1月4日 神が共にいることを知る為に。 ヨシュア記3717


新改訳 ヨシュア記3:7 主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。

3:8
あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」

3:9
ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」

3:10
ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。

3:11
見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。

3:12
今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。

3:13
全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

3:14
民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。

3:15
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――

3:16
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

3:17
主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

私たち信者は神がおられると普通に信じています。しかし、それは殆どの人が普通に持っている感覚であり、私たちが言う「未信者」にとって、区別される理由は、あまりありません。日本にいる普通の人々にとって、神もいれば仏さんもあって良いし、信心はそれぞれあって当たり前のものでしょう。ですから、クリスマスが終わり、年が明けたら初詣に行って神社に参拝するのですが、その後にお寺に行って参拝すると、更に御利益が増えると考える人々もいるのです。

 そういう意味において、2006年のギャラップの世論調査で自称クリスチャンが6%以上、十代では7%いるというのに、教会側の主張では、0.3%であるとされます。他の宗教では、神道は一億六百万人、仏教九千二百万人というのに比べて、宗教団体としての自己申告は、キリスト教の信者の把握が著しく厳しいことに気が付きます。キリスト教の場合には、洗礼を受けないと信者としては認められず、さらに教会に継続的に集っていない信者を、背教者のように扱って、「悔い改めて教会に戻る」必要があるものとして捉えるからです。ですから、一般的な日本人の宗教観では、そのような信者は熱心な信者として、新興宗教と同様な評価を受けることになります。つまり、日本人の宗教観は、「ほどほど」なものが正常であり、普通であるとされるのです。

 実は、そのような宗教観こそ、「日本教」と指摘される宗教観であり、無神教的信仰姿勢なのです。それは、現世中心的で、御利益追求を目的とし、自分の人生に犠牲を強いてまで宗教熱心になることを愚かとする、独特の宗教観なのです。宗教は、その人に生き甲斐や人間性を装飾する飾りもののような扱いとなるのです。ですから、自分の宗教を他の人に説明する時に、その御利益と効用を説くことが必要になってくるのです。それは、熱心な宗教による自己破壊、自己犠牲の弊害を諌める日本教的な価値観でもあります。それを無神論的宗教であるとするのは、普通の宗教から、神の実在と審判、祝福や規律などの教えを無視しようと図る積極的宗教観を持っているからです。特に、唯一神の信仰からは相容れない、相対的な、人間同士の共同を前提とする人為的な宗教観なのです。それは、罪の恐れや死後の裁きに対する人間側の精一杯の言い回しであり、サタンによる惑わしがあるのです。

 神を信じ、傾倒することは、唯一神の信仰からは大事なことで、信仰に身を委ねようとしない自称信仰者に対する、神からの無反応で反駁されます。神が反応されるのは、積極的信仰者のみであり、神は無信者には対応されないのです。そして、神からの無反応が信仰者にとっては、一層の献身や熱心に繋がっていき、不信者には信仰の無意味さを説明するものとなるのです。

 人生には、人間の力では解決できない試練や問題が多く起こります。そういう時に、日本教信者も、それなりの信仰行為をしますが、それは、その人の言い回しであり、詭弁のための行為しかありません。無神論には、人生の解決はないのです。終点は死だと思っているのですが違うのです。死は、裁きの初めでしかありません。裁きの日に、無神論者は嘆くのです(黙示録1・7

「自分は一生懸命生きてきた。神も仏にも信心をし、人にも尽くして来た。」という言い回しができれば、その人の人生は十分なのが、日本教なのです。

 聖書の神は、「神が忠実な信仰者と共にいることを知らしめる」ことを為して、自己顕示をされるのです。神の自己顕示こそ、無神論的宗教に対する最も効果的なアピールです。そして、神の自己顕示を求めることこそ、私たちの信仰が、生きたものであるか、真実なものであるかを明らかにするのです。

 モーセの後継者ヨシュアにとって、指導者としての自らの力を民に見せるための大きな賭けでもありました。三百万人の人々が自分に従わなかったら、イスラエルの民は滅びるのです。神は、「わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知る為である。」として、真実な信仰者になるように、ヨシュアに決断を促したのです。

 二日に、ながらハウスにある10m直径50センチの大木を二本、チェーンソーで切り倒しました。幅3m程の所に倒さなければ家か構築物が壊れます。後で薪にしましたが、30センチの長さでも10キロ以上あります。全部では数百キロあったでしょう。二人の息子がロープで引っ張る中を私がどんどん切っていくので、彼らは驚いていました。やり方を調べ、よく検討したら勇気を持って大胆に事を行うだけです。それで、家が壊れたら、黙々と直して行けば良いのです。多くの人が、「もし失敗したら」と恐れて、自分ではせずに、業者を呼びます。金で解決しようとしたら、自分の経験にはならず、強く雄々しくなることもありません。

 信仰を持つということは、神に我が身の人生を賭けるということです。勇気がなければできるものではありません。契約の箱を祭司が担いでヨルダン川を渡ろうとするまで、川の水は溢れていましたが、彼らの足が水際に浸った時に、流れ下る水が堰を為して立ち、後に続く民も乾いた地を歩いてヨルダン川を渡り終えたのです。指導者というのは、そのあり得ない途河命令を出して、民に信仰の凄さを体験させなければならないのです。イエス様は、マルタに対して「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか。」(ヨハネ11・40)と怒り、「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために」としてラザロを蘇らせました。

 「信じられない。」とか、「信じさせてください。」という人がいますが、信じなければ進むことはできずに敗北するのです。学校に行くのも信仰、就職するのも信仰、結婚も信仰、出産も信仰、家族の幸せも信仰、毎日が神を信じなければ幸せになることはできないのです。不信仰者は、日本教の罠に陥っています。言い訳では幸せになれません。だから、「強く、雄々しく」なければならないのです。



1月11日 壮健で主に従い通す。 ヨシュア記14614
新改訳ヨシュア記14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。

14:7
主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。

14:8
私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。

14:9
そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。

14:10
今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

14:11
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。

14:12
どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」

14:13
それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。

14:14
それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。

塩野七生(ななみ)の「日本人へ―リーダー篇」に、愛する人や国を守るためには、命を掛けなければならないということは、世界中の男たちは知っているが、日本は金を出せばどうにかなるという安易な人々が増えているということを書いています。戦後70年、民主主義を誤解した人々が拝金主義に成り果てて、自らが立ち上がらなければ、国も社会も、会社も家庭も守れないことを認めずに、ご都合主義と誤魔化しの処世術を身に付けているようです。

 戦争をするとすれば、日本ほど容易い国はないでしょう。テロも、犯罪も、日本でやったら、人々は簡単に屈服するのかもしれません。戦国時代や明治維新の時代劇が流行っていますが、命を掛けて国を守り、愛する人を守るという気概の男たちが若くして世界を駆け巡ったのです。それは、もはや現実には適えられないから劇になるのでしょうか。

 フランスでたった二人によるテロがありました。洗脳されたとしても、自分達の教えの為に、教祖が侮辱されたということで、命掛けで人を殺害し、その信念を貫きます。普通の理性の人には異常であることは明らかでも、そういうことに感動する人々がいるのが事実で、カナダやアメリカのテロに続いたものでしょう。そういうことは続くものなのですが、それは単に信念や信仰のために命を掛けるということだけで、それが異常であっても、その信仰の人々にはインパクトがあるのです。

 幕末の志士たちの行動も、当初は異常であり、支配層や理性的な人々からは、全く理解されず、迫害されるのも当然なものでした。しかし、人間というのは、実はまず、感情から動くのです。そして、次に自分の命を守り、勝つために方策を考えるのです。次第に、志士たちの言動は落ち着いてきて、尊王攘夷(外国人を排斥)から、外国との交易や協力による富国強兵に代わってきます。歴史というのは、その当事者自体は、それほどきちんとした考えによるものでなくても、後でまとまって来るというものなのです。イスラムの狂信者も、実際にイスラム国という国家を形成し、ITを駆使した世界的影響力を持つものとなっています。

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15・13)と愛による自己犠牲を強調するイエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(15・12)と、ご自分が十字架に掛かってまで私たちを愛したように、私たちも犠牲的に愛し合うことを命じられました。そして、それを実行する者こそ「わたしの友です。」と言われるのです。つまり、互いに愛し合うということは、命掛けでなければならないと言われるのですが、それを麗しきラブストーリーのように把握してしまうのが、現代西洋社会なのでしょう。残念ながら、罪人にラブストーリーなどありえません。「愛している。」などと何回言っても、それは自己都合のことばまわしであり、相手のための自己犠牲ではないからです。更に、神を愛するということは、信仰の為に他のことを犠牲にする覚悟を持つということであり、神を信じて御利益を獲得するという昨今の宗教や占いやオカルトとは全く別次元のものです。

暮れに姪の結婚式のために日本橋を妻や子ども達と歩いていると、娘が「お父さん、凄い迫力!」と言いました。写真を撮ってもらったのが、表面のものです。昔から、威張ることは嫌いで、穏やかなお爺さんになることが願いで、皆から、「顔が怖い!」「貫禄がある。」と言われても、誤解だと思っていました。自分の力で学校も社会も生き抜いて来たので、こんなになってしまったのでしょうか。

 さて、今年のテーマは「次世代を育て上げる」です。神が、カナンの地をイスラエル民族に与えると言われても、実際に戦うのは彼ら自身であり、カナン人は強大で勇者なので、その戦いには多くの苦難が予想されます。人生と言うのは、たとえ信仰を持っていても苦難ばかりであり、神を信じて戦う勇気を持つ者だけがサタンとの戦いに勝つのです。サタンと面と向かって戦うわけではありませんが、勇気を持たず、恐れおののいて生きようとさせるのが、サタンの罠なのです。神を信じるということは、神の教えである聖書を理解し、聖霊の励ましと導きに従って、霊の戦いに出るということです。

 カレブは言います。「私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。」「荒野を歩いた45年間、主は約束された通りに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、今日でもう85歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」そして、最も困難だと言われているアナク人の勇者アルバが治めるヘブロンを奪い取ったのでした。

 昨年の教会総会で、「身体にガタが来ているので、2020年に引退を」と宣言しましたが、神によって簡単に一蹴されました。妻子の世話などばかりをして女々しくなったところもありました。覚悟を決めたら身体が回復し、壮健になってきました。ながらハウスで自然に囲まれながら働いていると力がみなぎってきます。現在、二つの本を執筆予定です。先日、大学教授の医師に本の構想を語るとたいそう感激されました。社団法人も組織を拡大します。教団にももっと仕えて行きましょう。教会の牧師としては、これからが働き盛りのような気がします。皆さん、いかがでしょうか。私と一緒に、教会を築き上げていきましょう。

 「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。」死ぬまで働いて従い通し、そのまま神の国に凱旋をしたいと願います。


1月18日 平和を受け継ぐ。 ヨハネ福音書141627
ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

14:18
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

14:19
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

14:20
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

14:22
イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

14:23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

14:24
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

14:25
このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。

14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

14:27
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。



イスラム国の残虐ぶりを見てアッシリヤを思い出します。女性にベールを掛けさせたのはアッシリヤからのようですが、奴隷や娼婦には被らせていません。イスラム国とアッシリヤ帝国の本拠地は殆ど同じですから、民族的に残虐なものがあるのかもしれませんが、歴史上最も残虐な国で、敵の皮を剥いで磔にしたり、生きたまま壁や柱に塗り込めたり、手足を切り落としたりし、征服すると捕囚として人々を拉致してきました。北イスラエルは、アッシリヤによって捕囚に連れて行かれ、国家として滅ぼされたのです。

イザヤ、エゼキエル、ミカ、ナホム、ゼパニヤ、ゼカリヤなどの預言者は、このアッシリヤに対する神の裁きと罰を預言しているように、イスラエル人にとっても、大きな脅威であり、信仰と平安を脅かすものでした。ナホムは「主はねたみ、復讐する神。」(1・2)と語り始め、「主は怒るに遅く、力強い、主は決して罰せずにおくことはしない方。」(3)としながら、「主は慈しみ深く、苦難の日の砦である。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」(7)と信仰者に慰めと励ましを語っています。

 欧米では、イスラム国の協賛者によるテロが相次いでおり、各国の政府は、その対策に全力を上げています。アメリカを初めとし各国のイスラム国への空爆がありますが、一般民衆が楯にされているようでもあります。現地ではスンニ派ジハード主義以外の宗教は認められず、それ以外のイスラム教徒も迫害され、子どもたちは拉致されて兵士や奴隷にされているようです。まさしく、アッシリヤの再興です。

 先日、ある若者と話したら、「ビンラディンは殺されて当然だ。イスラム国も破壊しなければならない。」と興奮していました。私が、これらはアメリカによるイラクやリビアなどへの武力攻撃が大きく原因しており、武器の供給にもなっていると話したら、「悪は武力で打ち破らなければならない。」と言っていました。同様な見解は、世界やマスコミの趨勢になっているようです。

 聖研で聞いたら殆どの人が悪人には会っていないとのことでした。私自身は、興奮して教会をかき回して教会に他の人を来させなくさせる人から始まり、無言電話を一日百回以上半年くらい続ける人、暴力で傷つける人、盗みを繰り返す人、嘘を繰り返してお金を騙し取る人、気に入らないことがあると計画的に人を騙す人、組織を破壊させるために時間とお金を掛けて自分の思い通りにならなかったことの復讐をする人、ともかくいろいろな悪人に会ってきました。私が未熟なのにいろいろなことをするからとも考えました。しかし、うつの人は攻撃されても原因が自分になると考えてしまうとのことなので、正確に分析して見ると、やはり誤解や興奮はあっても、悪を許容している人々だったと思います。

 裁きがあるということは大事なことで、いくら自分を正当化しても、裁判で犯罪とされたら罰を受けなければなりません。飲食店で店の製品を身に付けたり、冷蔵庫や食糧庫などに入るバイトテロなどは、本人たちは悪ふざけでしょうが、それで店が潰れたり、多くの被害が出ているわけです。罪悪感のないことが悪人の特徴なのです。

自分の主義主張を通すためには他人を傷つけても良いと考える異常な人々がいつの時代にもいたのですが、家長や権力者や取り締まりがあったので、暴力を振るえるのは無法地帯、つまり国家権力がきちんとしていない時代だけでした。ところが、最近は家長や街や組織や学校の指導者がきちんとしていないので、若者が道徳を身に付けないようになってきました。その結果がバイトテロや、若者の犯罪でしょう。成人に達した人々の悪は、始末に負えません。ホントの悪人は、法に罰せられないように巧妙に犯罪を犯しています。振り込め詐欺なども典型でしょう。ただ、アッシリヤやイスラム国や北朝鮮のような悪質な国家になると指導者自体が悪なので、被害者は悲運としか言いようがないほど、苦しい目に会います。これにどう対処するかが、信仰者としては大事なのです。

 イエス様は、「あなたがたにわたしの平和を与えます。」と言われました。世の中が与える平和は、そのような国家的な戦争のない平和だと思います。或いは、国家の治安維持が強ければ、悪がはびこることは少なくなるでしょうか。歴史や小説は、平和でも悪人ははびこることを証明しています。自らの心の中の平安については、実はそれらに対して平安であること(実際に平和であるかどうかはともかく)が確保されてから達成できるものです。平安を持つということは、物事に関知しないということで確保できるほど容易いものではないのです。

 イエス様の平和はどのようにして確保できるのでしょうか。それは「もう一人の助け主」(14・16)が私たちに信者に与えられるからです。

 ところが、聖霊を受け、神を信じる者になったからといって、簡単には平和は確保できません。「その方は、真理の御霊」(14・17)だからです。真理を行おうとする意識がないならば、たとえクリスチャンになったところで、平安にはなりません。「その方は、私たちと共に住み、私たちのうちにおられる」ということを強く意識し、聖霊なる神に聞き、大事にして日々を歩む必要があるのです。

 さらに、21節にあるように、その人は、聖書の戒めを守り、父なる神とイエス様を愛することが必要です。人を愛するということが、わからない人が多いようです。「愛している。」などと口では言い、愛したいと思っても、実際には愛していないのです。わたしは、言葉を変えると、「その人といつも一緒にいて相手を気遣い、優しく接し、相手を責めないで喜ばすこと。」だと思います。どうみても、愛している行動を取っていない人が、「私は本当は、この人を愛している。」などということは、神の前に偽善というのです。実際に愛している行動を取っていない人に、聖霊は内住することはできないのです。

 どのような時代にあっても、聖霊なる神の内住があれば、イエス様の平安を身に付け、「平和をつくる者」(マタイ5・9)となることができるのです。


1月25日 キリストの平和に支配され。 コロサイ書3415

コロサイ3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:5
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

3:6
このようなことのために、神の怒りが下るのです。

3:7
あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。

3:8
しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。

3:9
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、

3:10
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

3:11
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

3:12
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:13
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

3:14
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 

教会総会の為に前年の活動を振り返る時、いつも主に対して自責の念に駆られます。一年間、いやこの歳になるまで、何をやっていたのだろう、と申し訳ない思いになります。これまで受けた人の批判が、こういう時には自分への責め句になって吠えたけるようです。

 若い頃は、平気で人の批判や裁きをしていました。ですから若者の批判や攻撃性を見ても、若気の至りと怒ることもなくなりました。歳を取るということは、周囲の人間の不幸や不具合、軋轢が自分の責任のように感じて苦悩することなのでしょうか。そういう私の葛藤を子どもが執り成し、大目に見てくれるとホッとします。人を赦せなくなるというのは、その人自身の未熟性に他なりません。たとえ、過去に受けた心の傷が大きな原因としても、神の前には自分の行為や他人に向けた感情の吐露は自らが責任を負わなければなりません。

 ところが、この罪責感というものは、聖霊なる神が私たちに示すものであって、「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあるように、普通の人は感じないのです。

 先週、イスラム国はジハード主義によって、その攻撃的暴力的行動を取っているとお伝えしました。「ジハード」とは「聖戦」と訳されることが多くなりましたが、本来は「神の道のために奮闘せよ。」という意味合いだそうです。そして、宗教的には、「心の中にある悪、不正義、欲望、自我、利己主義と戦って、内面に正義を実現させること」と説明されていました。

 私は、イスラム国に加わって、武力攻撃やテロを繰り広げている人々も、正義を主張してイスラム国に空爆を繰り広げている人々(国家)も、基本的には変わらないのだ、ということを伝えているのです。

 韓国や中国も国家として日本の第二次世界大戦時の残虐性を未だに訴え続けますが、戦争というものに残虐性のないことなどなかったのです。アメリカだって原爆を落とし、都市に空襲を続け、沖縄をはじめとして日本軍の島々に無差別な砲弾攻撃を続けたのです。歴史上、勝者が誉を受けるのは当然であったが、敗者が戦後70年も経て、他国に責められ続けるのは、殆どなかったと塩野七生さんが言っています。

 ジハード、聖戦という言葉を主張して、「ジハードで戦死した者は、天国に行く。」として、人々を戦争に駆り立ているのは、いつの時代にも、どの国にもある支配者によるマインドコントロールであり、今や世界中の人が、白黒、敵味方の区別をするのを当然とするようになってしまいました。

つまり、「聖霊によってこそ、罪を自覚する」ので、普通の人は、人を殺しても理屈さえ付ければ、心が責められることはないのです。そして、私たちクリスチャンもまた、同じように、「理屈によって人を責める」人になってしまっているのです。

ジハード、つまり、私たちも神の名を借り、聖書を引用して、人を批判し、攻撃をしているのです。昨年、期待していた人から痛切な非難を受けましたが、その言葉を読みながら、あてはまるところもあると、私は認めていました。ただ、私自身は、そのような個人攻撃はしたことがなく、それは自分もまた罪人だからという認罪感があるからです。つまり、罪を指摘し合うのは、未信者のパターンであり、そういう意味で、その人の魂を心配しました。

 5節は、まさに正しい意味での「ジハード」の内容なのでしょう。8節にあるように、「怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」。スーパーで杖を突いた老夫婦が、買い物をしながら罵りあっていました。夫人は倒れたからでしょうか、顔が腫れあがっていました。私たちは、生身の人間では、近しい者に対してほど、厳しく批判し攻撃する罪深さを持っています。

 クリスチャンというのは、そういう攻撃性を「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」(3・9)。他人を攻撃するのは、未信者の特性です。罪というのは、そういうものです。人を変えようとし、他国まで変えようとするのが罪人の特性なのです。

 自分以外の人は、コントロールしようがありません。罪人は滅んで行くだけのことです。寛容というのは「尽くす」(Uテモテ4・2)べきものであって、「絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」つまり、未信者や、無道徳、愚か者に対しては、その罪を責め、戒め、改善することを教えながら、その罪に感化されてはいけないのです。親としての訓戒や厳しい躾をするのは、この領域のことだと考えています。躾けに従える子どもや人は主にあって、多くの祝福を受けます。しかし、それも成人に達するまでなのでしょう。私は、期待するあまりに大きな失敗をしました。

暴力というものは、結局のところ自らを滅ぼします。不道徳や愚かさも自らを堕落させていきます。私たちは、そういう人々と行動を共にしてはいけません。たとえ、夫婦であっても家族であっても、聖霊に導かれていない人に感化を与えることはできません。ただ祈るだけなのです。

そのようにして自らの霊性を保つと、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」12)ることができるのです。キリストの平和は、あくまで個人的なものです。それを他人に要求することこそが、聖霊に満たされていないしるしなのです。そして、キリストの平和に満たされた者こそが、キリストの平和を伝えることができるのです。

あなた自身が、自らの心を治め、新しい人を着て歩むように心がけるべきなのです。


2月1日 強く雄々しく掟を守り行う。 ヨシュア記129

新改訳 ヨシュア記1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

後の日本で特徴的なことは、父親が弱くなったことだろうと思います。「お前に任せる。自由にやってみたら。」などと言われて、正しい判断ができるようになるために、何度失敗することでしょうか。社会に生きる者として、経験・常識・判断力その他を身に付けることは多くの時間が掛かり、単なる情報だけでは成功することは少ないのです。子ども達に失敗を体験させながら見守る父親の存在は大きいのです。母親は、どうしても失敗をさせないように守る傾向がありますが、それでは自らの判断で社会を生き抜くための訓練はできません。

 「メディア・リテラシー」という言葉があります。「情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力。メディアの特性や利用方法を理解し、適切な手段で自分の考えを他者に伝達し、あるいは、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力のこと。」と説明されます。現代社会で有能に生きる為には、このメディアを使いこなす能力が必要ですが、実は、メディアに使いまわされているのは、人間の場合であることが多いのです。電車の中でも、レストランでも、家庭でも、スマートフォンを操作し続けている人々は、メディアに遣いまわされているのです。

 ところが、そのようにメディアに囚われている人々は、人の意見よりもメディアの情報に左右されることが多い傾向にあります。そして自らの判断は持っていないのです。メディア情報というのは、かなり偏ったものであり、同じことについてでも発信者によって全く違ったものになってくるのです。例えば、韓国や中国の反日行動の情報についても、受け取る側は、そればかりがあるように偏った判断をします。日本における韓国へのヘイトスピーチでも、一般の日本人は全く関係ないのに、報道される韓国では、日本の反韓意識は強く、嫌なものとして捉えられてしまうのです。実際には、韓国の人と親しく個人的に交流を繰り返すことが必要です。同じことは、イスラム教の人々に対しても言えるでしょう。日本人は多数意見に左右されることが多いのですが、それはしっかりとした判断基準をもっていないからです。

 出エジプト記18章で、舅のエテロがモーセに対して、民を裁くために朝から晩までモーセが働いているのを見て、「彼らに掟と教えとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべき業を彼らに知らせなさい。」と助言しています。人々はいちいちどのようにするべきか判断を求めてきます。掟と教えを身に付けていない人は、大事な時に判断が出来ないのです。人が歩みべき道は、情報に左右されるのではなく、掟と教えに基づいて判断するべきなのです。情報を有効に用い、正しい判断をするためには、その人自身がしっかりとした原則を身に付けていなければならないのです。

 「恐れてはならない。おののいてはならない。」という恐れは、どこから来るのでしょうか。この世には全く間違いのないことや心配のないことはありません。しばしば、「完全な信仰を与えてください。」とか、「信じきる」などということがありますが、そのようなことはマインドコントロールを受けている判断のできない人にしかありません。「信じる」ということは、「信じられないことは一杯あるけれど、恐れおののかずに、神を信じることを選ぶ」ということなのです。

そして、それは「強くあれ、雄々しくあれ。」ということと共に、訓練によって身に付くのです。私自身、9人兄弟の末子で甘やかされて育ちましたから、赤面症で、どもることもあり、神経質で弱虫でした。運動も音楽もダメな、太っちょの小学6年生でした。でも、「虚しい人生は送りたくない。」という決心で自己改造を繰り返したのです。机の後ろには「誠に生きるならば真理に至る」と筆で書いて自分を励ましていました。そして、そういう決心が神に届いたと考えています。

 信仰を持ってからは、今日の聖句が自分の戒めとなり、強くある為に、断食を繰り返し、墓場や山に行って祈りました。最近も、雄々しさを取り戻すために、木を切り倒したり、大工仕事をしています。チェーンソーを使う時は、恐れおののくことなく、教え(説明書)を読み直します。そして、ヘルメットやゴーグルを付けるとか、マスクをし、丈夫な靴を履くという掟(注意事項)を守ります。

 説明書を読まず、注意事項を守らない人は愚か者であり、いつかは失敗をします。同様に、教えを身に付け、神の掟を守ることが、人生を雄々しく戦うための必要事項なのです。一つの仕事をするために何と多くの準備と計画をすることでしょうか。

 子ども達を強く慎重な信仰者にするために、敢えて世の中の風習と考え方に染まることを覚悟してきました。教会員についても、干渉をやめ、その信仰と根性を見守ってきました。しかし、そろそろ、終末の戦いと困難が迫ってきています。私自身は戦士という意識が強くあります。人を生ぬるく育てても、結局のところ、サタンに惑わされ、世の中に負けて、魂の滅びを体験するのではないかと考えてきました。実際、誘惑に負けて信仰を離れた人々は、掟や教えとしての聖書のことばを身に付けてはいませんでした。

 人が強くなるかどうかは、本人の自覚に掛かっています。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(Tテモテ6・12という覚悟を持たなければ、イエス様が警告された終末の試練には耐えられないでしょう。「人々は、あなたがたを苦しい目に合わせ、殺します。・・・憎まれます。・・・最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24・9-13)。

 ヨシュアはカナンの土地を獲得するために戦いました。私たちは、神の国に行くために戦う必要があるのです。「自分は、イエス様を信じ救われたから、これからも恵みによって生きて行こう。」などと考えていると、一タラントを地に隠した愚かな僕のように罰を受けることになってしまいます。罰とは、この世の試練や迫害に負けて、永遠のいのちを失ってしまうことなのです。

 この人生を戦い抜くために、聖書のことばを本気で信じ、実践することが大事だと考えています。甘い考えは、この世の君に騙されている証拠です。強く雄々しくあってください。


2月8日 立ちはだかる者はいない。 ヨシュア記129

新改訳 ヨシュア記1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

先週と同じ聖句ですが、今日は雄々しくあり、強くあるための別の面をお話します。私たちの前には、多くの困難があり、問題があり、敵がいて、思わぬ事故や災害もあり、私たち自身は弱く罪深い存在です。もし、自分の弱さや罪深さをわきまえないで、「自分は神様を信じるから何でもできる。」と無謀な行動を取るならば、愚か者という烙印を押されるような失敗を犯すでしょう。

 私は、怒りや苛立ちなどの感情を制御できず、また、安易に敵対行動や批判をする人に出会うと、「この人は失敗をするな。」と心配します。逆に、自己卑下をしたり、溜息をついたり、弱音を吐く人を見ると、どのような失敗がこの人を挫折させたのかと想い見ます。苦労や逆境を重ねても、それに囚われずに努力を重ねている人には、この人の親はどんな人だったのかと感心することもあります。

 私自身が経験してきた「立ちはだかるもの」を列挙させてください。

¨         家が貧しく、学問や文化や教養を教えてくれる人がいなかった。

¨         9人兄弟の末っ子で甘やかされて育った。

¨         親は職人で忙しく、勉強する環境がなかった。

¨         大学に行った人はおらず、その金もなかった。

¨         頭が良く優秀な人と出会わなかった。

¨         金持ちや知恵のある人とも出会わなかった。

¨         必死な受験勉強をしたのに、高熱が出て、希望大学に行けなかった。

¨         大学でも尊敬する人や信頼する人には出会わなかった。

 そしてイエスキリストを信じ、魂の救いと平安を得ました。もし、これらが満たされていたら、そこで満足し、神を求めなかったかもしれません。キリストイエスは、私の友となり、師となり、聖霊は助け主となり、私を導いてくださいました。しかし、救われてからも、試練はありました。

¨         友人や教授や知人から信仰の故に非難を受けました。

¨         教会では期待されて多くの奉仕を任命されてしまいました。

¨         バイトを制限しなければならず、経済的に厳しくなりました。

¨         什一献金だけでなく、多くの奉仕に出費がありました。

¨         日曜は一日中、教会で奉仕をすることが強要されました。

¨         勉強する時間がなく、大学院の入試に落ちてしまいました。

¨         留年して大学院に行くと長老にされて、更に奉仕が増えました。

¨         心身症で社会生活が十分に送れず落第しそうな女性と婚約しました。

¨         学部長推薦で受けた会社に信仰の故に不合格となりました。

¨         身体は疲れ果てるけれど、周囲の期待は大きくなるばかりでした。

 そして、自分の将来を模索し、牧師献身をしました。それしか道はないように思えました。山中鹿之助が「憂き事のなおこの上に積もれかし、限りある身の力為さん。」と詠ったそうですが、そのような心境でもありました。しかし、困難は増えるばかりでした。

¨         神学校に行くことを家族や周囲から猛烈に反対された。

¨         婚約している女性は卒業の4年後には心身が破綻するように思われた。

¨         神学校に行く資金が全くなかった。

¨         結婚することにすると、猛反対された。

¨         結婚しても、妻の症状は改善しなかった。

¨         妊娠して切迫流産になった。

¨         子どもが生まれても育てる能力、余裕、経済力がなかった。

¨         通学時間は往復4時間で、買物、家事などしなければならなかった。

¨         妻には毎日数時間カウンセリングをしなければならなかった。

¨         千葉で開拓するように迫られたが、行ってみると攻撃された。

¨         来るのは精神病者ばかりだった。

¨         更に子どもが生まれ、育児と家事に追われた。

¨         問題が山積みで、金もなく、断食ばかりをしていたので、身体を壊した。

¨         教会に来る人は問題を起こしてばかりで、献金もせず、要求ばかりをした。

¨         妻も事故を起こし、子どもも問題を起こし、教会も成長しなかった。

¨         伝道の為と父母会長やPTA会長をして忙しくなるばかりだった。

¨         10年経って、信者がいっきに出て行ったしまった。

 きりがないほど問題は起こり、私は戦い続け、祈り続け、そして勝利は束の間で、休み暇なく、働き続けました。最近のことは、皆さんもごご存知のとおりです。「義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。」(イザヤ26・7という聖句を信じ、前に向かって進み続けました。確かに、妻子を抱え、泣き言を言っている暇はありませんでした。

詐欺にも、盗賊にも、脅しにも、横領にも、裁判にも、攻撃にも、病気にも、事故にも、本当に多くの試練に遭いました。しかし、進んで行けば立ちふさがるものはものはありません。妻と「エクソダス」の映画を観ました。海が開け、渇いた地を歩くイスラエルの民は、自分の歩みのように思い出しました。その道をエジプトの軍隊が追いかけると、大波が押し寄せて彼らを呑み込みます。信仰者だけが、信仰の道を歩むことができるのです。

神は、「あなたと共にいよう。あなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(5と言われます。それを信じるということは、弱音を吐かず、愚痴を言わず、信じないことの言い訳を言わず、ただ黙々と努力を重ね、前進していくことなのです。試練や困難も神の計画のうちにあるのです。「神の御計画に従って召された人々の為には、神が全てのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8・28ことを私は知っています。止ったり、やめたり、諦めたり、失望してはいけません。「主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」(9)。

問題であった妻が今は良き同労者として、共に働いてくれています。召されるまで働き続け、前進したいと願っております。


月15日 この民に継がせなければならない。 ヨシュア記129

1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

 

またまた先週と同じ聖句です。先週は、私どもが多くの立ちはだかることを乗り越えてきたことをお話しました。信仰生活は、信じているという思考上のことよりもむしろ、実践生活で信仰に基づいた行いを果たすことが大事であり、それをもって信仰の証明をします。ヤコブは、「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブ2・18)と語り、自らの信仰を証明する行動の履歴と成果を要求します。

 モーセが死んだ後の後継者ヨシュアと民にとって、カナンの地に住みついている強大な人々を追い出せということは、非常に困難なことです。実は、この困難さは、バビロン捕囚の後や1948年のイスラエル建国の時も全く同じようにありました。現在のイスラム国問題も元々はイスラエル建国に原因を発していることでもあるように、困難を解決するのには、多くの時間と犠牲を必要とするのです。この後、サウル王を経てダビデ王による王国設立まで300年以上掛かり、バビロン捕囚からの帰還も500年以上掛かってローマの支援により落ち着いた次第なのです。ところが、神の国を期待するあまりにローマにも反逆し、紀元70年にエルサレムが陥落して、再びイスラエルの人々は世界に離散するわけです。

 つまり、選民と言われるイスラエルの人々の苦難は、歴史上常に起こっており、その個人個人の苦労は筆舌に尽くしがたいところがあるでしょう。逆に言えば、信仰者というものは、常に試練があるものであって、「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに、称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・7)。ところが、その試練にあっても、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(Tペテロ1・5)。

 天路歴程というように、人生というのは天国を目指してひたすら苦難の道を進んで行かなければならないように思います。歩まなければ、進まなければ神の国には入れないのです。スイスでは3500mの頂にまで電車が着くのに驚きました。私も楽をしたいのは山々ですが、そうもいかないのです。「無知であった時の様々な欲望に従わず」とあるように、黙っていても私たちには自らと周囲の人々の欲望の嵐があり、そして、サタンや悪霊の存在もあり、祈りと御ことばによって聖霊に導かれなければ、肉の奴隷となってしまうのです。途中で、試練のために死ぬことがあっても、神の国に目指してひたむきに歩んでいたならば、主が迎えてくださるのです。

 クムランの洞窟というのは、この世の生活から離れて、修道院のように聖書の写しと祈りの生活をするために共同生活をしていたエッセネ派の遺跡ですが、エルサレムの陥落の後、直ぐにローマ軍によって滅ぼされました。彼らは、羊皮紙に写した聖書を高い所にある洞窟の奥に壺に入れて隠しました。破損しないように厳重に保管してあったのですが、一部は、あわてて隠したものらしいものがありました。そこも廃墟と化したのですが、そこに隠されていた写本は死海写本として、旧約聖書を完全に保存するものとして後世の信仰者に大きく貢献しました。

70人訳聖書というものは、紀元前200年頃のイスラエルにとって暗黒時代と言われる迫害期に、エジプトのプトレマイオス2世の命令でアレキサンドリアにヘブル人の律法学者が国家予算で集められ、丁重にヘブル語から当時の国際語であるギリシャ語に訳されたものです。使徒たちが用いた聖書もこの翻訳であり、これがさらにラテン語、アルメニア語、コブト語、エチオピア語その他の言語に翻訳されて、福音の伝播に用いられました。

 また、ローマ帝国による迫害下にも各地に散らばされたヘブル人は、パリサイ人の指導で旧約聖書を暗誦し、信仰を保持する集会を1900年も続けて、イスラエル復興に願いを保持しました。他方、クリスチャンも地下教会で信仰を守り、福音を伝えて異邦人も教化して、迫害を繰り返したローマ帝国において313年のミラノ勅令で公認され、392年に国教となります。つまり、迫害は、常にあり、信仰の保持は数百年レベルで、貢献され勝利するものとなるのです。

 私の信仰生活もようやく40年となりますが、成果が現われて来たのは、先週お話したように、35年くらいからでしょうか。「桃栗三年、柿八年、久雄(ユズ、梨)の大馬鹿18年」と唱えてきたことは何回もお話しましたが、信仰18年の1993年頃は痛風と不整脈と花粉症その他で死ぬかと思うような試練の頃で、とても実が実るような時ではありませんでした。そして、ご存知のように今でも多くの試練があります。最近は、子どもたちを含めて、教会にも後継者が育ち、次世代が育つまでにあと20年は掛かる事を覚悟して、肉体の強化と保持に努めています。

 私たちの視点は、短気な人は成果を2,3日で求め、気長な人でも数年ですが、信仰の目では神に委ねて、黙々と歩みを進めるだけなのです。ただ、はっきりとしていることは、安穏として日々を過ごしているだけでは、信仰者としての歩みとしては認められないということです。自らのことを振り返れば成果のない歩みが10年以上続きましたが、それでもなお神を信じ、仕えて犠牲を払ってきました。刈り取りや成果というものは、なかなかありませんが、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6・8)とあるように、短期的な成果が現われないことこそが、自分の動機と、内面を試みられるような気がします。「神は侮られるような方ではありません。」(ガラテヤ6・7)は、言葉や理屈に流されない誠実な歩みを求められるのです。

 私の子どもも30歳を過ぎて来ましたが、いまだ気を抜かずに祈り、見守り、育てているつもりです。生涯を掛けて神に仕え、そして神に仕える次世代を育て上げて行かなければなりません。「そろそろ、悠々自適な引退生活を!」などと言っていては信仰の先達に申し訳が立ちません。今年から、当教会では高齢者は75歳以上となりました。そのうちに80歳以上になるかもしれません。申し訳ありませんが、覚悟して主に仕えていってください。


2月22日 律法を昼も夜も口ずさむ。 ヨシュア記129

ユダヤ・ヘブライ民族が、離散しても1900年も民族性を保ちつづけたというのは奇跡ですが、それは今日の聖句に従い続けたと言って良いでしょう。イスラエルには、帰還法というものが1950年に制定され、「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し、他の宗教を一切信じない者」がユダヤ人とされます。現在、世界には1340万人のユダヤ人がおり、イスラエルに530万人、アメリカに528万人いるそうです。

 ホロコーストと言われるナチスドイツによる大量殺りくでは600万人のユダヤ人が殺されたので、その生き残りのユダヤ人を救うべくしてパレスチナへの10万人のユダヤ人受け入れを承認されました。イスラムのオスマン帝国が第一次世界大戦で同盟国側で戦った為に、戦後に領土が連合国に分割され、パレスチナはイギリスの委任統治になりました。なお、パレスチナという用語は、イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来して命名されたそうです。1917年、イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ人のロスチャイルド男爵にユダヤ人の居住地をパレスチナに認めるバルフォア宣言を出してイギリスはシオニズム(エルサレムに還る運動)支持を表明します。1918年にユダヤ人は56000人がここに住んでいたそうです。

シオニズムが盛んになって、1947年1月にパレスチナ分割決議が国連でされて、これまでのイギリスの委任統治が終わり、アラブ人とユダヤ人の共同統治の国を創ることが認められ、世界中から60万人のユダヤ人が集まりました。アラブ人地域、ユダヤ人地域、共同のエルサレムに分かれましたが、アラブ人とユダヤ人の争いは続いている中でイギリスは1948年5月に委任統治を終了すると宣言すると、ユダヤ人評議会はイスラエル国家の独立を宣言し、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトとの間に第一次中東戦争(1948/5/151949/3/10)が勃発しました。イスラエルが殆ど勝利しましたが、ガザ地域はエジプト領となり、ヨルダン川西側とエルサレム旧市街もヨルダンのものとなりました。中東戦争は5度もあり、最後の1973年にはエジプトが安息日に一気に攻めてくるなどということもありました。

ユダヤ人は、中世では土地所有を禁じられ、商工業のギルドへの参加も認められず、1290年のイングランド追放令や隔離政策などもあり、いつの時代にも迫害を受けて来ました。それでもノーベル賞の22%はユダヤ人であり、ユダヤ財閥は銀行、石油、ダイヤモンド、武器、など多方面で世界経済を支配しています。

日本国籍を持てば日本人で、その定義はあいまいです。ところが、ユダヤ人は前述のように明確な定義があり、日本人がイスラエルに住んでもユダヤ人としては決して認められません。父親がユダヤ人でも、母親が他国人であれば、認められません。ユダヤ人の母は、ユダヤ教を子供に教える役目を担っています。そして、ユダヤ人とは神に選ばれた民としての強烈な自意識をもっているのです。その意識の基本は、男子の割礼にもあるでしょう。13歳の成人式の「バル・ミツバ」は、「義務を負う人」という意味があり、その後、トーラー(モーセ五書)の朗読や祝祷の資格をすることができるそうです。安息日も厳密に守り、トーラー朗読は大変名誉なことなので、その準備にも多くの時間を費やすようです。

食事の規定も厳密です。豚肉や甲殻類やタコ・イカは食べられず、牛肉も血抜きをしなければなりません古代の衛生上の理由でもありますが、実際にはそのような理由はつけません。「ダメなものはダメ」なのです。肉と乳製品を一緒に食べることもできません。神に従うということについて、理由を考えてはいけないのです。ですから従わないということはありえないのです。ここまでは、キリスト教ではなく、ユダヤ教の教えです。

 クリスチャンであっても、子どもを躾けること、教育することは神の命令です。ですから、子どもに対して感情的になってはいけません。条件付けで従わせることもだめです。もし、不服従や罪を犯したりしたら、どんなに時間が掛かっても、犠牲があっても、悔い改めさせなければいけません。それが子どもの永遠のいのちに関わっているからです。

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6・33)という御言葉は、「他のものが損なわれても、人間関係が損なわれ、仕事に支障が来たとしても、神の戒めを守りなさい。」ということです。損得や人への気遣いよりも、神の基準を守ることに注意するべきです。現代キリスト教は、功利主義的になりすぎて、信仰の基準をあいまいにしています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」(Tコリント2・14)。「私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」(4・10)。「神は、知恵ある者を辱しめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1・27)。

 私の妻は愚かな女で、医学生だったのに、朝の祈祷会を毎日守り、礼拝も祈祷会も厳守し、聖書を読み、日曜学校を一生懸命して、能力が追い付かずに落第生になりました。それで限界を感じると、医師を辞めて宣教師になろうとするのだから、どうしようもありません。今でも、教会の為、伝道の為ならば、他のものを犠牲にすることを平気でします。それで、自分勝手で打算的な私が夫に選ばれたのです。私は、妻が献身的なのを見て、しょうがなく献身的なっています。とても愚かな者にはかないません。その妻が、私に従うことを「神の国の条件」と思っているのですから、私は追い立てられて神の国を求めています。

 子供を忠実な信仰者に育て上げていないのは、やはり私の責任です。悔い改め、神の国とその義を第一に求める愚かなキリスト者になろうとしています。本気で神の国を求めるのには、この世のことを考えたり、知恵で生きたり、打算をしていたら無理だと、つくづくわかってきました。自分の能力では、どうしようもないのです。少しずつ、祈り深くなり、御言葉に聴くようになってきました。でも、まだまだ、打算的です。神は私をご存知です。悔い改め、御ことばと聖霊に従って生きたいと願っております。


3月1日 愛を身に付ける。 コロサイ書31224

コロサイ3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

3:20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。

3:21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。

3:22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。

3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

3:24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。 

女性の人生は、その夫によって左右されると言われますが、男性にしても同じであり、その妻によって人生が左右されます。そのことは、古今東西の歴史や小説などによっても記されています。先週、ユダヤ人とは、その母がユダヤ人であることが条件の一つであることをお話しましたが、そのように母や女性の存在の重要性をしっかりと認めることが、組織にとっても男性にとっても必要です。

『話を聞かない男、地図が読めない女』と言う本を読みましたが、ホルモンの分泌で生後すぐに男女の脳の働きが違ってくるという解説でした。そして、男の乳幼児は物に関心を示し、女の乳幼児ははっきりと人間に関心を持つということでした。男はものごとの達成に関心を持ち、女は人間関係に関心を持つので、行動が全く違うそうです。夫婦の会話で、男性は要するにどういうことかと口を出して、結論を言いたがるけれども、女性は話の内容や結論よりも、その会話自体を楽しむということです。妻が愛情を示してというと、夫は芝刈りをしたり、成績を上げることを考えるのが普通だそうです。夫婦仲の良い友人と話すと、そういう違いを理解しているのが夫として当然という結論が出たのは愉快でした。女性の関心や傾向を理解していない夫は、仲の良い夫婦になることは難しいでしょう。

結婚式には、夫婦としての愛の誓いをしますが、私にはそれを忠実に守っている夫婦は少ないように見受けます。つまり、「愛情が残っていれば愛し合うが、今は状況は変わっており、お互いに忙しいので、真剣には付き合っていられない。」というような感情を夫も妻も持ってしまっているのです。特に、夫の側に、先程の本を読んでいただきたく思いますが、男は結婚して直ぐに、仕事に専念し、稼ぎを妻に持って帰らなければならないと考えて、それを愛の行為と見なしてしまうのです。妻と一緒に一日を過ごしてどのくらいの会話を交わすでしょうか。単語ではなく、文章と相手の気持ちを思いやる言葉や行動を取るでしょうか。特に日本男性は、この訓練が日常されないで、自分の父親と同じようになるので、女性への対応が下手です。女性の側も、その話下手の夫に要求を繰り返す傾向があります。男性は、要求されることが非常に嫌いなのです。男は認められ、尊敬され、従われると安心して、人を愛する余裕が生まれるのです。そうでないと悲劇か修羅場の夫婦関係になっていきます。

コミュニケーション講座で変化があった人は、夫或いは妻と仲良くなりたい、と決心した人です。相手への要求を繰り返す人では、コミュニケーションはうまくいきません。今年の教会テーマは、「次世代を育て上げる。」ですが、若者や子ども達は、要求や決まり文句で育つようなことはありません。「あなたの行く所どこででも」自らが聖書の言葉を守り行っているということを、子ども達に実際に示し行っていく必要があるのです。聖書を実践する最小の、そして最も必要な単位が夫婦なのです。神を信じるということが形骸化するか、祝福を得るかどうかが、現実としての愛を身に付けることに掛かっているのです。

「自分は礼拝を守っている。」「奉仕やチラシ配布の伝道をしている。」などと男性は自分の信仰の働きを言いますが、それは女性の関心としては愛にはなりません。男というものは、自分の働きや成果によって自己確認をするものですが、それは妻にとって愛としては全く考慮されません。妻にとって、夫の稼ぎは大事ですが、自分の話を聞いてくれ、自分を大事にする行動を取ってくれることが愛の証拠なのです。

 「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」12)という言葉を意識するには、私には牧師としての職業が必要でした。若い時には、「主の為に一生懸命働いている」という意識が、それらの欠如に対する言い訳でした。今になってみれば、それが子ども達に対して全く不適切であったことを自覚します。男は、妻子や若い人々に対して、これらの言葉を丁寧に実践しなければならないのです。

 それでは女性たちはどうでしょうか。やはり同じでしょう。人間関係ばかり気になり、話に時間を割くけれども、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を夫や子ども、そして周囲の人々に行っているとどこまで言えるでしょうか。

 まずは朝に聖書か信仰者の言葉を熟読することです。そして祈ることです。昼にも散歩でもしながら、食後の静かな時を持ちましょう。夜には、家族と語らい合いながら、御ことばの確認をすることです。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」15)。皆さんには、ディボーション(黙想、個人礼拝)の本をお勧めします。ぜひ、お買いください。

 食事は家族一緒で楽しみ、穏やかな会話を交わしてください。ゆっくりと相手の言葉を聞き、それを確認して気持ちを共有しましょう。仕事や世の中のことを話したら、それを御ことばの中から対応を確認するようにしたら良いでしょう。自分の過去や関心にとらわれて、内容の無い話をして時間を消化してはいけません。そのような会話は自分の品性を落とすだけです。自分から会話をしなくても、相槌を打ちながら、祈り心に相手の心がキリストの平和を得るように導いたら良いでしょう。その人の会話の内容で、その人の品性や信仰がわかります。男性も女性も、意識しなければ下らない茶話に終始することが多いようです。それを見聞きしたら、子どもたちは人生に希望を持つことはなくなるでしょう。

 神を信じているとか、教理を理解しているとか、そういう建前上の信仰生活に安んじていてはなりません。実際に、神の国の住民として、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。・・・あなたがたは主キリストに仕えているのです。」23,24)。


3月8日聖徒だからこそ相続ができる。 コロサイ書1314

新改訳 コロサイ1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。

1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、

1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、

1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 

神を知る或いは意識するということは、自然界の感動の中でも起こります。私は、園の管理人として週に2〜3日を過ごすようになりましたが、空を見ても、草花を見ても、散歩をしても感動を経験しています。そのことは詩篇19篇の前半の自然啓示に示されています。しかし、悔い改めの必要や十字架の救いというもの、さらに信仰者が如何に生きるものかを自然啓示では知ることはありません。

聖書は神の言葉ですが、それを読んだからといって、直ぐに神の言葉の全体を理解できるものでもありません。私たちに人間は罪深く、また知識においても能力においても限られた存在なので、神のことばを全く理解するということは不可能なことであります。しかし、だからといって、聖書の言葉に対して真摯な対応と探り求める誠実さがなければ、道を誤ってしまうことになります。

年をとっていろいろなことを任され、責任を負う立場になりましたが、若い人々の安直な言動や安易な過失に心を痛めることが多くあります。それは牧師などになった人々にも同様で、神の前の真摯さがあればと疑問を感じることが少なくありません。聖書を論理的に理解したとしても、それは一部であって、自らが聖化され、成熟した上でこそ、神の僕としての言動が身に着き、そして聖書の論理がわかるようになってくるのだと感じています。

ただ、自らの愚かさを顧みれば、やはり人の成長には年月が掛かることは承知であり、自らが受けた配慮や祈りに気が付き、今は自らがその立場になっている歳月の経過におどろくばかりであります。人の成長には、自らの愚かさと罪の自覚、そして、人々の助けや愛が必要であるとつくづく思います。そして、それらすべてに行き渡る神の配慮と計画があるのです。

このコロサイの教会には、異端の教えが入ってきて教会を混乱しました。

@     割礼を強いてユダヤ教的な食べ物や飲み物、そして祭りや安息日に関する決まりを強調する人々。2・11-16

A     御使い礼拝をする人々。2・18

B     禁欲主義。2・21

C     ギリシャからのグノーシス派などの哲学的思考。2・8

これらは、物質は悪であり、神が悪である物質を作るはずがない、神との交流は悪である人間が直接に出来るはずがない、などという勝手な思考を全てに適用する人々の論説が教会に入り込んできたことなどによるのです。教会には、宗教とか聖書とかいう名前においていろいろな教えが入り込むことがしばしばおこります。「神がこう教えられた。イエス様が私に示した。聖霊は、奇跡を起こされる。大事なことは、信じ抜くことである。」などと、一見正当に見えることを言って、私たちを惑わしてくるのです。振り込め詐欺に今でも数百億円の被害があるそうですが、人間は簡単に騙されるものです。宗教に騙されることも多いのは当然です。

聖書の教え、キリスト信仰というものを、私たちクリスチャンがしっかりと把握し、神との人格的交流を確保していないと、私たちも簡単に惑わされることがあるのです。また、誘惑や失敗、事故などによって挫折してしまうこともあるのです。私には洗礼を受けた人々のその後の歩みの執り成しの責任があり、信仰を離れた人々が挫折した経緯を思います。彼らは信仰よりも誘惑に心が行ってしまったのです。それは、「天に蓄えられている望み」5)への期待が希薄だったのでしょうし、私の教育が足りなかったのですが、何よりも神への信仰が誠実ではなかったような気がします。

 若い頃の私は、親を悲しませてはならないという意識が、自らを戒め、誘惑に打ち勝ち、努力へ向けさせました。信仰を持ってからは、私のために十字架に掛かってくださったイエス・キリストに対する誠意と愛が、自らを律して来たように思います。

 道を誤るのは、不遜な人が多いように思われます。要するに傲慢な人です。神や人に仕えるという意識や、人を愛し助けるという思いが少なく、自分の成功や出世ばかりを考えている人に共通な失敗のケースが多くあります。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57・15)という言葉に感動する者は幸いです。大事なことは、「あらゆる善行のうちに実を結び」、そのようにしてこそ、「神の知る知識を増し加えられ」るのです。

 注解書によれば、「忍耐とは、信仰・希望・愛が不可能と思われる状況の時に生じさせるものであり、寛容とはその三つが不可能と思われる人に対して示すものである」とありました。その「忍耐と寛容を尽くし」てこそ、「聖徒の相続分に与る資格」が与えられるのです。

 子どもたちや若い世代を育て上げるために、私たち自らが謙遜になり、人を愛し助け、神と共に歩む必要があるのです。人生に誤魔化しは効きません。自分の人生に詭弁を巡らせても、神にある誠実な歩みをしなければ、子孫が信仰を持つことはなく、神の平安もえることもなく、まして「聖徒の相続分に与る」などは思いも寄らないことになるのです。

 私たち夫婦は、肉の親の相続は全て放棄しましたが、霊の親は私たちに多くの相続を為してくださいました。神の子とされることは、何と素晴らしい事でしょうか。


3月15日 キリストは私たちを買い取ってくださった。 コロサイ書11523

新改訳 コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、

1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

 

コロサイ書のこの部分は、イエス・キリストのことを聖書でも最もはっきりと説明したものとして高く評価されています。イエス様は、天地万物を作られた方であり、父なる神から生まれた永遠の存在であると指摘しています。

人としては、イエス様は人間の罪を全て贖ってくださった方です。贖うというのは、奴隷を買い取るということを意味しています。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々を救いだしたように、神は、私たちを罪の奴隷であった状態から救いだして下さり、御子の支配の中に移して下さいました。罪の支配から自由になったのです。

ところが、出エジプト記を読むと、自由になったはずのイスラエル人は、何度もつぶやいており、エジプトで奴隷であった時の方が良いとモーセを責めます(14・12)。神は、そのような彼らを救い、天からのマナとウズラによって養います。彼らには十戒と律法が与えられるのですが、その戒めに従うことができず、殆どの人がカナンには到達できず、子孫が入ることになります。ただ、神を信じ、信仰を告白したヨシュアとカレブだけが入ることになります。

新約に私たちの時代には、イエスキリストの血汐によって、私たち救いを求めた者も、救われて神の国に入る特権を与えられます。しかし、私たちもまた、頑なであって、罪を犯し、神に逆らってしまい、神の国に入る事が出来なくなることがよくあるのです「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように心を頑なにしてはならない。・・・彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。」(ヘブル3・8.10)。「わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、他でもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。」(ヘブル3・18)。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益となりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結び付けられなかったからです。」(ヘブル4・2)。とあるように、神のことばを信じ、従うということが救われる人の特徴なのですが、殆どの人にとっては、神のことば、聖書は神のことばではなく、ただの書物になっているのです。そして、単なる読み物であり、そこにある奥義も、人生の参考書でしかないのです。

それに反して、救いを求めるということ、神のことばに従うということは、救われるべき人にしか、起こり得ない不思議な神の業なのです。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが」(コロサイ1・21)とある現実から、救われたのは奇跡であります。それでも、私たちもまた、荒野のような現実の日々を過ごし、その中でつぶやき、神に逆らうことはしばしばあり得るのです。神によって贖われ、罪の奴隷であったエジプトのようなこの世から救いだされたのにも関わらず、罪の奴隷として肉欲の中に生きる誘惑に負ける人々は多くいるのです。

イエス・キリストは神と共に居られたのにも関わらず、人間として生まれ、十字架に掛かってくださいました。その命を掛けた犠牲という尊いものを、軽んじてこの世に魅かれてしまう人々が多くいるのです。それが罪というものの怖さです。そのような罪深い、軽率な人間のために、御子イエスが十字架に掛かって死んで下さいました。あり得ないことです。神でありながら愚かな賭けをしたようなものです。

 この世は知恵を尽くし、誘惑の限りを尽くして、私たちを虜にしようとしています。そして、私は一度確かに救われながら、この世の虜になり、道を踏み外した多くの人を知っております。牧師こそ、霊の戦いの最前線におります。そして、敵の虜になり、教会に残る信仰者を嘲笑う人々がいることを知っているのです。

 私たちは、そのような人々に対して、寛容であったり、同情する者であってはなりません。彼らは敵であるサタンの虜になり、そして今はその手先として、私たち義と正義に生きる者たちを嘲笑う敵となってしまったのですから、惑わされてはいけないのです。

 私は厳しい人間です。もし、私に霊的な目がなかったら、この世に迎合していたら、多くの偽りの者がこの教会に入り込み、教会を荒らし回っていたことでしょう。実際には、多くの教会が、聖書の預言の如く、偽りの信者によってかき回され、崩壊してきています。むろん、私自身にも多くの攻撃や誘惑が入り込みそうになります。祈りとみことばに寄らなければ、聖さを保つことはできません。

 イエス様は、「あなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるため」(コロサイ1・22)に、私たちの罪を負って十字架に掛かってくださったのです。それが、罪と死に対する神の戦いであり、唯一の赦しの道だったのです。この世から救われる必要があると信じていない多くの人々がいる中にあって、救いを求め、聖めを求めるということは、現代社会にあってはあり得ないほど、愚かなことになって来たような気がしています。怖い事です。

 社会の中に生きることが怖くなるほど、この世は、誘惑と不信仰と敵意に満ちたものになってきています。イエスキリストの犠牲を無意味なものにしてはいけません。


3月22日 キリストと苦しみを共にする喜び。 コロサイ書12329

新改訳 コロサイ1:23-29

1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。

1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 

ながらハウスには一面に芝が植えられています。春と共に、その芝の中に雑草が伸び始めました。私は、見事に咲く河津桜の傍に腰かけ、前の方がバラのアーチを幾つも立てて、綺麗な庭にしようとしながらも雑草との戦いに明け暮れた様子を想いました。まるで、欠点や罪をなくそうとひたすら頑張り、綺麗で清い自分にしようとする人の姿のようでした。しっかりとした計画やプランもなく、一生懸命働くだけですが、やはり仕事や雑事に追いまくられて、いつしか疲れ果ててしまいます。

我が家の庭も、14年前に購入した時は、梅にはカイガラムシが一面につき、花はあまり咲かずに梅の実などは全く取れませんでした。狭い区画にモミジや槇などごちゃごちゃに植えてあり、老齢の家主には手入れする余裕もなかったのでしょう。私は思い切ってモミジや槇はどかし、肥料をやりながら剪定をしました。改築の時には、太陽が当たるように全体の配置を考え、カイガラムシはヘラで丁寧にむしり取りました。そして、今は15キロくらいの梅の実が取れるまでになり、庭全体も手が掛からなくなりました。ながらの庭は広いので、一年掛けて季節の様子を見ながら、計画して行こうと思います。

計画のない人生も、同じようです。一生懸命働いても、疲れ果てるだけで、実りを得ることはできません。テレビやゲーム、そして新聞や雑誌を見て、時を過ごしている人もまた、同じようなものです。私たちは、何の為に生きているのでしょうか。それは、神との交流を喜び、自らの使命を全うすることのために力を注ぎ、そのようにして神の栄光を現わすことです。それは、人に見せて自慢することでもなく、自分に失望することでもありません。

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」27)。

実は、庭のデザインが大事なのではありません。その人自身の内にキリストが内在しているかどうかが、人生の価値と喜びを与えるものであり、その内在こそがキリストにある成果をもたらすのです。聖霊の内在があれば、自分の罪のあれこれなど気になりません。自らの弱さや失敗など、キリストの内在があれば、全く問題になりません「私はキリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・9.10)。言い換えれば、雑草を抜いて綺麗にしようとするよりも、雑草よりも強いものを満たせば良いのです。自分の弱さや罪深さが気になるのは、キリストに満たされていないからなのです。キリストの霊、つまり聖霊に満たされていない人は多くおります。「弱い時にこそ」、神の霊に依存するので、聖霊に満たされた人は、問題や困難に対する自らの解決能力を問題にしません。そもそも、聖霊に満たされれば、この世の困難は、「キリストの苦しみにあずかる」(ピリピ3・10)光栄となります。

キリストは、人を救うために十字架に掛けられ、自ら犠牲となりましたが、パウロは、それこそが、「死者の中からの復活」(ピリピ3・10)としての勝利の奥義であるというのです。その同じ意味合いが、「私は、あなたがたの為に受ける苦しみを喜びとしています。」(コロサイ1・24)なのです。キリストの苦しみの欠けたところとは、現在にも続く、教会と信仰者の試練ですが、それはキリストではなく、私たち主の弟子が負うならばキリストの苦しみにあずかることができるのです。

 信仰というのは、不思議なものです。罪を犯し、それを悔い改めず、是認すると次第に罪が分からなくなってきます。聖霊が信仰者の中におられることが出来なくなってしまうのです。それは、牧師であっても同じです。自分の働き、実績を誇り、神の前の罪人であることを認めづらくなってしまうのです。確かに、雑草だらけの芝生はみっともないもので、誰が見ても異常であり、荒れ果てた庭となります。このような人の特徴は頑固になるということです。そして、平気で嘘を言い、誤魔化しをするようになることです。

 キリストを土台として人生を建て上げるという明確な信念が必要です。しっかりとした土台には雑草は生えません。そして、建て上げた家の床にも雑草は生えません。そして、キリストを土台とするということは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様についていく」(マタイ16・24)ということです。自分の十字架を負うということは、自分の罪ではなく、自分の周囲の人の罪深さをあなたが負担する、ということです。それが、「キリストの苦しみの欠けたところ」なのです。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6・2)とあるように、「もしだれかが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で、その人を正してあげなさい。」)ガラテヤ6・1)ということで、十字架を負うということが達成されるのですが、そういうことで、高慢にならないよう、「自分自身も誘惑に陥らないよう気をつけなさい。」

 キリストの霊である聖霊を内在していただくためには、自分自身の罪深さ、弱さを認めるということが大事ですが、そのようなためにはいつも、他の人に関心を持っていなければなりません。自分自身の雑草取りも、他の家の雑草取りも余分なことで、雑草があることを認めて、雑草よりも強いキリストの御霊を受け入れ続けながら、他の人を愛し、その助けとなることを行うのです。そして、その他人への関心を失うことが魂の滅びへの繋がることに気が付いています。特に、高齢の方々が、自分の魂と他の人の魂に関心を持たなくなっている結果、キリストの内在を損ねてしまっている人が多いようです。実は、問題や困難があるということは、魂の健全性のためには良いのではないかと考えています。


3月29日 神の奥義であるキリスト。 コロサイ書2214

新改訳 コロサイ2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。

2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。

2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

 

今日はシュロの主日と行って、イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城された日です。人々は、「ダビデの子にホサナ!」と言って喜び、いよいよ王としてローマを打ち破り、強大なイスラエル国家を治めると期待したのでした。しかし、この週の内に、イエス様は十字架に掛けられ、死んでいくことになります。人々は、現世的に弱いイエス様に失望し、十字架を負って歩くイエス様に石を投げたりするほど嫌うのです。

 人が望むのは、現世における成功や祝福、そして勝利です。確かに、死後の世界について不安を持ちますが、魂のことについて考える人は殆どおらず、自分の都合の良いように生きることを考えます。人生について、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」(マタイ21・42)とあるように、信仰や魂の救いを人生の根本問題と考える人は少なく、人々はそれを見捨てるのです。イエス様は、そういうユダヤの人々に対して「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の身を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21・43)と宣言します。

 先日、信仰の破船にあった子を持つ親と会いました。その息子は、信仰を成功者になる為に用いようとして、失敗したのに気が付かず、悔い改めることを出来ないでいるのです。魂のことは親でもどうしようもありません。自らは、神に従い、十字架を負って生きていくことを覚悟し、憐れみ深い神に委ねながら、霊の戦いに踏み出て行く姿を見ました。「王が客を見ようとして入ってくると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」王が無償で与えた服を着ないで、勝手に婚礼の席に入って着た者は、手足を縛られて暗闇に追い出されてしまいます。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22・1-14)。イエス様の十字架の救いによる義の衣を着ていなければ、神の国には入れないのです。

 不思議なことです。ある人々は「心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになり」コロサイ2・2)御霊によって聖められ、栄光から栄光へと変えられていきます。まさに奥義なるキリストです。他方、いくら教会に来ていても、全く変わらず、聖められない人々がいます。教会に来ていても、魂の救われていない人は成熟や聖めを求めないのです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Tコリント2・14

 自分の子どもでも、兄弟でも、神の国のことは、わからない人にはわかりません。私には、不思議に思うことが多くあります。かつては御霊に燃えた人々が、今は全くこの世の人になって、御霊のことをわきまえない人がいるという事実です。罪を犯し、それを悔い改めないでいるからでしょう。二又の道を間違えたように、悔い改め(方向転換し神中心の考え方に戻る)、もと来た道に戻って、十字架の道を歩む人は、殆どいないでしょう。「まことしやかな議論によって、あなたがたを過ちに導く」4)人がいたし、その犠牲になったのかもしれません。

一緒に食事をする家族にも魂の救われた人と、救われていない人がおり、一緒に集う教会にも、魂の救われた聖めを目指す人と、この世のことを考えている人がいるのです。ある人は「キリストにあって満ち満ちているのです。」10)、「人の手によらない割礼を受け」11)たのです。そういう人々は、さらにこの世に生きている中において、多くの苦難を体験し、「神の力を信じる信仰によって、キリストと共によみがえらされたのです。」12)。そういうことは、そのようなことを体験している人にだけ通じる奥義なのです。他方、「だましごとの哲学によって」8)虜になった人もいるのです。

 道を踏み外した人の特徴は高慢です。「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人々がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気に掛かっているのです。」(Tテモテ6・3.4

 現世的な利益を追求して、イエス様を「ダビデの子にホサナ!」と叫ぶか、十字架による救いを体験して、自ら十字架を負い、その道に従うか、私たちの決断は、御霊に導かれることを望むかどうかに至ります。もし、キリストに従う道を歩まないのであれば、「私たちに不利な、いや私たちを責め立てている債務証書」14)によって、罪の奴隷に戻ってしまうのです。