩んできました。人の心の奥にある罪や欲望そして傲慢さが、その人の人生を少しずつ損なってきているのを見てきました。先日、家や丸太ベンチの塗装をしながら、ペンキの下の錆や腐りが少しずつ本体を損なうのを見ながら、涙が出て来ました。どんなに努力をし、立派に歩んできても、その人生の終わりに偽りを見出すと、その人生は崩壊をします。ダムや崖の決壊が、ほんの少しの水漏れから起こることも思い出します。

 若い時は、罪の恐ろしさも知らずに傲慢に歩み、償いきれぬ過ちを犯す人もおります。人を殺しながら、嘘を付き続ける人の新聞記事を、普段平気で嘘を付く人が非難していると、その傲慢さに恐れおののきます。私も知っている罪を神が見逃すとも思われません。

 若い時の罪や過ちを正当化し続けなければ、自分の人生の意義を見いだせないと思い込んでいる老人たちが、次第に頑なになっていくのを見守ります。罪とその報いは、全ての人の前に現実なのです。正直であるということは、どんなにも難しいことでしょうか。悔い改め、正直に謝れば、神も人も赦してくださるのに、それができない、それが人間の罪というものです。明け渡すということができないのです。

 この教会は、個別宗教法人格を取得しません。柏崎家関係の者が継ぐこともありません。そして、クリニックも妻の代で終わります。それを直ぐに受け入れましたが、心は苦しみと悲しみで一杯でした。しかし、今はそれが信仰であり、誠実であることを理解しています。ある教会では、自分の息子に継がせようとして、教会自体が崩壊してきました。財産を受け継がせようとすることが、自分の功績と軌跡を確認する大きな欲望なのでしょう。そして、破滅していくのです。老いてからの歩みが、その人の真実を現わします。

ダビデは、誠実な人間であったからこそ、悪辣なナバルが赦せなかったのでしょう。怒りをもって殺害しようと部下を連れて行く途中に、賢いナバルの妻アビガイルによってなだめられました。アビガイルは「無駄に血を流したり、復讐されたことが、あなたのつまずきとなり、心の妨げとなりませんように」(25・31)と諭されます。まさに、罪は、将来の妨げになるのです。

ダビデの怒りを知って気を失ったナバルは、主の裁きによって死にました(25・38)。神は、人の行いに応じて罰をなし、報いを為してくださるのです。箴言24・12。ダビデは、以前お話をしたように、ゴロツキのような人々と仲良くし、その話を聞き、そしてアビガイルとも話をして、その助言を受け入れたのです。助言を受け入れて、自分の立場と考えを判断しなおすというのは、賢明なことです。

 ダビデは、自らが誠実に歩もうと考えていたからこそ、自分を付け狙っていようとも王であるサウルを殺害することは正しいことではないと、自制したのです。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」という悠長な見込みをして主に委ねるというのは、彼が主を信じ切っていて、誠実さをもっているからです。それでも、サウル王に対する言葉は、遠く離れた山から語ると言う用心深さを身につけています。そして、帰って来なさい、というサウルの言葉に安んじて騙されたりはしていません。

 私たちは、試練の時に、自分の我を通すか、神に委ねるか、という選択肢で、真実な姿が現わされてしまいます。ダビデは、自分を殺そうと狙い続けるサウル王を殺害するよりも、神の憐れみを信じて、流浪の逃亡生活を選びました。多くの人が、自分の生活が成り立つことを優先して、罪と妥協しようとしています。神は、それを責めることはありませんが、「その人の正しさと真実に報いてくださ」ることはないでしょう。


10月18日 主が答えてくださらない。  Tサムエル28515

Tサムエル28:5 サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。

28:6 それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、

28:7 サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」

28:8 サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」

28:9 すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」

28:10 サウルは主にかけて彼女に誓って言った。「主は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」

28:11 すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」

28:12 この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」

28:13 王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」

28:14 サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。

28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」

 

普通、人は神が自分の祈りに答えて下さらなくても、何とも思わないほど、霊性が落ちています。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4・8)とあるけれども、神とは遠ざかり、「触らぬ神に崇りなし。」のように避けてしまうことは、ありがちです。それは、「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4・4)という状態だからです。

 そのように次第に堕落し、この世の人になってくると、突然試練が襲ってきます。災害や試練というのは、定期的に起こるものなのですが、堕落をしていると、それに対抗する気力も体力も備わっていないものです。むろん、被災した人が特別に堕落していたなどということはありません。イエス様は、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだ18人が特別に罪深いということではないと言い、「あなたがも悔い改めないのなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13・5)と注意をしています。

 ペリシテ人は、ガリラヤ湖南西のイスラエル領内深くに大軍が陣を敷きました。サウル王は、それを見て恐れ、主に伺ったのですが、主は答えてくださいません。彼は、祭司をも殺しているからです。孤立や孤独というのは、罪を犯しても自分の非を認めず、謝らない人に起こることです。夫婦でも、家族でも、罪は人を孤独にし、そして、孤独な人は試練に耐えられません。サウルの「心はわなないた。」のです。神の前には、とても出られません。サウルはなんと、禁じられている霊媒に、自分への助言を求めてしまいます。

 呼び出されたサムエルは「地から上って来られる」(28・13)とあり、イエス様がパラダイスを作られる前(ヨハネ14・3)には、「アブラハムのふところ」と言われるところとハデスが境をへてあったころが、イエス様の例話(ルカ16・19-31)にあります。そこでは、金持ちが毎日贅沢に遊び暮らしていて、聖書の教えに耳を傾けなかったのでハデスに行ったとイエス様が説明されています。金持ちにとっても、死んだらハデスだったということは、驚きであり、苦しいことです。聖書は、聖書の教えに聞き従い神に近づこうとすることをしない人は、次第に世の友となって堕落していくという事実を諭しているのです。そして、その人は、試練にも対抗できないで怯えているだけになってしまうのです。

 「占い、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者」「主が忌み嫌われる」(申命記18・10.11)。また、「わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、・・・する預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」(申命記18・20)、ともあり、安易に主が自分に答えて下さったと、他の人に言いふらすのは、間違いでもあります。自分の判断を神懸かりなものにするのは、主が忌み嫌われるものであることをよく覚えておいてください。聖書信仰というのは、自己を義としてはならないものなのです。

霊媒を通して現われたサムエルは、サウルの判断を助けるどころか、サウルとその息子達が明日に死ぬことを告げることになります。王の権威を勝手気儘に行使し、祭司までも殺害したサウルは、自分の人生の末路、神の裁きを現実にします。しかし、罪極まったサウルには、もはや悔い改める心も、潔さも残っていません。「すると、サウルは突然、倒れて地上に棒のようになった。サムエルのことばを非常に恐れたからである。」(Tサム28・20)。

 人は、その言動を正当化します。しかし、人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12・36.37)。

 自分の言動に責任を持たなければなりません。過去に自らが話したことと首尾一貫していなければなりません。もし、そうでなければ、それを認め、悔い改めなければなりません。私は、自分の言動は、よく覚えています。そして、とても、他人を避難したり、責めたりできるものではないことを覚悟します。人の罪を赦し、人を助け、とりなしをして生きるならば幸いです。

 簡単に神の名を用い、御旨を宣言した人は、もし、それが本当でなければ裁きに合います。「祈ったら示された。」などと安易に言うものではありません。大事なことは、聖書の言葉に従って生きることであって、自分の都合で御心を確認してはいけません。父なる神の思いを知ることは難しく、はかり難く、御前に出たときにしか分かりおおせないものであると思います。

 神に聞き、神に求め、自らを戒めながら御旨の中を歩みたいと願います。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩編19篇12-14)


10月25日 ダビデは主によって奮い立った。  Tサムエル30119

30:1 ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

30:2 そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。

30:3 ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。

30:4 ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

30:5 ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

30:6 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

30:7 ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

30:8 ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

30:9 そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。

30:10 ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡ることのできなかった二百人の者は、そこにとどまった。

30:16 彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から、非常に多くの分捕り物を奪ったからである。

30:17 そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりものがれおおせなかった。

30:18 こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。

30:19 彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。

 

テニスの錦織選手のコーチで世界2位であったマイケル・チャン氏が、「信仰と勝負は似ている。勝つと信じなければ絶対に勝てない。人生の様々な出来事も、偶然ではなく神がいると信じた時、人生を理解できます。」と言ったそうです。

私の印象では、現代日本では、戦うこと争うことを悪と考えている人が多いように思われます。人と争わず、仲良くしようと願うのは良いのですが、それが逆に意見を言ったり、人とは違うことをする人を排除するようにもなっています。それでは結局のところ、権力者や悪の思うつぼになって、損害を受け、思うように利用されるようになってしまうのです。

ツィケラグに帰ったダビデの一行が目にしたのは、アマレク人が町を略奪して女子供を連れ去った後でした。私は、ダビデの下に集まって来た人々をごろつきと呼びましたが、彼らは「声をあげて泣き、泣く力もなくなった」4)後で、「ダビデを石で打ち殺そうと言いだした」ような人々だからです。

 多くの人が、こういう状況で説得や言い訳やご機嫌を取ったり、或いは逃げ出したりし、或いは悲嘆にくれて何もできずにいます。これは、そのような人々に勇気と信仰がないからです。ごろつきの人々は、そのような人々だったからこそ、悲しみや苦しみの後に、絶望して、破壊の道を選ぶのです。

日本の議員たちは、非難はうまいけれども、国をどのように導いていくかという方向性や信念がないようです。そういう面では阿部首相に勝てるはずがないでしょう。批判ばかりを言う人間を信用してはいけません。指導者の非難をする人も、品性のない人です。ともかく、ケチをつけることが好きな人は、ろくな人ではありません。批判をするならば、その理由をはっきりと指摘し、そして、自らは建設的なことを実際に行うことが必要です。サッチャー元首相も信念の人でしたし、ドイツのメルケル首相の脱原発と難民受入れの決断は、凄いものです。彼女は、キリスト教民主同盟に属し、東ドイツ出身で、父親は福音主義教会の牧師でした

 「ダビデは非常に悩んだ。」(6)。そして、「主に伺った」(8)のです。ダビデには、主は直ぐに答えてくださいます。先週のサウル王とは違います。そして、ダビデは直ぐに600人を率いて討伐にでます。注目すべきは、ダビデは自分を殺そうと考えた部下たちに腹を立てていないのです。大事なことは、略奪した敵を追うことであるということを知っており、「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」と主に伺いを立てていることなのです。

 200名の者は、ベソル川を渡ることができませんでした。疲れているのは、誰も同じですが、気力がなかったのです。妻子が連れ去られたのに、奪い返す気力がなかったのです。残念ながら、信仰と気力と忍耐力のない人間は、頼りにはなりません。おそらくダビデを殺そうとした人々でしょう。強い人間は、腹を立てて味方を殺そうと考えたりはしないものです。

ダビデは、必死で追いすがる中でも、行き倒れのエジプト人を助けます。そして、彼がアマレクの略奪隊に見捨てられた奴隷であることを知り、案内を頼むのです。どんな苦しい状況でも、人を助ける人を神は喜ばれます。損得や効率で考える人は、神に愛されることはないのです。自分は、力がない、金がない、時間がない、などと理屈を述べて人を愛すること、助けることをしない人は、神の助けを得ることは決してありません。信仰とか祈りというものは、その人の人格に基づくものであり、真摯な信仰によって人格が形成されるのです。

 ダビデと400人は、夕暮れから翌日の夕暮れまで夜通し戦い続けて、敵を打ち、妻子や略奪された物を奪い返しました。疲れたとか、日が暮れたとか、言っていたら敵を打ち破ることはできないのです。

 次男が非行している時、毎晩2時頃まで夜回りをしないと他の父兄に非難されました。留学やら賠償やら、年に数百万円が費やされ、自分の身体は疲れ切って、それでも断食し、祈り、息子を取り戻そうと5年間働き続けました。死ぬことを覚悟して、後任の牧師でも雇えるように安い家賃の部屋に移りました。教会の試練は、同時に続いており、20年間は必死だったと思います。同時に問題が多発しました。しかし、負けるわけにも泣きごとを言うわけにもいきません。わたしは、神に仕えるキリスト教の牧師です。勝利をしなければならないと戦い続けました。今は、非難した人々も感心してくれています。

 思い返せば、いつも主キリストは私の傍に居られ、守り助けてくださいました。そして、私は強くなりました。家族を助けるために、泣き言や言い訳はいけません。奪い返し、勝利するまで戦うしかないのです。

 神に委ねよう、と言って、何もしない信仰者がいます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(ルカ10・27)とあるように、どうにかしようと尽くす先に愛があり、信仰があるのです。心と知性を尽くした先に、判断基準が形成されてくるのです。力を尽くした先に、自らの弱さと神の大能の理解があるのです。心を尽くした愛の先に、愛しても変わらない人への寛容と慈しみが形成されるのです。

 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、サタンや悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)。これに気が付かず、戦うことを恐れる人は、「邪悪な日に際して対抗」(13)できなくなります。「腰には真理の帯、胸には正義の胸当て、足には平和の福音の備えを履き、信仰の大盾を取り、救いの兜をかぶり、御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6・14-17)。


11月1日 友はどんな時でも愛するものだ。  Tサムエル201223

Tサムエル20:12 ヨナタンはイスラエルの神、主に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。

20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

20:14 もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、

20:15 あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」

20:16 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」

20:17 ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。

20:18 ヨナタンはダビデに言った。「あすは新月祭です。あなたの席があくので、あなたのいないのが気づかれるでしょう。

20:19 あさってになれば、きびしく問いただすでしょうから、あなたは、あの事件の日に隠れたあの場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。

20:20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。

20:21 いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い。』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い。』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。

20:22 しかし、私が少年に、『それ、矢はおまえの向こう側だ。』と言ったら、あなたは行きなさい。主があなたを去らせるのです。

20:23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です。」

 

ダビデとヨナタンは、どうしてこのように深い友情を持ったのでしょうか。

 私自身のことを語れば、小学中学の友人とは、高校で別れたようです。進学校である前橋高校に行ったので、あれほど親しく遊んでいた友人とは、生活のパターンが変わって来ました。高校の友人とも、会う機会がなくなり、疎遠になりました。大学に入って、自分の考え方が通常の友情では満たされないものがあることを意識しました。リーダーとして、信頼や尊敬は得ましたが、志を同じくする人がいない寂しさを感じました。そんな時に、キリストを知ったのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15・13.14)

 イエス様が私のために十字架に掛かってくださり、私の友となってくださったことを深く感じました。裏切られることのない友を得たのです。試練は続き、信仰生活は楽ではないことを悟りましたが、私はこの友を裏切ったことはないつもりです。

 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4・4)

 クリスチャンになったのに、生活の患いに囚われ、この世の処世術を繰り返している人を見ます。これでは、イエス様の方から友達になるのは御免だ、と言われそうな感じがします。友を裏切るということは、友情よりも処世術を優先するということですから。彼らは、友であるキリストの悲しみを見ていないのです。キリストを友としていないのではないでしょうか。

 私は、イエス様を軽んじて、信仰をなおざりにする人とは、親しくなりたくはありません。いや、なれないでしょう。会話も交流も続かないのです。無理して、この世の人と親しくしようとすれば、キリストをなおざりにすることになります。

 実は、私は父なる神に対して、それほど真摯かつ敬虔な信仰生活はしておりません。祈り深くもなく、聖書の探究心もなおざりです。ただ、誠実に生きており、イエス・キリストの臨在はいつも感じています。「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16・23)を信じています。ですから、必死ではないのです。

 信仰生活とは人格的なものです。だからこそ、キリストとの交流が必要なのです。父なる神に、熱心に求め、信仰生活を熱心なものにしても、自己犠牲を尽くしても、そこに神を愛する愛がないなら虚しいものなのです。

ダビデとヨナタンは、お互いに深い信仰をもっていたのです。だからこそ、深い友情を持てたのです。友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17・17)

 信仰の友は、信仰について真実に語り合います。この世の会話など、つまらないものです。この世の政治について、経済について、社会について、スポーツ芸能について、もし聖書の観点から話をしないなら、真実に生きる人にとって、愚かな時間つぶしであり、そのような人とは話もしたくないでしょう。

 ダビデにヨナタンがいたら、後の堕落はなかったでしょう。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」(箴言27・17)

 相手が愚かだからといって、愚かな会話と対話をしてはいけません。そんなことをしていたら、真実を求める友に見出されることはないでしょう。ダビデが自分の命を付け狙うサウル王に対しても真実に対応できたのは、その子ヨナタンがいたからです。友を悲しめることは何としてもできなかったのです。

 私にとっては、妻もまた良き友であり、同労者です。よく付いてきてくれ、話し合ってくれます。この妻のために私も多くの犠牲を払い、決して悲しい思いや寂しい思いをさせないように心を配ります。友を自分のために利用しようとか、要求する人は、友を持つことはできません。夫婦仲が良い人は、自分の要求よりも、相手の要求を優先します。そういうことを当たり前に出来ない人は、親友を持つこともできません。

 サウル王だけでなく、ヨナタンまでペリシテ人に殺されました(Tサムエル31・6)。「ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り」(Uサム1・17)と悲しんでいます。

「『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2・23)


11月8日 悪にも問題にも対抗する力を付ける。  Uサムエル33039

新改訳 Uサムエル3:30 ヨアブとその兄弟アビシャイがアブネルを殺したのは、アブネルが彼らの兄弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった。

3:31 ダビデはヨアブと彼とともにいたすべての民に言った。「あなたがたの着物を裂き、荒布をまとい、アブネルの前でいたみ悲しみなさい。」そしてダビデ王は、ひつぎのあとに従った。

3:32 彼らはアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。

3:33 王はアブネルのために悲しみ歌って言った。「愚か者の死のように、アブネルは死ななければならなかったのか。

3:34 あなたの手は縛られず、あなたの足は足かせにつながれもせずに。不正な者の前に倒れる者のように、あなたは倒れた。」民はみな、また彼のために泣いた。

3:35 民はみな、まだ日のあるうちにダビデに食事をとらせようとしてやって来たが、ダビデは誓って言った。「もし私が、日の沈む前にパンでも、ほかの何物でも味わったなら、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」

3:36 民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。

3:37 それで民はみな、すなわち、全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。

3:38 王は家来たちに言った。「きょう、イスラエルでひとりの偉大な将軍が倒れたのを知らないのか。

3:39 この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行なう者には、その悪にしたがって報いてくださるように。」

 

正しい者の報酬はいのち。悪者の収穫は罪。」(箴言10・16)

「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」(箴言11・5)

「もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。」(箴言11・31)

主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」(箴言15・29)

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者の灯火は消えるから。」24・19.20.

 ガーデニングが好きですが、その土地の地形や気候、状況を調べてから庭を整理しないと、植物が根付かないだけでなく、思わぬ災害に見舞われることがあります。特に、問題個所を確認することが大事です。地質に合わない物を植えても根付きません。ながらハウスでは、急な斜面が問題でもあり、長所でもありました。全体の構図を考えながら、ある程度の整地と植生に10年間は最低掛かると思われます。

 人生の諸問題も同じようなものです。急いで解決しようとすると手痛い反撃や困難が起こります。特に、悪人や無分別な人を諌めようとしても無駄でした。そういう人々は、反省したり、過ちを認めたりしないので、注意をしようものなら、猛反撃を食らいます。攻撃や罠を掛けられたり、批判をされても、相手をしてはいけません。しかし、放っておけば、自らの罪と傲慢さで滅んでいきます。実は、そういうことが、神に委ねる、ということであることを学びました。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12・19)

加工肉を毎日食べた場合、50g毎にガンになる確率が18%上昇するという報告がWHOから出されました。亜硝酸ナトリウムは、殆どのソーセージやハムに含まれていますが、発がん性が高いのです。アスパルテームなどの合成甘味料も多くの食品に含まれています。マーガリンやショートニングはアメリカでは使用禁止ですが、日本では多くのパンやケーキに含まれています。トランス脂肪酸は、心臓疾患を起こします。調味料も多くの添加物が含まれています。料理を素材から作ることが少なくなっています。手間を掛け、時間を掛けて料理を作ることが、家族にとって、子育てにとって、どんなに大事なものかをわきまえなければなりません。

人生というものも、手間を掛け、一つ一つの問題を丁寧に料理して、食べられるようにして行くことが大事です。面倒だからと逃げてはいけません。殆どの問題は、覚悟を決めて、どんなに困難でも対応していけば、解決するものなのです。そして、自らが対応できる問題であるかどうかを見極めることが大事です。そして、他人を変えることや、組織や国に解決を求めることなど諦める知恵を持つことが大事です。聖書は、その原則を教えているのです。神を自分の部下のように考えて、注文を付けてはいけません。

 王に成り立てのダビデは、悪逆で権力欲の強いヨアブとアビシャイを裁く力が、未だ自分にはないことを知っていました。しかし、自分は、そのような悪に同意していないことを、はっきりと宣言したのです。悪に迎合する人が悪に呑まれるのです。同様に、食生活や健康に無頓着な人がガンになっていく場合が多くあるのです。むろん、健康に注意していてもガンになることはあります。しかし、無頓着というのは、信仰や神の御心、そしてクリスチャンとしての生き様にも無頓着になる恐れがあるのです。つまり、悪に迎合しないと意識し、宣言しなければ、悪人になっていってしまうのです。

 15mもあるクヌギの木が、日光を遮って桜や他の木々の成長を阻んでいることに気が付き、私は悪と戦うかのように、その木を切り倒しました。しかし、きりがなく生えてくる雑草に対する力は、未だありません。強力な地下茎を持つ笹を刈ったら、斜面が崩れてしまうでしょう。戦う根気と体力が必要で、これには10年以上掛かるでしょう。私には、笹が自分の人生の祝福と勝利を阻んでいる多くの問題のように思われるのです。放っておいてみたら、畑の一つが完全に笹だらけになってしまいました。私は、「今に見ていろよ、完全にやっつけてやるから。」という気概をもって、その場所を回ります。

 ダビデは、形勢を読んでサウルの子イシュ・ボシェテを暗殺した者を赦さず、親友ヨナタンの子で足の不自由なメフィボシェテを宮廷に引き取り、手厚く待遇し、サウルの所有になっていたものを彼に返しました。

 ダビデの神への忠実さと熱心は大変なもので、神の箱をエルサレムに運び入れる時には、喜び踊ったものでした。それを見た、サウルの娘でダビデの正妻ミカルはダビデを馬鹿にします。しかし、ダビデは、「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。わたしはこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」(Uサム6・21.22)という、誠実な心情を述べています。

 地位を得たり、豊かになったり、老いたりして、真実な信仰を失う人を多く見ています。決して、自らの霊性に油断してはいけないのです。「塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5・13)。

 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)。決して悪に負けてはいけないのです。そして、自らのうちにある怠惰や惰性の罠に陥らないように、自らを戒めて、神の国への道を歩まなければなりません。堕落する人が多いからこそ、感じるものです。


11月15日 ダビデとミルカ夫婦の愛の破綻。  Tサムエル191017

新改訳 Tサムエル19:10 サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。

19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」

19:12 こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。

19:13 ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおった。

19:14 サウルがダビデを捕えようと使者たちを遣わしたとき、ミカルは、「あの人は病気です。」と言った。

19:15 サウルはダビデを見ようとして、「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」と言って使者たちを遣わした。

19:16 使者たちがはいって見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが枕のところにあった。

19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私を欺き、私の敵を逃がし、のがれさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人は、『私を逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せよう。』と私に言ったのです。」

 

「ミカルはダビデを愛していた。」(Tサム18・20)ことを知った父サウル王は、ダビデを罠を掛けて殺そうとしてペリシテ人100人の殺害を、ミカルとの結婚の条件にしました。その条件を果たしてしまったダビデに対して、「サウルは娘ミカルを妻としてダビデを与えた。」(18・27)のですが、直ぐ後に、「サウルはダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部につげた。しかし、サウルの子ヨナタンは、ダビデを非常に愛していた。」(19・1)。長男と次女がダビデを深く愛しているのに、その殺害命令を出す、ひねくれた父親のサウルが、子供たちの人生を破綻させていきます。

 ヨナタンのとりなしで父サウルは、ダビデを迎え入れるのですが、ダビデが再びペリシテ人に対して大勝利を上げるとサウルは不安になり、読み上げたように、ダビデを槍で突き刺そうとします。家に帰ったダビデには、サウルの部下が監視して殺そうとしています。そこで、ダビデを愛する妻ミカルは、ダビデを窓から逃がします。この時のダビデとミカルは、深い愛情を持った夫婦だったでしょう。

先々週にダビデとヨナタンの深い愛情について話し、もしヨナタンが生きていたら、ダビデのその後の堕落はなかっただろうと解説しました。同様に、サウルが娘ミカルとダビデとの仲を認めて支えていたら、ダビデが多くの妻や妾を持つこともなかったろうと思われます。権力欲ばかりの父親は、家族の幸せを損ないます。親にとって子どもが自分の仕事や組織を継ぐのは喜びだとは思いますが、それを強要したり、その為に不正をしたりするのは論外です。

結婚については、「神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マルコ10・9)とありますが、引き離すのは結婚した当事者の妻と夫でもあります。その契機になるのが、サウルのように父親である場合もありますが、結局のところ、本人たちがそれぞれの状況の中で、「神が結び合わせた」ことよりも、自分達の感情や状況を優先するのです。罪と言う者は、悪い事をするということよりも、神を信じないで自分中心に物事を対処することを言います。

ダビデは、ジフの荒野に部下たちと住んでいた時に、その近くにあるイズレエル出身のアヒノアムを妻にしており、その子がダビデの長男アムノンです。アムノンは異母妹を辱しめて異母弟の3男アブシャロムに殺されています。Uサム13章にありますが、アムノンは、ひ弱で感情的で甘やかされて育った人間のようで、簡単に殺されています。ダビデからの愛情は記されていません。流浪の中で、アムノンは父に付いていくよりも母に守られて育ったようです。アヒノアムに対するダビデの愛は読みとることができず、荒野生活の中での生活上の便宜であったように思われます。妻をこのようなものとして扱う夫は、妻からの愛情を獲得することが出来ないのは当然なことです。日本人男性の多くのパターンです。彼らは、神が妻を結び合わせたという意識を持っていないのです。

ナバルの妻であったアビガイルは、教養と知恵のある女性で財産もあり、逃亡生活のダビデの経済を支えることになりますが、その子キルアブは王位継承の争いに乗っていないので、早死にしたのだと思われます。

 ゲシュルの王タルマイの娘マアカの子が3男のアブシャロムですが、アムノンとそれほど歳が離れてなさそうなので、やはり逃亡生活の時に妻としたようです。4男はハギテの子アドニアで、上3人が死んだので、王位継承者だと自覚したようですが、後に生まれた愛妻バテ・シェバの子ソロモンに王位を奪われています。ともかく、ダビデがアヒノアムとアビガイルを妻にした頃、サウルはミカルをパルティの妻にしています。争いと流浪の中で、ダビデとミカルは引き離されていくのです。

 サウル死後、和平を求める将軍アブネルに対して、「ミカルを連れて来なければ、あなたは私に会えないだろう。」(Uサム3・13)として、妻を取り返します。ところが、この時、「その夫は泣きながら彼女についてバフリムまで来たが、アブネルが、『もう帰りなさい』と言ったので、彼は帰った。」(3・16)とあり、ミカルにベタ惚れの夫だったのでしょう。ミカルは、この夫に仕えられ、優しい夫もいるものだと知ったのでした。サウルが死んだのはダビデが30歳の時であり、全イスラエルの王となったのは、37歳の頃ですから、ダビデとミカルの別居は10年以上のものだったと思われます。激しい愛情を互いにもっていた彼らが、行き違いと別居により、お互いの強い個性と感情は、敵対するようなものとなっていきます。

 仕事その他の理由で別居するなどということが夫婦であってはいけません。それは、神が許さないのです。また、金がないから結婚は後にするとか、式は無しで済ませる、などということをクリスチャンはしてはいけません。神の前で契約することなしに幸せな結婚などあり得ないのです。他の宗教で式を上げていようと、その結婚が「天地創造の神により結びあわされた」ものであることを認め、決してどんな理由であれ、夫婦の間を裂くものを許してはいけないのです。

 主の箱を迎え入れるダビデの喜びの踊りをさげすんだミカルは、夫に愛され喜ばれないミカルの苦しみから来るものでした。愛しあうために結婚した夫婦が、もしお互いを愛することを二の次にすると、結婚は悲惨なものになっていきます。地獄とは、愛も友情もないものですが、この地上では、それでもどうにか生きていけます。しかし、そのような破局は、信仰を形骸化し、偽りのものへと導いていきます。最も近い人と愛し合う、ということは非常に難しい事ですが、そこに信仰の実体が現われるのです。神の祝福は愛し合えることに結びついていくのですが、不信仰者の世の中の夫婦を基準にしてはいけないのです。


11月22日 ダビデには主が共におられた。  T歴代誌1119

新改訳 T歴代誌11:1 全イスラエルは、ヘブロンのダビデのもとに集まって来て言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。

11:2 これまで、サウルが王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかもあなたの神、主は、あなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがわたしの民イスラエルの君主となる。』」

11:3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデは、ヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らは、サムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。

11:4 ダビデと全イスラエルがエルサレム――それはエブスのことで、そこには、この地の住民エブス人がいた。――に行ったとき、

11:5 エブスの住民はダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。」しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。

11:6 そのとき、ダビデは言った。「だれでも真先にエブス人を打つ者をかしらとし、つかさとしよう。」ツェルヤの子ヨアブが真先に上って行ったので、彼がかしらとなった。

11:7 こうしてダビデはこの要害を住まいとした。このため、これはダビデの町と呼ばれた。

11:8 彼は、ミロから周辺に至るまで、町の周囲を建て上げ、町の他の部分はヨアブが再建した。

11:9 ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。

 

ダビデの生涯の前半を振り返ってみましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Tサムエル16・7)としてサムエルに油注がれ、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(16・13)のでした。この時、ダビデは17歳であったと言われています。ヘブロンでユダの王になったのが30歳で(Uサム5・4)、今日の聖句のようにエルサレムをダビデの町として全イスラエルの王となったのが、37歳です。

 ダビデは、「琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」(Tサム16・18)とあり、自ら「父のために羊の群れを飼っています。・・・獅子でも熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」(16・34.36)と、勇気と血気そして強い信仰心を知ることができます。

 幼児でも男の子と女の子は全く違います。男の子は、強く勝手であり、親の言うことなど聞きません。強い力のある者には従いますが、弱い者を支配しようとします。強い父に怒られると従いますが、母親に従うことは恥と考え、もし母親が力づくで男の子を従わせると、涙を流して悔しがります。これが続くと、男の子の覇気が失われます。男子を支配したり、差別したりすると、母親は一生息子から大事にされなくなります。気をつけてください。

 人は成長するにつれて、自分の弱さと限界を知り、失敗や敗北に自身を失くし、希望も負けん気も薄れてゆきます。男の子を責めてはならず、女の子をけなしてはいけません。信仰とは気力であり、スピリットです。踏み絵を踏んでしまうような弱気では、社会において信仰を保つことはできません。そして、人を愛するということは、信じるということなくしては成り立たないのです。勇気と気力のない人は、愛するということはできません。

 ダビデが17歳くらいの普通の青年と違うことは、羊を守るために獅子や熊と命掛けで戦い、倒してきたことです。だからこそ、真摯な信仰を強くしたのです。山や野に羊を放牧しながら、夜には竪琴を弾き、神に真心を訴えたのでしょう。8人兄弟の末子ということは、兄たちの言動を聞いて、その分析をして育ったのでしょう。内にある真実な思いは、兄たちには通じないとして黙し、神への飢え渇きを増したに相違ありません。言葉に分別があるのは、権力と力を振り回す兄たちを認めず、言い逆らったからでしょう。普通の男性は、そこで自らの意思に反して従い、気力と情熱を失って行くのです。

 ダビデの曾祖父はボアズであり、曾祖母はルツです。ダビデの父エッサイは、敬虔な信仰と寛容な精神、真実と誠実を見抜く判断力、優しく気前の良いベツレヘムの有力者であった祖父ボアズを知っていたでしょう。そして優しく忍耐深く敬虔なルツお婆さんに育てられたことでしょう。ダビデの知恵に満ちた判断力と指導性の養成には、少年期までの十分な教育と暖かい家族が必要なのです。

 私は9人兄姉の末子ですから、親の特別な愛情を受けて育ち、怒られたり、叱られた記憶はありません。小学生時代は何千冊も本を読み、自らの感性と希望を膨らませました。学問も教養も文化もない家庭でしたが、図書館の本で十分補われ、夢多き少年として育ちました。そして、中一入学の春に、自らの経験不足、力不足に気が付いて、自己形成を志したのでした。その気持ちは今でも変わりません。振り返れば、変わらず弛まぬ努力と忍耐が、信仰の実体であったと思わされます。私は、救われる22歳のはるか前から神の御手によって育てられていたのです。

 信仰による自己形成、信仰による人生の旅立ちを決意しないならば、御霊が働く実りも人格も形成されようがありません。ダビデは、これまでお話してきたように、思いも寄らぬサウル王による大迫害と多くの試練をくぐり抜けて、信仰の実体を明らかにしてきました。「その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。」(ヤコブ2・14)、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブ2・18)。

 「リーズナブル」という言葉が、本来の「理にかなった」「納得のいく」という意味から、単に「安価である」という意味になってしまいました。安くて便利は、決してリーズナブルではありません。手間を掛けないで価値は生まれません。努力をしないで、幸せになることはありません。手間をかけていない料理は、直ぐにわかります。手間をかけず、出来合いの料理を買ってきて済ます生活を送っている人が、幸せになるとは思えません。愛情を注ぐということは、手間を掛けるという以外に解釈しようがありません。

 ダビデが王になるために、どれだけ手間が掛かったか、私たちは聖書を読んでいます。近道はありませんでした。『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンは、5歳の子を遺して死んだ姪の代わりに育てたロジャーに対して、自らもガンで死のうとしている中で、何を教えられるかを考え、自然の中に生きる喜びを教えようとしました。夜更けまで並んで夜空を眺め、雨の森の中を一緒に歩いて、生き生きと輝く動植物を教えました。雪の森に出来上がる自然のクリスマスツリーの秘密をも教え、『センス・オブ・ワンダー』を書き上げてロジャーに遺稿として送ったのです。それは、神秘さや不思議さに目を見張る心です。神の創造の働きが、今もなお、私たちの周囲に、そして私たち自身にも働いている感性を持っていただきたいと願います。神の働きはダビデに限定したものではないのです。

 「わたしの義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10・38

 



11月29日 ボアズと神はルツの真実を見ていた。  ルツ記2615

新改訳 ルツ2:6 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。

2:7 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。

2:9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」

2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」

2:11 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。

2:12 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

2:13 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」

2:14 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。

2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。

 

 今日からアドベント(待降節)です。先週、愛は相手に手間を掛けることによって証明されるということをお話しましたが、ルツの愛情深さは、ボアズや義母のナオミだけでなく、神にまで届いていたことを今日はお話します。そして、ルツはマタイ福音書にマリヤの夫ヨセフの先祖として記される栄誉を受けているのです。

 ナオミの夫エリメレクは、ベツレヘムに飢饉があったので、異邦の地モアブに逃れてしまいました。イエス様がお生まれになったのは住民登録をしていたベツレヘムであり、土地を受け継ぐべき使命をもったイスラエル人としては、法外な行動でした。彼は打算で生きたのです。2人の息子にモアブで嫁を取るということもあってはならないことです。10年のうちにエリメレクが死に、2人の息子も死んでしまいました。ルツとしては、約束の民イスラエルの一員として自らの罪深さも覚えたことでしょう。ともかく、異邦の地で暮らす術もなく、親戚を頼る為に帰国をすることにしました。

 ナオミは優しく敬虔な女性だったのでしょう。2人の嫁に実家に帰るように言うと、彼女たちは激しく泣いたほどです。イスラエルに帰れば、彼女たちは異邦の民として差別され虐げられることを伝え、もはやこの家は潰れるしかないと諭しました。しかし、兄嫁のルツは、一人暮らすことになる姑のことを思いやり付いていくことにしました。「あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1・16.17)と、信仰告白をしています。ナオミは姑として現実的なアドバイスをし、弟嫁のオルパは、暮らして行くことが困難なことを認めて、別れていきます。ナオミ自身も、苦しみの中で否定的な考え方と信仰を持ってしまったことは、21節を読めば分かります。しかし、ルツは、この苦しみを持った義母を抱えての困難な人生を決意し、主に自らの信仰を訴えるのです。まるで、献身者になることを決心した者のようです。私自身も牧師になることを決心した時は、福音宣教の為に困難な道、苦しみの道を覚悟したものでした。しかし、主は、そういう者に目を留めてくださるのです。

 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです。」(U歴代16・9

 父なる神は、同じようにイエス様の母となるマリヤに目を留め、また、ルツと結婚することになるボアズの母、異邦人の遊女ラハブにも目を留めたのです。ラハブもまた、「私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主に掛けて誓ってください。」(ヨシュア2・12)と告白しています。ボアズは、その母によって異邦人を差別せず、愛情深い配慮の人になったのです。

レビ記19・9.10に畑の隅々まで収穫してはならない。穂が落ちたら拾ってはならない、それらは貧しい者と在留異国人のために残しておかなければならない、と書いてあります。現代風に訳せば、自分の収入を自分の為だけに使わないで、貧しい人や不便な人に融通しなさいということです。そして、合理的に生きようとするのは、神を信じていない証拠であると示されます。

 ボアズは、使用人たちにそのことをしっかりと指導していたので、その畑には多くの人が集まっていたと思われます。そして、ルツも来ました。ルツは、落ち穂を自分の為に拾うということではなく、朝早くからきて休まずに働いているということは、使用人たちと一緒に働いて手伝ったと思われます。ボアズは、それを見ていたのでしょう。今後の食糧のために、わざと穂を抜き落とすように命じると、ルツは1日で23リットルも集まりました。

 年老いたナオミは、ボアズの好意を知って、ボアズの寝台に潜り込めとルツに破廉恥なことをするように教えます。ルツは、ナオミが自分を通して地所を回復できるようにと指示通りにします。ボアズは驚いて、「あなたの後からの真実は、先の真実に勝っています。」(3・10)と言い、自らの結婚相手を求めてのことではなく、義母の土地回復の願いの為であることを誉めます。

 ボアズは、土地の買い戻しの権利が自分よりも近い親戚にルツと結婚させる手続きをします。親戚は、ルツの子が土地を得ることになると聞いて、その権利を放棄し、晴れてボアズがルツと結婚します。そうするとボアズの系図に入ったオベデはルツとの間に生まれた次男のようです。その子がエッサイであり、その孫がダビデです。ボアズは、ルツの働きぶりと愛情、そして信仰による従順を持っているのを見抜き、そして感情に流されないで正当な妻としました。ルツは、状況に左右されず、困難にもめげず、親に尽くし、家を守ろうとし、手間を惜しまずに働いて、周囲の人々に認められ、そしてボアズに目を留められました。そして、ボアズとルツは、主ご自身によって目を留められ、ダビデの家系、救い主の家系に入ったのです。

 「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」(使徒10・34.35


12月6日 神は選ばれた。  T歴代誌28210

新改訳 T歴代誌28:2 ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。私は建築の用意をした。

28:3 しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』

28:4 けれども、イスラエルの神、主は、私の父の全家から私を選び、とこしえにイスラエルを治める王としてくださった。ユダの中から君たる者を選ばれたからである。私の父の家はユダの家に属している。主は私の父の子どもたちのうちで、私を愛し、全イスラエルを治める王としてくださった。

28:5 主は私に多くの子どもを授けてくださったが、私のすべての子どもの中から、私の子ソロモンを選び、イスラエルを治める主の王座に着けてくださった。

28:6 そして、私にこう仰せられた。『あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。

28:7 もし彼が今日のようにわたしの命令と定めを行なおうと堅く決心しているなら、わたしは彼の王位をとこしえまでも確立しよう。』

28:8 今、主の集会、全イスラエルの前で、私たちの神が聞いてくださるこの所で、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令をことごとく守り、求めなさい。それは、あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるためである。

28:9 わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。

28:10 今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

ルカ福音書にある系図は、マタイ福音書と全く異なっています。「イエスはヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子」(ルカ3・23)とあり、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。」(マタイ1・16)とあって、ヘリがヨセフの義父であって、マリヤの父であることがわかります。そして、「ナタンの子、ダビデの子」(ルカ3・31)とあって、同じダビデの子孫でも、マリヤは9男ナタンの子孫であり、ヨセフは10男ソロモンの子孫となります(Uサムエル5・14)。そして、驚くべきことに、ナタンはバテ・シェバの3男であり、ソロモンは4男となります(U歴代3・5)。Uサムエル12・24には、「彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名付けた。主はその子を愛された」とありますが、バテ・シェバの長男は姦淫の子であり死んでおりますが、次男、3男を飛び越してソロモンのことを記述しています。バテ・シェバがダビデの寵愛を受けていたこと、そしてソロモンが彼女の子どもの中でも特別扱いをされたことがわかります。ダビデは、「預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディベヤ(主に愛される者)となづけさせた。」(12・25)。このナタンは、3男のナタンとは別人です。

 先週、モアブ人の娘ルツが、時代を超越して全地を見渡しておられる主の目に留まって、ダビデの曾祖母となったことをお話しました。また、その夫となるボアズは、異邦人ラハブの子であったが故に、優しく配慮をもってルツと接することができ、そして祝福の系図に入ったことを学びました。

今日の聖句で、ダビデは、イスラエルの12兄弟の中から、4男のユダが祝福の系図として選ばれたことを自ら指摘し、自らも長子相続制の中で、8人兄弟の末子なのに、王として選ばれたことを説明しています。そして、私のすべての子どもの中から、私の子ソロモンを選び、イスラエルを治める主の王座に着けてくださった。」と、ソロモンに選ばれた者であることの自覚と責任を促します。それは聞く耳のある民にも語られたことです。

1.主の命令をことごとく守り、求めなさい。

2.全き心と喜ばしい心持をもって神に仕えなさい。

3.主は、聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。

[注意するべきこと]

1.主は全ての心を探り、全ての思いを読みとられる。

2.神から離れない。

3.勇気を出して実行する。

ダビデは、戦士であり、血を流してきたので、主の宮を建て上げるのにふさわしくないとされ、ソロモン(シャローム「平和」の派生語)が安息の家を建てるべき者とされたのでした。教会というのは、競争や成長思考で築き上げようとするものではなく、安息の家として建て上げ、そこに神の臨在の満ちた礼拝を献げるべきものなのです。イザヤ預言で、約束のダビデの王国を建て上げる君は、「不思議な助言者、力ある君、永遠の神、平和の君」(イザヤ9・6)とイエス様を預言しているのです。

この後、ダビデの子の王位を認めないイスラエルの10部族は滅びていきます。しかし、ダビデの子孫は、捕囚や大迫害を経ても生き残り、イエス・キリストの系図として存続していったのです。現在、残っているのはイスラエル人ではなく、ユダヤ人であって、ダビデを王とした南ユダ王国の末裔です。サマリヤには、アッシリヤが10部族を連れて行き異邦人を連れて来て、人種の分からない国となってしまいました。それでも、ヨハネ4章にあるイエス様のサマリヤの女性に対する深い愛情と配慮による救いの出来事に感銘を受けます。ツロ・フェニキアの異邦の地にも行って、悪霊に憑かれた娘のいる女性の願いを聞き入れます。「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」(使徒10・34.35

クリスチャンたる者、人を差別したり、否定したり、見下したりしてはなりません。信仰を持っているからと優位に立っていると思ってはなりません。ユダヤ人は、そのようにして異邦人を見下げていることをイエス様に非難されています。

 実は、聖書ではイエス様に避難されているパリサイ人も、離散後のユダヤ人の信仰を守ることと、ユダヤ人の結束を保つことにおいて大いに貢献しています。むろん、ユダヤ教は、イエス様の言われるとおり、神の愛と赦し、十字架の救いに関して無知ではあります。しかし、聖書は、ユダヤ人の選びを宣言しており、この国とこの民族を通して、神の歴史的顕現をなしていることは事実なのです。

キリスト信仰も、しっかりとした歴史認識、社会認識をした上で世界を統御しておられる神を意識するならば、狭い視野には入らないのです。大事なことは、状況や環境、そして情報などによって、神への信頼を損なってはならないということです。

ソロモンは、情欲によってまどわされて忠実さを失い、「神はあなたをとこしえまでも退けられる」9)人になってしまいました。人の子に過ぎないソロモンは堕落し、神の子が人の子になって、ダビデの安息の王国を打ち立てたのでした。


12月13日 基督の示す非常事態と緊急事態  ルカ福音書145 櫻井圀郎師

新改訳 ルカ 14:1-6

14:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。

14:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。

14:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。

14:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。

14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」

14:6 彼らは答えることができなかった。

 

聖書直訳

驢馬や牛が井戸に落ちたとして、汝らの誰か、それを取り上げることは、安息の日には、直ちにはしないか?

 


12月20日 の犠牲への応答  マタイ福音書2113

マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ 3:16-17)

 実は、昨年もこの東方の博士たちの話をしています。神を求めて、長旅に出る博士たちのイメージが、人生そのものを意味しているようで感慨深いのです。聖書に突然出て来て、多くの犠牲を払い、遠い道をわざわざ贈り物を携えて来る博士たちには、誰もが驚き、感動をするのです。世界に生きる人々の中で、極めて稀な人々が、人生の意味合いを求め、真理を求めて人生という旅をするのです。

神は、そのような人を求め、これまでお話したように、遊女ラハブを選び、異邦の女ルツを選び、そしてバテ・シェバを選んだのです。イエス様の系図としては異例な、社会的には排除され、おとしめられるような女性たちですが、だからこそ、彼女たちの神への飢え渇きの強さを、神が選ばれたことに気が付くのです。

 子ども達には、神を求めて歩んだ他の博士、シュバイツアー(1875-1965)のことをお話しました。牧師の子として生まれ、19世紀末の頽廃的神学教育の中で、イエスキリストの神性を強調して神学博士となり、また聖餐の意義を主張して哲学博士となる真摯な信仰を持った天才で、同時にパイプオルガンの奏者・設計者、さらにJSバッハの研究者としても名を馳せます。ところが、神の子、イエス・キリストの存在に感動して、自らの為に生きることを恥じ、アフリカへの宣教師となることを志して、30歳の時に医学部に学び、38歳で医学博士となった後、アフリカのガボンに医療宣教に旅立ちます。第一次世界大戦でドイツ国籍の為に捕虜となり送還されますが、パイプオルガンの奏者として資金を集めながら、病院建設の為の準備を進めます。その自叙伝を読むと、きれいごとを言う人が多いが、困難に耐え、着実に努力を積み重ねることこそ大事であるとして、世にへつらったり迎合したりしない強さと剛健さをもって歩んでいます。アフリカ奥地に病院を建設して医師として務め、子供たちや動物を愛して歩んだ姿は真摯なものですが、御利益、ご都合主義の人々からは、非難攻撃を受け続けたようで、だからこそ、アフリカと子どもたちを愛したのでしょう。人や社会の影響を受けない、神への力強い信仰を知ることができます。

シュバイツアーの本を読んで、「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4・4)という聖句を思い出しました。彼は、天才であるがゆえに、この世の人々の醜さ、誤魔化しを見抜き、神への真摯な信仰を貫くために文明から離脱しようとしたのです。しかし、その資金を確保し、支援を仰ぐために、演奏会をしたり、執筆したり、政財界とも付き合い、ノーベル平和賞も授与されていますが、それは彼の生活力の強さからであると思います。だからこそ誤解を受けるのです。私には、同じようなところがあります。

先週、洗礼式に際して、靴を脱がずに遠くで眺めようとした人が多かったことが心に残ります。自己評価が低くて遠慮したのかもしれません。靴下が汚かったのかも、靴が脱ぎづらかったのかもしれません。それでも日本人の特徴が出ています。遠慮や消極性は、神にも人にも喜ばれず、人生をダメにするものです。

 犠牲を払う、ということは、非常に大事なことです。東方の博士たちは、命掛けで神を求めたのです。シュバイツアーは、自分の持てる全ての才能を、神に献げ、未伝地のアフリカで、医療をすることによって福音を伝えようとしたのです。

 自分の能力や才能を考えなくても良いのです。大事なことは、自分の時間や手間、自分自身を人に注ぐ、つまり犠牲になるということです。自分の都合を考える人は、愛がないのです。「時間がない、金がない、能力がない、よくわからない。」などということは、愛がない人が考えることです。

 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Tヨハネ2・6)。

 キリストは、生まれた時から災難続きでした。でも、それは神として当然なことだったのです。私たち、クリスチャンに災難や艱難がないなら、それは偽クリスチャンだからかもしれません。


12月27日 心に知恵のある感動した者  出エジプト記3618

出エジプト36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。」

36:2 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。

36:3 彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。

36:4 そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、

36:5 モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」

36:6 それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。

36:7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

36:8 仕事に携わっている者のうち、心に知恵のある者はみな、幕屋を十枚の幕で造った。撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でケルビムを織り出した。

 

 罪許され、魂が救われた40年前の体験を忘れることはできません。自分の人生の意味と目的が分からず苦しんでいたことは過ぎ去り、この神のために生きてゆこうと誓ったことは今も変わらぬ思いです。

 更に、聖霊なる神が自らの内に居られて導き、諭し、教え、助けて下さることの実感は、月日と共に深まり、自らの罪とその思うところの傲慢さを知らされるばかりです。未だ救われる人の言動を見るに、その自他の意識の違いの大きさに、救いと恵みの大きさに感動を覚えるばかりです。

 しかし、一たび魂が救われたと告白しながら、その意識が薄れ、明確に罪を犯し、言い訳に及んでいる人々を思い見るなかで、罪を犯すことと、その中で聖霊が遠ざかっている姿を、深い憐れみと苦しみの中で悟ることができます。神の聖さの前に、誰もが自らを義とすることはできないにも関わらず、言い訳に及んでいる人々は、聖霊が去っていくのです。そして、聖霊が去ってしまうと、もはや認罪感はなくなり、平気で嘘をつき、誤魔化しをして、形式的なクリスチャンに堕してしまうのです。全て神はご存じであると悟りながら、私もまた、その人の罪に気が付き、とりなしの祈りをするのですが、もはや遅し、と罪の恐ろしさに身も震えるのです。

 それでも人は罪人であり、私への誘惑も罠も数知れず、節制と祈りこそが自らを支えると身を慎むべき思いに導かれます。人はなぜ、罪に陥るのでしょうか。ガラテヤ5章には、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊興、そういった類のものです。・・・こんなことをしている者達が神の国を相続することはありません。」とありますが、牧師の世界でもまた、保身や自己の栄達のために滅びの世界に足を踏み外す人もいるようです。

 私は、面白おかしく人を喜ばして生きる術を身につけておりません。不器用で不調法な人間です。少しは、柔らかくはなりましたが、冗談でも不遜なことや遊興のことで聖霊を悲しませるほど、世慣れようとは思いません。「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4・4)と先週引用したように、先人の歩みを見ながら、自らを戒めております。

 先日、同じ思いを持つ人と出会いました。信仰の同志と出会うことは感激です。もし、私が堕落していたら、出会っても気が付かず、感動もないと思います。神の前にへりくだり、この世と迎合せず、必死に生きている人を見出すことは、自らがそのように歩むことを願わなければ、得られないことなのです。そして、艱難辛苦の中でも、それを耐え、神にある勝利を願う人にしか、知恵は与えられないのです。誰にでも知恵があるわけではありません。信仰と希望を持ち続ける人にしか、知恵は与えられないのです。

聖書を最初に読んだ時、「わたしは、ユダの部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。」(出エジプト31・2.3)を見て、即座にこのようになりたい、と神に祈ったことを忘れられません。

 今日の聖句で、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。」とあるように、教会で奉仕をしたいと自ら願う者こそ、主が知恵を授けて下さるのです。奉仕や献金、そして聖書を読み、祈ることを嫌がる人に、神が知恵を授けることなどあり得ないのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7・7)とありますが、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33)ということを守った者に対する祝福なのです。

 世の中を優先し、仕事の都合を優先してはなりません。しかし、神を信じたからといって、努力もせずに祝福を願うような愚かな者であってもなりません。神の国の法則を優先して、なおかつ、この世の祝福を願い求めることが大事なのです。