7月5日 ステパノの説教と殉教。  使徒の働き75160

新改訳 使徒の働き7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

7:52 あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」

7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 

法律を知っており、指導者もおり、警察官がいても犯罪をするのが人間であり、人間は罪深く、自己中心的な存在ですから、争いや攻撃がないということは、ありえません。また、完全な人や欲のない人もおりません。ですから、神の存在を信じ、自分を神の前に意識するということが必要なのです。また、破れば罰せられる法律が必要なのです。指導者も必要であり、組織や集団は治める者がいなければ、それぞれが自分勝手なことをして混乱するのです。

 教会の理想を使徒の働き2章41節からの共同生活とする人は多いのですが、長期的には無理です。世と交流する中で、教会には世の人々が入り込み、共有や共同を阻むので、誠実な信仰者が犠牲となってしまうのです。だからといって、世との交流を否むと聖さを忘れ、閉鎖的で戒律的な集団になってしまうのです。歴史的には、死海写本を遺したクムラン教団や修道院などがありますが、厳しい戒律と指導者が必要であり、聖書の教えとは異なっております。

 聖書の教えは、信仰者自身の成長と結びつきます。それは、戒律や厳しい指導によってではなく、自らの罪性と限界をわきまえた上での、他人への寛容や委譲そして、神と神の言葉への従順が必要です。イエス様が弟子たちを教え育てられたように、個人的な交流と指導が必要であり、模範となる弟子が必要なのです。そして、主の弟子は教会の働きの中で形成してくるのです。

 教会は、「使徒の働き」の中でも歴史的にも、迫害と試練の中で成長してきました。イエス様の十字架の後、弟子たちが隠れ、恐れて過ごしてきたことを説明しましたが、聖霊のバプテスマ以降、彼らは恐れることよりも、伝道することを選んできたのです。そして、教会は急成長し、信徒も成熟してステパノのような執事達が育ってきたのです。しかし、このステパノの殉教後、「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者は皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」(8・1)。

 何度もお話しているように、ローマ帝国の激しい迫害の中で教会は却って成長してきました。しかし、313年にコンスタンチヌスTがミラノ勅令でキリスト教を公認し、392年にテオドシウスTがキリスト教を公認し、他宗教を禁じてからは、却って教会の堕落が始まってしまったのでした。その後のことは、ともかくとして、教会の迫害は、ステパノの死をも恐れぬ強い信仰を見た人々から始まったのです。

 強い信仰を見たら、人々は屈服して神を信じると考えるのは、誤解です。「信仰者としての証しを立て、人々が神を信じるようになりたい。」と考える人が日本人クリスチャンには多いのですが、それは自己満足であり、人間というのは屈服したり、感心して神を信じるように導かれることは殆どないのです。神学的、教理的に説得したり、教えたりすることによって、クリスチャンになる人も殆どいません。人の働き掛けによってクリスチャンになる人は、人に躓いてクリスチャンをやめることが多いのです。信仰とは、論理や行いではないからです。

ステパノの説教は聖霊と知恵に満ちた凄いものでした。概念として語る人は多いけれど、ステパノの説教は、アブラハム、ヨセフ、ヤコブ、モーセなどの信仰者の思いと判断を説明した自分のものであることが、人々に訴えるものであり、決して、暗記や知識のものではありません。真の信仰者は、このように聖書に記されている信仰者の心情と信仰を自分と共有するものでなければなりません。

 信仰は人に見せるものではなく、それを証しし伝えても理解できるものではありません。もし、理解したものとして、それで洗礼を受け、神を信じていると思いこんだら、後で、真実な信仰の凄まじさを見ると、却って躓くのです。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(Tコリント1・21)とあるように、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであり、救いを受ける私たちには、神の力です。」(同1・18)とあるように、魂の救われていない人は、必ず教会というものの非合理性に躓くのです。そして、その躓きは、教会を批判し、混乱させ、攻撃するものとなります。魂の救いは、信仰者の伝道や証しを通して教会に導かれた人が、聖霊なる神による救いを受けることによってのみ達成できるものであって、人の業ではないのです。それでも、私たちは既に救われた者として、人々に仕え続けなければなりません。

 真実の信仰者の為すことは、世の人々には愚かです。毎日聖書を読み、祈り、犠牲を払い、教会に奉仕し、献金し、そして、自分の益にならない人々を助けるからです。損得や論理ではなく、神を信じて、自己犠牲的な行動を採ります。そして、それを吹聴もせずに、隠れてしようとします。もし、神がいなかったら、天国がなかったら、それこそ、大馬鹿の行為です。そして、大馬鹿な愚かな行為と生活こそ、真実な信仰者のしるしなのです。

 パウロは、殉教を預言されたローマ行きの前にして、「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20・24)と覚悟を示し、「この両手は、私の必要の為にも、私と共にいる人たちのためにも、働いてきました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(20・35)と弟子たちを諭しました。

 牧師職の尊さと使命の大きさに、やっと気づいてきたようです。そして、皆さんにも、牧師あるいは執事になることを目標に励んでいただきたいと願っています。神と人に仕える者としての権威がなくなったら、引退するしかありませんが、今はそれをなるべく伸ばすべく、心身と霊性の強化に励んでいます。


7月12日 間違った教えに惑わされない。  エペソ書41424
新改訳 エペソ4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
4:17
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
4:20
しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
4:21
ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
4:22
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

昔、バッグを韓国で購入し、便利に持ち歩いていました。それをある人が、凄い、というので、やっとそれがブランド物の模様であることに気が付きました。私は偽物であることに気が付く前に本物を知らなかったのです。偽物が偽であることを示すことは決してありません。テレビの「鑑定団」でわかるように、まったく本物らしく装うのです。騙されるのは欲のある人ですが、何でもない生活をしている人が、ある時に、これは凄い物だ、と言われると欲が湧いてくるのですから、あの番組は人間の心模様が良く示されており、面白いものです。

 妻のバッグを買いに行くと、やはり高い物は良い物であり、見比べていると高い物に目が移ります。ところが、ウーンとうなって、店を出ると、その前に機能的にしっかりしたバッグが安く売っていたので、直ぐに買いました。私たち夫婦は、ブランドよりも機能を重視しています。便利で機能的な物を購入しないと、効率的で質の高い時間を過ごせないことも事実です。雑草に困っていましたが、芝刈り機があったので用いると、素早くきれいになりました。レンガ磨きも、グラインダーを使ったら、手早くきれいになりました。これらは手作業では殆ど無理です。ブランドというのも、そもそもは質の良い物が高くなってしまったのでしょうが、いつの間にかブランドが一人歩きして、見栄のある人が購入するようになったのでしょう。

 人がなぜ、間違った教えに惑わされるのでしょうか。

@   経験と知識がないからです。

A   人を騙して益を得ようとする人がいるからです。

B   犠牲と代価を払わないで、物や教えや力を得ようとするからです。

C   正しいもの、価値あるもの、真理に目を留めていないからです。

 エホバの証人というのは、地獄が怖くて、その教えを否定したかったから広めたものですが、実際には地獄から逃げられたわけではありません。彼らは、自分達の考えに立ったように聖書を作り変えています。モルモン教は、アメリカ大陸にモルモン教の教えが埋まっていたという奇想天外なことを信じており、その権威づけに旧新約聖書をも使っていると言いますが、原罪を否定し、行いを重視しています。統一教会というのは、マインドコントロールによる恐ろしい宗教で、人を騙しても神のためならば罪にならない、として多くの資金を集め、政財界に働きかけた右翼集団です。

 ところが、これらの信者は、案外誠実です。異端の信者は恐ろしく、異常であると考えていた人々は、会ってみると彼らの純朴さに驚き、彼らを諭そうとすると却って虜になってしまうこともあります。指導者が悪く、彼らを利用しているのですが、だからといって、洗脳された者が無罪というわけではないのです。しかし、マインドコントロールというのは、判断力を奪うので非常に怖いものです。そこに至る経緯としての欲望が大きな災いとなってしまったのかもしれません。

キリスト教会の中にも、聖書の警告にあるように、間違った教えは入り込んでいます。「地域それぞれ悪霊が支配している。」として、それは神社仏閣だといって、油をまいた事件はひどいものでした。「悪霊を縛る祈り」などというものを信じてはなりません。大事なことは、悪霊ではなく主イエスに従い聖書的な生活を営むことです。「ある人達は惑わす霊と悪霊の教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Tテモテ4・1)とあるように、まともな生活から離れた異常行動を教えます。

 「虚しい、だましごとの哲学によって誰の虜にもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」(コロサイ2・8)とあるように、現実の生活から離れた知的満足を与えるだけの集会にも注意しなければなりません。極端なユダヤ中心思考や過度な終末論も注意しなければなりません。要するに、人を集めようとする集会は、なにか裏があります。伝道というのは、信者が友人知人家族に真理と救いを伝えるものです。教会が伝道集会をすることは良いことですが、どんな方法でも良いから人を多く集めようとするのは、危険です。

 「彼らはようやく、イエスが気を付けよと言われたのはパン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人の教えのことであることを悟った。」(マタイ16・12)とあり、人を裁き、厳しく戒めて縛り付ける教えと集団に気をつけなければなりません。教会というのは、個人生活まで立ち入る厳しものであってはならないのです。教会以外の生活がないような指導もありえず、献身とはそういうものではありません。

 私には、牧師さん達が教理に囚われていることも気になります。正しい教理を負い求めても、正しい生活、御霊に導かれて生活を営めるわけではなく、罪ある人間が、この地上で聖書を完全に理解することなどできず、また、神に代わってものごとを判断するようなことを求めてはいけないからです。正しい教理を求めることよりも主イエスと聖霊を求めるべきであって、「分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒しなさい。」(ローマ16・17)というように、批判的である、ということは危険なのです。

 教会は成長するべきですが、教会に集う人の数を増やそうとする教会成長主義は危険なものとなっています。献金を煽ったり、集会への出席を無理強いしたり、朝の祈り会への参加を強いることなど、信者を社会生活で破綻させて教会に従属するような結果になることを強調することは、危険な傾向です。

 韓国が非常に危険な国になってしまいました。それは、人に上下をつけ、成功者になることを強調しすぎた結果かと思います。神御自身以外に絶対はなく、人は他の人に対する絶対的指導者になってはいけません。妻に絶対服従を強いることを聖書の教えだなどということはありません。


7月19日 堅き信仰の上に建て上げられる教会。  マタイ書161627
新改訳 マタイ16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20
そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
16:21
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
16:24
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

昔は、職業はそれほど自由に選択できるものではなく、世襲農家の次男三男が職人や商家に働き、受け継がれていくことが多かったようです。専門の戦士というのは、基本的には貴族や武士とその家で働く者がなり、戦時下では農家や商家から募られることもあったようです。国を守るために傭兵を使ったり、貢で済ませても、結局は裏切られたので、兵士となる者は命を掛けて国や民を守る者として尊敬されていました。

 平和は民の願いですが、戦士たちや軍事産業は平和では食べていけないので、理由をつけて戦争の可能性を唱え、その支出を増額しようとします。歴史的には平和が続いた時代には、享楽や官僚支配がはびこり、戦争が起こると統制が強くなって人権が損なわれます。ともかく、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1-2)ということが事実なのです。そのような争いの中で経済もまた次第に勝ち負けのはっきりするものとして資本主義の戦いになってきました。今や共産主義の中国でさえ、資本主義の象徴である株取引が大きなものとなったことは驚きです。

 私たちクリスチャンも、この世の中にいるのですから、経済原理や争いに巻き込まれるのは当然であって、そこから逃げるわけにも、無視するわけにもいきません。イエス様が認めるように(マタイ17・24-27、22・17-21、税金や負担金も払わなければならないのです。ただ、イエス様が警告されるのは、「正義と憐れみと誠実を疎かにしている」(マタイ23・23ことです。そして、宗教指導者に対して、「お前たちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をもはいらせません。・・・お前たちは、やもめの家を食いつぶし、見栄の為に長い祈りをしています。」(マタイ23・13.14と怒っています。

 つまり、イエス様は、宗教指導者に対して、この世に迎合して自らの出世や権力を願うことを警告し、また宗教が儀礼や行為を競うようなものにならないように注意しているのです。マタイ23章。そして、現代でも教会と牧師が、たとえ正当な教理をもっていてさえ、この世の流れの真っただ中に入ってしまうことがあるのです。但し、教会というものは、それぞれの時代と状況の中で、随時変化し対応して福音を拡大してきました。ですから、この世から離れて閉鎖的・厭世的なものになってはいけないことは当然なことです。

 使徒の働き10章でペテロの伝道を通して「『神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」(11・18)と異邦人にも伝道が始まったのは画期的なことでした。また、エルサレムの長老会議で、異邦人に割礼を施す必要がないことを教え、不品行を避けるべきことなどを注意しただけになったことも、ユダヤ人の伝統から考えれば、あり得ない程の革新的な変化と寛容でした。そういう面で、教会は、人々の救いの為には、驚くほど許容力があったのです。

教会にとって、注意すべき点は、指導者の専制と組織の固定化、律法化です。それは、イエス様が、「一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22・26と言われたように、牧師や教会の役員や執事が、偉そうにして指導ばかりしていることは危険なのです。また、「やもめの家を食いつぶす」とあるように、弱者を虐げ、献金ばかりを強調することも危険です。規則や神学で、信者を拘束することも、パリサイ人や律法学者のようになってしまうことです。

 教会には、不信仰者も、欲得づくの人も、好色な人も、喧嘩早い人も、傲慢な人も、必ず入ってきます。それらの人がもし、神の救いの計画の中にあるならば、聖霊によって導かれ、御ことばによって教えられ、また私たち信仰の先輩の祈りと愛の中で為すべきことを悟り、聖められ成熟してくるのです。

 もし、彼らが偽信者であり、サタンに惑わされているならば、神が裁きを付けるのです。「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人を裁くのです。」(ヨハネ12・48クリスチャンは、人を裁いてはいけません。嫌な人も、嘘を言う人も、強情な人も、好色な人も、神ご自身が、この世でも、さらに終わりの日でも、その人を裁きます。人に腹を立てるのは、あなたがまだ、清められていないからです。そして、教会に来ている人でも、裁かれる人は多くおります。「さばきが神の家から始まる時がきているからです。」(Tペテロ4・17

 アメリカの教会は、地域のコミュニティーの中心となり、神の家族を形成したので、大きな祝福を得ました。しかし、その牧師が金持ちとなり、この世の罠に陥った場合に、混乱しました。大口献金者を贔屓し、献金を重視したことが誤りでした。

 韓国の教会は、クリスチャンが愛国者であり、教会が時代の先端を行ったので繁栄しました。しかし、牧師に権力が集まり過ぎ、成功にこだわったために、罠に陥りました。信仰が行いとして強調され過ぎたきらいもあります。

 日本の教会は、牧師の側では教理と統制が強く、信者は聖書の教えよりも建前や世間体を重視したために、力にないままになっています。牧師と信者に真実な交流が必要であり、神を恐れ、信仰をもって教会を作り上げるという意識を形成していかなければなりません。

ペテロに対して厳しく戒められたように、この世の論理で信仰を保とうとする者は、破船に会います。自分を捨てないで、成功や勝利を望む者は罠に陥るでしょう。十字架を負って生きるということは、簡単なことではありませんが、それこそが信仰者の生き方です。神は全てを御存じです。


7月26日 罪の奴隷と義の奴隷。  ローマ人への手紙61123

ローマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

生まれつき足の萎えた人が宮で施しを求めていました。彼は、通りゆく人々に「私を憐れんで下さい。」と訴えていたでしょう。そこに使徒のペテロとヨハネが通りかかりました。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3・6)と言うと、彼の右手を取って歩かせました。彼は、歩いたり、跳ねたりしながら、神を讃美しつつ宮に入っていきました。

 人々が驚いているとペテロが説教します。「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(3・12)。「イエスの御名が、その御名を信じる信仰の故に、あなたがたが今見ており、知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全な身体にしたのです。」(3・16)。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去って頂くために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(3・19)。

 今日お読みになった聖句では、人は罪の奴隷として、自分の手足ばかりか、その存在を不義のものとして生きています。それは、その手足を自分のものとして、自己の利益のために用いているからです。他方、この足の萎えた人は、自分の足は思う通りに動かず、手もまた人に物を乞う惨めなものとなっていました。彼は、自分とその能力に絶望していました。

 人は、自分で判断し、自分で解決し、自分で稼いで生活して生き、自分で強く立派な人間になろうとします。それを聖書は、罪人の生活と言います。そして罪の奴隷であると宣言します。実は、神を信じ、罪を悔い改めたクリスチャンでも、「自分の力とか信仰深さとかによって」信仰生活を生きようとする人は多いのです。

 マズローという心理学者が人間欲求の5段階説を唱え、生理的欲求が満たされれば、安全・安定の欲求を求め、さらに所属と愛の欲求を求め、更に自己の尊厳欲求として承認の欲求を求めるけれども、それらは欠乏欲求であると説明します。そして、最高度の欲求は自己実現欲求であり、欠乏欲求とは本質的に異なるものであると説明しました。晩年には、その高次に「自己超越欲求」があると教えています。

 しかし、聖書は自己否定こそ回心の本質であると言います。回心というのは、自分の利益を求めて生きていた心の向きを、神の御心を求めて生きることに回すということを意味します。「悔い改め」て自分の弱さ愚かさ罪深さをいつも反省している人がいますが、そういうことは実際には悔い改めとは言わないのです。悔い改め、回心するということは、自分の弱さ、強さなどに関心が向かず、失敗しようと、人がどう言おうと、神の御心を行うことに心が向くということを意味します。そして、神に立ち返り、神と共に過ごすことが、回心の本質です。これには、確かに自分の罪深さの自覚が必要になります。

私自身は天地を造られ、私を見つめておられる主である神がおられると知って回心した時から、この神に従って生きるしかない、と自己確認しました。牧師になることは嫌でしたが、「主が御入用なのです。」(ルカ19・34)との声を聞いて、直ぐに従いました。逃れようがないことは悟っていました。

 回心とは、自己中心から神中心に代わるということを意味します。しかし、実際には、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。」(6・19)というように、「自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進」んでしまうのです。しかし、「そのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行く着く所は死です。」(6・21)とあるように、義の奴隷としての生き方に徹しないで、この世の欲望に囚われている人は、この世の人々のように滅びの生活を送るしかないのです。

 「あなたがたが自分の身を献げて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(6・16

 家内と結婚したのは、彼女がこのままでは生活も健康も破壊し、自暴自棄になって死ぬな、と思ったからです。誕生日が同じで、信仰に導かれるという経緯もあり、神の手を確信していましたから、死ぬべき人を生かせれば、神に仕えて生きるということで十分だと思いました。

しかし、牧師になってからは、多くの人々が、このままでは死ぬなと思うことがあります。家内のことでの献身だけで済まされない、執り成しが必要であることがわかりました。これを覚悟することが、牧師としての召命に生きることであることがわかってきました。

人はいつでも生死の狭間に生きています。私は何度も死に掛けましたが、神にある使命感が達成されていないので、死ぬはずはないと思っていました。今は、神様からの使命がまだまだ続くことを悟ったので、健康管理と学びに集中しています。義の奴隷としては、神の御心に沿って為すべきことが多くあります。私の人生は、これからが本番のような気がします。そして、義の奴隷として試されることが多く出てくるでしょう。逃げるわけにもいきません。私は、「もし、その奴隷が『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』とはっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱の所に連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」(出エジプト21・5.6)とあるような、自発的な奴隷として歩んで生きたいと考えています。皆さんはいかがでしょうか。

 


8月2日 相続人として成長するかどうか。  ガラテヤ4120

ガラテヤ4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、

4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。

4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。

4:11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。

4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。

4:18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

4:20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。

 

事件や災害、戦争などが起こると、「神がいるなら、なんでこんなことが起こるのか」と言う人がいます。そういうのは、人間中心の考え方で、神を人間を守るために存在という逆の発想をしています。そもそも、神がおられるなら、神が中心であり、神が支配者なのに、罪を犯し、争いをしていながら、神に注文をつけるということが、異常な発想なのです。そういうことは、親に甘やかされ、何でも自分の観点で要求を突き付ける人の考え方であって、自らの為すべきことと罪性を悟らない人のものです。

 さて、神中心ということが、ヒューマニズム(人間中心主義)に惑わされた人にとっては、全く分からないことです。また、信仰生活を損得で考える人も多いようです。神を信じるということが、どんなメリットがあるとか説明するのは、未信者に対してならばともかく、自己中心そのものの考え方です。ですから、そういう人は、献金額相応の信仰生活のメリットや奉仕から来る報いを考えますが、それは神を信じていない証拠となることを考えているのでしょうか。イエス様は、「与えなさい。敵を赦しなさい。隠れたところで施しをしなさい。宝を天に積みなさい。心配は無用です。祈りなさい。」などと、真実な信仰をもっていなければできないことを信者に要求しています。

 先週、回心ということをお話しました。心が自分中心から、神中心に代わるということです。神を信じるとは、選びでもあり、聖霊なる神の働きでもあり、自らの選択でもあります。そのようにして自らの罪に気が付き、回心をするのです。そのことを神は喜び、神の子とされるわけですが、神の子としての特権は、私たち自身が神中心に生きる時に行使されるのです。「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1・12)。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1・16)。

しかし、人間自らが、その特権を放棄してしまうことがあるのです。回心自体は、罪人にはできないことで、聖霊なる神の助けにもよるのですが、その特権に気が付かないと、次第に罪の性質が現われてきて、回心から更に自己中心に回ってしまうということがあり得るのです。或いは、誘惑に陥り、罪に負けて罪の奴隷に戻ることがあるのです。

「今では、神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」(ガラテヤ4・9)。罪人は罪に気が付かないのです。罪による神からの裁きを恐れることはあるのですが、聖霊による神の前での自己中心という罪責感がないのです。私は、クリスチャンでありながら罪を犯して、罪というものが分からなくなった人々を知っています。このガラテヤ書は、ガラテヤにある諸教会に送ったものであり、そこにいるのはクリスチャンなのです。確かに、元は神を信じ罪を悔い改めたのに、今は罪が分からなくなって、罪の奴隷に戻っている人々がいるのです。

私の信仰生活を思い出してみました。献身表明する前の時代は、信仰に一途で、失敗もするけれども神の祝福がいつも共にありました。1980年からの10年は、何をしてもうまくいかず、苦労と苦しみ葛藤の連続でした。しかし、私には、昔の生活に戻るわけにはいかないと必死で献身を続けていました。その後の10年は、挫折と失望で、ただ社会の苦しみと悲しみを知らされたような時だったと思います。2000年からは、少しずつ勝利が見えてきました。我が家も、教会も、ビルも得て、戦い抜いた実感がありました。2010年からは、繁栄と祝福を体験したのですが、今年になって、牧師としての再献身を迫られ、先週お話したように、やっと耳を神の宮の門柱に錐で貫き、義の奴隷として生涯を仕えていこうという決心がついたようです。しかし、神はその前に、ながらハウスを与えてくださり、私の心を慰めて下さいました。絶望したエリヤの前に、神ご自身が焼いたパン菓子と水を用意してくださったことを思います。

 皆さんが、どのような信仰生活を送るか、それは自らが決めることです。自分の葛藤や苦しみ悲しみを人に嘆いたところで何にもなりません。神に祈り、神に叫ぶことです。

 「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊興、・・・こんなことをしている者達が神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5・19-21

 私たちクリスチャンも、当然ながらこの世に生き、この世で働いています。しかし、祖国は神の国であり、神の国に戻るために奮闘しなければ、この世で死んでいくことになります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の要求を満足させるようなことはありません。」(5・16)。御霊によって、この世の働きをなし、この世で生き、この世で家族と自らを形成するのです。

 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(6・8)。御霊によって生きているかどうかは、御霊の実によって確認することができます。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(5・22.23)。

 教会はお話を聞きにくる場所ではありません。神の国を目指す、神の家族の集まりです。もし、御霊の実が結んでいなかったら、あなたは神の家族ではないかもしれません。しかし、神は、もし私たちが悔い改めて、神の前にひれ伏したら、喜んで「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいます。」(ガラテヤ4・6


8月9日 狂人と思われるほど神を信じています。  使徒の働き261729

使徒の働き26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。

26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、

26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

26:21 そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。

26:22 こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。

26:23 すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

26:24 パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。

26:25 するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。

26:26 王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。

26:27 アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」

26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。

26:29 パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

 

パウロの裁判をローマ総督として着任したばかりのフェストがしているのですが、着任祝いにヘロデ・アグリッパ王が同棲をしている妹のベルニケと一緒に来ます。フェストは、パウロが死に当たることは何もしていないし、宗教問題はわからないと言うと、アグリッパがその裁判を見たいというので、翌日裁判を見ることになります。パウロはローマの市民権をもっており、皇帝に直訴をしているので、軽々しく扱うことはできません。ローマ皇帝にパウロの罪状を説明しなければならないのですが、ローマ人の考え方ではパウロは無罪なので、そのような者を送る理由についてアグリッパに助けを求めているのです。

 パウロは、使徒21章で身を清めるためにエルサレムの宮に入ったところを、デマを広められて群衆に捕まりました。彼らはパウロが、「この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。」(21・28)と叫んで、宮の外に引きずり出し殺そうとしているところを、治安を守るローマ兵に捕えられたのです。パウロが22章で群衆に対して、自分の救いの経緯と、復活されたイエス様のことを説明すると、彼らは更に興奮してパウロを殺そうとしました。ローマの千人隊長は、パウロが生まれながらにローマの市民権を持っていると聞くと、鎖を解いてエルサレムの議会で弁論させました。

 議会には、サドカイ派の人々とパリサイ派の人々がいました。「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていた」(23・8)が、パウロが、「私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は使者の復活という望みのことで、裁きを受けているのです。」(23・6)と言うと、議会内で大きな論争が起こりました。凄まじい騒ぎになったので、千人隊長はパウロを守るために兵営に連れて行きました。

 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(23・11)。私たちにとって、試練や苦難と思うことでも、主の導きの中で勝利のために為すべきことがあるのですね。ただ、この後、「夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。」(23・12.13)という恐ろしい結社ができます。パウロ自身が過去において、このような人物だったように、間違った教えや考え方が強迫的になると、このような殺意にも至ります。マインド・コントロールによる新興宗教がこのようなことをします。こういうことで事態は大きなものとなり、千人隊長は総督による裁判に任せたのでした。

 総督のぺリクスは妻と一緒にパウロの話を聞きましたが、「パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ぺリクスは恐れを感じ」(24・25)たのでした。ぺリクスは、ドルシラを夫から奪って自分の妻にしたような男で、金銭欲も強かったからでしょうが、そのまま2年間もパウロを放置しました。そして、フェストが総督を引き継いだのでした。

アグリッパ王に対して、20節の「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように」と語り、パウロが命掛けで神を信じているのを見て、宗教を手段のように考えているローマ人のフェストは、「気が狂っているぞ。」とパウロを諭します。

 私には、日本人もローマ人に似ていると思います。宗教を教養や趣味のように考え、人間交流のための手段のように捉えています。ですから、クリスチャンでも、自らの主義主張は言い、平和や愛を主張するのですが、現世主義が多いのです。信仰が功利的なのです。神が、人を裁くということと、どのように社会があっても結局は神の手の中にあり、神こそが歴史と未来を支配しておられるとは考えていないように思われます。

 人と折り合うことを優先したり、効果を考えるのは、功利的な人間にはよくあることです。自分中心に考えると、国が良くなり、社会も地域も会社も学校も、家庭も良くなることを願い、もくろみます。しかし、戦後の70年で戦争はなかったものの、社会は良くなったのでしょうか。人は幸せになったのでしょうか。

 神を信じるということは、この社会の栄枯盛衰、艱難辛苦、幸不幸、その他全ての事象の中で、人が如何に生きたかが、神の目に覚えられているということを悟るということです。その観点では、相対的な善は無意味なものとなります。むろん、ぺリクスも、アグリッパも、指導者だからといって、その犯した罪は罰せられるものとなります。どのような社会的貢献をしても、神の前には罪人に過ぎないのです。

 残念ながら、教会に来ているからといって、神の裁きの目を逃れることはできません。大事なことは、「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをする」ことなのです。

 「キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。・・・裁きが神の家から始まる時が来ています。」(Tペテロ4・16.17)。この世の価値観からすれば、クリスチャンとして筋を通して生きるならば、愚かであり、「気が狂っている」と思われることがあるかもしれません。私は、気が狂っていると思われる程に、狂信的になれと言っているのではありません。クリスチャンとして、神の前に筋を通して生きることが、大事だと言っているのです。

 夫婦で収入の殆どを教会に献げ、子どもの運動会にも出ずに礼拝を守り、人の目には愚かと思われる人生を送って来ました。非難され続けました。しかし、今このように実績を積んでくると、能力があったとか、幸運だったとか、いろいろと分析されます。しかし、私たちは知っています。愚かなほど、神だけを信じて来たというだけです。そして、神の守りを信じ頼ってきました。神は、私たち夫婦の信頼を、信仰を裏切ることはありませんでした。これからも、高慢にならず、自分の力に頼らず、ただ、神を信じて、為すべきことをしていくだけです。そして、それは、人の目には愚かだと思われることであることを知って来ました。


8月16日 自らの国と神の国。  Tサムエル81022

Tサムエル8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。

8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。

8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。

8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。

8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。

8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。

8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。

8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。

8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。

8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

8:21 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。

8:22 主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。

 

終戦の日をめぐって報道や映画などいろいろな特集が組まれ、戦争反対の声が上がっています。キリスト教の諸派も戦争反対の運動を強く行っています。首相は防衛の為に軍備を増強することとアメリカとの共闘を強く主張しています。これらのことに関して、やはりお伝えしておかなければならないと思います。私の観点は@聖書に見る人間の罪深さとその罪ゆえの傾向、A神の人間への対応とその意味合い、B歴史的摂理的意味合い、Cキリスト教のこれまでの行動や判断が適切なものであったか否か、を検討しています。そういう面では、戦争反対を力説するだけのキリスト教団の在り方について、検討の必要があると思っています。聖書の教えは社会運動で実現するものではないのです。

 イスラエルが国家として成立したのはモーセにより、その後の士師の指導の期間も基本的には神権政治が行なわれていました。しかし、士師記の時代は、「イスラエル人は、主の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れ」(士師記3・7)、敵がイスラエルを攻撃し略奪することになります。そして、「イスラエル人が主に叫び求めた時、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者」(3・9、15)を起こされました。そういうことの繰り返しで、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21・25)のです。

 実際には、その当時も律法が与えられており、多くの超自然的な神からの助けもあったのですが、人々は神に従って生きるということをないがしろにしていたのです。そして、神権政治時代の最後の師であるサムエルの息子達が俗悪なのを見て、人々は「あなたは歳を召され、あなたの御子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、他のすべての国民のように、私たちを裁く王を立ててください。」(Tサムエル8・5)と願うのでした。

 今日の聖句でわかるように、王が支配すると次のようなことになると主は警告されました。@徴兵制が始まる。A王のために多くの人が働き、仕えなければならなくなる。B王が領地として土地を没収する。C税金が取られる。D民は王の奴隷となる。E主は、民の声を直接聞くことはなくなる。

 民は、その忠告を聞かず、「王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(8・20)と都合の良い事を考えるのですが、イスラエルの歴史を見ると、ダビデ王の時だけ安泰して敵を抑えるのですが、王の支配によって民の生活は困窮し、国は波乱を繰り返していくことになります。ソロモン王も領土を拡張しますが、そのために税や徴兵の負担は非常に大きく、死後に謀反が起こり、国は分裂します。国に期待しても、ろくなことはないのです。

 先週、パウロが捕まった時に、「神が私たちの父祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。」(使徒26・6)と語ったことをお話しましたが、それは創世記22章18節の「あなたの子孫によって、血のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」というアブラハムへの約束を多くのユダヤ人が信じているからでした。

つまり、イスラエルという国が、世界を支配すると信じており、ダビデの子(ソロモンとは言わない)が広大な領土を持ったのは、その預言であるということなのです。ですから、「弟子たちの群れは皆、自分達の見た全ての力あるわざのことで、喜んで大声に神を讃美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。点には平和。栄光は、いと高き所に。』」(ルカ19・37.38)。それは、神が治める国という意味であり、長い試練の国の歴史の中で、それが現実に地上に実現すると信じるものとなったのでした。今のクリスチャンよりも、はるかに神を信じていることがわかります。信仰を理念的なものとして、「聖書の精神で平和を願う、戦争を反対する。」とするのでは、とても悪とは戦えないのです。神の国は、未信者の中で社会運動をしても実現しないのです。

 さて、王を置くということは、多くの犠牲を伴い、結局は民が苦しむだけであるということに、私たちは気が付かなければなりません。また、地上は、そのような戦いの現実が常にあり、反戦運動をしても対応できないほどの、利権や欲望そして、争いが社会に存在するということが聖書の教えなのです。

 日本が侵略戦争をした事実は認めなければなりません。そして、戦争というものが今や、相手を見ないで殺戮を繰り返すような無慈悲、悲惨なものになってきたということも知っておかなければなりません。そして、天候異変や資源競争の中で、経済が(神と対立する富が)世界を戦争へと導いていることも覚悟しておかなければなりません。「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。・・・民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々で飢饉と地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」(マタイ24・6-8)。

 戦争の前に戦争に備えている人は、あまりいません。しかし、イエス様は備えていなさいと、忠告されています。日本という国だけでなく、世界は聖書の預言のとおりに、戦争への道を再び進んでいるのです。それがいつかはわかりませんが、はっきりとしていることは、イエス様が、それに備えて、真実な信仰を持っていなさいと言われたことなのです。偽りの信仰、理念だけの信仰、聖書を理解しないで博愛主義だと勘違いしている軽率な信仰、人や国を非難しているだけの実践を伴わない信仰、自分は守られると安逸を貪る信仰、行いを伴わない信仰、それらは間違いなく試練にあうと警告しているのです。

 愛国心は大事です。しかし、日本という国も罪人によって支配され、動かされ、そして、聖書と歴史が示す戦争や争いへの進みつつあるという現実を見定めなければなりません。そして、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」というイエス様の言葉を、心に刻みつける必要があるのです。

 


8月23日 人の歩みは神に吟味されている。  T列王記919

T列王記9:1 ソロモンが、主の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成したとき、

9:2 主は、かつてギブオンで彼に現われたときのように、ソロモンに再び現われた。

9:3 主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

9:4 あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、

9:5 わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。

9:6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、

9:7 わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。

9:8 この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。

9:9 すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」

 

先週、日本は西欧列強の植民地にならないために、明治維新を為し、明治の時代は一心に富国強兵を目指していたことをお話しました。しかし、成長を遂げるうちに政治家だけでなく、国民にも驕り高ぶりが出て来て、八紘一宇などの言葉が起こり(1903年)、アジアの支配者となろうとして韓国はもとより中国、満州、東南アジアを侵略していくのでした。

最近の韓国の政治家や国民の言動を見ると、同じような自国意識が強くあって、同調しない他国を敵対視する傾向になっているようです。そして、日本もまた、経済だけではない国家の競合の中で競合性が強くなっているようです。その中で大企業自体はグローバル化の流れの中で国家意識が薄れ、中小企業や農業漁業などは、TPPなどの他国農水産物の廉価な輸入を恐れて、国への欲求が強くなっているのです。同様なことは、韓国では更に深刻で、一部の大企業に務めている人々を除いては、生活の困窮が激しくなると共に、自尊心の高い生活を維持するために、不安と不満が渦巻いているように思われます。人間は罪深いもので、国家が弱い時には侵略されることを恐れ、国家が強くなると他国を侵略しようとするのです。

 今日はソロモンのお話をします。「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(マタイ1・6)と書かれてしまうように、正規の妻ではないバデ・シェバによって生まれたので、非常に聡明で頭が良かったけれども、劣等感があったように思われます。王位争いの末に、ダビデによって任命され、その死に際には「強く男らしくありなさい。あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主の掟と、命令と、定めと、諭しとを守って主の道をあゆまなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄える為である。」(T列王2・3)と戒められたのですが、主の宮を建て、王権が確立するにつれて、おかしくなっていきます。

今日の聖句は、その神殿を20年を費やして(U歴代8・1)、建て終わった時に、主によって語られたのです。ソロモンは、国の統治を官僚機構によって確立し、交易によって国力を高めました。国を整備し、外交的にも近隣諸国と条約をし、政略結婚もして多くの妻を得ました。正妻はエジプトのパロの娘ですから、威張っていたことでしょう。その負い目はソロモンを更に多くの妻を持ち、威張ることによって補われようとしました。「この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神が身に従わせる』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には7百人の王妃としての妻と、3百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(T列王11・2-3)。

 人には、それぞれ弱点とか負い目とか欠点があり、罪を犯したこともあるでしょう。しかし、それぞれに向き合って、神の前に出ていかなければなりません。もし、それを他のもので補おうとすると、罪が罪を呼んで大変なことになります。

ソロモンは知恵があったけれども、父ダビデのように歴戦の勇士ではありませんでした。だからといって、政略結婚によって巧妙に近隣諸国と折り合おうとすることはなかったのです。戦争はいけませんが、戦争を恐れて、自分達の『全き心と正しさ』をないがしろにしてはならないのです。ソロモンには、戦う気持ちと自らを抑える忍耐がなかったのでしょう。

 ソロモンは伝道者の書を記しましたが、それは背教者の知恵であり、誠実な信仰者のものではありません。伝道者の書の内容を喜ぶのは、魂の救われていない形式的なクリスチャンが多く、それは神を信じて神に自らを託すということのできなかった、哀れな求道者の末路を示しているからです。確かに多くの教父も、神学者も、牧師教職も、ソロモンの救いを疑っています。伝道者の書が、聖書の一部を占めているのは、そのような神を信じ切れないで魂を預けることが出来なかった者の考える心情ということで真理なのです。

 信仰者が、自らの心を偽り、信じ切れず、全き信頼を神において生きることができないとしたら、少しずつおかしくなり、ついにはソロモンのように人生をはかなむしかなくなります。「自分の信仰は何だったのか。」「私の人生を神は祝してくれなかった。」などと言っても、神はその人の心の不誠実をご存知です。

 ソロモンは、正妻のパロの娘が苦手でした。戦うということに恐れを持っていました。争いや欲望の中を生き抜いてきたので、人の心の機微を知っていました。だからといって、人は誤魔化しで生きてはいけません。妻や夫以外に心を寄せてはなりません。不正をしてはなりません。誤魔化しをしてはなりません。自分の弱さと向き合ってください。そして、神の前に心を開いてください。どんな言い訳も正当化も神には通じません。罪を悔い改め、神の前に生きる覚悟をするのです。

 ソロモンは虚しさの中で死に、魂はハデスに行きました。そして、その死後、イスラエル王国は分裂していくのです。

 私にも思うようにならないことは山ほどあります。しかし、主の僕としては、日々自らの犯す罪を悔い改め、その咎を覚悟しながら、『全き心と正しさをもって、神の前を歩み、神が私に命じたことをすべてそのまま実行し、神の掟と定めを守って』、為すべきことをしていくだけであります。人生と言うのは、それで十分なのではないでしょうか。思い通りに生きたように誰にも見えたソロモンが虚しさを感じたように、自分の心は自分がよく知っています。そして、神もそれを御存じで、私たちを見守り、執り成しをして下さっているのです。


8月30日 恐れる時に神に頼れるか。  Tサムエル13814 

新改訳 Tサムエル13:8 サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。

13:9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。

13:10 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。

13:11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。

13:12 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」

13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

13:14 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」

 

16日にお話したように、イスラエルは王を求め、サウルが主に任命されます。Tサムエル記10章にあるように、サムエルがサウルの頭に油を注ぎ、「主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らと一緒に預言して、あなたは新しい人に変えられます。」6)と預言され、「神はサウルの心を変えて新しくされた。」(10・9)。そして、全部族を対象としたくじでも、「サウルが取り分けられた。」(10・21)。ところが、「人々はサウルを探したが、見つからなかった。」21)。「彼は荷物の間に隠れている。」22)。要するに、サウルは臆病だったのです。

 しかし、アモン人に降伏しようとしたヤベシュ・ギルアデの人々に対して、彼らが右の目をえぐり取ることを条件とすると聞いたサウルは、「彼の怒りは激しく燃え上がった。」(11・6)として、初めての戦いに勝ちました(11)。サウルが王となったのは30歳の時でした(13・1)。3千人の軍隊を持ちましたが(13・2)、非常に多いペリシテ人の軍隊(5)を恐れ、洞穴などに隠れ(6)、サウルが戦いに出ても「震えながら、彼に従っていた。」(7)。それは、ペリシテ人の支配下にあって鍛冶屋がいなくされ、「戦いの日に、サウルやヨナタンと一緒にいた民のうち誰の手にも、剣や槍が見当たらなかった。」(13・22)という状況だからしょうがないでしょう。鋤や鍬や斧しかない農民が、十分に武装した軍隊と戦おうとするのでは、誰も恐れおののくでしょう。

 この戦いに際して、イスラエルの人々にとって、神だけが頼りなのでした。十分な武具のない状況で戦いの経験も力もない自分達が、王となったものの30歳の若者を頼りにするほど、単純ではありません。戦いの為に集まったものの、頼りのサムエルが7日間も来ませんでした。「それで民は彼から離れて散って行こうとした。」(13・8)。そこで、サウルは焦って、祭司でもないのに、自ら「彼は全焼のいけにえをささげた。」9)のです。そして、「ちょうど彼が全焼にいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。」(10)。怒るサムエルに対してサウルは言い訳をいいます。「民が私から離れ去って行こうとし、またあなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にも、ペリシテ人がギルガルの私の所に下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願さえしていないのと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」11.12)。

 実は、多くの信仰者が、このサウルのように形だけの信仰姿勢を取っているのです。神に御旨を伺い、神に従い、そして信仰の指導者に従うということができないのです。神は、ご自分の業をする時に、必ず私たちの信仰を試します。この試しの時にあって、神ご自身を頼ることができないのです。

 私自身にも幾つもの試みの時がありました。献身者としての自分の人生の祝福を掛けて、長男の出産費用を献金して、高校生キャンプの祝福を願った時がありました。ところが、期待したキャンプファイヤーの時に雨が降り始めたのです。高校科教師は、キャンプは中止しようと言いますが、私は自分の牧師生涯の祝福をこのキャンプに掛け、20万円ほどの献金をしてしまったので、そんなわけにはいきません。3畳と4畳半ほどの土間の小屋があったので、そこに総勢30人ほどを入れ、聖霊待望会を強行しました。暗くて狭いので、祈りは激しくなり、その時に初めてきた人を含めて殆どの高校生が聖霊のバプテスマを受け、大きなリバイバルが起こり、高校生科は一年で45名の礼拝に達したのでした。

 そういうことで、私は試練は祝福の前兆と考えるようになりました。最初の会堂の時も、2回目も、資金がなく、4回目の時は殉教を覚悟し、5回目は破綻を覚悟して、神に迫りました。MYビルも破産を覚悟して神に迫ったものでした。牧会では、死にそうになったことが数回あり、命掛けの人生を送って来ました。娘から、お父さん自叙伝を書いたら、と言われたほどに、いろいろなことがありました。よくもまあ、神に掛けてきたものです。これからもあり得ると思うと、恐ろしい気がします。

 「主は、ご自分の心に適う人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」14)。

 私にも悔い改めることは多くあります。妻子ができてからは、あのキャンプのような人生を掛けて、祝福を求めるようなことはしなくなりました。会堂の取得とか、危機一髪の時などは、そのような行動を取りますが、リバイバルを求めて、祈り込み、断食をして、請願を掛けて、神をも動かそうとすることはなくなりました。あの時の献金は、同じ額が妻の友人たちから送られ、出産費が賄えたことを思い起こします。牧師としては、保守的な人間になりました。神に頼るよりも、神に委ねただけの人生になってしまいました。

 今日の聖句から学ぶことは、もしあなたが何かの責任をもっているならば、神に頼るか、人知によって為すか、どちらかの選択肢が必ずあるということです。

 「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、脇にそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救いだすこともできない虚しいものに従って、脇にそれてはならない。・・・私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」(12・20.24

 サウルは自分に自信がなく、王として任命されたこと、選ばれたことを疑ってしまいました。魂の救いとは、神によって選ばれなければ為し得ないことです。サウルの魂は、滅びになってしまいました。主の霊によって新しくされたのにも関わらず、恐れと劣等感によって、悪の霊に取りつかれてしまったのです。恐れてはなりません。


9月6日 神をも誤魔化そうとする強欲なサウル。  Tサムエル151325

Tサムエル15:13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」

15:14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

15:18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

15:19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

15:20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。

15:21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。

15:25 どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

 

先週、サムエルが臆病であったこと、それで待つということができないで祭司ではないのに勝手に全焼のいけにえを献げてしまったことをお話しました。信仰者は忍耐が形成されることを説明しましたが、自分の力や判断で生きるか、耐えて神の答えや御業を待つか、で信仰者であるか否かが現われてくるのです。

 今日は、神を信じることができない人は、他人には傲慢な行動を取り、強欲であって、自分の行動に必ず言い訳を言うということを説明いたします他人には厳しく、自分には甘くて、罪を犯し失敗をしても正当化する人は、救いの道から次第に外れていくことを覚えておいてください父なる神やイエス様の名前を言っているからといって信用すると罠に陥ることさえあります。悪霊もまた、それを知っており、神の名を言って信仰者を欺くのです(ヤコブ2・19)。

 サウルの息子ヨナタンは非常に信仰深い勇者であり、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げになる者は何もない。」(14・6)として、道具持ちと2人で20人を倒したので、ペリシテの陣営には「恐れが起こった。」(15)。それで調子に乗ってサウル王も戦いを始めたのですが、戦いに勝つ夕方まで「食物を食べる者は呪われる。」24)などという愚かな命令をしてしまったので、「民は疲れているのです。」28)ということになるのですが、その命令をヨナタンは、愚かと断定します(29.30)。

 勝利したサウルが築いた祭壇に対して、主の答えが何もなかった理由として、断食命令を背いた者がいるという判断をして、その者は死刑だと興奮するサウルでした(39)。自分は、祭司でもないのに全焼のいけにえを献げ、今回は勝手に主のための祭壇を築くということをしているのです。家庭、群れ、組織、国家などの指導者は、その失敗や過ちの責任を自ら負うべきであって、その構成者や部下に対して裁きを宣言するような人は、恐怖心や権威によって人を支配しようとする愚かな人間です。

 私は、家族が過ちを犯した時には、自らの責任として義務を果たし、神の前に悔い改めました。教会員に対しても同様です。教会員が私を責め、呪うような時もありましたが、私はその人の執り成しをしました。神はご存知です。もし、私を呪うならば、その人は神の裁きに遭うことを知っていたからです。親を呪う子どもは災いに遭います。指導者の批判を言う部下に対して、指導者は責任を負う必要がないので、その人は神の裁きに遭います。それを信じているからこそ、私は執り成しをするのであって、自分の命令などするものではないと考えています。サウルは、指導者として本当に愚かであって、自分のした愚かな命令を反省せずに、「神が幾重にも罰して下さるように。ヨナタン。お前は必ず死ななければならない。」44)などと無慈悲なことを告げるのです。愚かな人間には、親としての情愛もありません。モーセは、罪に対する神の裁きを教えていますが、民が実際に罪を犯した時には、「彼らの罪をお赦し下されるものなら―、しかし、もしかないませんなら、どうか、・・・あなたの書物から私の名を消し去って下さい。」(出エジプト32・32)と執り成しをしているのです。

結局のところ、民の執り成しによってヨナタンは死なずに済みましたが、サウルは軽率に人を罰したことを反省しておりません。自分の罪や過ちについて甘く、他人には厳しいことを言うのが、滅びの人の特徴です。「自分の敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」(マタイ5・44)というイエス様の命令を実行するようになったことこそ、あなたのうちに聖霊の実が実った証拠であり、神の国への保証なのです。

 サウルは、アマレクとの戦いで「肥えた羊や牛の最も良い物、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」(15・9)。主の命令を守らないで、打算で神への義理を果たそうとするサウル王に対して、サムエルは「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」(15・19)と尋ねると、「私は主の御声に聞き従いました。・・・しかし、民は・・・」20-21)と、悔い改めることをせずに、全てを民の責任にしています。

 「あなたは、頑なさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2・54)とあるように、罪人は平気で嘘を言い、誤魔化し、神の全知全能制を信じないで、「その豊かな慈愛と忍耐を寛容を軽んじているのです」(ローマ2・4)。神の前に嘘を付けないと認めることができるのは、悔い改め、魂の救いを得た人だけなのです。天国に夜がなく、陰もありません。「神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。」(黙示録21・23)。要するに、神の前で隠れおおせるものは何もないのです。

 神に対して隠せるものがあると思うことが愚かです。神は、あなたの行ったこと、そしてその動機、為すべきであったのにしなかったこと、他人に転嫁したこと、誤魔化したこと、欲望で行ったこと、その他すべてのことをご存知です。真の信仰者とは、神の前に隠しおおせることはなにもないと認めて、自らの非と罪を認め、神の御旨にそって生きる人です。能力がなければそれで良い。失敗や罪を犯したら、それを認めて悔い改めれば良い。神は、それほど、人間に対して厳しいお方ではありません。ただ、誤魔化しと嘘は嫌いなのです。自らを正当化する人を救うことはできないからです。そして、「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15・22)。

 これが出来ない人が多いのです。


9月13日 信仰者は勇気が要る。  Tサムエル174551

Tサムエル16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。

16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。

17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

17:51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。

 

大指導者モーセが神の許に召された後、主は、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」(ヨシュア1・9)と言われたように、勇気を持って生きることは、信仰の証明であります。モーセやヨシュアのような指導者ならば、神がどこででも共におられるでしょうが、一介の信仰者である私たちに対する言葉としては、信じることが難しいようにも思われます。

 ところが、イエス・キリストがお生まれになった時、「その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちと共におられる、という意味である。)」(マタイ1・23)という預言の実現であると語られました。そして、イエス様は、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。」(ヨハネ14・16)として「キリストの御霊」なる聖霊が、私たちに内在してくださることを、私たちは体験しています。

 この聖霊の内在、自らのうちに神がおられて、「すべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を遺します。」(ヨハネ14・26.27)という驚くべき働きをなさいます。

 ところが、聖霊のバプテスマを受けてしばらくすると、この内在や教え、諭し、平安が薄れてくることがあります。それは、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14・21)とあるように、主の戒めを守らない人です。聖書を読まず、祈りもせず、伝道もせず、罪を犯さないように心がけないで、主の御旨を守り従うこともしない人が、神に愛され、神の栄光を現わすことなどありえないのです。

 さて、今日の聖句から、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とは、どういうことかを、まず考えてみましょう。

サウルは、280センチもある巨人ゴリヤテが分厚い鎧を着、巨大な槍を持って戦いを挑んできた時に、怯えてしまいました。他の人々も同様です。うわべだけの信仰というのは、問題が起こり、難儀が出た時に、恐れ怯えて逃げてしまう人のことです。うわべだけの信仰というのは、さらに、何もない時には、強がりを言って威張っている人でしょう。

先日、20年以上前に助けた人からお礼の電話がありました。大きな問題があった時に、その人の兄さんはただ、怒鳴り責めるだけで何の助けもしてくれませんでした。困難があった時にわざわざ怒りに来るのですから、どれだけ迷惑なことでしょう。気の弱い人は、困難があると、その問題に対面せずに逃げようとし、人の責任にして言い訳或いは攻撃をします。ダビデが、「生ける神の陣をなぶるとは。」(Tサムエル17・26)とゴリヤテに対して腹を立てたことを聞いた兄のエリアブは、ダビデに怒りを燃やします。このエリアブを人々は、「主の前で油注がれる者だ。」(16・6)とうわべを見て、考えてしまいました。

 先週、ヨナタンが「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げになる者は何もない。」(14・6)と大ぜいの敵に向かって行ったのと同様に、ダビデも「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(17・47)と、勇気ある信仰の発言をして、戦いに出ていきます。

 大雨による大きな水害が起こりました。殆どの人が、「まさか自分のところでも被害に遭うとはおもわなかった。」と言っております。イエス様は、終末に偽預言者が起こることを預言しています。そして、「惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24・4)と警告しておられます。皆さんは、聖書を学んでいるでしょうか。しっかりと偽と本物を見分ける訓練をしているでしょうか。賢い娘たちのように闇夜に備えて油を十分に備えているでしょうか(マタイ25)。良い忠実な僕として、タラントを増やす努力をしているでしょうか。

 臆病な人は、困難や危険に目を向け、それに対処する備えをする勇気を持てません。日々忙しいと言い訳をして、艱難に対する準備をしないのです。嵐が予想されれば、家を補強し、備品や食糧を備えるのが賢い人です。勇気のある人は、現実に目を向けて、実際に勝利をする準備をする人なのです。

 ダビデは、鎧かぶとと剣を持たされそうでしたが、「こんなものを付けては歩くこともできません。慣れていないからです。」(17・39)と断り、自分の杖と石投げを手にして、川から5つの滑らかな石を選びました。「こうして、ダビデは石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。」(17・50)。

 勇気を持つためには、手なれた武器、自分の得意なものを身につけておくことが必要です。1995年の阪神大震災の時は、関西以外の教区からでは最初に、リュックに医薬品や靴下など救災用品を背負い、登山靴で駆けつけました。2011年の東日本大震災の時は、いち早く食料やトイレ用品、そして放射能対策のサプリメントを送りましたが、自ら駆けつけるのは遅く、奥田師一家を助けに行く時には浅野夫妻の助けを必要としました。自分の体力と体調の衰えが情けなかったものです。

 勇気を持つためには、体力をつけ、自分の身体を強くしていなければなりません。人と助け合うのは大事ですが、助けを求めるだけの身体になってしまったら、勇気を持つことは難しいでしょう。カレブの言葉は凄いです。「今や私は、きょうでもう85歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア14・11)。実際、ヨシュアの死後もカレブは生きて戦い、ヘブロンを勝ち取るのでした(士師記1・12)。


9月20日 悪が栄えるのに屈してはならない。  Tサムエル221323

Tサムエル22:13 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のために神に伺ったりしている。」

22:14 アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。

22:15 私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」

22:16 しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」

22:17 それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。

22:18 それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。

22:19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。

22:20 ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。

22:21 エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。

22:22 ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。

22:23 私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」

 

『ディファイアンス』というナチス占領下ポーランドにおいて、3兄弟に指導されて森に逃れて生き延びた1200人のユダヤの人々のことを描いた映画を観ました。ゲットー(強制ユダヤ人居住区)での殺戮と迫害を逃れて森の中で飢えや寒さの辛苦の生活を過ごしても、戦車や飛行機による襲撃が重なり、ラビ(ユダヤ教指導者)が「主の選民であることをお返しします。我らの民族が滅びることをお許しください。」と民族の滅びを覚悟した祈りをしたことが忘れられません。 ホロコースト(大量殺害)で殺されたユダヤ人は600万人から1100万人と言われます。

 キリスト教公認後はユダヤ人が迫害の対象となり歴史上絶え間なく続きました。十字軍として美化されている行動も、実はユダヤ人虐殺がなされて、エルサレム周辺のユダヤ人共同体の破壊がされたのです。ユダヤ教の定めである「安息日厳守」「割礼」「食事規定」は他宗教との軋轢を生み、ユダヤ人との交際は禁じられ、ユダヤ人は公職につけず職業選択も制限されました。ゲットーは13世紀から存在し、差別や迫害は常に起こっていました。そういう中で「シオン(エルサレム)に帰ろう」というシオニズム運動が起こり、ユダヤ人の信仰は強固なものになっていったのでした。

つまり、キリスト教が迫害されている時は、キリスト教徒の信仰が強固になったのですが、公認されたら迫害する側に回ったということは、恐ろしい現実です。公認され、社会がキリスト教化されると、真実な信仰者が少なくなってくるのです。ペテロは、「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・6.7)と真理を教えますが、悪が栄え、信仰を保つことが困難になった時にこそ、その人の信仰の実体が明らかになってくるのです。そして、自らの不信仰を悔い改め、「あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Tペテロ1・13)ということを実践するようになってくるのです。

 現代社会で教会に来て信仰に入るということは、何らかの試練や状況の変化がある場合が殆どです。人間という存在自体が罪であり、不安定なものですが、罪人というのは自分の罪に気が付かず、それを問題としないのが特徴ですから、自分で解決不能な問題が起こらなければ、通常、信仰には入ろうとしないのです。ところが、ユダヤ人は、生まれながらの差別と迫害を受けていたのですから、その教育と宗教指導は徹底したものでなければなりませんでした。そのようなことを行えるのは、親や指導者が命掛けの姿勢でいなければなりません。平穏な生活を過ごしていながら、徹底した宗教指導というのは行えるものではなく、従う側に真剣さがなくなることが通常です。聖書を物語として読む人と、神からの自らへの語り掛けとして読み取るかの違いで真剣さが変わってくることもあります。稀にある真摯な信仰者は、神からの語り掛けを聞く人です。

さて、きょうの聖句で読み取るべきは、サウル王の残虐さと追従するドエグの極悪さです。誠実かつ信仰深い祭司アヒメレクとその一族を幼子に至るまで自らの剣で切り殺すという行為をしています。

 私もこれまで多くの悪人と接してきました。恨んだ妻が焼身自殺をしてもなお、悪を重ね、人を騙してきた人間にも、周到に準備された罠に陥り、危うく会社を潰されそうになったこともあります。周到に準備されて裁判に持って行かれ、示談金を取られたこともあります。脅されたことも、暴力を受けたことも、盗まれたことも、騙されたことも、多くあります。そして、教会を牧会し、病者を支え、家族を養い、耐えて、気力を振り絞り、そして神に叫んで、まさに信仰によって切り抜けてきました。切り抜けるというのは、言い得て妙です。そして、だからこそ、強い信仰を持てたのだと思い返します。

 ダビデは、「私と一緒にいなさい。恐れることはない。」(23)と強く励ますほど力強い人間になっています。また、以前はサウルの剣でさえ、とても重くて持てなかったのに、ゴリヤテの剣を扱えるほどにダビデは強靭な身体を持つ勇者になっていたのです。また、「私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし、私と一緒にいれば安全だ。」と言えるほどに、人生が命掛けのものであり、自らについて来る者を絶対に守るという覚悟を持つ指導者になっていたのです。

 政治的には、茶番劇のようになって戦争の道を進んでいます。政治家たちは、国民を守るために命を掛けるのではなく、自らの足跡を残し、権力を握り、富を確保するために、政治劇を演じているのに過ぎないように思われます。基本的にはサウル王と同じです。国民の命など虫けらのものと同じように考えているのです。歴史がそれを証明しています。そして、信仰者は、神の御手の中にあって、守られ、勝利をするのです。そして、私たちの行く手には、神からの栄冠が待っているのです。大事なことは、これからの歩み方のなのです。


9月27日 苦難の時にゴロツキの世話をするダビデ  Tサムエル2110225

Tサムエル21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

 21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

 21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

 21:13 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

 21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。

 21:15 私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

 22:1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。

 22:2 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。

 22:3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」

 22:4 こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。

 22:5 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。

 

「クリスチャンを引っ掻いてみよ。そうすれば、その人が何でできているか分かる。」とクリスチャン新聞の記事にありました。人は、窮した時、試練の時、そして批判をされた時にどのように生きるかで、その人の人間性がわかります。自分の苦労話ばかりを話しているか、周囲の人との関わりを語っているかも、その人の在りようをつかむことができます。むろん、解決した後、成功した後の、その人の生き方も大事です。要は、人がどのように生きているかで、その人の実体がわかるのです。

 ダビデは、サウル王に命を狙われ、国内に行き場がなくなって敵国ガテに逃れましたが、すぐに有名なダビデであることがばれ、狂人を装ってその場を切り抜けます。アキシュ王は、ダビデであることを知っていながらも、哀れに思い、助けたのだと思われます。その後、27章には、600人の部下を率いてアキシュのもとに逃れているので、ダビデもアキシュの温情を理解したのでしょう。

 ダビデは逃げる所もなく、洞穴に避難すると、その親族がサウル王を恐れて逃げてきました。それだけでなく、「困窮している者、負債のある者、不満のある者も集まって来たので」400人にもなってしまいました。ならず者の親分となってしまったダビデは、自分の行く末を案じて、両親には平穏に暮らして欲しいと、モアブ王にその世話を頼む始末です(22・4)。ダビデの決死の思いと、両親への愛情が偲ばれる場面です。

 預言者ガドの言葉に従ってユダの森に帰ったダビデは、サウル王に追い回されることになります。それなのに、ペリシテ人が攻めてきたケイラから助けを求められると、救出しています(23章)。すると早速サウル王がケイラに攻めてきます。祭司にエポデで神に問うと、ケイラの住民はダビデをサウル王に引き渡すというので、直ぐにケイラから逃げます。その時には、従う者は600人に増えています。

 命をサウル王に付け狙われているのに、親戚がダビデを頼って集まってきて、さらに軍隊としての訓練も受けていないゴロツキが集まり、その上にサウル王が頼りにならないとしたケイラの住民から助けを求められてペリシテ軍と戦い、勝ったらケイラの住民から裏切られて、また流浪生活を送ることになるわけです。そんな時の祈りが詩篇54編です。

神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ。まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。

ダビデの窮迫な状況と必死な願い、そして真摯な信仰が伺われます。おそらく、その苦しい状況の中では、人生の辛苦を舐めて来たゴロツキの連中のほうが、忠実な軍隊の部下たちよりも、ダビデには慰めになり、気安いものとなったのではないかと思います。

 サウル王がダビデを殺そうと追いかけている時に、ダビデとその一行の隠れている洞穴にサウル王が用を足しに入ってきたことがありました。部下は、「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いとおもうようにせよ。』と言われたその時です。」(Tサムエル24・4)とサウル王の殺害を勧めたのですが、ダビデは、「悪は悪者から出る。」(24・13)として、手を下しませんでした。

私は、最近、いろいろな人から優しくなったと言われます。確かに、結婚以来激しい試練の中を歩んできました。気を抜けば敗北し、破産や死や病気や破滅の危機が常に付きまといました。そういう中で教会員の為に祈り、助け、とりなし、励まし、慰めるということは、非常にきついものでした。30周年記念誌にも書きましたが、開拓以来の10年間は、状況が悪くなる一方で、とうとう心臓にも身体にも破綻が来てしまったのでした。

今、思い返すと自分の罪や至らなさや傲慢さに気が付きます。しかし、それでもなお、神を信じ続け、逃げないで戦い続けたからこそ今があると思います。人の罪深さを赦し、慰め、助ける為には、自らの罪深さに気が付き、人間というものの業の深さを悟ることが必要なようです。

最初の10年間に集った人で、現在も残っているのは、昭二夫妻と萩原姉、岡本兄くらいで、本当にゴロツキのような人々が多かったと思いだします。でも、多くのことを学びました。そして、その人々の為と共にいて助けてきたと思います。騙され、裏切られることも多かったけれども、それで信仰を失うことはなかったことは、主の励ましがあったからです。

人には、苦しい時、思い通りにならない時は多くあります。しかし、ダビデのように、「神よ。私の祈りを聞いてください。」と叫ぼうではありませんか。