10月5日 愚かな者の行動原理。  箴言1章7102033
 

箴言1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。

1:9 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。

1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。

1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、

1:21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

1:22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。

1:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

1:24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。

1:25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。

1:26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。

1:27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、

1:28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。

1:29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、

1:30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。

1:31 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。

1:32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。

1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

 

先週は「愚かな人の死に方」をお話しましたが、人は皆、罪の中に生まれ、愚かな行動を取ってしまうものです。ただ、愚かなことを繰り返しながら、悔い改めて成熟し、神の人となっていくか、愚かな人のまま死んでいくか、この世という試金石のようなプロセスなのではないでしょうか。信仰者にとって、現世は、永遠の神の国に比べたら束の間のものであり、艱難辛苦、喜怒哀楽の出来事を通して、私たちが神に受け入れられる者になるか、或いは創造主の思いに気が付かない愚か者として、滅びの中に入っていくかが、試されていくのです。

 人間の愚かさというのは、どういうものでしょうか。聖書で言う愚かさと、この世の言う愚かさは違うものであることに気が付かなければなりません。自らの愚かさをも振り返りながら、吟味してみましょう。

@   聖書では、愚かさとは「神はいない。」と思っていることです。詩篇14・1

この世では立派な方々、社会に貢献している方々、地位や業績を築いている人は多いのですが、人生とは何のためにあるのかを考えないで生きている人々を愚か者と聖書は定義づけます。

 しかし、神を信じている、罪を悔い改めていると言いながら、愚かな人々もいる者です。不信仰者の論理は、神を信じ救われている者達の愚かさによって反論され、神の公正さを反駁されるのです。

 ただ、聖書は義人はいない、と断言しているので、そのような能力と実績のある人々の自己義を認めないのです。「知恵ある者」と自認するならば、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1・7として、なぜ神を求めなかったのかと断じられます。

 無法者という言葉がありますが、法に従わないで好き勝手に生きてきた者も、法の裁きに服する時に、自らの失敗に気が付きます。「父の訓戒、母の教え」というのは、法と正義に従い、神が見ておられることを悟って生きることにあります。

A   愚かさは、神が求める生き方を行わない自己義認にあります。マタイ7・26

 自分の信条や考え方、社会の規範や風習、などに立って、人生を築き上げることが危ういものであることを認めるからこそ、信仰という岩の土台に立って生きようと、岩を彫り刻んで土台を据えつけようと努力するのです。

私たち信者もまた、神を信じる者に課せられた、神への献身、御霊による成熟、信仰の結果としての実りを問われるのです。つまり、神が審判者として、不信者に裁きを付けるためには、信仰者がその実を見せていなければならないのです。神は愛だから、私たちをありのままに受け入れる、ということばは、多くの信者に信じられているのですが、そんなことはありません。神は、信者に献身を要求するのです。ただ、それは父の愛と義を知っている子としての理解であることは当然です。

わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」とあるように、行動を起こさず、自らの生活に籠っている人もまた、愚かな人であることを知っていなければなりません。失敗をすることが愚かなのではなく、失敗を恐れることが愚かなのです。

B 愚かな者は、感情的に生きる。

 「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」(箴言12・16)、「知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。」(箴言14・16)、「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」(箴言14・29)

 最初から賢い人はおりませんが、自らの愚かさを深く反省する中で、言葉を遅くするようになり、導きを求めて神にも祈るようになるのです。そういう愚かさと罪の中で、私たち信仰者は如何に生きれば良いのでしょうか。

A.「異言を話す者は自分の徳を高める。」Tコリント14・4

 「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。」(14・2)とあるように、愚かなことをしそうな時、話しそうな時、そして、心が苛立っている時には、異言で祈るのです。愚かなことや罪は、その人の霊が汚れているからするであって、そういう時は自分の霊性を確認できないのです。未信者と争ったり、心が苛立つ時に、普段、異言で祈っている習慣を持っている人は、自分の霊性が落ちていることに気が付くものです。

 異言で祈るということは、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深い呻きによって、私たちのために執り成して下さいます。」(ローマ8・26)、「御霊は、神の御心に従って、聖徒のために執り成しをして下さるからです。」(ローマ8・27)ということです。たとえクリスチャンであっても、異言の祈りなくしては、霊性を聖く保つことはできません。私たちの存在が罪であるということを認めるということは、自分の知性や感情に従った判断や行動が、罪からのものでありうることを認めることです。だから、異言の祈りをいつも保つことが必要なのです。「絶えず祈り」ということは、異言の祈りなしにありえないのです。

B.「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Tコリント14・3

 預言というのは、神からの言葉を預かるということで、聖書の言葉を御霊に導かれて、人に向かって宣言するのです。預言者というのは、教会では多くの場合、説教者がその働きに任じられます。預言者というのは、自分の罪性や愚かさを考えていてはならないのです。自らが御ことばに従っていないことを自覚すると、宣言することはできなくなり、「そう思う。」とか、「そうかもしれません。」とか、「だそうです。」などという無責任な発言になります。牧師は傲慢だ、よく自分の罪深さを考えないで言えるものだ、などということを考えていては、牧師職は務まりません。御ことばの宣言が説教者の役割なのです。そういう面で証しやお話、講演などと説教は根本的に違うものであり、神に代わって、聖書の御ことばを宣言しなければならないのです。


10月12日 親は愚かで、子は賢者?  Uサムエル17114182632,33

17:1 アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。「私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、

 17:2 彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。

 17:3 私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。」

 17:4 このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入った。

18:2 ダビデは民の三分の一をヨアブの指揮のもとに、三分の一をヨアブの兄弟ツェルヤの子アビシャイの指揮のもとに、三分の一をガテ人イタイの指揮のもとに配置した。王は民に言った。「私自身もあなたがたといっしょに出たい。」

 18:3 すると民は言った。「あなたが出てはいけません。私たちがどんなに逃げても、彼らは私たちのことは何とも思わないでしょう。たとい私たちの半分が死んでも、彼らは私たちのことは心に留めないでしょう。しかし、あなたは私たちの一万人に当たります。今、あなたは町にいて私たちを助けてくださるほうが良いのです。」

 18:4 王は彼らに言った。「あなたがたが良いと思うことを、私はしよう。」王は門のそばに立ち、すべての民は、百人、千人ごとに出て行った。

 18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。

 18:6 こうして、民はイスラエルを迎え撃つために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行なわれた。

18:32 王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」

 18:33 すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」

 

『ふうけもん』とは「愚か者」という意味であることは先週お話しました。この映画の主人公は、若い時にヤクザになって取り立てを行い、夫婦心中をさせてしまい、残った男の子のことが気になり、ノイローゼになっていきます。そして、宣教師に出会い、クリスチャンになるのですが、そして始めるのが、何でもやる便利屋でした。いつでも笑顔で辛い仕事をこなす父親を娘は「馬鹿みたい!」とけなしながらも仕事を手伝います。彼は、孤児院に預けられた男の子に毎月10万円を仕送りしながら、人の罪をも背負い、必死に生きて行きます。ところが、彼ら夫婦には、それぞれ許せない親がいたのです。妻の母は彼女が幼い時に、男と駆け落ちして、彼女を捨ててしまいました。彼もまた、仕事ばかりして妻の死に目にも駆けつけなかった父親を許せないでいたのです。

 自らが必死に生きれば生きる程、肉親の裏切りや不義、或いは嫌な性格などは許せないものなのでしょうか。この話は、右近勝吉の実話ですが、クリスチャンであっても、心というものは、思い通りにはならないものです。先週お話したとおりに、異言の祈りと、聖書の御ことばによる預言がなければ、人というものは、たとえ信仰者であっても、霊性が整わず、感情に惑わされてしまいます。結局のところ、主人公は、妻と母親の和解を通して、自分も父親と交流を始めるのです。そういう面で、人と人との掛け橋になるのは、人が必要なことも真実です。人とは愚かな存在なのです。助ける人がいなくては生きていけるものでもありません。

 義母の葬儀に来られた船津師が、妻が精神的に病んでどうしようもない時に、「毎朝、娘の為に水垢離(冷水を被ること)をして祈った。」と金沢教会のキャンプに娘の様子を見に来た時に言ったそうです。その時に、私も参加していて、ジロっと見られたのを覚えています。交際していたわけではないのですが、「娘が好きなのは、この人だな。」と気が付いたと後で言っていました。私たち夫婦に対する多くの干渉も、娘が心配なあまりのことだったのでしょう。失礼なことをせずにいて、後に「良子は久雄さんと結婚して良かった。」と感謝を告げてくれたことは、私の人生に意味を与えてくれました。

 親が子どものために愚か者のように自分を犠牲にし、子どもが賢者のように親を利用するのはよくあることです。自分の人生を振り返る時、親の為に費やした日々も金銭も、親が私に注いでくれた愛情から比べれば、何ほどもこともありません。自分の親不幸を悔いるだけです。

 仏式の葬儀を営みながら、魂のことを知らず、神の国も裁きも知らない人々の、儀礼にしか自らの思いを注げない葛藤を感じました。人は皆、死んでいく。それをわきまえ、それに耐え、故人を尊ぶことで、自己の死の現実を覆うとする悲しみも感じました。多勢の風習の前に何ができるのかと苦しみました。立ち上がり、福音を語ろうとする衝動も覚えましたが、ただ当惑と嫌悪感を与えるだけであったでしょう。そして、死者は忘れられ、生活の中から消えていくのです。しかし、その魂はどうなるのでしょうか。私としては、義母の最後の告白の祈りに、神の憐れみを請うばかりです。自分が牧師であっても、葬儀の席では、ただ頭を下げることを繰り返す、儀礼に忠実な親族の一人にすぎません。教会の葬儀の感動が、激しい渇望として私に訴えます。

 ダビデの愚かさが私の心を打ちます。魂の救いの無い息子が死ぬよりも、自分が死ねばよかったのだと、苦しみ叫ぶのです。子どもを教え躾けられなかった咎が自らに罰のように襲いかかるのです。救いは神からのもの、思い通りにならない人の魂が、救われている者にとって、苦しみを覚えるのです。

 人は、それほど器用に完璧に生きられるものではありません。ダビデは、王として神の前に生き働き、国民のために命を注いで尽くしたことでしょう。しかし、子どもにとっては、自分のために愛と時間を注いでくれる良き父親ではなかったのです。フェースブックに、To a child, Love is spelled, T-i-m-e“とありました。「子どもにとって、『愛』とは『時間』ということである。」ということです。子どもや愛する人に対して、十分な時間を注ぐということは、誰にも難しいことです。

 この世の水準では、愚かな親ほど、子どもと一緒に過ごす時間が長いのかもしれません。ダビデは、自分が王であることを、子どもたちの非行を前に悔いたのです。王であり、優秀であるとして、何ほどのことか。

 「自分の父を呪い、自分の母を祝福しない世代。自分をきよいと見、汚れを洗わない世代」(箴言30・11,12)。そのように子どもがなってしまったら、親としては絶望かもしれない。たとえ、名声があり、富が積まれ、自分の好きなように生きられたとしても、人の心は思い通りにはいかない。ただ、犠牲を費やし、子どものために祈り、執り成し、そして、願いが適うように、水垢離でも願掛けでも何でもするだけの人の弱さがあります。その言葉の前に、「確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ、知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。」(箴言30・2)とうなだれるしかないのかもしれません。

 知恵を求めることも虚しく、業績を得ようと労苦することも泡のように消えてゆくのかもしれません。ただ、神を愛し、人を愛し、その為に時間を注ぐことこそ、私たちの人生の意味合いかと思います。イエス様は、私たちに「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じられました(マタイ22・37,39

 


10月19日 賢い者の愚かな死  Uサムエル1957、T列王22833

Uサムエル19:5 ヨアブは王の家に行き、王に言った。「あなたは、きょう、あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、それに、あなたの妻やそばめたちのいのちを救ったあなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました。

19:6 あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないことを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。

19:7 それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。」

T列2:28 この知らせがヨアブのところに伝わると、――ヨアブはアドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。――ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ。

2:29 ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇のかたわらにいる、とソロモン王に知らされたとき、ソロモンは、「行って、彼を打ち取れ。」と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。

2:30 そこで、ベナヤは主の天幕にはいって、彼に言った。「王がこう言われる。『外に出よ。』」彼は、「いやだ。ここで死ぬ。」と言った。ベナヤは王にこのことを報告して言った。「ヨアブはこう言って私に答えました。」

2:31 王は彼に言った。「では、彼が言ったとおりにして、彼を打ち取って、葬りなさい。こうして、ヨアブが理由もなく流した血を、私と、私の父の家から取り除きなさい。

2:32 主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返されるであろう。彼は自分よりも正しく善良なふたりの者に撃ちかかり、剣で彼らを虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、ネルの子、イスラエルの将軍アブネルと、エテルの子、ユダの将軍アマサを虐殺した。

2:33 ふたりの血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭とに注ぎ返されよう。しかし、ダビデとその子孫、およびその家と王座にはとこしえまで、主から平安が下されよう。」

 

親の愚かさと深い愛情を先週お話しましたが、その傍にはヨアブがいました。ダビデの甥にあたる軍師ですが、黒田官兵衛とは違い、権謀術策をして、その地位を確保しています。ダビデの姉、ツェルヤの子は、アビシャイ、ヨアブ、アサエルであり(T歴代2・16)、ヨアブがダビデに従おうとする将軍アブネルを暗殺した後、「この私は油注がれた王であるが、今はまだ力がたりない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわ過ぎる。主が、悪を行う者には、その悪に従って報いてくださるように。」(Uサムエル3・39)と家来たちにこぼしています。

ダビデの37人の勇士には、アビシャイとアサエルの名は記されていますが、ヨアブの名は記されていません(Uサムエル23・8-39)。ダビデが嫌っていたのは、石田三成のように頭脳明晰で非情な権力欲のあるヨアブです。ダビデは生前には、ヨアブを罰することはとうとう出来なかったのですが、世継のソロモンは、ヨアブを越えた知恵者であり、ヨアブも恐れたようで、結局は墓穴を掘ることになります。そこが、豊臣秀吉とダビデの違いでしょう。ダビデは親馬鹿でありましたが、信仰者としての筋を通し、悪や不正に迎合することはなかったのです。

サウルに追われている頃のダビデに仕えていたのは兄のアビシャイで、ダビデが南のユダの王とされてからヨアブが加わって、北イスラエルのサウル側との戦いで将軍アブネルに弟アサエルが殺された仕返しに暗殺するところから記録が始まっています。アブネルの暗殺は、仕返し以外に、賢明なアブネルがヨアブにとって権力を握る上で邪魔だったからに違いありません。

 当時、エルサレムはエブス人が治めていましたが、「『誰でも真っ先にエブス人を打つ者をかしらとし、司としよう。』ツェルヤの子ヨアブが真っ先に上って行ったので、彼がかしらとなった。」(T歴代誌11・6)とあり、これは南北イスラエルの統合の後のことなので、これでヨアブが全軍の司令官になったようです。ヨアブは、ダビデの町となったエルサレムの再建にも関わっています(11・8)。

 ダビデがバテ・シェバと不倫を行った後、その夫ウリヤを最前線に出して死ぬように命令したのもヨアブに対してであり、ダビデの悪に加担することで、その弱みをもヨアブは握ることになります(Uサムエル11・15)。神は、この後直ちに預言者ナタンをダビデに遣わし、「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上に災いを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、・・・」(Uサムエル12・11)と、その後のダビデに起こる災いの原因としての神の裁きを宣言するのです。ダビデは、悔い改めますが、罪は「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」(11・14)と神は怒ります。そのような神とのやり取りは、不信仰者ヨアブにはわかりません。

 しかし、ダビデの一度の不倫の結果としての罰は続き、その家庭には問題が起こり続けます。長男アムノンの強姦であり、仕返しのアブシャロムによるアムノン殺害です。そして、そのやり取りの中でも、冷酷なヨアブは、自分の地位確立に利用して、アブシャロムへの赦しをダビデに持ちかけます。後に、アブシャロムが決起してダビデ討伐についても、力の違いを見越したヨアブは、ダビデに付き、命令に従わずにアブシャロムを自ら殺します。ダビデは、そのヨアブに変わって、アブシャロムについていた将軍アマサを取り立てます。アマサという人は甘さがある人で、ユダの軍隊の招集を3日でも出来ず(20・5)、ダビデは未だ忠実に従うヨアブの兄アビシャイに北イスラエルの反乱軍の鎮圧を命じるのですが、そうするとまたヨアブが出てきて、アマサを公然と殺します(20・10)。そして再び、「ヨアブはイスラエルの全軍の長」(20・23)となるのです。

 ヨアブは、自らの知恵と権力に酔いしれたことでしょう。どんなにダビデがヨアブのずる賢さを嫌い、退けようとしても、ヨアブは決して負けないで、権力の中枢に君臨するのです。そして、アブシャロムの次の3男アドニヤが王になると考え、そこでも権力を確保しようとして、老いたダビデを無視してアドニヤ王擁立に動きます。

 しかし、身体が弱り、ボケているかと思っていたダビデ王が突然、ソロモンの王位を宣言し、ヨアブは間違いを犯しました。ダビデは、自らが死ぬ時に、遺言として「あなたの神、主の戒めを守り、主勢の律法に書かれているとおりに、主の掟と、命令と、定めと、さとしとを守って、主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても栄える為である。」(T列王2・3)と諭し、ヨアブがしたこと、シムイがしたことについては、その罪を償わさせるためにも放置してはならないと伝えています。

 大人しくしていたアドニヤが問題を起こし、それで、ヨアブは直ぐに自分にも罰が来ると悟って神殿に逃げます。祭壇の角をつかんで離さないなどは、祭司職でない者には不敬虔ですが、殺されたくないヨアブにとっては必死の行為だったのでしょう。

 台風の去った後、長柄町で一人、風の音を聞きながら、自らの人生を振り返りました。31年の牧師生活、39年の信仰生活、自分の能力と判断に過信して失礼なことも多く傲慢だったこと、失敗をしたこと、罪深かったこと、思いやりがなかったこと、数々の愚かさが思い出されました。それでいながら、このような場所に過ごせるようになったこと、多くの祝福と感謝を献げました。ただ、少しずつ、喧騒の中に過ごすことが疲れるようになってきました。

 実は、ダビデの生涯の最も大きな罪は、国の人口を数えたことです。それがどうしたのかと思うかもしれませんが、ダビデは、その王国を自分のものとし、自分の働きの成果と確認したかったのでしょう。歳老いて、自分の実績を確認したいという思いは強いものです。この教会が、柏崎家を離れて、継がれていくことが大事なことであると確認しました。それでこそ、献げた人生となります。

 大事なことは、神の前に罪を犯していない、ということです。人の目や評価など気にしていてはいけません。神を侮ってはいけません。ヨアブのように愚かな結末に陥ることでしょう。神に前に出られるか、「良くやった。良い忠実な僕だ。」(マタイ25・21)と言われるか。


 

10月26日 愚か者は魂の楽しみ方を知らない。 ルカ福音書121323

新改訳 ルカ12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

イエス様は、「神にも仕え、また富にも仕えることはできません。」と指摘し、「一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ6・24)と指摘されています。ところが、現代社会では、教会の働きさえ、献金なしには進まないので、献金を奨励することが牧師の働きの大きな一つとされたりします。私自身は、教会が小さい時は、牧師は他の働きで収入を確保した上で牧師職を務め、決して献金に依存する生活をするべきではないと考えています。ただ、そうすると教会活動が消極的になり、制限されることもでてくるので、教会経済が信者の増大によって安定したら、牧師職に専念し、また教会勤務者も確保できるようになることが必要だと思います。ただ、金銭のことは多くの私利私欲と疑念も生じるので、教会がきちんと収支を報告し、潔癖であることは大事です。

 牧師の場合には、そのように教会収入と牧師給との関係が浮き彫りになるので、良いのですが、信者の場合には、収入と信仰との関係が人の目には分かりづらいものです。聖書的には、収入の十分の一を献金するべきものだと考えますが、それは冒頭の神に仕え神を信じているかどうかの基準にもなると思います。つまり、什一献金をしているということが、神に仕えることの必要条件になると私自身は考えています。十分条件としては、「自分の宝は、天に蓄えなさい。」(マタイ6・20)ということですが、それが実際にはどういうことなのか、特に現代のような経済社会において、どのように過ごせば良いのか、分かりづらいのです。

 今日の聖句では、父の死後に弟が自分にも遺産をくれるように兄に話してくれとイエス様に頼むところから話が進んでいます。長男には他の息子よりも2倍のものを相続する権利があり、それがこじれたのでしょう。金持ちほど、相続問題はあるようです。このことに関して、イエス様は「その人のいのちは財産にあるのではない。」ことを喩えで教えられます。

 ある金持ちの畑が豊作でした。そこには小作人や奴隷たちがいたでしょうに、金持ちは自分の倉を建てて、自分を楽しませるために、その財産をしまっておこうとしたのです。その金持ちに対して、神は「愚か者」と断定し、「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこの通りです。」と言われるのです。

 私の好きな聖句として「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3・6)とペテロが言って、生まれつきの足萎えの人を治したところがあります。私の人生もそのようなものだったと振り返ります。ただ、献身者・牧師として清貧に生きるつもりが、妻が医師であったことにより、経済的なやりくりをしなければならなくなり、更に不器用な妻を支えるためにスタッフを雇い、更に患者さんの苦しみを覚えて治療を改善していくなかで、企業規模が大きくなってしまいました。それでも預金額というのは殆どなく、借金の額だけが増えて財政規模が多くなっているだけというのが実状です。

 マタイ25章に、天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産をその能力に応じて分け与えた主人を神様に例えています。

 つまり、「自分の宝を天に蓄える」ということは、自分に与えられた能力で与えられた財産を増やしていくことなのです。しかし、日本のクリスチャンは、与えられた賜物を活用せずに「地の中に隠しておく」人が多いように思われます。預言者というのは、聖書の言葉をそのまま語ることが使命であり、もし内容を変えたら災いに遭うとあります。語られた言葉を信仰を持って受け入れ、自分の賜物を活用しようとした人は確かに祝福されています。神を信じて行ったことというのは、タラントを用いるということなのです。

 教会としての全体活動だけが神の国の福音の宣教というわけではないと思います。今日のバザーやクリスマスは素晴らしい教会活動ですが、教会というのは、皆さん一人一人が構成するこの世に対する信仰者の在り方そのものです。ですから、日常の生活で、教会構成員が信仰をもって行動することが教会の活動の本来的活動であると考えます。教会という建物や集会を離れて、どれだけ神を信じた行動をとるかどうかが、タラントを増やすことになるのです。

 私自身は、結婚後は妻の保護とその活動の支援をしてきましたが、そろそろ妻も独立して神の働きができると考えています。教会も自律的に活動ができるようになってきましたが、個人的な日常の証しや信仰生活の充実が必要だと考えます。私は、これからは私しかできない神への奉仕をしようと模索しています。

 注意して聞いてください。

 良い忠実なしもべとして神のために生きることは、魂を喜ばせ、生き甲斐のある人生を過ごすことなのです。そして、皆さんがそのように生きるのならば、忠実な神のしもべとしての互いの交流を保つことができるのです。

 信仰を持って生きていない人は、人生が虚しくなり、魂に楽しみと喜びがなく、恐れと不安がその心を覆うでしょう。与えられたタラントを用いることなく、敗残者として生き、死後に神から、「外の暗闇に追い出されて、そこで泣いて歯ぎしりする」(マタイ25・30)ことがないように祈ります。


 

11月2日 宣教のことばの愚かさ。 Tコリント書11831

Tコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

 

教区会や牧師の集会に参加すると、そのひたむきさに驚きます。経済的には常に厳しく、たとえ教勢が伸びたとしても、その労は大きく、日夜休むことなく伝道牧会に励んでいます。それが使命であるとの確認は既に取れており、語る言葉は感謝であるということは、現代社会においては奇跡のような事実であります。

 かたや信仰から離れた人々の、離婚や再婚、破産や破局を知る時に、そうなる経緯を思いやり、この世の波としてはあり得ることであると同情もしながらも、信仰という頑なにも見える信念があったら、乗り越えたであろうことを祈るものです。信仰から離れた人を非難することは好きではありませんが、信仰とは、「しょうがない。」という言葉を否定する、神への従順であります。好き・嫌いや状況に左右されない御言葉への確信であります。御ことばの教えを守るということは、真に神を信じていなければできないことなのです。

 なぜ、人が神を信じるのか、私には奇跡のように神の業として感動をします。この世の打算や知恵が横行する現代社会においても、神を信じ従おうとする人々を神は起こします。「人生の海の嵐に揉まれ来し、この身も、不思議なる神の手に寄り命拾いしぬ。」(聖歌472番)とあり、「悲しみの海の中より救われし、この身に」、もはや「誘いの声も魂揺すぶることなし」、「凄まじき罪の嵐の弄ぶ間に間」があるので、「直ちに逃げ込め」港なる教会へと、先達の信仰者は語ります。

 私も救われてしばらくは、社会の成功者としてキリストの証しを立てようとしました。しかし、社会の構図を垣間見て、結局のところ、利益と名誉追求の打算社会であることを悟り、献身者としての人生設計を抱いたのでした。この「知恵ある者の知恵を滅ぼし」という聖句には、神の超越と、神なき社会の無益さを教えられました。

 不本意なことにクリニックを経営し、会社を経営して、この世の波と正面切って戦うこととなりました。妻を守り、子どもを育てるために負けてはならないと経済社会でそれなりに勝利してきたことが、「金の為だったのか。」と言われてしまうことが、神にある負い目として自らの生涯を振り返ります。「愚かな者として生きてこなかったのではないか。」という問いと、賜物として生きたのではないかという問いとが、自らの人生を確認させます。

確かに、「神の御前でだれをも誇らせない。」という聖句の意味合いが、年月を経て自らの信仰生活を振り返る時に、浮かび上がります。信仰生活を歩んで来ると、自らの弱さや過ちが神の前に申し訳なく、自らを「愚かな者」「弱い者」として認めざると得ず、「愚かな者や弱い者のために助け働く」などと考えていた自らの浅はかさが、心に迫ります。しかし、神は、そのような「取るに足りない」私を選んで下さったという感謝も大きなものとさせるのです。まさに、「無に等しい者を選ばれたのです。」自らの努力の結果ではなく、ただ神の恵みによって生きて来ただけという思いが浮かぶのです。それは、人の罪深さが、自らと同じものとして理解できるようになったからでしょうか。

トルストイの生涯をみると多くのことをなし、多くのことを考え、多くのことを書いて、その結果、懺悔のような魂の深い苦しみを告白するようになって、誠実かつ素朴な聖書信仰になり、却ってロシア正教会のような国家権力との癒着の体制を嫌うようになります。人は、自らの責任で多くの判断をし、戦ってくると、老いた後、それらのものが、やはり知恵による自己判断のものであって、神にどこまで従ってきたものなのか、当惑することがあるようです。

 振り返って、キリストの生涯を見ましょう。主は、十字架に掛かる前のゲッセマネの園での祈りで、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と弟子たちに伝え、「ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」(マタイ26・38)と命じますが、弟子たちは寝入ってしまいます。苦しみの中で一人祈るのですが、「わが父よ。できますならば、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と父なる神の御旨が為されることに任せるのです。

 ペテロは、若い時に、老いたら「他の人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21・18)と言われ、当惑します。しかし、実際に歳をとったら、そのような生涯を歩み、結局はローマで逆さ十字架に掛けられることになりますが、それは自ら希望したものでした。

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

 自らの愚かさを悟るまでに多くの道と年月を要しました。若い時には、決して無理だったと思います。そして、その若さと、果たさなければならない多くの責任と使命を為してきたからこそ、愚かさの自覚に至るのではないでしょうか。更に、その愚かさの自覚があるからこそ、人の為に執り成しをし、祈るということが深くなるのではないでしょうか。祈るしかない、しかし、祈りこそ、神の力の源でもあります。

 神の力が働き、一体何が起こるのでしょうか。それは、自らがキリストに近くなり、神の御心にあって歩むことができるようになり、そして、次の世代への委譲ができるのであります。愚かさの自覚がなければ、自らの生き方に満足し、自らの判断に正当化をして、世代に譲ることなく、滅びて行きます。愚かさの自覚こそ、世代を経て、神の御業を為されるために必要なのであります。


 11月9日 私は神を愛しています。 Tヨハネ書41021

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 

 

昨日は、吐き下しの下痢が続いている中で、申し込んでいた大学の同窓会に参加しました。体調が悪いのを黙っていて帰りましたが、帰ったら動けなくなり、妻が助けてくれました。説教の準備と週報の作成のために、何が何でも教会に行かなければならないということで、妻が身体中を一時間以上マッサージしてくれました。今年一番に患者数が多かったのに、嬉しそうに私に仕えてくれる妻に申し訳なく、ありがたく、感謝でした。私自身も妻の為に、いろいろと世話をしますが、妻の私への献身には及ぶべくもありません。成長し、大きな働きをしている妻が、家では私の為にいつも仕えてくれています。「少しは自分自身の働きと、やりたいことをやりなさい」と一日を開けることにしましたが、いつも喜んで私を喜ばそうとしてくれます。こんなに愛される資格が私にあるのだろうか、と思うのですが、やはりうれしく、信仰者としての夫婦の歩みに感動を覚えます。

 先週は、自らの信仰が知恵や知識、打算や損得で影響されないようにと、愚かな信仰を目指してきたことをお話しましたが、なぜ、そうなのかと考えれば、やはり神を愛しているからです。なぜ、神を愛しているのかと問われれば、神に愛されていることがよくわかるからです。

 「愛のない者に、神はわかりません。」(4・8)とあるように、「神を愛しているからといって、そんなに愛し合えるものではない。」とひがんでいる人たちは、神からの愛を十分に受けようとしていなかったからです。神が私たちを愛し、御子イエスを十字架に掛けて、私の罪を赦して下さったという事実がわかれば、如何に神が私たちを愛して下さったかは、よくわかります。この世の人々の、裏のある表面的な愛によって、眇めになってしまったから、神の愛をわからないのです。

 他の神を信じ敬うこと、祭り上げることを、父なる神は、霊的な姦淫として厳しく禁じます。信仰者には、節操を保つことが非常に重要であり、他の神のこと、金銭や欲に走ること、快楽に目を留めることなどは、霊的な姦淫になります。

 自分の妻に対して、他の女性に心が浮ついていることなど、決して言ってはならず、ポルノや淫らなものに心を乱すことは、妻に対しても、してはならないことです。仕事や趣味でさえも、妻よりも上位の関心を持つことは罪であります。こういう当然なことを果たしていなから、妻を愛することができないのです。極めてデリケートに妻を愛する人は、人を愛するということがよくわかるでしょう。人を愛するということは、決して、上位目線ではできないことです。自分の好き勝手に生きて、伴侶に対して要求と文句を言っている人が、愛を理解することは無理でしょう。

 私がこのように話したのを聞いて、他の人に愛のないことを責める認識を持つ人は、愛される資格はありません。愛とは、人に求めることではなく、人に与え続けることです。「愛しているのに、受け入れてくれない。報いがない。」という人は、愛の持つ充足性に気が付いていないのです。人を愛するということは、既に自分のうちに報いと喜びを与えているのです。

「愛しても愛されなかったら、どうしよう。無意味だ。」などと考え、「こんなに愛しているのに、愛されない。腹いせに、仕返しをしてやろう。」と言う人は、「愛には恐れがありません。」(4・18)という奥義を見に付けるべきです。「恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

 恨みごとのようなことを言い、人を避難批判する人は、信仰者としては偽り者です(4・20)。イエス・キリストは、報いの無い十字架刑に掛かりました。そして、「父よ。」彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23・34)と、自らを十字架に掛けようとしている人々の執り成しをしました。

 報いがないことを敢えて行い続け、人を愛し続ける、ここに愛の真実性があります。そして、その愛を実践している人のみが、キリストの命令を守っているのです。

 


11月16日 なぜ男が頭なのか。 エペソ書52233

エペソ5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。

5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

 

イスラム原理主義のボコ・ハラムという組織の名称の意味は「西洋の教育は罪だ。」という意味で、2002年にナイジェリアで結成され、西洋文化や現代科学、特に進化論を否定し、実際には女性が勉強することを否定し、今年は女子学生240名を拉致して奴隷として売り飛ばしたとのことです。

 17歳でノーベル平和賞を受けたパキスタンのマララ・ユスフザイさんは、女子学校を経営する父親の影響を受けて、11歳からBBC放送などで女子教育の必要を訴え、15歳の時に頭と首に銃撃を受けました。そのターリバーンとは「学生達」という意味で、イスラム神学校で教育されたことを意味します。その政治では、女性は学ぶことも働くことも禁止されます。

 キリスト教の広まった地域では女性の権利や地位が向上してきましたが、それでも今日の聖句「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と主張して、自分はかしらであると威張っている男たちがおります。

最近、韓国のキリスト教界の一部がおかしくなっていますが、男尊女卑や厳しい上下関係に原因があると思います。上の者の命令には絶対服従が要求されますが、それが成功或いは出世への強い意欲となっているようです。そして、その為に神への要求として信仰を強調する傾向もあるようです。これらは、キリスト教の精神や倫理観よりも、社会の風習や感性が強く影響して、それらと聖書信仰との区別が確認されていなかったからであるとも言えるでしょう。

 日本でも同様で、聖書に「妻は夫に従え」と書いてあるから、と言って威張っている男性たちは、聖書信仰の結実がない証拠と言えましょう。男というものは、仕事がなくなるとからっきし、だらしが無くなるもので、生きている粗大ごみなどと言われてしまいます。妻は、夫が仕事をして収入を得、家を支えてくれるから夫に従っているので、夫に仕事がなくなり、年金生活をしたら、もはや夫に従う必要がなくなり、定年離婚ということになるのであります。つまり、妻のかしらが夫であるということは、社会で働くためなのでしょうか。

 まず、男と女の違いには優位性があるのか否かということですが、ガラテヤ3・28によれば、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とあり、平等性が強調されます。キリスト教の精神として、この平等性を確固たるものとして意識し、男女、大人と子ども、地位などに左右されない差別なき人間としての権利を互いに尊重することは大事です。そういう面で、他の人を呼び捨てにすることも、私は好きではありません。特に、妻や子ども、部下に対する命令口調は、その人自身の人格の卑しさを現わすような気がします。貧富や学歴などによって人を差別することさえも、その人自身の品性の低さを示します。むしろ、「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。」(Tコリント9・22)と、「福音の恵みを受ける者となるためなのです。」(9・23)という謙遜さ、御霊による自由を味わうべきです。

「キリストは、教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」とありますが、教会はキリストの身体なのですから、夫婦も一体のものとして理解される必要があります。「男は、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2・24)。この一体性の確認、確保が夫婦としての愛情の確立と深く結びつきます。

 「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも、自分の身を憎んだ者はいません。」とあるように、夫も妻も、自分を尊んで相手を軽んじることなどをしてはならないのです。伴侶を避難したり、攻撃したりすることは、神が禁じることなのです。

 「自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」という時の、用語の違いを論じることは、私には無益のような気がします。私自身は、かしらとしての立場を保っていますが、現代社会には、パウロとは別な感覚があり、女性の立場も、社会の働き手として、意思決定者として、十分に活躍できるものになりつつあります。男性のほうが筋肉もあり、身体も頑健で、精神的なタフさを強調されることもありました。社会における責任を負わされることも多く、現代日本でも家長制の名残はあります。

「男はかぶり物を付けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現れだからです。女は男の栄光の現れです。」(Tコリント11・7)は、現代社会や教会では廃れた風習となりました。それに続く「男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのです。」9)は、どうでしょうか。

 聖書信仰と言い、聖書に忠実であることが大事であるとされる場合、このような聖句が、男女の差別に繋がって来ます。そして、明らかに、保守的であるということが、女性を虐げることに繋がっています。それは、「妻を自分のからだのように愛する」という聖句と矛盾するように思われます。

 イスラム原理主義として冒頭の集団は区別されます。実は、私たちアッセンブリー教団も、キリスト教原理主義などとされることがあります。聖書信仰という聖書に対する忠実さが、分類する人たちから見れば、「原理主義」などという安易な判断をされてしまうのです。私自身は、「男は女のかしらであるとは限らない。」と判断します。ある夫婦では、「妻が夫のかしら」であっても、「互いに自分のからだのように愛し合っていれば」、聖書的であると信じます。自分にとって都合の良い聖句を他人に対して主張することは、御霊の人としては不十分なのです。


11月23日 男が頭でなくなる時。 Uコリント書437519

Uコリント4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。

 4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

 4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

 4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

 5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

 5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

 5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。

 5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

 5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

 5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

 

先週は、「男が女のかしらであるとは限らない。」という聖書のことばから離れた衝撃的な言葉をお話しました。創世記1章に、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。神のかたち、つまり、神には姿かたちはありませんから、神の在り方として人を創造されたことになります。神の在り方とは、神の人格であり、知性と意思と感情をもって互いに愛し受け入れあう三位一体の神どうしの関係であります。

 そして、その関係があるからこそ、創世記1章28節にある支配権の行使が可能になるのです。女を「助け手」とする用語は、M・Jエリクソンによれば、同等の協力者という意味であって、補佐的な意味合いを持つものではないそうです。更に、「女が男のために造られた」(Tコリント11・9)は特異なコリントという地域的な状況によるものであると多くの神学者が指摘するほど、他の新約の内容と異なるものとなっています。イエス様ご自身は全く女性を対等な人として対応しており、却って、女性の信仰の純粋性や献身性を男性よりも評価しているくらいです。

 イエス様の十字架をも恐れず従ったのは女性達であり(ヨハネ19・25)、朝まだ暗いうちに来てイエス様の復活を信じたのも女性達でした。男というのは、信仰という面では、女性にかなわないのではないでしょうか。ですから、原理主義のように「男は女のかしらであるから、黙って従え。」などという傲慢な男がいたら、柏崎牧師が説教した内容か週報を楯に逆らってください、とアドバイスするのです。

 私は権威主義が嫌いで、お上に逆らう国定忠治のような上州気質があるのですが、それでも自分自身が権威主義になりそうな場合をいつも気が付いて、身を戒めています。日本人の男というのは、そういうものに生まれつき、よほど意識しないと聖書的な優しさを女性に対して保つことができないと覚えています。失礼ながら、韓国男性の女性に対する傲慢さは日本男子以上だと思いますが、これも民族的な習性によって形成されてしまったのでしょう。謙遜さや寛容さなどの愛の実りは、確かに御霊に寄らなければ為し得ず、傲慢さを悔い改める日々の歩みが必要なのです。

 そのような因習的、制度的、差別的社会の中では、男性のほうが、神のかたちの結果としての支配権を行使するのはたやすいのです。人としての使命は、支配権の行使であり(創世記1・26)、この支配権、統治権を放棄したら、人としての生き甲斐を失くしてしまうのです。

 神に繋がっていることは大事なことですが、実は、人の使命それ自体は、神と繋がっていなくとも存在し、人が支配権を全うしなければ、地は治められず、荒れ果ててしまうのです。その支配ということが、神を離れた人には適切に行使できなくなり、自らの滅びにも至ってしまうのです。歳を取ろうと若かろうと、優れていようと劣っていようと、障害があろうがなかろうが、働きを離れると人は自らの存在意義を失くしてしまうのです。それが、人という神のかたちを託されたものの、苦難なのです。神のかたちとしての人は、自らの中だけで固執することは許されないのです。

「妻が男のかしらでも良い」と書きましたが、かしらだけでは身体はなりたたず、やはり「妻と結びあい、ふたりは一体となるのである。」(創世記2・24)として夫婦の関係が必要となります。それでは独身の人はどうするのかというと、キリストの花嫁としての教会の働きに献身することが奨励され、それは却って人としての理想の姿であるとパウロは指摘しています。つまり、「独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。・・・独身の女は、身も魂も聖くなるため、主のことに心を配ります」(Tコリント7・32-34)。

 新聞でもテレビでも映画でも小説でも、男女の仲のことは大きな話題であり、夫婦であるということは、大きな課題であります。監督の条件として、Tテモテ3章に「ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」と挙げられます。「かしら」としての理想的な姿です。私たちは、これを目指す必要があるのです。

 お読みになった聖句のように私たちは、土の器に過ぎません。土から出来たものですが、神によって与えられた霊魂をもっているのです。もし、キリストの福音がなければ、私たちは闇の中にいるのです。キリストを信じるということは、キリストにある自分の使命に興奮することです。

 「ながらハウス」にはテレビがなく、新聞もなく、現在はインターネットも繋げていません。一人で過ごし、神との黙想の時を過ごしています。感動が、私の中を貫きます。神が私と共に居られます。身体の衰えが気になっていましたが、「たとい、私たちの外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされます。」

 この世の最上の業は何。

楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に平静におのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても妬まず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも親切で柔和であること、

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、最後の磨きをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐ鎖を、少しずつ外していくのは、まことにえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。

神は最後に、一番良い仕事を残して下さる。

それは祈りだ。手は何もできない。

けれども最後まで合掌はできる。

愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床で神の声を聞くだろう。

“子よ、わが友よ、我汝を見捨てじ”と。


11月30日 花婿を待ち望む。 ヨハネ福音書32736

新改訳 ヨハネ 3:27-36

3:27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

3:28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。

3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

3:31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

3:32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

3:33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

3:34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

アドベントとは、キリストがこの世に来られることを意味し、再臨をも意味します。クリスマスの4週間前からアドベント(降誕節)に入るとも言います。教会は、キリストの花嫁であるとエペソ5章にあり、そのようにキリストに従うとあります(5・24)。教会がキリストに従うということは、どういうことなのでしょうか。創世記21・2には、新天新地における新しいエルサレムが、「夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て」とあるように、美しいもの、整えられたもの、夫である王のキリストのために存在するものとして、花嫁という言葉が用いられているのです。

 当時のユダヤにおける結婚式の様子を説明しましょう。婚約式は、花嫁の父の家で行われ、花婿と証人が誓約書に署名し、夫が妻に対して負う経済的債務が列挙され、花婿は花嫁に対して記念品を贈るそうです。

結婚式には、花婿は夜にたいまつ行列を従えて花嫁の家まで行きます。マタイ25章には、その到着が遅れたので出迎えの乙女たちの半分、5人がうとうとと眠り初めたことが記されています。前夜は、興奮して眠れなかったのでしょうが、予備の油も用意してなかったことから、愚かな娘たちと指摘されています。花婿は、花嫁の家に着くと、直ぐに花嫁を自分の家に連れて行きます。ここには、出迎えの乙女たちも灯をもってついて行くのですが、愚かな娘たちはそれができないわけで、既に花婿の家で始まった婚礼には、部外者として入れてもらえないのです。

 式の前には、花嫁も花婿もそれぞれ水で身体を清め、香油を塗り、特別な晴れ着をまといます。客もまた、最良の服を来て、式に出るのがマナーで、婚礼のための礼服をまとっていない者は追い出されたとマタイ22章に記されています。そういう面で、教会の礼拝に参加するにも、マナーとしてはきちんとした相応しい服を意識して着るということが、信仰の態度としては大事なのではないかと思います。

 さて、教会がキリストの花嫁とされるのですが、突き詰めて言えば、信者の一人一人がキリストの花嫁としての在り方を必要とされるということになります。

 讃美礼拝の中で、「心から天まであなただけ」とか、「主よ、あなたが全て」と讃美しているのに、感動しました。そして、私の妻が、私を愛してくれているのにも感動しています。かと言って、妻が私よりも主イエスを愛する、「主よ、あなたが全て」と言うとしたら、少し妬いてしまいます。夫と、信仰そして人生の主としてのイエス・キリストとの関係を同一線上におくと違和感があります。しかし、大事なことは、夫婦が一緒になって主を愛し、主に仕え、主の御心がすべて、として歩むことです。

 ところが、聖書には、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」(ガラテヤ4・19)とあり、それでは花嫁ではなくて、花婿のキリストのように、私たち信者は位置づけられるのかと混同することになります。しかし、それは「キリストは男だから、男だけがキリストのようになるのだ。」などという罪ある人間の自己主張から抜け出られない姿であることを示すものとなります。

「キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)というのは、「キリストと共に十字架に付けられた」からであり、「教会のためにご自身をささげられた」(エペソ5・25)キリストと一緒に、教会が自らの生き方をキリストに献げるからあり得るのです。

 バプテスマのヨハネが、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と告白したように、自分の生き方や主張よりも、キリストの御心を思って生きる姿勢が形成されることが、御霊による成熟なのです。「御子に聞き従う者」は、キリストの花嫁であり、キリストと一体になって生きるのです。

 クリスチャンに女性が多いのは、この従順さと御ことばに生きるという謙遜さがあるからではないでしょうか。むろん、女性であっても、男性であっても、自分の在り方や考え方を主張し、「あの方はあの方、私は譲りません。」というようなヨハネ3・30とは逆な生き方をしたら、「御子に聞き従わないので、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」ことになります。

 ただ、従うということは、意思の要素も大きく、人格の成長、御霊による霊性の成長が必要になってきます。こういう人格的な分野は、男性が向いています。男性は、主体性を持って生き、社会や敵と戦うように形造られていますから、簡単には人にも神にも従いません。しかし、信仰生活を生きて行く中で少しずつ、変えられていきます。

 女性の信仰は献身的であり、従順は速やかに形成されます。しかし、男性が従順になるには、妻の従順が必要なのです。だからこそ、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5・22)と教えるのです。夫が信仰的になり、御霊の実を実らせ、成熟していくためには、妻の従順がなければならないほど、男性というのは手が掛かるのです。

 さらに言えば、自分のいのちを掛けて愛するべき妻がいなければ、男性は信仰的にならないのです。そういう面で、女性達には、自分の夫が信仰者であろうとなかろうと、花婿を待ち望むように、夫がキリストのようになることを願い、祈り、支えて、従って行かなければならないのです。残念ながら女性には、必ずしも夫は必要ではないのですが、男には妻が必要なのです。

 私のことを言えば、信仰生活40年で、やっとキリストに献げる従順な思いが形成され始めて来ました。傲慢な者だと思います。自分の考えや主張に囚われることが多くありました。ようやく、キリストが形造られることが始まったような気がします。あと20年は生きないと、満足のいく信仰者にはならないと思われます。妻には、花婿を待ち望むように、待っていて欲しいと願います。それは、キリストの再臨を待ち望む思いと同様なものであるかと思います。決して諦めてはいけません。

 


12月7日 犠牲を払い献げに来る博士たち。 マタイ福音書2113

マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

 東方の博士たちは、3種類の贈り物を献げたので3人とされ、伝説によれば、メルキオール(Melchior, 黄金(王権の象徴)、青年の姿の賢者)、バルタザール(Balthasar, 乳香(神性の象徴)、壮年の姿の賢者)、カスパール(Casper, 没薬(将来の受難である死の象徴)、老人の姿の賢者)とされています。

 ヴァン・ダイクは『4人目の賢者』という物語を書き、もう一人のアルタバンという医者の賢者がいたというお話を作ります。彼は、メルキオール、バルタザール、カスパールと共に星の観測をしているうちに、古い預言の書に書かれた「イスラエルの王である救い主」がもうすぐ現われることを知ります。アルタバンは、すべての財産を売り払って、救い主への贈り物にする3つの宝石、サファイア、ルビー、真珠を手に入れ、エルサレムに向かうべく他の3人との待ち合わせの所へ急ぎます。

 ところが、途中で倒れている人に出会い、介抱しているうちに時間に遅れてしまいます。一人での旅の困難さの中でサファイヤを売り払い、漸くベツレヘムに着いたのですが、既に時遅く、イエス様達も天使のお告げ通りにエジプトに逃げた後でした。3人の博士の報告を待っていたヘロデ王の怒りで兵隊たちがベツレヘム近辺の男の赤子を殺そうとしていたのに出会います。アルタバンは、殺害を見逃すように兵隊にルビーを渡します。

 アルタバンは、イエス様を負ってエジプトにも出かけますが会うことができず、33年が経ってしまいます。彼は人生の意味と意義を知ろうとしてメシアを求めて旅だったのですが、その旅で多くの悲惨な人々出会い、助けたり、共に過ごしたりしていました。そして、年老いてエルサレムに来ると、救い主が十字架に掛けられるとのことでした。彼は、最後に残った真珠で、救い主をお救いできないかとゴルゴダの丘に行こうとするのですが、そこに奴隷として売られようとする同郷の娘に出会います。アルタバンは、その娘を真珠で買い取りますが、その時に、大地震が起こり、空が闇で覆われます。地震で倒れた家の下敷きになって死にそうになるアルタバンは、自分の人生は何だったのかと思い起こします。

 救い主に会おうとして旅立ったのに、病人を助けるために遅れ、ベツレヘムに着くのに遅れて赤子の救い主にも博士たちにも会えず、そして、他の赤子を助けるためにルビーを渡してしまいました。長い旅の間に多くの人を助けましたが、それで財産を失い、最後に取っておいた真珠までも同郷の娘が奴隷に売られるのを助けるために渡してしまいました。そして、自分は死のうとしているのでした。

 その時、天から声が聞こえ、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25・40)と語り掛けられ、天に携え挙げられたのでした。

 ヴァン・ダイクのお話もすばらしいのですが、私には、この博士たちが何故、高価な黄金、乳香、没薬を携えて長い旅をしてまで、救い主を求めて旅立ったのか、という感慨が心を刺します。

 現代社会は、効率を求め、自己実現を最高の目標とします。そのような社会では、神を信じることも宗教も、御利益目的のものとなります。犠牲は、それに伴うと予想される利益の為に良しとされます。つまり、収支が取れて、益が残ればよいのです。そのような考え方の中では、利益の伴わない自己犠牲は愚かなものとされます。そのような考え方から言えば、バン・ダイクの物語の結論も、天における報いがあるという子供向けのお話になります。

 新渡戸稲造の「武士道」を読んでいます。江戸時代初期までの武士道は、功利的な面が強く、生き残って自分と一族の繁栄を目的としたものだったようですが、新渡戸の描く武士道は、確固とした幕藩体制の下で、朱子学の影響も受けながら形成されたのでしょうか。内村鑑三らを含めて、明治期のクリスチャンの強さと凄さは、武士道の義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義などの基盤に基づいてキリスト信仰を見に付けたからでしょう。

 同じように、ルターも「神を求めることは、自己を否定することでなければならない。」とローマ書の講解の中で述べています。自己実現としてのキリスト教信仰は、安っぽいものであり、真実のものでも誠のものでもありません。ただ、「十字架を負う」という主の命令に従いながら、「多くを与えられた者」となることも、「多くの使命を負う者」としての、自己放棄してはならない課題でもあるかと思います。自らの欲望を否定しながらも、神に負わされたかもしれない使命としての地位や職務を果たしていく、自己否定の道もあるのでしょう。

 私には、生まれたばかりの救い主、ユダヤの王に、没薬を献げたカスパールの先見性、深い信仰に感銘を受けます。没薬は、旧約聖書にも度々出てくる香でもあり、殺菌作用のある沈静薬・鎮痛薬としても用いられますが、死者の埋葬にも用いられたとあります。カスパール自身は、没薬の主イエスに対する意味合いを理解しての献げ物ではなかったと思いますが、それでも飛び切り高価であったことは間違いありません。

 先日、息子が問題を起こした牧師と会いました。私は、「自分が問題を起こしたわけではないけれど、問題を起こした息子の罪と重荷を背負って、どこまでも神に従い通していく。私たちは、十分に重荷を負って来たのに、神様、酷ですよ。と思いながらも、十字架を負って生きて行くしかない。それが私たちの人生なんですね。」と語り合いました。自分の報いを求めて生きているわけはなく、「自分が十字架を負うことによって、罪許され、解放される人がいれば、それで良い」と、犠牲を喜んで払いながら生きていくのが、キリストの弟子としての信仰者ではないでしょうか。

 


12月14日 光は闇に打ち勝つ。 ヨハネ福音書1114

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。

1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

クリスマスのイルミネーションがあちこちで輝いています。ノーベル賞のLEDの貢献も大きいようです。私には、ノーベル平和賞が心に響きました。マララさんは、子ども達が教育を受ける権利と女性の平等を主張し続けて、イスラム過激派から命を狙われ続けています。マララさんには、二つの選択肢があったと言います。一つは、何も言わずに殺されるのを待つこと、もう一つは、声を上げて殺されること、彼女は声を上げ続け、受賞に際しても、イスラム過激派はコーランの教えを破っていると正面切って攻撃しています。彼女の声明に対して、殺害予告があったのにも関わらず、マララさんは、教育を奪われている6600万人の女の子に、自ら戦えと訴えています。ノーベル賞受賞は、これからの活動の出発点であり、戦い続けると彼女は宣言しています。指導者たちは、分かっているのにしていないと攻撃します。悪に対して戦う強い意思と勇気を持っています。

 もう一人の受賞者カイラシュ・サティヤルティさんは、貧しい子どもを助けるために大学教員を辞めて活動を始め30年間で8万人の子どもを救出したそうです。それでも、「世界が発展していても一人でも子どもが働かされていれば、その発展に意味はない。」「児童労働は人道に対する罪です。子ども達が将来に夢を持てるよう、教育を受けさせるべきです。」訴え、脅され攻撃されながらも、救出した子どもの心の傷を癒しながら、教育を受けさせているということです。

 国や地域レベルでの戦いや民族紛争は、至る所にあり、多くの人々が犠牲者になっています。クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナで国の為に戦った人々が、英雄として崇められているのを見た時は、印象的でした。マララさんやサティヤルティさんのような、他の人々の為に解放の戦いを命掛けでするということは、日本では想像だにできないのでしょうか。

日本では、悲惨な戦争というのは、忘れられようとしているか、忘れさせられようとしているのか、人々の意識から無くなりつつあります。世界中で生きる為の戦いが一人一人の人生で行われています。そして、戦うという意識の無い人々が、悪に敗れ、打ちのめされています。実は、激しい戦いや、厳しい生存や、凄まじい恐怖などの無くなった日本が、サタンにとっては一番働きやすい国になっているのかもしれません。周囲の人々と喧嘩をせず、妥協をしていれば安逸に暮らせるという堕落の道が、既に人々の人生の軌道に乗っているのです。

 平和で豊かな国、日本で、クリスマスは楽しく明るく過ごす夢のようなお祭りとなっています。しかし、その明るさは、神の祝福の中にあるものではなく、多くの人が悲惨な生活を送っています。また、悪が暗躍し、不正がはびこり、争いが蔓延しています。その悪があなたの生活に関わらないと安んじていたら、簡単に犠牲になるでしょう。

 神を信じない人々にとって、キリストの救いや真理は煩わしいものであると思います。もし、悪とサタンがないとしたら、それでも十分に生きていけるでしょう。そのような人々に、破滅と悲劇が襲うのです。

青年たちは、どこの国でも昔から戦いに備えて、自らの心身を鍛えるものでした。男たちは、悪や敵と戦うためにいつも、備え、身構えていました。女たちは、その戦いに備えて、質素と倹約に務め、食料の確保を怠りませんでした。今や、平和という虚構の中で、男も女も安逸をむさぼっています。

 「その裁きというのは、こうである。光が世に来ようとしているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。悪い事をする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあって為されたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3・19-21

 私が肉体を鍛え、井戸を掘り、備蓄をし、避難所を確保して、いざという時に備えているのは、艱難時代が来ることを本気で信じているからです。年金などあてになりません。地震や噴火や洪水その他の天災で、普通の家は壊滅していくでしょう。美食を求めて脂肪をため込んだ人は、災いの時に動きが取れず、被害にあうことになります。買い揃えた冷凍食品は、停電で腐っていくだけです。綺麗で華奢な服は、あなたの身体を災害から守ることができません。政府などが助けてくれるはずがありません。東日本大震災の時の政府の対応を忘れてはいけません。愚かな娘たちが、油をもらえなかったように、自ら備えをしていないならば、試練の時、闇夜の中で、婚礼の席に出席することはできないのです。神を本気で信じていない人々は、光であるイエスキリストの声を聞いて生きていないのです。

 「『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。」(ユダ14-16)。

 「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしています。」(9その前には、闇が世界を覆いますが、人々は偽りの光で満足して、まことの光を求めようとはしません。イエス・キリストは「恵みとまことに満ちておられ」(14るので、もし、闇の中でも、イエス様を信じ求めれば、助けられ、救われ、祝福を得るのです。

 いつも戦う覚悟をしていなければなりません。断食や祈りが出来ない人は、試練に耐えることはできないでしょう。聖書をしっかりと読み込んで自分のものとしていない人は、容易に騙されて、滅びの中に引きずり込まれるでしょう。

 「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは(キリスト)既に世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33


12月21日 闇の中に大きな光を見る。 イザヤ81797

イザヤ8:17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。

 8:18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。

 8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。

 8:20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。

 8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。

 8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。

 9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

 9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。

 9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。

 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」とイザヤが預言したのは、どのような時代だったのでしょうか。イザヤの預言活動は、ウジヤ王の死(紀元前739年)からヒゼキヤ王の死(前686年)くらいまでの50年以上の長い苦難の時代でした。アッシリヤの強大な力によって北イスラエルが滅びて人々が連れ去られ、南ユダも、かろうじて保たれている状態でした。

 イザヤ7章には、アラムとイスラエルがユダに戦いを挑んできて、アハズ王はそれを退けたのですが、それでもアラムが北イスラエルのエフライムに留まったので、動揺したことが2節に描かれています。神は、「気を付けて静かにしていなさい。恐れてはなりません。」(7・4)と「もし、あなたが信じなければ、長く立つことはできない。」(7・9)イザヤを通して預言しますが、アハズ王は聞きません。

 神は「主からしるしを求めよ。」(7・11)と、信仰で乗り越えられない不安なアハズに対して、寛大な配慮を示しますが、「主を試みません。」と信仰的な言葉を返しながら、アハズは神に従うことの怖さを優先し、政略に寄るアッシリヤとの協定によるアラムへの対抗を模索するのでした。

 北イスラエルの王権が次々に代わるのに比べて、ダビデの家系は続いて南ユダ王国を保っているのに、神に従わないで策略によって生き延びようとするので、「聞け。ダビデの家よ。人々を煩わすのは小さなこととし、私の神まで煩わすのか。」として、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名付ける。」13.14)として、神の業に寄るダビデの子孫、イエスキリストによる王権を預言するのでした。

 17節から8章8節までの預言の通りにアッシリヤによって北イスラエルは滅び、南ユダは支配されます。イザヤは王に従わず、民にも信仰を持って生きよと語るので、「謀反」とされますが、主はイザヤに「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。ことの民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」(8・12)と、人々の動向や世の風潮に流されるなと、「この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。」11)のです。「この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきをせよ。そうすれば、この方が聖所となる。」13.14)と励ますのです。

 信仰というものは、神を信じることだけであって、何の保証もありません。実は、人と約束しても、力や権力があっても、結局のところ間違いのない保証にはならないのですが、人間は罪人であり、自分以外のものを信じるということが本来的にはできない存在なのです。札束や預金があり、物が豊富に買えるという間近な現実は、幸せや祝福という保証にはならないのですが、そういう自分がつかむことのできるものを信じたいというのが、人間の罪性なのです。

 皆さんは、今回のことで犠牲を払い、断食までして祈ったでしょうか。少し祈ったとか、言い訳くらいに祈ったということでは、神に通じる信仰とは言えないでしょう。信じるということは、自分がその信じることに関して犠牲を払えるかということで、その信仰を証明できるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるのです。」(ヘブル11・1)、「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11・6

 あなたの信仰は、信仰に対して払う犠牲によって証明できるのです。家族に対して、どれだけの犠牲を払っているでしょうか。ギブアンドテイクなどの損得や、義務や義理で家族に対応しているのでは、愛とは言えません。親は、子どもが事故や病気になったら、命をも惜しまず、自分を注ぎます。そういう面で、子どもがいない人は、よほど意識しないと自己犠牲という愛を身に付けるのが難しいかもしれません。また、最近は子どもに対してさえも、犠牲を払えず、自分中心に生きてしまう人々が多いようです。

 人を愛すると、人生は苦難を抱えます。悲しみを持ちます。「しかし、苦しみのあった所に、闇が無くなる。」(9・1)。解決を持たないと思われていた人々にとって、真の解決は神ご自身に頼るしかないのです。神にしか解決がないのに、他のものに頼ろうとするから、暗黒になるのです。

 イザヤ自身も男の子を得ました(8・3)。そして、喜びと慰めと平和と愛と多くのものを子どもによって与えられたのです。その感謝の祈りの中で、イザヤは、私たちの救い主が生まれることを悟ったのです。その方は、超自然的な助言をして下さる方であり、神としての大能をお持ちになる方であり、永遠に続く王国の主であり、平和と統率のある管理をされるかたなのです。イザヤは、国の逆境の中で、却ってそれを信じ仰ぎ見て、預言したのです。イザヤ自身は、マナセ王によって木ののこぎりで身体を真っ二つに切られたと言われています。旧約時代最高の預言者と言われ、福音と信仰を命懸けで伝えました。

 私ごときのことを言えば、還暦を過ぎて心身ともに疲れ、引退を考えましたが、その結果、大きな絶望を体験しました。やっと回復したと思ったら、主にある牧師としての責任の大きさに、死ぬまで十字架を負って生きるしかないという覚悟を決めさせられています。闇が続くなら、既に私のうちに光っておられる主イエスの光を灯し続けるしかありません。


12月28日 義は罪に打ち勝つ。 Tヨハネの手紙216

新改訳 Tヨハネ2:1-6

2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

2:3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。 

情報化社会で、情報に踊らされ、適切な判断が出来なくなるだけでなく、その不安が慢性化して意思決定そのものが出来なくなる人々が多くなっています。その結果、いつもと同じことをし、同じ所に住み続けて次第に状況が悪くなっていく場合が多くなっています。不安というものが、社会を覆い始めているのです。

 「軍師官兵衛」も終わりました。実は宣教師の記録では、官兵衛は伏見での臨終の際に神父を招くように伝えていましたが、当時の状況ではそれもかなわず、愛用のロザリオと祈祷書を胸の上において死んでいったそうです。遺体は遺言どおり、博多の教会に運ばれ、キリスト教の葬儀が行われましたが、その後、長男の長政が仏式の葬儀を行い、キリスト教関係の記録は一切省かれてしまったそうです。それでも当時の状況の中で、適切な判断を瞬時に行い、民衆を守るため、国を平和にするために戦い続けた武勇は見事なものでした。

 適切な判断をするためには、勇気が必要です。先週、イザヤが国の存亡の危機の時代に一人勇気をもって預言を続けたことをお話しましたが、つまるところ、危機の時に、信仰をもって対応するかどうかが、その人の信仰の真実を現わしているのです。

 そのような危機に対応するには、どうしたら良いでしょうか。

 聖書のことばを読み込むことです。何度も、何度も聖書を読み、暗記するまで読み込み、そして、それを実践することです。聖書を悟りの書や哲学の書のように扱う人は、自分の判断力や能力に重きを置いているからです。人間の能力など、危機の時には何の役にも立ちません。

いくら集団で対処するために指導者になったところで、危機の時には人は自分の命を優先するので、あなたを守ることにはならないし、信念がない人は、人を動かすことはできないのです。そして、その信念は、神に通じる、天を動かすようなものでなければ、人も、社会も動きません。そして、あなた自身の問題は、あなたの能力によって解決できるものではないのです。

神を信じる、ということは、能力のある人にとっては愚かなことです。自分の力の及ぶところでないことを受け入れ、神に委ね、神に助けを請うことは、能力のある人にとっては、嫌なことです。実は、それは全ての人に共通することです。女性のほうが信仰者が多いのは、従う訓練を受けているからでしょう。現代の日本人は、従う訓練を受けていませんから、神を信じ、神の御心に従うということは、努力し、自己訓練をしなければ難しいことです。つまり、神を信じるということは、努力が必要なのです。

 神の御ことばを守り、愛するということを実践することなのです。今回のことで、長く祈り、断食まですることを実践できたでしょうか。裁いているわけではありませんが、30分以上祈り、断食まですることが出来なかった人は、自分の試練にも対処できないでしょう。ただ、悩んでいるだけになるでしょう。

人生は、罪や悪との戦いです。自分の弱さと向き合い、それを信仰によって克服する努力を日頃していない人が、試練になど勝てるわけがありません。試練というのは、どういうものでしょうか。

 病、事故、失業、金銭の不足、人間関係、孤独、批判や攻撃、・・・これらのものに対処するのには、テレビや新聞を見て時間を潰していては、試練は大きくなっていくばかりです。逃げたり、誤魔化したりしていてはならないのです。

 パウロが、自分の経験した試練をUコリント11章で列挙していますが、私も多くあります。心臓を悪くして死に掛けて動けなくなったことも何度もあり、痛風で口が開かなく動けなくなることもあり、ヤクザに馬乗りにされたこともあり、こちらから乗り込んだこともあり、破産の危機も何度もあり、多くの批難や攻撃にあい、死を覚悟したことも何度もあります。しかし、すべて、聖書のみことばが与えられ、讃美が浮かんできて、信仰によって乗り越えてきました。

 「恐れてはならない。おののいてはならない。」と書いてあるので、恐れたくなる時も、神にすがり、信仰を奮い起し、讃美を唱え続けて、試練に向かって行きました。私など、9人兄弟の末っ子で、甘やかされて育ち、生意気な何もできない男でした。しかし、聖書に触れ、聖書のことばうたれ、そのことばを信じ、信じられない時にも信じすがり、ここまで生きてきたのです。私にとって、イエスキリストは、主であり、師であり、模範であります。この方の愛に恥じない、生き方をしたいといつも自らを戒めています。

 「自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」という言葉は真実です。出来なくても、それを諦めたら、私たちは恐れを持ち、誘惑に負け、試練に負けて挫折するのです。過去の信仰では生きてはいけません。