1月6日 悔い改めて福音を信じる。   マルコ福音書1章415

新改訳 マルコによる福音書1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

1:5
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

1:6
ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

1:7
彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

1:8
私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

1:9
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1:10
そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

1:11
そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

1:12
そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

1:13
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1:14
ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

1:15
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」


 年越し祈祷会で、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。全てが新しくなりました。」(Tコリント5・17)からお話しました。

 新しいものと古いものが入れ替わることを新陳代謝と言いますが、身体の中は異化と同化という代謝が常に行なわれています。人間の細胞は60兆個で日々6000億個もの細胞が入れ替わっています。その基本的原料となるタンパク質は、再利用もされますが、不足すると再生が不十分になり、健康が損なわれます。その他、再生の時などに異物が入ると障害が起こります。異常な細胞は死滅して、遺伝子本来の情報に沿った再生がなされれば、障害も回復し、健康な身体が形成されます。マリヤ・クリニックで行なっている分子整合栄養医学というのは、その細胞の回復力を重点に置いたものです。もし、不具合な、傷ついた細胞が死滅しなければ、身体が回復していくことはありません。死ぬということこそ、健全に生きるために必要なことなのです。

 身体の細胞が自動的に新しく再生されると思っている人は、次第に健康を害していきます。再生のために必要な栄養素を摂り入れることに無関心で、身体を鍛え労ることをせず、害となるものに控えることをしない人が、健康で長寿と平安な日々を送る確率は低いでしょう。人のDNAの末端にはテロメアというものがあり、細胞分裂の度に短くなるそうです。つまり、分裂には限度があり、その限界はだいたい120歳くらいなのだそうです。しかし、障害や病気、放射能などのストレスがあると分裂を異常に繰り返して、健全な細胞を造り出そうとするので、寿命が縮んでしまうわけです。

 心もまた、同じようなもので、大事なことは、「自分を捨て」(マルコ8・34)ることであって、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべき」(エペソ4・22)なければ、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着る」(エペソ4・23-24)ことはないのです。

 ところが、殆どの人が自分の生まれながらの罪性を否定せず、情欲によって滅びて行く古い心を造り変えようとしないのです。そして、「自分はこういう性格なのだ。」」と自分の罪性を是認し、捨てようとも滅ぼそうともしないで、互いに罪人同士で正当化をしているのです。細胞が日々新しく入れ替わっているのに、心は全く替えようとしないのです。細胞の新陳代謝でさえ、健全な栄養と管理をしないと病気になるのと同様に、心は悪くなる一方で、口先だけの言い訳で、どうにかなると誤魔化しているのですが、もはや手遅れで、人にも家族にも見放される人が多くいるのです。

 年末に家族16名が何度も集まり、幸いな時を過ごしました。信仰を持って37年間、思う通りにならないことばかりでも、神を信じ、神に従ってきました。礼拝を損ねたこともなく、献金や献げ物、慈善もしてきました。自らの利益を求めることよりも、神に従い、聖書の命じることを行ってきたつもりです。耐えられないことも、欺かれることも、批難を浴びることも、泣き叫ぶような苦しいことも、食べるものもなく断食を続けたことも・・・、苦しいことばかりでした。そういう中で、自分の心を神を信じるということに向けることに、努力してきました。信じなければ、挫折し、試練に耐えることはできずに、そのことを正当化してきたでしょう。

 多くの人が神を信じると言うことをせずに、これまでの慣習や世のしきたり、そして、欲のままに生きていることを知っています。信仰というのは実によって確かめることができます。信仰による判断をしない人は、たとえ礼拝に参加し、献金をし、聖書をよく読んでも、信仰者とは言えませんし、神には認められません。

 「悔い改めなさい。」これは、自分の罪を認め、それを捨てることを決心することです。自分が神との正しい関係にないことを悟り、それを真剣に悲しんで、神の基準で正しいものになろうとすることです。単に、悔いて謝るということではありません。キリスト教は回心と書き、改心ではないのです。正しい生活をしようとしない人は、回心していないのです。しばしば、「神様赦して下さい。御免なさい。」と悔いる祈りをする人がいますが、神は悔いることよりも、心を変えて聖書の基準にあった生活を送ることを求めています。

 「福音を信じる。」とは、神の基準にあった生活をしようとすれば祝福があり、神はそれを義とするということを信じることです。信仰者というのは、毎日の生活において、如何にして神の基準にあった生活を送れるかということを、祈りと聖書の御ことば、そして聖霊に導かれて実践する人のことを言うのです。心も新陳代謝が必要なのです。

 霊的な新陳代謝とは、自分を主張しないで、神を讃美し、神に自らを明渡し、新しい自分を受け入れることです。いくら考えても「霊において新しくされ」ることはありません。「古い人を脱ぎ捨てて」「新しい人を身に着る」ことは聖霊による以外にはありません。バプテスマのヨハネは人々に悔い改めを迫るだけでしたが、イエス様は「聖霊のバプテスマをお授けになります。」

 悟りに拠るのは、心の変化ですが、それでは足りないのです。神の国の福音とは、私達自身が神の国に入って、この地上を生きることなのです。



1月13日 天の御国を奪い取る。   マタイ福音書111122
新改訳 マタイ11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

11:12
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

11:13
ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。

11:14
あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

11:15
耳のある者は聞きなさい。

11:16
この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、

11:17
こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』

11:18
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

11:19
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

11:20
それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

11:21
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

11:22
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。



 先週は神の国に入る為には霊的な新陳代謝をすること、つまり、古い自分に死に新しい自分に生きることを罪重ねるべきことが必要であることをお話しました。新陳代謝が出来ないと身体自体が死んでしまうように、霊的な刷新がないと神の国に入るべき状態を保つことができなくなるのです。

 今日は、神の国に入る信仰とは、悟りではなく教えの理解でもなく、神から来る救いそのものであり、それは救いとしてのこの世との戦いの勝利の確立であることをお話します。

 獄中のバプテスマのヨハネから弟子たちが遣わされ、イエス様はメシヤなのか否かを確認するようにと言われます。イエス様は、ご自分がなさっていることを報告しなさいと答えています。イエス様は、人々が「つまずく」(11・6)ようなことをなさっているのであって、崇高な教えを諭しているのではないのです。

 「目の見えない者、足のなえた者、重度の皮膚病の者、耳の聞こえない者、貧しい者」(11・5)は、神に祝福されていない呪われた者であると考えられており、メシヤがその人々に関知するのは、厳格なユダヤ人にとっては汚れに触れるということで、あり得ないことなのでした。ですから、メシヤ救世主を待ち望む人々は、イエス様に失望するのです。

 一般の人々が期待するのは、荒野で裁きを叫ぶヨハネのような預言者でしょうか、風に揺れる葦のような平凡な風景を見ることでしょうか、或いは豊かで教養のある王宮に住まう人でしょうか(7.8)。イエス様は、ヨハネを最高の預言者であると評価しますが、それでも十字架の救いという奥義を知らず体験もしていないので、地上での生涯の意味合いは大したものではないと語ります。つまり、救いというのは、大変な奥義であり、神の国の住民とする偉大なことなのです。 

 天の御国を激しく攻め奪い取る、ということの意味について諸説がありますが、神の国に入るということは、死に物狂いで奪い取るというくらいの命掛けのものであると、私は解釈しています。天国が暴力的に攻撃されているという解釈もあるようですが、神の国がサタンや不信仰者に奪い取られるということはあり得ないことです。

 今はスポーツが流行っていますが、健康のため、リラックスのため、趣味などと言います。まるで自分の命が永遠であり、健康管理を十分にしていたら、自然に天国に行くと考えているのか、或いは、それらを知らないか考えないで過ごしているのでしょう。

 お酒を飲んだ後にこってりのラーメンを食べたがる人が多いようですが、死ぬか脳障害の確率は高いでしょう。不用心に生きている人が多いのが日本の特徴ですが、犯罪が少ないからと安心しているからでしょう。油断している人ほど、犯罪に巻き込まれる確率は高くなります。食欲、性欲、金銭欲、権勢欲、怠惰に溺れている人が、人生を踏み外す確率も間違いなく高いのです。

 パウロが「私は全てのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みを共に受ける者となるためなのです。」(Tコリント9・23)と語り、「闘技をする者は、あらゆることについて自制します。・・・自分の身体を打ちたたいて従わせます。自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Tコリント25-27)と言っているのは、神の国に入ることが罪との命掛けの戦いであり、そうしてこそ、神の国の住人になれると信じているからです。

 最近やっとマリヤ・クリニックの働きや、私達夫婦の働きが信頼されるようになりました。教会の働きだけでは、世の中の人は宗教者の熱心さとして理解するだけでしょう。教会で30年、クリニックで26年となります。忙しく働き続け、問題や試練も続きました。信仰者として、一心不乱に生き抜いてきただけです。右と左の分岐点は数多くありましたが、全て神に仕える方を選んできたという自負はあります。しかし、もし違う方を選んだらと思うと恐ろしくもあります。今の祝福はないでしょう。

 失敗も多くあり、悔いることも多くありますが、人間的な弱さや罪深さは問題ではありません。利己的な方を選んではいないつもりです。精神障害の人々や問題をもった人々に対して、その根本的な解決を願い、働いてきたつもりです。振り返ると、利己心や敵愾心から、私達に攻撃を仕掛け、批判を繰り返し、勝手なことをしてきた人々は、あまり良いことになっていないことを知っています。私たちは、それらの人々に呆れたことはあっても、攻撃を返したことはないつもりです。

 福音の約束と真実と受け留めた私達にとって、もはやそれ以外の祝福を受けるのはもったいなく、ただありがたい祝福に対して、出来る限りのことを神に仕えて働いていこうとしてきたのです。そして、そうあることができることが、福音ということ、そのものなのです。

 「私にはどんな報いがあるのでしょう。それは福音を宣べ伝える時に報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(Tコリント9・18)

 福音の恵みというものは、人生を神に委ね、神に従って生きることによってのみ確認できるものなのです。悟りや教えではありません。

 井戸の水でご飯を炊きました。水道水とは全く違う味です。「ああ、おいしい!」とわかりました。これは、食べなければわかりません。教えることもできません。分かったつもりになることはできますが、それでは喜びを得ることはできません。放射能汚染を気にする人は、我が家に水を飲みに来てください。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7・38)。


1月20日 御国への期待。   マタイ福音書152231
新改訳 マタイ15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

15:23
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。

15:24
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。

15:25
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。

15:26
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。

15:27
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

15:28
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

15:29
それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。

15:30
すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。

15:31
それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。


 病や身に欠陥のある者は祭司になれないとレビ記21・17-22にありますが、聖なる食卓には与ることができました。これは、神の宮は神の国の型であり、そこで奉仕する者が障害者であると、その示しが取れないことにあると思います。ヨブは、「目の見えない者の目となり、足の萎えた者の足となった」(ヨブ29・15)とあるように病者や障害者を助ける者は義人と聖書は記してあります。

 イザヤ書には、「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛びはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(35・4-6)とあり、それは神の国の描写なので、神の国には、そのような病や障害はないことを説明しています。ところが、その直前に、「心騒ぐ者たちに言え。強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。」(イザヤ35・4)とあるのには、竦むような恐ろしさがあります。

 健康や富を謳歌し、この世を思いのままに生きようとする人々と、病や障害で苦しみ、悲しみ、だからこそ、神の国を追い求める人々とを、神は見ているということなのです。もし、神の国や死後の世界がなければ、人は好き勝手に生き、快楽に溺れ、人を犠牲にすることが平然と行なわれるでしょう。事実、神を信じない人々は、人の目を気にしながらも、そのように生きようとしているのです。キリスト教だけでなく、健全な宗教というものは、この世を誠実に生きることと来世の報いを教えるものです。

 そういう面で、神を信じないことを当然とする人々が多数を占める日本という国は、異常でありながら、日本教と言われる宗教観を共有していました。これを山本七平が指摘し、「絶対神を認めず、人間を中心とした和の共有を保つ思考方法」と捉えます。つまり、相対思考であり、イスラム教などの宗教の過激性を否定し、また理解できないのです。人間は普通、死後に対して強烈な恐怖感を持つのですが、日本人の相対性は、「誰でも死ぬのだから、しょうがない。あの世という言い回しをし、好きなことができる世界と言うことにして、深く考えないことにしよう。」ということになります。

 イスラム教にしても、キリスト教にしても、唯一神教は、「神はその基準によって人を裁き、適った人にだけ神の国に入れることを赦す。」という怖い教えです。日本人のキリスト教徒には、この絶対神信仰がなく、日本教的基督教徒が多いことは、しばしば指摘されています。「自分はクリスチャンとして努力している、宗教行為をきちんと守っている。」という内面的な規制よりも、私達に対してご自身の示された聖書という基準に従って生きることを求める神の存在と意思を確認して生きることが大事なこととなってきます。

 「父なる神」としての神理解は、聖書の理解の仕方と個人の気質によって相違することは当然なことですが、基本的に必要なことは、神との応答ということです。そして、裁くのは神であり、とりなすのは御子キリストです。ですから、キリストの基準が大事です。
 カナン人の母親は、娘が悪霊に憑かれているような異常な病態であることに苦しみ、解放と癒しを求めてイエス様を追いかけ大声で叫び続けます。弟子たちがうるさがるほどでした。この女性に対して、イエス様は「イスラエル民族以外に今のところ関心がない。」という意味合いを語ります。神の国の福音に興味がある人にだけ、癒しの業をしたいということです。ところが、彼女は、「私は犬ころのような価値のないものだけれど、それでも食卓から落ちたパンくらいはいただけるのではないか。」と祝福を要求します。イエス様は「あなたの信仰は立派です。」と褒めて、癒しの業をなさいます。これは、自分には癒され、祝福される資格はないと諦めている人々に対する、イエス様の強烈な指導です。

 そして、イエス様はさらに多くの病人や障害者を治します。彼らは自分たちが、神の基準には合致しない罪人だから、障害を負っていると思い込んでいたのです。イエス様の業の目的は、最終的には癒しではなく、病と罪のない神の国への待望を、彼らが自分のものとして救いを求めることでした。

 イエス様が否定したのは、律法学者やパリサイ人であって、神ご自身ではなく、宗教的な規則の順守によって、神の国の栄誉を得られると考える偽善者立ちでした。要するに、神を愛し、人を愛するという、神の国の基準を、相対的宗教行為に替えてしまった人々です。神を愛し、人を愛する生活を営むと、模範的な立派な生活を送ることはできないかもしれません。この母親のように、娘の癒しを求めて泣き叫び、無理なことを神や人に要求することもあるでしょう。

私は小児まひで身体が不自由な娘さんが癒しを求めたので、21日間も断食して癒しをしたことがあります。ところが、彼女は更に身体的祝福を求めて他の教会に行き、更に信仰を失いました。魂の救いと安らぎ、そして神の国に住まうという目標ではなく、健康になったら幸せな結婚ができるという現世的な願いで終わってしまったからでしょう。がっかりしましたが、それで神に求めることをやめてしまったら、私自身の祝福も終わってしまったでしょう。

問題の解決を自分の能力によってではなく、神に求めながら最善を尽くしましょう。そして、全てのことの中に神の国へ自らが行くための信仰訓練だとわきまえて、謙遜と従順を学びましょう。神は必ず、この地上で報いてくださり、更に神の国へと私たちを迎え入れてくださいます。

もう一度言います。大事なのは、宗教行為ではなく、人を愛し、そのために神に求めることなのです。自分の罪深さを見てはいけません。


1月27日 父なる神の国。   マタイ福音書423512

マタイ4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

4:24
イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。

4:25
こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

5:1
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

5:2
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

5:12
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。


 先日、仙台で震災以来支援活動をされている後輩の牧師に会いました。ご夫妻共に長期間の支援活動を休みなく続けて身体を害し、それでもにこやかに教会活動と共に進めておられるのに感銘を受けました。先生は、私が行なっていた活動にも喜び、「この世にキリストの栄光を輝かせ、社会に大きな影響を与える働きが必要である。」と祈っていたことを語ってくれました。

 イエス様は、ガリラヤ全土を巡って福音を伝え続け、あらゆる病気、あらゆる患いを直されたとあります。そうして集まった群衆に、山上の垂訓として有名なこの箇所を語ったのです。ガリラヤ湖に向けて円形劇場のようにせり上がった湖畔に私が立った時の感動は忘れられません。数千人が座っても良く聞こえるような場所でした。大声で、「福音を信じましょう!」というような言葉を言った記憶があります。

 イエス様は、「貧しい者は幸いです。」と言われました。ところが、現実には多くの信仰者が、豊かになるために、仕事が成功するためにお祈りをしています。先日、ある人の祈りを確認して驚きました。自分の祝福や内面の成長など、自分の事ばかりでした。私は、その人に言いました。「残念ながら、こういう祈りを神様は聞かれません。自分の祝福は自分で努力して勝ち取れば良いのであって、信仰者というのは、他の人のために祈り、助け、尽くしていく使命が与えられているのです。そういうことをして、自分のことがうまくいかなそうな時には、祈らなくても神は助けてくださるのです。」

 ルカ12章には、「自分のために蓄えても神の前に富まない者は」として、死んで地獄に行く人のことをイエス様は教えています。自分を犠牲にして、他の人に施すことができない人に対して、神が富ませ祝福する意味がありません。ルカ16章では、金銭のことを不正の富、と言っており、その「不正の富で自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富が無くなった時、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(16・9)と奥義を語っています。信仰者と言えども、報いの無い施しができる人は少ないので、経済的に神から祝福される人が日本には少ないのです。

更に「悲しむ者は幸いです。柔和な者は、義に飢え渇く者は、憐れみ深い者は、心のきよい者は、平和をつくる者は、義の為に迫害されている者は、」と続きます。世の中は理不尽なことばかりです。そして、苦しいこと、辛いことも多いのです。ところが、多くの人は自分勝手なことばかり考え、他の人と関わりなく、自分の生活の安定と幸せを求めています。逆に言うと、こうなるでしょう。

「悲しむことなく自分の幸せと成功ばかり考え追い求めている人は、わざわいです。その人が神の国に行くことはないからです。」

「怒ったり、腹を立てている人はわざわいです。その人は、財産を失い、友を失い、家族を失うからです。」

「不義を当然として誤魔化して生きている人は災いです。その人は心配で眠れず、失うことばかりでしょう。」

 「憐れみのない人はわざわいです。その人は、人に憐れみを施さなかったので、神から怒りと罰を受けるでしょう。」

 「心の悪どい人はわざわいです。その人は地獄を見るでしょう。」

 「争いをつくる人はわざわいです。その人は、人々から忌み嫌われ、地獄に行くと言われるでしょう。」

 「義人を迫害する人は災いです。その人が天国に行くことはないでしょう。」

 逆を読むと大変なことになります。聖書は神が父であると言っています。最近の父親はだらしがなく、子供の悪と放縦を指導できないようですが、そうすると、いつしか、この逆の垂訓を体験するものとなります。むろん父なる神は、無慈悲ではありませんから、忍耐深く悔い改めと信仰を私達に教え導こうとされます。

 信仰者は性格を良くするとか、祝福を求めるとか、自分のことを求めて生きるべきではありません。そして、こういう教えを聞いて、それを他の信仰者に求める人も、いのちを失います。私たちは、神を信じ、自分勝手な自己中心の罪を悔い改めたのであって、その結果として、家族や他の人々を祝福し、幸せにするために、神に任命されたのです。実際には、なかなかそのように忍耐をもって人々に仕え、助けて行くことは大変なことです。ただ、そうする時にこそ、神が働き助けてくださるのが法則なのです。

 現在、病んでいたり、問題を抱えていたり、苦しんでいる人は、そのことを通して、神を求めるようになることです。実際には、殆どの人が神に求め、自らの姿勢を悔い改めることなく、人間的な解決手段を求めて労苦します。人間的な努力を否定するわけではありませんが、「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのことはすべて与えられます。」という信仰の原則を自らのものにすることができないのです。

 父なる神は、私達信仰者を成熟させようと願っておられるのです。


2月3日 神の子どもの国。   マタイ福音書423512
新改訳 マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

18:2
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、

18:3
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

18:4
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

18:5
また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

18:6
しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

18:7
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

18:8
もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

18:9
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

18:10
あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。


クリニックニュースに載せたように、胎盤の機能は凄いものです。胎児の血液と母体の血液は違いますから、胎盤を通じて酸素や栄養素を供給し、二酸化炭素や老廃物を回収します。胎児には内臓器官など全く機能していないので、胎盤が肺、肝臓、腎臓、すい臓その他の器官の役割を果たすのです。栄養素は、代謝がし易いように分解して送られ、母体を犠牲にしてもカルシウムなどが供給されるのです。ウィルスや病原菌に対抗するために免疫グロブリンもIgGだけは母体から送られます。

 ところが、分子量が500以下のものは胎盤を通過してしまうので、薬は殆ど通過してしまい、母親のアルコールや高血糖も悪い影響を与えます。つわりは、胎児を酸化から守るために、クエン酸や梅干しなどを食べたがるように仕向けます。

 私は、親とは違う存在を造り出すために、神が配慮しているという強い印象を受けました。胎児の時から、独立性を促すために、決して胎盤を越しては接触しないのです。そして、母親の悪さは、そのまま子どもの体質にも影響し得るということも事実でした。

 子どもというのは弱い存在であり、おとなの世話が無ければ生きていけません。それをおとなが面倒くさがったり、注意を怠れば、子どもは死んでしまいます。動物界でも子どもを守るために、親が当然のように死んでいくことは感動的なものです。神様は、子どもを守るために母親に節制を命じられたのでした。

 私の妻も体調と鬱が強かったので、結婚後1年は何もできず、医師国家試験も受かりませんでした。そんな中で子どもを産もうとする私たちを周囲は、諌め、馬鹿にしました。そんなことで子どもが育てられるはずがない、まずは社会的にも経済的にも健康的にも先行きが見えてから子どもを産むものだ、などと言われたのです。そんな中で妻は切迫流産になり、出血が21日間続きました。こんな状態で子どもを産むことは神の御心でないから流産するだろう、無理をしてはいけない全てを受け入れなさい、という人もいました。

私は、決して負けない、神の御心は、私たちが幸せになることであり、決して流産など御心のはずはない、と断食を続けながら、往復4時間の神学校に通いました。過労と心身の負担で心臓がおかしくなり、不整脈で動けなくなりました。自分の信仰は独りよがりのものなのだろうか、私の献身は祝福されないのだろうか、妻はこのまま病気で働けないのだろうか、思い煩いと不安、そして動けない身体に涙が流れ出ました。横には妻も、切迫流産が続いているので臥していました。

 3,4時間のたうちまわった後、聖霊が激しく私を覆い、「神の御心は全ての点で幸いを得、また健康であること」(Vヨハネ2節)であることを示されました。私は、飛び起きて、妻に癒しを宣言し、自分の不信仰を悔い改めました。身体中が聖霊に満たされてしびれたようになり、妻も私も一瞬で癒されました。そして、長男を出産し、主の人、と名付けたのです。

妻は、乳をあげながら心も身体も癒されていきました。私達夫婦の人生は結婚後25年は子育てを優先し、教会もクリニックも二の次でした。親にとって、神から預かったことが明白なのは子どもです。多くの人が仕事や生活を優先します。先週、自分の為の祈りは一言で良い、他人の為に生きることこそ、クリスチャンの使命であると話しました。そういう面で、夫婦は子どもが成人に至るまで子育てを最優先の神からの使命と考えるべきです。子どものいない人は、他の人に仕えることを優先しなければなりません。

 自分の能力や功績をもって自らを評価する者は、「悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国に入れません。」(3節)。自分の仕事を価値あるものと評価する者は、単に地上に宝を積んでいるだけで、神の国には何の功績も積んでいないことを悟らなければなりません。

 病児保育では、現在一人の子どもに一人の保育士が付いています。完全な赤字です。でも、その姿を見ることが麗しく、うれしくて、感動しています。マリヤ・クリニックをやってよかった、とつくづく思います。子どもたちが病気なっても、苦しいことがあっても、ノアで大事にされた、可愛がられた、となんとなく覚えていれば、それを感じてくれれば、神の働きをすることができたと感謝します。

 人は雑事に追われます。仕事を見つけて、忙しく働き回っています。私は、忙しく働いてしまう自分を神の前に悔い改めています。仕事をすると人が見えなくなり、愛さなくなってしまうことが多くあります。自分は、何の為に救われたのか、神に賜物や財産や力を与えられているのか。人を愛し、励まし、慰め、助け、仕え、神にある日々を喜び、楽しみ、そういうことから離れてはいけないと自分を戒めています。

 子どもを見下げ、侮る者は、神の国に入る資格を失います。天使が彼らについていて、その子どもに対する仕打ちを神に報告するからです。その子どもも、自分の罪に囚われてしまい、天使が付いていることができなくなるのも事実ですが。


2月10日 神の宝の国民。   申命記7615節 

申命記7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

7:7
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

7:8
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

7:9
あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、

7:10
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。

7:11
私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。

7:12
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、

7:13
あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。

7:14
あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。

7:15
主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。



 教会総会の準備に教会員の全てを確認し、別帳会員や引越した教会員や召天した人たちを思い出し、祈ります。教会を離れた人たちには、明白な認罪や悔い改めのなかった人々もおり、安易に洗礼を授けてしまった初期の牧会の未熟さを神の前に悔い改め、執り成しをします。マタイ13章には、神の国の種を蒔かれたけれども、道端のような心だったので、直ぐに鳥が食べてしまったとあります。神の国の福音も、彼らには通りすがりの興味の一つにしか過ぎなかったようです。

信仰も良いけれど働かなければ生きていけないのでという人々も、教会を離れます。土の薄い岩地のような心だったのでしょう。日が照ると根づいていないために枯れてしまいました。信仰という土台に人生と日々の生活を根付かせるなどとは、考えも寄らない人々がいるものです。何でも良いものを利用しようとするけれど、便宜的な考え方で、残念ながら真理を求める心が少なかったようです。なにかあると直ぐに躓いて、腹を立て、信仰を捨ててしまいました。

誘惑に負けてしまった人々も多くおります。名誉欲や意地も強く、快楽や放縦に囚われる人々もおりました。彼らの多くは、神の祝福や奇跡を体験していますが、節制が足らないので、問題を起こし、信仰から離れていきました。信者時代に洗礼に導いた人は50人くらいおりますが、忠実に信仰を守っている人は10人くらいでしょうか。

福音のために人生を献げ、時間も能力も富も費やしてきた結果は、世の中の価値基準としては少ないものかもしれません。現在でも、年間数名しか救いに導いておりません。労働生産性とか効率というものでは、愚かな数字です。牧師となって、その効率の悪さに驚きました。10年くらいは、そのことに不満を持ち、苛立ち、やってられない、と苦しみました。ストレスは身体を蝕みます。痛風になり、少しの振動にも身体が痛み、額関節が腫れて物も食べられなくなり、惨めさが、自分の心を覆いました。教会員が不満を言い、教会分裂を起こし、去っていきました。報われない、という思いは、いつでも私の心から離れず、祈りは苦しいものでした。

イエス様を3度も知らないと言い、逃げたペテロに復活の主は、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21・15)と聞きます。そして、他の人は「あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・22)と言います。私は、何度、主の姿を見て悔い改めたことでしょうか。

「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・14)とありますが、神の国に行く者はかなり少ないのが事実でしょう。クリスチャン人口が何割というのは、教会に趣味のように、或いは交流や助けを求めて行っているということを含めてだろうと思います。それでも、本当に救われている人、神を信じている人と接すると、その信仰と真実さに驚きます。トキを救うために莫大な予算と労力が費やされています。絶滅種を守るために、国家が本気で取り組んでいます。

失礼な話かもしれませんが、神の国に入るまで信仰を守りぬいた人は、絶滅危惧種のような価値ある存在です。日本のような国で信仰を守り続ける人を一人でも確保したら、それは国家予算よりも尊いことです。そのように考えるようになって、私は牧師としての働きに価値と喜びを悟ることができました。

 今日の聖句では、「あなたがたは最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから」(7,8)と、「あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(6)とあります。信仰者が少ないとか、信仰を離れる人がいる、とか他の人を見るいつようはありません。神は、あなたを愛し、あなたを選び、あなたを神の国の住民として宝のように扱っておられるのです。

 胎児は無菌ですが、無菌状態では、腸管免疫は形成されず、産道を通る途中に細菌に感染して腸内環境が造られるそうです。また、善玉菌は嫌気性なので、帝王切開の子どもでは、腸内の善玉菌が少ないそうです。ところが、悪玉菌と言われる大腸菌やクロストリジウムを免疫系は排除せず、却って、それらがないと免疫系は完成しないのだそうです。腸内の菌のバランスは善玉菌:悪玉菌:日和見菌=2:1:7と言われ、日和見菌が最も多いのだそうです。日和見菌は、悪玉菌が増えると悪玉のような働きをし、ストレスが多いと悪玉菌が増えるそうです。まるで人間社会のようです。

 世の中に悪がはびこり、信仰者を迫害することがないと、信仰者は神の国に行く者として完成しないのです。何度も申し上げているように、神が試練を用意するわけではありません。しかし、「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄誉になることがわかります。・・・これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Tペテロ1・7,9)。

 もう一度、聖句を読んでください。「あなたは、最も祝福された者となる。全ての病気をあなたから取り除き、悪液は一つもあなたにもたらされない。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。」「これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。直ぐに立ち滅ぼすことはできない。」(7・22)。

恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43・1-4


2月17日 革袋を張り裂く教え。   マタイ91017 
マタイ910 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

9:11
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

9:12
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

9:14
するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

9:15
イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。

9:16
だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。

9:17
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

ルカ 5:39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」



 咳が出る寒い夜には、花梨酒を飲むことがあります。2年半前のものは一瓶しかできなかったので終わってしまいましたが、1昨年のものはこなれてなくて強いので飲めません。古い酒は、アルコール分子が分かれて小さくなり、安定してくるのだそうです。そうすると毒性のアセトアルデヒドがアルコール分解酵素によって速やかに無毒性の酢酸に分解され、二日酔いや悪酔いになりづらいのです。皮袋例えは、マタイ、マルコ、ルカの福音書にあるのですが、ルカだけが、古い葡萄酒を飲んだら、新しいものが良いということはない、と書いているのですが、医者らしい分析です。そして、イエス様の教えは、新しい教えなので、古い教えである律法主義や戒律主義は、一度浸透してしまうと、そこから代えて、新しい教えに入るのは難しいと、分析しています。

 山羊の皮から作った革袋は20リットルくらいで、ブドウをつぶして入れておくと、果肉についている葡萄酒酵母が自然発酵してブドウ酒になっていきます。つまり、新しいブドウ酒を入れるのではなく、新しいブドウ酒を作り出すためにブドウのしぼり汁を革袋に入れるのですが、発酵して多くの炭酸ガスを出して膨らむので、そのガスを通気させるには新しく柔らかな皮でなければならないのです。日本でも、鹿皮は通気性が優れているので、武具や貴重品の保管に用いられていました。調べてみると山羊皮は通気性に優れているそうです。これが2週間くらいで活発な発酵が終わり、そのまま数カ月から数年熟成させるのです。この途中で空気に触れると酢酸発酵をしてしまい、或いは腐ってしまいます。ですから、新しい皮袋にそのまま入れ続けて、古いものになっていくのです。ブドウ酒としては、この後加熱処理をして酵母菌を殺し、びん詰をし、熟成を待つのです。

 さて、イエス様の教えですが、それは、触れた人、教えを受け入れた人には、新しいブドウ酒のように、素材を変えて発酵を重ね、ガスを噴き出すので、これまでの生活様式を変えて爆発させてしまうほどに影響力のあるものです。古い習慣に従い、家族や周囲に合わせる生き方とは全く違う、興奮する教えなのです。

 私などは、12月19日に教会に初めて行き、28日の聖餐式で招かれもせずに救われてしまいました。正月に帰省して、酒も飲みたくなくなり、麻雀をしてもつまらず、煙草もやめてしまいました。1月3日ころの信念聖会では既にトランペットで讃美をし、正月後に会った友人たちは、私の変化に驚いて教会に来たほどです。2月には、大学生会でヨセフの人生を発表し、聖霊に満たされた体験をしました。3月の会計学研究部の合宿では、指導者であった私の変化に皆が戸惑い、夜遅くまで、酒を飲ませ、元に戻そうと10人以上が説得し続けました。私は、今までの生活からきっぱりと離れる覚悟をしていましたが、それは聖霊によることだったのでした。そして、3月31日に聖霊のバプテスマを体験し、5月の洗礼式には、導いた後輩と一緒に洗礼を受けました。友人後輩は、数十人が誘わなくても教会に探りに来たほどです。同時に洗礼を受けようとした浅木君の彼女が反対したので、講壇の前で祈っていると彼女が階段から転げ落ち、その瞬間悔い改めて7月に一緒に洗礼を受けるようなこともありました。
 11月の東日本聖会でブラスバンドを演奏するというので、素人20名を指導し、編曲したりして一生懸命になり過ぎて、まさかの大学院試験に落ちましたが、少しも平安を失わずに勉強し、留年して進学しました。私の人生は全く変わったのです。

 献身にしても神学校生活にしても、炭酸ガスを出し続けているようなもので、普通の生き方とは全く違っていました。最近やっと自分が、発酵が終わり、熟成が始まってきたような気がします。神の国の福音に触れて38年が経ちました。

 福音を受け入れた人生は、他の人生とは全く異なります。福音とは、発酵するものなのです。あなたが、信仰者として他の人とは違う、興奮し、少し異常だと思われて当然なのです。パウロの弁明に対して、総督フェストが「気が狂っているぞ、パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」(使徒26・24)、「あなたは、わずかな言葉で、私をキリスト者にしようとしている。」(28)と言わせ、「私が神に願うことは、あなたがかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(26・29)とパウロは叫ぶのです。

 クリスチャンとして、愚か者のように福音に一生懸命になることを、恥じてはいけません。それこそ、あなたが天国のパスポートを受けた印なのです。「この世の取るに足りない者や見下されている物を、神は選ばれました。」(Tコリント1・28)

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。」(Tコリント1・18


2月24日 神の義を求めて。   マタイ62433 
マタイ6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

6:26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

6:28
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

6:29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

6:30
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

6:31
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

6:32
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


 マタイ福音書5章から有名な山上の垂訓と呼ばれるイエス様の教えが7章まで記されています。人々は、その教えが「律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられた」ので驚いたと、7・28.29にあります。その違いは、律法学者は自ら律法を守るというよりも、律法を説くことで自らの使命を果たしているとして、現実の生活から乖離し、教える者としての使命感だけで厳しく自他を律しているからでした。

 解り易く言いますと、牧師は説教をするのですが、この5章から7章までを自ら完全に果たしていると自認して語るということは、大変難しいということです。例えば、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(5・38-44)とあります。これをそのまま守る人は、破産し、破綻し、挫折するのが当然です。これを守ろうとする者は、愚かであり、馬鹿な信仰者として嘲られるのがおちです。ところが、イエス様はそれを権威ある者として、実行することを命じられるのです。自らは実行しているという自負をもって語るのです。そして、守らなければ神に祝福されないと宣言するのです。守れば、神の国に迎え入れられ、そして地上でも神に特別な祝福を与えられると教えるのです。

 千葉には、義民として佐倉惣五郎という人が祭られています。佐倉藩の代官は大飢饉の中でも重税を課し、納められない者を処罰するので、農民一揆をしようとしていました。しかし、それでは一揆に加わった者がみな死罪などを受けるので、名主の木内惣五郎が将軍家綱に直訴し、3年間の租税免除を得たそうです。しかし、惣五郎は磔の刑となり、一族も殺されたとのことです。ところが、その処罰を下した藩主堀田正信の家には不幸が重なり、正信も奇行を繰り返して領地が没収されたので、惣五郎のタタリだと言われるようになり、それを恐れて、堀田正信自身が寄進して惣五郎を祭る霊堂ができたのだとのことです。

 年貢の過酷さに一揆を起こす人々も多く、どうせ飢えて死ぬならばと、他の人々を救うために命がけの直訴をするというのですが、殆どうまくいくことがないのです。たまたまうまくいった惣五郎の直訴を人々は喜び、その惣五郎を罰した藩主の不幸をタタリとして、個人を祭りあげるわけです。菅原道真を左遷したものの、死後に天変地異が多発したのでタタリとして恐れた朝廷が天満宮を祭り、学問の神様として崇めたのも、同じ鬼神礼拝の型です。

 人々を救うために自らが犠牲になり、磔の刑を受けたことは、イエス・キリストに擬せられのですが、そういう超人的な働きをした人は霊力が強いとされ、タタリを起こすとされるのです。ひたすら、人間の能力を越えた霊的存在、ある場合には先祖礼拝などをするのが、日本の風土信仰です。それは、帰依すればタタリが起こらないとする宗教で、「触らぬ神にタタリなし」ということわざのように、余計な口出し手出しをしないで、ひたすら頭を低くして目立たないように生きろ、と教えるのです。

 或いは、願掛けという信仰もあり、自らに試練を課して神仏に願い事をし、そのしつこさ、必死さ、真摯さに負けて神仏が同情し、超自然的な助けをするという宗教です。聖書にもこれらと同じような表現や教えがあるのですが、その意味合いを確認しなければなりません。

1. 信仰の対象が天地創造の全能主である。

2. 父なる神は、ロゴスをもって世界を支配しておられ、気分によって意思を変えることはない。

3. 神の御心は、私達を罪の世から救いだし、神の国に導くことであるが、その為には、神の基準(義)を満たさなければならない。

 冒頭で掲げた基準は、人間の能力や品性で果たすことができないものであり、理解や悟りで済むようなものではありません。また、佐倉惣五郎のように磔になれば、後は称えられるという業や行ないの基準でもありません。

 私達の考え方、生き方の方向性と実体が問われるものです。但し、これは減点法ではなく、加点法であり、心がその教えの実行に向くと、聖霊なる神が、私達に働きかけて、そのような神の国の人に変えていってくださるということなのです。

 「モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいがかかっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。・・・私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Uコリント3・15-18

 律法学者が人々に語る時、その教えは人々には無理なもので、私たちは果たせないという「死の務め」を彼らは演じているのです。しかし、聖霊が私達に臨むと、無理だと思えることも、「やってみよう、信じてみよう、神よ、助け導いてください。」という祈りと願いに変わるのです。

 牧師自身もまた、その願いによって、信仰を告白し、聖書の教えを自らへの課題としながら、神の国の住民となるために、聖霊なる神に身を委ねるのです。入国審査というものがありますが、犯罪者は入国できず、不法入国は国外退去となります。神の国に入る基準を神の義と言い、自らの能力や資質ではなく、国王であるイエスキリストの承認が必要なのです。イエス様が、罪人であるあなたの罪を赦し、救い主としてあなたを受け入れてくださることが必要なのです。


3月3日 神の国の様子。   ルカ福音書161531
ルカ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。

16:16
律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。

16:17
しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。

16:18
だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

16:19
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、

16:21
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

16:22
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

16:27
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

16:28
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

16:30
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

16:31
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


 今日は聖書の語る死後の世界について説明しましょう。イエス様が天に昇ってパラダイスを備えた(ヨハネ14・2.3)ので、一緒に十字架で死んだ悪人も悔い改めて「わたしと共にパラダイスにいます。」と約束されます。それ以前は、シオル(ヘブル語)、ハデス(ギリシャ語)と呼ばれる死者の場所に善人も悪人も行っていました。

 詩編86・13には、ダビデのたましいがよみ(黄泉)の深みにいるほど苦しい状態から救い出されたとあります。88篇の3節からは、ダビデも黄泉に行くことを覚悟しています。89篇の48節には、全ての者が黄泉に行くことを示しています。創世記44章では、ヤコブが「苦しみながら黄泉に下る」(29)と自らを語っています。詩編9・17では「悪者どもは、黄泉に帰って行く。」とあります。

 これらのハデスに関する疑問を解決するのがイエス様の教えです(ルカ16・19-31)。金持ちだけれど悪人だった人が、死んでハデスの炎に苦しむが一滴の水も与えられず、苦しくてたまらないと叫びます。ところが、目を上げると、ラザロという乞食が死んで、アブラハムと一緒に健やかに過ごしているのが見えたのです。「お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私達とお前たちの間には、大きな淵があります。」(25.26)と、生前の歩みがハデスでも、義人の場所と悪人の場所を分かつものとなることを教えています。しかし、死人が蘇って悔い改めと正しい行ないを説いても、生きている間に、聖書の教えを聞き入れる人は少ないと、イエス様は断言しています。

 詩編49篇には、人が自分や兄弟の魂の身代金を神に払うことはできない、と言い、必ず死んで、財産を他人に残すことになると教えています。その栄華のうちに留まることができずに黄泉に行き、そこでは直ぐな者が支配し、さらに正しい者はいつかは「黄泉の手から買い戻される。神が私を受け入れて下さるからだ。」と暗いハデスから、明るいパラダイスに迎え入れられることを預言します。

 ペテロは、聖霊が働いたペンテコステの出来事で、詩編16篇10節を引用して、ダビデが後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。神は、このイエスをよみがえらせました。私たちは、そのことの証人です。と大胆に語っています。使徒2・27-32.

 エペソ4章では、「高い所に上られた時、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」(8)とありますが、イエス様が死んで黄泉に下られ、よみがえる時に黄泉にいた義人たちをパラダイスに引き上げたのです。 

 それでは、パラダイスとはどのような所なのでしょうか。パウロは、ルステラで生まれつき足が萎えた人を癒した後、石打ちにされて一度死んでしまいました。そして、町の外に引きずりだされたのですが、しばらくして生き返りました。その間、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない不思議なことばを聞きました。その時の啓示があまりに素晴らしかった(Uコリント12・4-7)と

言い、だからこの地上の苦労や迫害など何でもないと告白するのです。パラダイスの様子については、黙示録4章などに記されているような輝くものです。これが新天新地の最終的な神の国に移って行くのです。

 私たちは、このような神の国、そして現在あるパラダイスに行くためにどのようである必要があるのかということが大事なものとなってきます。

 今日の聖句で「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし、神はあなたがたの心を御存じです。人間の間で崇められるものは、神の前で憎まれ、嫌われます。」とイエス様が教えられたことを十分注意しなければなりません。

 先週、どうにかしてでも神の義を全うしようとする願いと試みこそが、聖霊によるものであり、「神の義を求める」ものであることを語りました。はっきり言って、「神の義を求めようとしない」人は、たとえ教会に来ていても、神の国には入れない人です。

 自分の正しさや努力を認めてもらおう、自分は比較的善意な人間だ、などとして教会に通っていることで、神の国に入れると思ったら、失礼ながら大間違いです。神の基準、神の義を、どうにかしてでも守ろう、果たそう、とする人だけが、聖霊の内在のしるしなのです。ですから、はっきり言って、真剣さの無い、裏表のある信仰生活の人は、「人の前で自分を正しいとする者」であって、神の国に入ることはないのです。

 私がこのように話しても、魂の救われていない人、聖霊の内在の無い人には、何を言っているのか、全く分からないと思います。神の国と神の義は、救いに選ばれた人しか求められないものなのです。


3月10日 神の国の実を結ぶ。   マタイ福音書213343
マタイ21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

21:34
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

21:35
すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

21:36
そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。

21:37
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。

21:38
すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』

21:39
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

21:40
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」

21:41
彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

21:42
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

21:43
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。


ブドウの木は、種からだと収穫には4〜5年くらい掛かり、15〜20年くらいの樹齢が最も実りが多く、30年を超えると収穫は減るようですが、100年を超える樹齢もあるようです。若い方が収穫は多いけれども、老木の実は味わいと香りが高く大事にされ、老木から作られたワインはブランドになるそうです。ともかく、主人がぶどう園を造ってから十分な収穫を得るには4,5年は掛かるので、数年は農夫に任せきりだったかと思います。垣を巡らし、やぐらを建てたのは盗まれないようにするためであり、やぐらに農夫が住んでいたようです。

 数年経って収穫の時に、地代を受け取ろうとしもべを農夫たちのところに送るのですが、収穫を自分達だけのものにしようとした農夫たちは、その僕を殺したり、暴行をして、主人の取り分を渡そうとしませんでした。別の僕も同じようにされたので、息子を送ったら、息子も殺されてしまったのです。農夫たちには、整えられたぶどう園と設備があり、農夫たちは主人に養われていたのですが、農夫たちは主人に収穫を納めようしなかったのです。

 この例え話の前に、ぶどう園に働きに行ってくれと父から言われた兄が、「行きます。」と答えながら行かなかったことと、「行きたくありません。」と答えたけれど、悪かったと思って出かけた弟の話があります。実行することの大事さをイエス様は教えたかったのです。

 スマートフォンでキンドルを使い始めたので、無料の北大路魯山人の「料理の第一歩」という本を読みました。土地を耕し野菜を植えようと考えながら何もしない。牛や豚を飼おうとするが何もしない。料理をしようと思うが、しないで米櫃の米を生のまま食べる。いろいろと良いことをしようと考えるが、実際には何もしないで、目の前のものを食べる。既に女房は呆れて家を出て行った。食べるものがないので、自分の足を食べ、胴を食べ、手を食べてしまい、お終いに考える頭と食べる口だけになってしまった。「世の中には、こんな頭の大きい男がたくさんいる。」と書いています。「正しいこと、いいことを考え、間違ったことを少しも言わない人々がいる。そして一つも実行しない人間もいる。料理をおいしくこしらえるコツは実行だと思う。おいしい料理を作りたいと思う心と、おいしい料理をつくるということは、似ているが同じではない。」と実行することの難しさを説いています。

 クリスチャンとして、正しいこと、人を助けること、伝道をしたいと思うことは当然だと思います。しかし、実行して父なる神に収穫を納めなければ、たとえ話にあげた農夫のようになってしまいます。私たちは、細かく言いつけられるのではなく、この人生を委ねられています。そして、クリスチャンとしての収穫を神に納めなければならないのです。

 脱税は日本では、ばれたら「運が悪かった。」などとして、あまり重罪ではないのですが、アメリカなどでは非常に重く、社会的にも立ち上がれないものになっています。国家に対する責任を全うしていないことは大罪なのです。神の国に対しても、税金を当然払わなければなりません。

先週、ハデスとパラダイスを説明しましたが、そういう当たり前のことを日本の教会では話をしない傾向があります。良いこと、美談、聖書のお話を解説し、教会員が仲良く交流するのですが、裁きや義務については、きちんと話していないことが多いようです。

 私たちは、神に魂を救われ、神の国に迎えられる者として、神の教えを実行し、収穫を得るために努力しなければならないのです。マタイ25章には、天の御国の奥義があり、一人一人にその能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントが与えられ、それを用いて儲けることが課せられています。ところが、一人は、働くことを恐れて地の中に隠してしまし、、神から強く罰せられたとあります。大事なことは、神の国のために、働いたかどうか、ということです。

 「良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。…「主よ、主よ」という者がみな天国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。」(マタイ7・17,21)。

 毎日の生活で、神の国のために何かをするということは、なかなか難しいことです。日本のようなキリスト教土壌のない無神論的、刹那的社会で、聖書的な考え方を披露し、主張することは、人との軋轢を生みだします。死んだら誰でも天国と考える国で、「魂の救われていない者は地獄です。」と主張したら、総攻撃に遭います。「死んだら、無くなってしまう。」と考える人も多くいます。それなのに、オカルトは信じ、運勢を占い、神仏の罰を恐れる宗教的に軽薄な民族です。

 食事の時には、しっかりと神に感謝して祈りましょう。

 自分がクリスチャンで、天地創造の神だけを信じていることを示しましょう。

 困難な時に、神に祈り、神に助けを求めることを第一にしましょう。

 信仰による犠牲的な行ないを繰り返しましょう。

 家族の成長と助けのために自分の時間と能力を犠牲にしましょう。

 報いを求めずに与えることを毎日心がけて行ないましょう。

 聖書の神を知らない人に、丁寧に根気よく説明しましょう。

 自他を責めることをやめ、うまくいかないことを快く受け入れましょう。

 自分のやりたいことを少し我慢して、隣の人を助けましょう。

 快楽と欲望を満たすことを慎みましょう。

 その他、思いつく限りの良いことを行いましょう。


3月17日  神の国のマナを食べる。 ヨハネ福音書6章26〜36節

ヨハネ6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。


 クリスチャンの森永太一郎がマンナを発売したのは1930年のことで、世界恐慌の中で乳離れしたばかりの幼児が食べられる菓子を提供しようと、聖書のマナにちなんで作られたわけです。森永太一郎は、関東大震災の時もビスケット6万袋、キャラメル10万箱を配り、コンデンスミルクを溶かして毎日5万人に飲ませ、更に数万キロの米を配ったそうです。彼は、佐賀県伊万里市の陶器問屋の子として生まれ、23歳の時にアメリカに久谷焼きを持って行き販売しようとして破産して食べるものが無かった時、老婦人がキャンデーをくれたのだそうです。あまりの美味しさに、洋菓子造りを習いたいと願い、アメリカで働き始めた彼は、再び、その婦人に会い、雇われて、信仰に導かれたのだそうです。
さて、そのマナは旧約聖書でイスラエルの人々がエジプトから逃れ、荒野に旅する40年間の安息日を除く毎日、朝に天から降ってきたものです。コエンドロの種に似た味だそうで、蜜を入れたウェハースのようなものだそうです(出エジプト16・31)。コエンドロというのは、英語名ではコリアンダーだそうですが、地中海沿岸が原産で、現在ではインド料理などには欠かせません。これが荒野の民の前で毎日霜のように降りた細かいうろこのようなもので、一人当たり2.3リットルも取れるそうですから、200万人とすれば大変な量となります。
面白いことに、欲深な者が多く取っても、身体の弱い者が少なくしか取れなくても、結局は同じ量であったことです。そして安息日の前の金曜日には2倍の量が取れ、その他の日には、取れないのです。また、蓄えようとして、残しておくと腐ってしまい、悪臭を放ってしまうのです。取り残したマナは、しばらくすると溶けてなくなってしまい、ともかく蓄えることができないものなのです。ただし、安息日だけは、それが腐らず、食べることができるのです(出エジプト16章)。
説教を数年分も用意してあるとか、他人の説教を真似たとか、噂を聞くことがありますが、説教というものは、来週の分まで蓄えておくと腐ってしまうというのが私の感想です。作り置きもできず、他人の分まで取り置くこともできません。毎週、礼拝と祈祷会、そして、その他の集会のメッセージは、聖霊が与えて下さるのを待つだけです。「何をどう弁明しようか、何を言おうか心配するには及びません。言うべきことは、聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12・12)ということは、説教者にとっては恐怖でもあります。「語れなかったらどうしよう? 用意が整わなかったらどうしよう?」と考えて、知恵を尽くし、調べ尽くしても、聖霊が臨んでいなかったら、それは信仰者を養うことはできません。
皆さんもお気づきになっていると思いますが、私の説教は毎日の出来事と自分の信仰を語り、自らへの父と子と聖霊なる神の働き掛けを告白しているに過ぎません。礼拝で説教した後、次に語るべきものを持っていないので、愕然とします。緑の野で野菜や麦が育っていて、自分の労苦や働きから収穫できたら、何と素晴らしいことでしょうか。「彼らが、その地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナは無かった。」(ヨシュア5・12)。人は自分の労働の産物を喜び、それに生きがいを見出すのです。
ところが、罪というものは、そもそも「苦しんで食を得なければならない。」(創世記3・17)ものであり、「私が手掛けたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。日の下には、何一つ益となるものはない。」(伝道者2・11)。
人知を尽くして語った説教が殆ど甲斐もなく、聖霊に依存して語った説教こそが働きとして残ることを知らされてきました。ところが、それでも牧師は説教というものに、自分の全てを掛けているのです。説教を聖霊に導かれて語れなかったら、私は神の前には死んだ者です。そして、生きた説教、神の霊に導かれた説教を語ろうと奮闘し、聖霊にすがり、それでもなお、神の業を為し得ない苦闘の日々を過ごしています。「彼は、自分の労苦によって得たものを何一つ手に携えて行くことができない。」(伝道者5・15)というように、「人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)という人生を歩んでいることを、説教を通して学びました。
マナが日々私達に注いでいるのに、私たちは労苦をもって獲得する糧を得ようとしています。実際には、多く働いた者も、少なく働いた者も、神の前には同じであり、そして、その労苦自体は、何も残らないのです。労苦に重きを置いた人生は、「塵はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」(伝道者12・7)とあり、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、全ての隠れたことについて、全ての業を裁かれるからだ。」(伝道者12・13.14)
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(6・27)。マナは、神から与えられるものです。神から与えられるものを求めるべきです。自分の悟りや労苦は、どんなに優れていても、神の前には価値のないものなのです。
具体的には、どういうことでしょうか。自分の働きの成果を、知恵を尽くし、努力を重ねて求めようとするのは無益なことで、神の国には繋がらないのです。人を愛することに、愛されることに心を向けるべきです。神の御心を求め、人生を楽しみ、喜び、愛することに関心を向けるべきです。マナは、そういう人にこそ、注がれるのであり、マナを食べなければ神の国には繋がらないのです。イエス様を信じるということは、この世の働きや知恵を大したものではないとして、この世を荒野であると告白することから始まるのです。
森永太一郎も引退後は伝道者として人生を全うしたそうです。私は、非常に忙しいのですが、木曜に庭いじりをして、神と共に過ごしました。忙しさや成果、この世の富や業績は、神の国には持っていけないものです。


3月24日 神の国の王の入城。   ヨハネ福音書121025節 
ヨハネ12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

12:11
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

12:12
その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

12:13
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

12:14
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

12:15
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

12:16
初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

12:17
イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。

12:18
そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。

12:19
そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

12:20
さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

12:21
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。

12:22
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

12:23
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。


 復活祭の1週間前はシュロの主日と呼ばれます。過ぎ越しの祭りに来ていた巡礼者たちがラザロの復活のことを聞き、イエス様を救い主として称えるのです。5000人にパンを与えた後、人々が王としようとする時に逃れたイエス様ですが(ヨハネ6・15)、今回はろばに乗って堂々とエルサレムに入城されます。

 「エルサレムの娘よ、喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9・9)の成就として、人々の歓喜に包まれてイエス様は、十字架に掛けられる為にエルサレムに入るのです。

 パリサイ人はこれを見て、「何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人に後について行ってしまった。」(ヨハネ12・19)と焦り、いよいよイエス様を殺すしかないと判断するのでした。

 ところが、これはイエス様が彼らの策謀により十字架に掛かり、却ってそれによって救い主として復活し、神の国の王となるのに必要な配慮であったことを、弟子たちは、後になって悟るのです(ヨハネ12・16)。

 巡礼に来たギリシャ人がイエス様に会いたい、と来た時に、イエス様はご自分が「栄光を受ける時が来た。」と告げ、一粒の麦が地に落ちると豊かな実を結ぶと言って、十字架に掛かることを指し示すのです。

 神の国の奥義は、矛盾に満ちています。この世の論理と逆なのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。」(Tコリント1・18)。この世の論理では、救いに至る道は分からないのです。そして、例えば、「与えなさい。そうすれば与えられます。赦しなさい。そうすれば赦されます。」などを頭では理解しても実際に行なうことはないのが、救われていない人々なのです。

 自称クリスチャンがこの教会にも来ます。しかし、その多くの人が自分の祝福を求めて教会を探すのです。最も自分に都合の良い教会、利益を与える教会、面白い教会、そういうものを求めるのです。

 私達夫婦が救われた教会は厳しい教会でした。日曜日は朝8時から夜9時くらいまで奉仕し、その他に水曜の祈祷会、金曜の大学生会、土曜の日曜学校教師祈り会、そして、金曜朝の青年早朝祈祷会が厳守でした。大学院で毎日10時間以上勉強しなければならない私には、非常に困難な教会でした。躓く人も多く、自分の生活が破綻すると考えて、教会に来なくなるのでした。そういう中で妻は、実際に生活が破綻し、その両親は教会に来させなくさせたのでした。

 医学生がそのような生活を保てるはずもなく、私はその考えを理解しました。自分もまた、ぎりぎりの生活でしたが、不思議に聖霊の助けをいつも体験していました。難しい英語の原書をいちいち和訳して清書していましたが、1時間で2頁くらい進み、一つの文が頁の半分以上続く難解なドイツ語もスムーズに訳せました。理解力や知識も他の院生より抜きんでており、自分でも聖霊の介在であると確信する程、自分の能力を越えていました。そして、伝道すれば、人が救われ、生活の中でも毎日のように奇跡を体験していました。困難は毎日のようにありながら、超自然的な助けが伴っていたのです。

 そして、博士課程を目指す厳しい生活の中で、妻との結婚を導かれ、とてもこれ以上は無理であるとギブアップしそうな状況でした。そして、夜中に「主が御入用なのです。」(マタイ21・3)という声を聞きました。私は、直ぐに、それが私の人生なのだと悟り、ひざまずいて主に自分の人生を明渡し、牧師になることを覚悟したのです。私は子ろばに過ぎません。

 これまでの人生を振り返ると、自分の主義主張を通そうとしたものは、うまくいかず、結局ギブアップして人を助けたことが祝福されてきました。考えてみれば、天国に宝を積む、というのは、そういうことです。自分のやりたいこと、利益を求めて生きるのは、自分のためであって、神のためではないのです。自分の理解など、何ほどのことでもありません。理解などしなくても、人を助け、人に施し、人を愛せば、神の国の働きをしているのです。

 家族や教会員、そして他の人々を指導したり、教えたりするのも、自分勝手なものかもしれません。暴力教師や不遜な指導者を見ていると、独りよがりな指導の愚かさ、迷惑を考えます。ただ、執り成しをして、助けるべき時に助け、与えるべき時に与えれば、それで良いのかと思います。結局のところ、自分の主義主張など、邪魔なだけです。平凡な好々爺として、ニコニコと人と仲良く生き、助けるべき時に助ければ、神の国にそのまま入れるのかと感じます。

 イエス様が子ろばに乗って入城される時、それほど緊張はしていなかったのではないでしょうか。さすがに十字架前夜のゲッセマネの園では、弟子たちの鈍さ、愚かさに涙を流すのですが、人の為に死ぬ、ということは成果を諦めて、ただ、相手に尽くすということです。神は、そのような愚かな十字架を担う人生を覚悟した人を喜ぶのではないでしょうか。

 重くともなれが十字架担いゆけ笑みもて 試みに遭いし人々助け得る時あらん(笑みをたたえて 感謝抱きて 十字架を担え 神より報いをば受くべし) 汝が立場悪しく見ゆる日 祈りせよ静かに 信仰の弱き人をば励まして立たしめん(〃) 汝が蒔きし種は消えしや 望みをば主におけ 歌声も高く刈り取る栄の日間近し(〃) (聖歌615番)


3月31日 正義と節制とやがてくる審判。   使徒の働き241425
使徒24:14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

24:15
また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。

24:16
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

24:17
さて私は、同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。

24:18
その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいたのを彼らに見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。ただアジヤから来た幾人かのユダヤ人がおりました。

24:19
もし彼らに、私について何か非難したいことがあるなら、自分で閣下の前に来て訴えるべきです。

24:20
でなければ、今ここにいる人々に、議会の前に立っていたときの私にどんな不正を見つけたかを言わせてください。

24:21
彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです。』と叫んだにすぎません。」

24:22
しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう。」と言って、裁判を延期した。

24:23
そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。

24:24
数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。

24:25
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。


 復活祭、イースターは喜びの祭りです。カトリックでは、復活祭の日曜日を除いた40日前(つまり46日前)から四旬節として食事の節制と祝宴の自粛が行なわれ、復活祭で解放され、また洗礼式が行われてきたようです。この四旬節の期間が節制を強いられるので、その前に謝肉祭としてカーニバルになり、派手な騒ぎをして酒や肉を飲み納めをするようになってしまったと説明されています。ただ、復活祭でさえ、なぜ全ての人がイースターエッグなどで皆が喜べるのか、不思議な気がします。

パウロは、幻の中で主イエスに出会ってから命掛けで福音を伝え、「神に対する悔い改めと、私達の主イエスに対する信仰とをはっきりと主張し」(使徒20・21)、「自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」として、エペソから二度と戻ることのできないエルサレムへの殉教の旅立ちをしました(20・38)。途中カイザリヤで捕縛の預言を受けても「主イエスの御名のためなら、死ぬことさえも覚悟しています。」(21・13)というように、信者一同が大使徒パウロの殉教を知りながらも、送り出します。

エルサレムの神殿で反対する人々に捕まり殺されそうになったパウロを捕えたローマの千人隊長は、ローマ市民であるパウロを議会で証言させました。パウロは「死者の復活という望みのことで裁きを受けているのです。」(23・6)と叫びますが、それがさらに人々の敵意を生みだし、「パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓いあう」(23・12)ほどでした。そして470人もの歩兵・騎兵・槍兵に護送されてカイザリヤでぺリクス総督に審議されることになりました。イエス様は夜に牢にいるパウロの傍に立って「勇気を出しなさい。あなたはわたしのことを証ししなければならない。」と伝えます(23・11)。

 パウロは、総督の前で「義人も悪人も必ず復活する」(24・15)ということを力説し、「彼らの中に立っていた時、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前で裁かれているのです』と叫んだに過ぎません。」(21)と自分が敵意を持たれ、殺害されようとした理由を述べています。ところが、総督も「パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、恐れを感じ」(25)たのです。全ての人が裁かれるという教えは、罪人には脅威なのです。

 ヘロデ・アグリッパ王の前でもパウロは証言します。「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」(26・8)。そして、自分が主イエスに出会った体験を語り、「彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためである。」とのイエス様からの語り掛けを伝えるのでした。そうすると、横にいたフェスト総督が大声で、「気が狂っているぞ。パウロ」と腹が立って叫ぶのです。パウロは、「私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになることです。」と切り返します。

私も皆さんにお伝えしなければなりません。信じようと信じまいと、死後に全ての人は神の裁きを受けるのです。善人は天国に行くかもしれないが、普通は死んで無くなると考えている人が多いのではないでしょうか。聖書は、罪を悔い改め、救いを信じていない人は、全て地獄に行って永遠に苦しむと書いてあります。これは非常に嫌なことであり、聞き難いことであると思います。しかし、聖書はそういっており、パウロはそのために命を捨てる覚悟で、人々の前で語り続けたのです。

 教団のアッセンブリー誌の3月号に、全ての財産を掛けて誰も知らない日本に宣教に来たジュルゲンセン一家のことが書いてありました。全財産を掛けて日本に来て9年間殆ど何の成果もなかったのです。そこに弓山喜代馬師が、与えられた聖書によって救われ、医学部を中退して上京し、伝道者になろうとして、ジョン・ジュルゲンセンに出会ったのでした。伝道のために命を献げ、財産を献げる人は、現代にもいるのです。

 申し訳ありませんが、キリスト教信仰というものは、軽いものではありません。天国に行くか否かの命掛けのものなのです。

 私自身も、そのようによって大学教員の道を捨てました。ただ、残念ながら牧師としていくら真剣に伝道しても、人々の心に伝わらないことに徒労感を覚え、絶望したこともありました。同じくアッセンブリー誌に出ていた寺田師のようです。牧師というのは、皆、自分の伝道の成果に挫折し、人々の頑なさに絶望するものです。しかし、ただ一人でも自分の生涯によって救いに導かれる者が起これば良しと、神にある十字架の道を覚悟するものなのです。

 それが、ただ教会に来るだけで良しとするような形式的信仰者であっては、困るのです。確かに、必ず来る審判の時に、神ご自身によって良しとされて、神の国に入ることのできる人を導くことが願いなのです。

 低血糖症や自閉症の治療にも勤しんでおりますが、精神疾患や発達障害を、「治らない。」と診断される人々を何とかして助け、癒しに導く中で、神の福音を伝えられればと、願ってのものです。それは、仕事よりも、財産よりも、天国に行く恵みを受けた私の命よりも重要なことなのです。