1月2日 神は常に新しいことをされる。   イザヤ4318~26節  新改訳 イザ 43:18-26

43:18
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

43:19
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

43:20
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

43:22
しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。

43:23
あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。

43:24
あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

43:26
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。


 死海に行くと、ロトの妻がなってしまったと言われるような塩の柱があります。俗悪なソドム・ゴモラの町に長年住んだロトの家族は、世の光・地の塩となるどころかその享楽生活に浸ってしまい、堕落の道に落ち込んでしましました。ロトの妻は、ソドムへの神の裁きとして火が下っているのを残念そうに振り返って、たちどころに塩の柱になってしまいました。

 アブラハムが、神によって「ソドムとゴモラの罪は極めて重い。」として、その町を滅ぼそうとしていることを告げられた時、ロトがその町に住んでいるので、10人以上は、正しい人がいるに違いないと、10人の義人の存在によって、その町を滅ぼさないという約束を取り付けました。(創世記18・32)。アブラハムは、自分の家族郎党と周囲の人々に、「主の道を守り、正義と公正とを行わせる」(創世記18・19)ことをするので、「必ず大いなる強い国民となり、地の全ての国々は、彼によって祝福される。」(18・18)のでした。

 14章を読むと、ソドムの王とゴモラの王が戦いに敗れて逃げた時に、ロトの財産をも奪い去られたのですが、アブラハムはそれを聞くと郎党318人を率いて、そのケドラオメル王の軍勢を打ち破ってしまいます。そして、取り返した物だけで満足し、ソドムの王に他の奪い返した物を渡して、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。あなたの所有物からは何一つとらない。それはあなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』といわないためだ。」(14・22.23)と強く自らの信仰を告白します。

 双方とも、堕落した社会に住んでいたのですが、ロトは周囲の人に伝道するどころか、惑わされて自分の家族と自らを滅びの道に陥れてしまいます。他方、アブラハムは、そのソドムの王よりも強く、彼らの財産を守ったりして強く信仰を証しします。ポイントは、信仰に付くか、付かないかの問題です。

 私たちも、28年前に全くお金を持たずに千葉に移ってきました。ただ、神の命令に従ったのです。そして、これまで、夫婦共に主の道を守り、正義と公正を行ってきたつもりです。夫婦共に、普通の人の4,5倍働き続けてきたと思います。8時間労働というのは、勤務者を酷使しないための基準であって、自ら神に献げた人生であり、主の僕として自分を覚悟するのならば、一日中働き続けるのは当然なことです。大体にして一日8時間しか働かなくて、事をなした人はいないでしょう。

指導者・説教者として毎月10冊以上の読書は義務であり、健康管理は忠実な管理者として神に与えられた身体を保つために必須なことです。自分の時間を優先することなく、他の人の必要と助けに応じ、主の御声を聞くために、いつも祈りと御言葉の学びは欠かせません。神の僕として自分を高め成長させるために心を尽くし、自己満足や怠惰、そして欲望や見栄は大いなる敵であると考えています。このように神の僕として数十年生きて、実が実らないはずがありません。殆どの人が、怠惰であり、自分を甘やかしているのです。

 妻に対して喜んでいることは、献身的に生き、自己犠牲と労を惜しまないことが身についていることであり、夫婦として30年を過ごしてきました。そして、いつも協力助け合い、気心の知れた同志であり、伴侶です。このように過ごしてきた私たちが、神の助けを待ち望んで、導きのままに生きているのですから、神は私たちを、その名に掛けて祝福してくださるのです。

 昨年、職員が7名辞めた時に、その分を働いてみて、自分が能力を自分で定めてしようとしていなかったことに気がつきました。やってやれないことはないのです。この一年で職場が全く変わり、愛情深く丁寧な仕事をするようになりました。自分のやりたいようにするのではなく、相手が喜ぶようにする、つまりホスピタリティーを身につけるように指導したのです。御蔭で業績は、この不況下で大きく伸びました。

 なにか、新しいことをしましょう。あなたのこれまでの人生にやってみたことがなかった、新しいことをしてみましょう。まずは、趣味でも、スポーツでもやってみて、そして、友達づくりを始めましょう。伝道は、友人知人がいなければ、できるものではありません。ロトのように、俗悪な周囲に気兼ねして影響力のない人間になるのではなく、神を信じ、力を尽くし、心を尽くして、自分の生き方を変えてみましょう。

 砂漠や荒野に道を造り、川を設けるのは、困難であり、大変であると考えるのであれば、道や川がもたらす交流や前進を期待できないでしょう。千葉に移ってから28年になりますが、便利な道路が増え、非常に快適になりました。黒砂にできた16号と14号をつなぐ道などは、よく考えたものだと思うほどに、巧妙にできています。物事は、面白いもので、できないと考えるといつになってもできないのですが、やらなければならないと考えると、できるのです。

 新しいことを神は、いつもされてきました。神は、いつも、今までにないようなことをされてきたのです。


1月9日 新しいことをするために。   イザヤ4318~26  

新改訳 イザ 43:18-26

43:18
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

43:19
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

43:20
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

43:22
しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。

43:23
あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。

43:24
あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

43:26
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。


 同じ聖書箇所で3回目の説教です。1回目は、良いことでも悪いことでも過去を振り返るな、ということでした。神様が、その時に私たちに働き掛けることに目を向け、自分の過去にも能力にも囚われてはいけない、と神は教えます。

 先週は、俗悪の町ソドムに対するロトとアブラハムの対応の違いが全く違う結果をもたらしたことを学びました。神が語ることを信じ、この世の風潮にそれずに歩むことが如何に大事なことであるかを知ったのです。そして、22節にあるように、信仰者が「神に呼び求めず、神のために労苦しなかった。」ことが責められるのです。神にある業をしようとしない人は、不信仰者なのです。しかし、信じるアブラハムに対して、神は、不可能と思われる新しいことをされたのです。

 今日は、罪の問題を解決しないと先に進めない、新しいこともできない、ということを聖書から学びます。

 全焼のいけにえとは、牛・羊・山羊あるいは鳩の障害のない雄を皮を剥がされて全て祭壇で焼き尽くすことです。その時にいけにえの頭に献げる者は手を置き、自らの代わりあることを神に示すのです。焼き尽くしてしまって何も残らないということを、信仰のない人には理解できません。メリットや効果を考える人は、信仰者として誠実に生きることもできず、神に仕えることもできません。成果を求めたり、意味合いを求めるのではなく、神に自分の人生を献げるということが全焼のいけにえの意味であり、神のものとならない人に神が祝福を注ぐとか、新しいことをするために用いられるということは、考えられないのです。

 効果効能や意味合いを求めて人々が生きるようになったのは最近のことです。昔は、ただ一生懸命生きて、報いなど求めなかったのです。当然、そういうことを求める人も、少しはいましたが、そういう人は馬鹿にされ、認められなかったのです。結果的に功なり成し遂げても、それは自慢してはいけなかったのです。明治維新の志士たちも、そのようなものであり、平気で死んでいったのです。

 現代社会でノイローゼや鬱が多いのは、効果や意味を求めようとするからです。人間などは、取るに足りないものなのです。全焼のいけにえとは、そういうことを悟った者でなければ献げられません。結果など、どうでもよいのです。大事なことは為すべきことをやる、ということです。それが神に身を委ねた者の生き方です。

 私は、献金のことはあまり言いたくないのですが、自分の生活と必要を考えて残りのものを献金する人は、生活を自分で算段して、自分の力と神の恵みで生きていく人生を送ることになります。私は、暮らしが成り立とうがどうであれ、神に献げるべきものを抜いて、残りで暮らしてきました。自分を神のものであると神に示して生きるのですから、神が私に用いるべきものを預けてくださるのは、当然なことです。食事も娯楽も、節制できない人は、神のものとして自覚しているとは言えません。

いけにえには、その他に神との交わりを意味するいけにえや罪や咎のためのいけにえがありますが、なんと言っても大事なのは、全焼のいけにえなのです。神との交流は、神のものとならなければ始まらないのです。神と対応に付き合おうとか、交渉しようとか、要求しおねだりをしようとか、自分のために信仰をもつ人が、神と交流などできないことは当然です。

 自分勝手な人や自分の利益を求める人とは、誰でも付きあいたくはないのと同様に、いくら慈愛深い神でも、自分の観点からばかり考えている人に、祝福することも仕事をさせることも難しいのです。

 エレミヤ6・14に、利得を貪り、偽りを行って、平安がないのに、平安だ、平安だ、と言っている人を神が罰し倒す、と書いてあります。信仰者ぶってはいけません。カッコをつけてはいけません。苦しかったら神に訴え、悲しかったら神に嘆き、喜びは神に感謝し、いつも神と語りあい、神と共に生きるのです。

 神は、あなたのすべてを御存じです。神に誤魔化しをしようとしてはいけません。誤魔化していること自体、神を信じていない証拠なのです。

 4月からクリニックとヨーゼフで3人採用することに決めました。内心は、この不況下で不安もあるのですが、だいたい3人分利益が増えましたので、それを余すことなく用いて、人々の利益になるように活動しようと祈りの中で示されました。不安で自分のために取っておくと、神のものでなくなる、と示されたのです。今年は、牧師給もゼロにして、杉本神学生の留学を支援しようと決心しました。本当は、少しは欲しいのですが、神は、それに勝る祝福を私に注いでくださると語りかけてくださったのです。私にとっての全焼のいけにえです。じつは、5ヶ月間、苦しんだのです。心配なところも多くあるのですが、立派な神の器になって帰ってくると信じます。

いろいろなことを、神が新しく祝福して導いてくださらなければならないように、準備が整っています。英語を話し、教えて英語礼拝とコミュニティーを生み出す宣教師夫婦が来ることを祈っています。私の助けとなる人が、何人か現れるように祈っています。全部献げてみると、頭の中にはビジョンと願いが一杯になります。今年の祝福が楽しみです。


1月16日 咎を認めてこの世の赦しを得る。   イザヤ4318~28節  

新改訳 イザ 43:18-26

43:18
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

43:19
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

43:20
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

43:22
しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。

43:23
あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。

43:24
あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

43:26
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。

43:27
あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。

43:28
それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」

 同じ聖書箇所で4回目の説教です。1回目は、神様が、その時に私たちに働き掛けることに目を向け、自分の過去にも能力にも囚われてはいけない、ということ。2回目は、神が語ることを信じ、この世の風潮にそれずに歩み、神に呼び求め、神のために労苦することを学びました。3回目は、全焼のいけにえとして、神に全てを委ねてこそ、神のものとして歩めること、効率や成果を求めてはいけないことを学びました。今日は、身の潔白を確認するまで、自らの咎を認めて、その賠償を払う、ということを学びます。

 「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」(イザヤ59・12)とあるように、人は自分の過ちを知っており、意識しており、その結果としての災いを感じるものです。ところが、殆どの人が、それを誰にもあるもの、或いはしょうがないもの・どうしようもないものとして放置しています。「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」(詩編42・12)というように、繊細かつ誠実な者がそれを意識し、自分の罪性の結果としての咎、すなわち過ちに苦しみ、悩みますが、多くの人がそれを愚かなこととさげすみます。

 聖書の教えは、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53・6)として、イエス様が罪も咎も負ってくださるので、自ら罪を認め悔い改めた者は赦される、とあります。しかし、この世において罪を犯さなくなるわけでも、罪の法則から逃れられるわけでもありません。聖化という清めの奥義は、御霊によって歩む中で次第に清められてキリストの人格が少しずつ形成されるということですが、全く罪から断絶したわけではありません。

 つまり、多くのクリスチャンが、罪許された体験をするのですが、その後の自らの罪深さに愕然となって、力強い歩みをすることができなくなっているのです。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩編32・5)とあるのは、いちいち神の赦しを求め告白して生きる姿を示しています。

 神の前での罪の赦し、救いを体験しながら、現実生活で罪を犯し、その咎によって「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59・2)と、祝福を失っていることに気がつかなければなりません。ダビデは、小さなことでも自らの罪と咎に気がついて、神の赦しを請うています。「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。』」(Uサム24・10

 聖霊なる神は、私たちに内在して、私たちの罪と咎の為に執り成しをしてくださいます(ローマ8・26)。ですから御霊によって生きている者のみが、日々赦しをいただき、罪と咎によって妨げられない神の祝福を受けて生きることができるのです。ところが、多くのクリスチャンが、神と知っている、神を信じている、ということで、神と共に生きられると勘違いしているのです。

 聖霊に満たされない人は、他人の罪深さに敏感になり、聖霊に満たされている人は自分の罪深さに敏感になります。自分の罪深さに敏感になるからこそ、他人の罪には同情し、思いやりや執り成しができるのです。ですから、そのようになってこそ、「あなたがたが裁く通りに、あなた方も裁かれ、あなた方が量るとおりに、あなた方も量られるからです。」(マタイ7・2)となるのです。御霊に満たされていない人は、そのようにしてパリサイ人のようになり、人に厳しく自分に甘いので、イエス様は激しく糾弾されるのです。

 律法というのは、人を裁くものであり、私たちが罪深いことを示し明らかにするものでした。「もし、人をえこひいきするなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点で躓くなら、その人は全てを犯した者となったのです。」(ヤコブ2・9,10)とあるように、自らの罪と咎に敏感でない人は、平気で罪を犯し、簡単な罪でさえ、神からの一切の祝福を失うのです。

  しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(ガラテヤ5・18-26


1月23日 新しく造られた者です   Uコリント5章10~17
 
新改訳 Uコリント5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

5:11
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

5:12
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

5:13
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 寒さの中で身体が縮こまっています。一昨年の一二月に後ろから車をぶつけられた鞭打ち症で首が痛く後頭部がずきずきします。寒さのせいでしょう。週2回スイミングに行き、サプリも飲んでいますが、身体を維持することは容易なことではありません。「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神様の下さる建物がある」、「この幕屋にあってうめき」(Uコリント5・1,2)と、自分の身体の弱さ罪深さに苦しむことは、多いものです。

 『肉体にいる間は、主から離れている』(5・6)ということは、弟子がイエス様から離れているようでもあり、「むしろ肉体を離れて、主の御許にいるほうが良い」(5・9)と、人生の戦いをもがく者として同感ですが、だからこそ罪の許しと神との和解(5・18)の奥義と伝えるべく、使命を感じるのです。

 私は9人兄弟の末っ子で商人の子ですから、小さい時から人を見ていろいろと考えてきました。一つのミス、一つの判断、一つの過ちがその人の人生を全く変えてしまうことがあります。犯罪であれば、更にはっきりとします。社会的地位のある人が、万引きや痴漢などをして、職を失い、家族が崩壊する姿を見てきました。ところが、そういう人々は、自分がそういう罪を犯しうること、そして人生を破滅させることに注意と警戒を払っていないのです。

 年末に辞めてもらった人は何度も誤魔化しをし、虚偽報告をして始末書を書いたのに、またウソを言ったのがばれてしまったのですが、退職の時の言葉が「悔しい」でした。自分の行動についての反省がないので、とても仕事を任せられないのです。出まかせを言う人も世の中には多いのですが、そのうちに辻褄が合わなくなって、そこにいられなくなります。先週「律法全体を守っても、一つの点で躓くなら、その人は全てを犯した者となったのです。」(ヤコブ2・9,10)と指摘したように、自らの罪と咎に敏感でない人は、平気で罪を犯し、簡単な罪でさえ、神からの一切の祝福を失うのです。

 「罪の奴隷であった時は、義については自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)とあるように、世の中の人、魂の救われていない人は、罪責感がありません。私たちクリスチャンが、そのような認罪感のない人々の社会に暮らしながら、罪と戦って生きる使命があるのですが、実際には多くのクリスチャンが、この罪との戦いに負けて信仰の破船に遭っています

 先日、しばらく教会に来ていない人に遭いましたが、目がうつろで私と目を遭わせずに話して去って行きました。教会に来ることを辞め、仕事を選んだ人ですが、いろいろな問題に直面していることを知っています。聖霊が、その人のうちに居られなくなって去って行ったことを感じます。マタイ12章に、悪霊が出て行ったけれども、聖霊の内在を続けないと、悪霊が入り込むとありますが、信仰を離脱した多くの人が精神的な問題を持つようになり、或いは破滅して行っています。

 「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」(エペソ4・22)とありますが、信仰者は自分の罪を捨て去らなければ、過去の自分と決別しなければ、滅びて行くのです。これまで神にあって「新しいことをする」ために連続して語って来ました。1回目は、神様が、その時に私たちに働き掛けることに目を向け、自分の過去にも能力にも囚われてはいけない、ということ。2回目は、神が語ることを信じ、この世の風潮にそれずに歩み、神に呼び求め、神のために労苦すること。3回目は、全焼のいけにえとして、神に全てを委ねてこそ、神のものとして歩めること、効率や成果を求めてはいけないこと。4回目は、身の潔白を確認するまで自らの咎を認めてその賠償を払う、ということでした。

 誰でも、教会に来て神を信じ、罪を悔い改めたのならば、キリストが新しく造り替えられた者です。古い人ではなく、新しい自分像を創り上げることを考え、新しい生き方をすることを求めなければなりません。

 頑固な人、意地っ張りな人にも出会ってきました。苦しいことや悲しいことがその人の心を頑なにしたのかもしれません。しかし、神には全てが明らかです。何の言い訳も通りません。自己主張を捨て、新しく造られることを求めなければ、神は私たちに手を出すことをされないのです。「境界線」の学びでも教えられたように、いくら正しく良いことでも神は私たちが望まないことをされないのです。

 キリストのうちにあり、教会に来ているのならば、あなたは神によって新しく造られた者です。古いものは既に私たちの中からなくなったのです。それを取りに行ってはなりません。探し出して、もう一度着ようとしてはなりません。

 メンタームで有名な近江兄弟社のヴォーリスと結婚した一柳満喜子は華族で侍女なしでは外出もしなかったのに、貧しい外国人の英語教師と結婚したのだそうです。良くも悪くも自分に囚われる人には、神様も手の出しようがありません。


1月30日 キリストの愛が取り囲んでいる。   Uコリント5章13~21  
新改訳 Uコリント5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

5:20
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


 なぜ、私たちが新しいことをするのか、したいのか、それはキリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。世間一般の人にしたら愚かなこと、無理なこと、無駄なことを、私たちはキリスト・イエスが罪と咎の中から救ってくださったが故にしないではいられないのです。それは気が狂っているかのようです。

 信者の時は50名以上を洗礼に導き、周囲の人々からはクリスチャンになって全く変わった、おかしくなったと言われました。神学校に行く時は、そこまで無理をしなくてもと忠告され、神学校ではブルドーザーのように強引に物事を進めると非難されました。何も好き好んで一日一食の断食をしているわけではありませんでした。聖霊が私を導き、人の考えないようなことをさせるので、自分ながら疲れ果て、苦しみ、人に相談することもできずに、神に叫んでいました。

愚痴や悩みというのは、人に言えば、耐えられなくなり、自分に負けてしまいます。「私は自分の身体を打ちたたいて従わせます。それは自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Tコリント9・27)とパウロが言うように、人の同情を買おうとする人は信仰で生きることはできません。その孤独は、神の愛によって満たされているからこそ、克服できるのです。

結婚の経緯も人には納得されるものではなく、神学校もしかり、千葉に来ることも、子どもを産むことも、経済的困窮も、高額な家賃を払い続けることも、子育ても、クリニックの治療も、栄養医学も、サプリメントの販売も、低血糖症も、競売の入札も、MYビルの購入も、皆、人の同意を得てでもなく、状況条件が満たされていたわけでもなく、いつも非難批判の的でした。新しいことをやり続けてきたのは、自分の考えではなく、聖霊が私に語りかけたのです。

祈っていると更に聖霊が私に語りかけます。もはや妻は、開業医としての使命に目覚め、そこに没頭して疲れきっているので、これからは私一人の領域です。なんと多くの大きな領域かと思い呆れますが、皆さんに言うわけにもいきません。言っても問題ないようなことは言いますが、それだけでも呆れるでしょう。「正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」

人間的な標準とはどんなものでしょうか。生まれ、性格、学歴、能力、実績、いろいろありますが、パウロは聖霊に満たされた信仰者との出会い、自らの経験からもはや「人間的な標準で人を知ろうとしません。」と言っています。つまり、「どこがどうなるか、何がどうなるか。全く予測不能。」ということなのです。

しかし、だからと言って、誰でもそんなように全く変わるかというとそうではありません。それは、キリストの愛が取り囲んでいることを体験し、事実その中にいる人だけなのです。

 それでは、キリストの愛が取り囲むためには、どうすればよいのでしょうか。どういうことが必要なのでしょうか。それはこれまで学んできたことを行えばよいのです。

@ 神様がその時に私たちに働き掛けることに目を向け、自分の過去にも能力にも囚われてはいけない。

A 神が語ることを信じ、この世の風潮にそれずに歩み、神に呼び求め、神のために労苦する。

B 全焼のいけにえとして、神に全てを委ねてこそ、神のものとして歩めること、効率や成果を求めてはいけない。

C 身の潔白を確認するまで自らの咎を認めてその賠償を払う。

D 自己主張を捨て、新しく造られることを求めなければならない。

 これだけのことを殆どの人は、いくらわかっても決してしようとはしません。「自分は、このように歩んだのだ」、「自分はそういうことはできない」、「忙しくてそれどころではない」。古いものを過ぎ去らせようとしないのです。

 自分のことを言えば、楽をしたい気持ちはあります。社会的にも経済的にも家族としても、どうにかなりました。今更、苦労はしたくない、という気持ちも起こります。しかし、私は多くの人を見てきましたが、自分の立場に安住する人は殆ど誘惑に遭い、道を失っています。

 新しいことをすることが大事なのではありません。聖霊に満たされることが大事なのです。しかし、聖霊に満たされたら新しいことをせずにはいられなくなります。何もしようとしないことは、自分の内から聖霊を追い出すことになります。聖霊に満たされなければキリストの愛に満たされることはないのです。


2月6日 神を愛してその命令を守る。   Uコリント5章17~21 
新改訳 Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

5:20
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

新改訳 Tヨハ5:1-5

5:1
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

5:2
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。

5:3
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

5:4
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

5:5
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。


 家族で誕生会をしましたが、孫がいじけていました。妹ばかり両親は世話をし可愛がり、姉は成長してしまっていて、自分が取り残されたように感じたようです。主愛が抱っこして食べさせてあげると機嫌を直し、食べ始めました。親も周囲も愛しているのですが、本人はそれが感じられないのです。

 同じようなことは、ある人々には大人になってもあります。勝手に機嫌を壊し、怒ったり批判したり愚痴を言ったり自暴自棄になるのです。人間というのは、本来的に罪びとであり、自己主張、自己欲求の塊です。ですから、自分が中心になっていないとむくれるのです。そして、ご飯も食べられなくなり、眠ることもできなくなり、果ては仕事もできなくなるのです。そして、家族に対しても人に対しても攻撃的になっていって自分と自分の生活を破壊させていくのです。

 子供ならば、親が優しくすると直ぐに機嫌を直し、ニコッと笑ってご飯を食べます。しかし、愛情欲求が満たされないで、怒られたり罰を受けたり恐怖の中で成長すると、機嫌を直して人を喜ばせようとか仲良くしようとか考えない孤独な人間になってしまいます。そういう人は、人の気持ちもよくわからないので人づきあいも下手であり、自分の本心も出せなくなります。

 他の人と仲良くできない人は、他の人の気持ちも聞くことができないので、考えや判断が自分の独りよがりのものになってしまいます。そして、たまに本心を言うことがあると自分勝手なものであったり、人の話を聞くと強引にその人に助言や介入をしてしまって、人から避けられてしまうのです。こういう人は、なぜ自分に友人がいないのか、わかりません。そして、敵意、恨み、諦め、失望感、劣等感がその人の内面を占めてしまいます。

 愛とは何であるか、何度も説明しました。それは、愛されるように相手と接することであります。自分から愛する行為をいくら一生懸命しても、相手に受け入れられなかったら、それは自分勝手なものです。多くの人は、愛しているのに、愛してくれない、と言って不満を言います。夫婦でも、伴侶が喜ぶように配慮することが大事です。何をすれば妻が喜ぶか、妻とじっくり話し合い、知っている人は稀です。男というものが、どういうことに喜びを見出すか、きちんと知っている妻も少ないのではないでしょうか。男女とも、伴侶を見下し、形式的に対応している夫婦が多いように感じます。

 先週、キリストの愛が取り囲んでいると御話ししましたが、その愛に気がついている人が少ないことに気がつきました。親が愛しているのに気がつかないで、いじけている子供のようです。それは、求めるばかりで愛を実践していないからです。

 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」(1ヨハネ5・3)。「私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者は、神から生まれ、神を知っています。」(Tヨハネ4・7)。ハリネズミやヤマアラシのように近づくと傷つけあってしまうのは、自分の刺を抜こうとしないからです。

 自分が人を傷つけているのに気がつかないで、人が寄ってこないと悲観しているのです。傷つけることとは何でしょうか。

 「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」(ローマ1・29-31

 つまり、人を愛する、神を愛するとは、悔い改めから来るのです。人間とは、決して、自分と同じように人を愛することはできない罪深い、自己中心な存在です。だからこそ、イエス様は「隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22・39)と言われたのです。

 自分自身の行動は、どんなことであれ、自分が決めて為したことです。「しょうがない」などという言い訳はききません。マタイ22章に、王子の結婚式に人々を招待した王が、招いていた客が来ないので、他の人々を招いたとあります。イエス様を信じ、神の国に入るように招いていた人々が、その権利を軽んじて言い訳を言いながら、聖書に述べる悪を行うだけでなく「それを行う者に心から同意している」のならば、やはり死罪に当たるのです。

 私たちは、自分の在り方を正当化せずに、神を愛し、人を愛する新しい歩みを進めなければなりません。


2月13日 汚れた者から抜け出す。   Uコリント611~18節 
新改訳 Uコリント6:11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

6:12
あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。

6:13
私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

6:14
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

6:15
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

6:16
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

6:17
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」


 塩野七生の「日本人へ」というエッセイを読みました。そこで、日本人は性善説に立つから人に対して厳しいのだ、人は本来、悪人なのだと考えていれば、失望することもなく、ちょっとしたことでも感謝がわいてくる、と書いています。

 私なども、結婚当初は妻に対して厳しく、悩んでばかりいて気の利かない妻のことが歯がゆくてしようがありませんでした。優しくなったのは、自分も体調が悪くなり、思うようにできなくなったことや低血糖症もあって、性格が悪くなったことに気がついたからです。それで、老いるということは、自分の弱さや限界を思い知るということで良い面もあるのです。歳をとっても頑固で融通が利かないのは、周囲に甘やかされているからで、放っておいたらおとなしくなるものです。子供の躾と同じように考えたら良いでしょう。但し、老いてから言うことを聞かず勝手な人間は相手にされなくなるので、子供とは違う悲劇となります。

 曽野綾子の本は表題を読むだけで面白い。「いい人をやめると楽になる」「すぐばれるようなやり方で変節してしまう人々」「社長の顔が見たい」「善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか」「失敗という人生はない」・・・。彼女は、「なぜ老人は介護施設で頭を洗ってもらうのだろうか、自分で洗えるのに」、「人に助けてもらうのを当然と思っている人は、自らをだめにしている」、「現代日本の人々は平和ボケして、つまらないことに不満を言っている」などというようなことを痛快に話します。

 日本のプロテスタントは、馬鹿真面目と内部批判が多いようです。特にホーりネス系の清め派が多いのですが、そういう姿勢の人々は、教育界にも多く、世渡りが下手なくせに世間離れしていないように思えます。実は、イエス様の時代にも、パリサイ人という嫌な人々がいました。旧約聖書の教えに従うことに熱心で、自分は聖書に忠実に生きていると信じ、誇っており、そうでない人々を批判し、指導していました。イエス様は、パリサイ人を毛嫌いしていました。

 「自分の心で自分を窮屈にする」(12)とは、どういうことでしょうか。

14節に、神を信じない人々の価値観や考え方に囚われるな、同調するな、一緒に生きるな、と書かれています。世の中の人々の目を気にし、価値基準に囚われるから心が窮屈になるのです。

 14節以降を読んで、世の汚れた人々から抜け出て清い生活をしろと考える人々がいたら、全く逆です。それでは窮屈になる一方です。気を付けるべきことは、人の目を気にして生き、信仰を儀式的儀礼的形式的にしようとする偽信者の思惑に乗らないことです。

 褒められたり、そしられたり、悪評や好評、8節からあるように、いろいろなことがありますが、大事なことは、人をだます者のように見えて「真実であり」、目立たないようだけれど「よく知られ」、死にそうでも「生きており」、罰せられているようでも『殺されず』、悲しんでいるようでも「いつも喜んでおり」、貧しい
ようでも「多くの人を富ませ」、何も持たないようでも「全てのものをもっている」ことなのです。つまり、一生懸命世の中に生きて、神を信じ人を愛して生きるということなのです。

 人の目や基準など考えずに、神が私たちに求めておられることをすることが大事なのです。いわゆる宗教生活は、神の為ではなく、自分のためにあるものとなってしまっています。更に、現代日本は、信仰生活も、自分のために不利益がないようなものにしてしまっています。そして、宗教行為も自分の名誉と結びついてしまっています。

 新しく生きるために、人の目や言葉など、気にしないで生きることが大事なのです。そして、それこそ、「彼らの中から出て行き、彼らと分離する」ことなのです。

 私自身は9人兄弟の末っ子で人の目を意識し、嫌われずに愛され親しまれて生きることを何よりも大事に生きてきたので、そこから抜け出すのに大きな試練が20年以上続いたのだと思います。人目を気にして生きてきたからこそ、人目を気にしないで神を意識して生きるということの困難さに気がついていました。キリストとサタンに調和はありません。この世の生き方と神を信じて生きる行き方に調和はありません。

 新しい歩みをするためには、この世のしがらみから抜け出さなくてはならないのです。


2月20日 新しい布と古い着物。   マタイ910~17 
新改訳 マタイ9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

9:11
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

9:12
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

9:14
するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

9:15
イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。

9:16
だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。

9:17
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」


 イエス様の時代にイスラエルにおいて一般的な価値観は、パリサイ人や律法学者のものでした。彼らは、社会における全てに自分たちの価値観からの決まりを強制していました。彼らに従わない者は、罪びとであり犯罪者でした。

 什一献金と安息日を厳粛に守り、その他の清めの規則を全て守っている人のことをハーベールと呼んで、汚れたことをすると、直ぐにその資格を失い、他の人と交流が出来なくなるということです。つまり、厳しい律法に違反すると罪人になるのです。そうすると厳密には、律法学者やパリサイ人以外は全て罪人になってしまうので、人々は罪人の烙印を押されないように非常に注意して暮らさなければなりません。むろん、遊女、取税人、異邦人は当然なこととして罪人になります。罪人と交流し、その家に入ると罪人になるのであれば、遊女という職業はなくなるはずですが、密かに罪を犯しており、厳しい表社会では、当然なこととして裏があるのです。

 中東でデモやクーデターが勃発していますが、強権的支配者の下で虐げられていた人々が、やっと立ちあがったのです。エジプトでは、何をするにも賄賂が必要なので、健全な判断力と力を持った人は、国外に逃げていて、それが出来ない人が残っていたそうです。警察も秘密警察のようで、横暴で自分たちの権力を守ることだけに動いていて、民衆から憎まれていたようです。ムバラク大統領の財産はエジプトの国家予算と匹敵するというから、酷いものです。

 自分の思う通りでないと喚き散らし暴力を振るう親に育てられた子供は、ただ親から離れることだけを願い、敵意をもって育つでしょう。会社の上司や組織の指導者、学校の先生が横暴であったら従う者には反発心か無力感が形成されるでしょう。

 宗教というのも弾圧をしがちなものです。私は神学校に入り、更に牧師になって多くの批判と指導を受けました。指導者からも信者からも非難され、教会外の人々からも攻撃されました。牧師が牧師であり続けるというのは、神の恵みと召しがなければ不可能です。人々は、自分の思い通りに行かない不満を神には文句が言えないので、牧師に向けるのです。そういうことに躓いている人は、とても牧師を続けることはできません。

 イエス様は、魂を救いに導くという目的のために、罪人とされ社会権力から攻撃されることを覚悟して、取税人や罪人たちと一緒に食事をされました。人から非難され攻撃されることを恐れていては、正しいことや人を助けること、伝道をすることはできないのです。

 人を非難するためにどんな理由も付けることはできます。人間は、その人の長所を認めるよりも欠点を認めるほうが好きなのです。「裁いてはいけません。裁かれないためです。」(マタイ7・7)とありますが、人を裁き悪口を言う人は、そのうちに自らがその裁いたことを同じようなことをして、明らかに神の罰をうけています。怖いことです。

 私を裁き攻撃して教会を去って行った人々のことを取りなして祈る時、神に語ります。「私が悪く罪深いことは知っています。しかし、私は彼らよりも悪く自己中心であるとは思えません。もし、私のほうが御心にかなっているのであれば、私を祝福し神が共におられることを示してください。彼らは、彼らの尺度のままに御取り扱いください。」他人を非難し勝手な行動を取った人が幸せになり、神の祝福を得たことを見たことはありません。

 大事なことは、パリサイ人のように規則やしきたりで行動しないことです。悪人や嫌な人、自分勝手な人のことは放っておいたらよいのです。「天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。穴に落ち込むだけです。」(マタイ15・13.14)。

 教会の頭はキリスト・イエスです。牧師としては、教会員一人一人に心配なことや欠点問題点を見ます。しかし、そんなものは誰でも気が付き自分でも気がつくのです。ただ、キリストがどのようにその人を育て上げ、成長させて御用いになるかは、誰にもわからないのです。私が牧師としてわかることは、神は人間の思惑とは違い、神の御心に適った人を御心の時に用いるということです。

 神の御心とは、新しい布地であり、新しい葡萄酒のようなものです。私たちの思惑や判断で神の御心を探ると、そんなものは壊れてしまい、とても神の御心を入れることはできません。

 自分の価値観や判断を優先して、神や聖書を読み取ろうとする人は、パリサイ人のようにイエス様に嫌われ罰せられます。

 先週の結婚式も。これまでの教会やキリスト教の考え方からすれば、ずれており、私は非難されかねないものでした。でも、多くの人が来て福音を聞き、そして当事者を幸せに導くことができたと思います。人を幸せに導き、福音を私たち自身と歩み方を通して語ることができれば、イエス様の御心に沿ったものであるという実感を得ました。

 聖霊なる神は私たちにいのちを与え、力をみなぎらせ、喜びと謙遜をもたらし、古いものを打ち破るものです。聖霊の働きに応答して生きていきましょう。


2月27日 新しく生まれる。   ヨハネ33~12節  
新改訳 ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:4
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

3:5
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

3:7
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

3:9
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

3:11
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

3:12
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。


 私は、牧師生活28年となります。日本にキリスト教が定着しないのは、社会が忙しすぎることと、キリスト教が清貧を旨としてしまって一般的庶民の暮らしから掛離れた生活を教えていることがあるからとも思います。更に日本社会というのは、マインドコントロールを受けたような一律的な考え方や批判的精神が旺盛なので、幸せになるのは難しいような風土でもあります。言わずもがなのことは、牧師も信者もあまり幸せそうでなく、魅力がない人が多いことです。私は牧師として、信仰熱心な信者よりも幸せで明るく打ち解けて話せる信者を養成したいと願っています。そういう人が多くなれば、つられて教会に来て、楽しい信仰生活を送ることができるのではと思うのは、安易でしょうか。

 境界線の勉強をしています。自分の在り方・考え方を変えずに周囲の人を思い通りに動かそうとする人々が多くいます。いくら良いことであっても、そういう人の言うことを聞きたくはありません。その人の言うことが面白そうで正しいことでも、関心を示し、学ぼうとすると、きっとその人は自分の領域にまで入ってきて、干渉するに違いありません。熱心な宗教者ほど、そういう人がいるからクリスチャンなどには関わり合わないほうが身のためだ、などと多くの人が考えているのです。

 ニコデモは敬虔な宗教指導者であり、サンヒドリンの議員として尊敬され、学者でもありました。彼は、イエス様の教えと為されるしるしに驚きました。「神が共におられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、誰も行うことができません。」と正直に自分の疑問をイエス様に問いかけます。

 2章では、イエス様が神殿の物売りたちの邪魔をして追い出したのを見て、ユダヤ人たちが、「このようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と迫ります。彼らは、イエス様が「神のもとから来られた教師である」とは思わないのです。他方、2・23には、「多くの人が、イエス様の行われたしるしをみて、御名を信じた。」とあります。2・11には、カナの婚礼の水をぶどう酒に変えた奇蹟を最初のしるしと書いており、4・54に死に掛かっている子供を治したことを第2のしるしとして書いてあるので、奇跡としては、ヨハネ3章は一つしかないことになります。

 そうすると、2・23やニコデモの信じたしるしとは、奇跡ではないことになります。それは、イエス様の教えが未だ聞いたことのない真理であり、神からの教えである以外にない奥深さと感動を与えたものであったからであると思われます。

 ある人は、しるしとして受け入れ、他の人はしるしがないから奇蹟を起こせと要求する、そういうことがあったのです。だから、イエス様は「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」と教えたのです。

 新しく神の国の住民として生まれていない人には、神の国の教えは苦痛であり、腹立たしいことなのです。魂の救われていない人にとっては、教会に来ることはできず、信仰生活は困難になるのです。

 むろん、イエス様の教えに怒り攻撃した人々も信仰者と自認していました。しかし、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」彼らは、魂が救われていなかったのです。彼らの信仰は「肉によって生まれた」のです。肉とは、人の勧誘やその人の判断・利害・感情などです。

 昨年来たアメリカの学生が、「なぜ牧師の子供たちが皆、教会に来ていないのか。ダメな牧師だ。」と言ったそうですが、ダメな牧師であることは真実かもしれませんが、牧師の子供でも魂が救われていなければ、教会に来ることはできないということが、神の国の真理なのです。彼女は、養子に貰われて厳しく教会生活を義務付けられたのでしょう。あるべき姿以外を認めない批判的精神が備わってしまいました。

洗礼を受け、教えを受け、奉仕をし、献金をしても、御霊によって救いを受け、神の国に新しく生まれていない人は、教会に来続けることはできないのです。御霊によって生まれたか、どうか、それは風がどこからきてどこへいくのか、わからないように、わからないものです。

でも、神の国に新しく生まれていない人は、しるしを要求し続けます。自分の神の国における存在を御霊によって確認できないので、自他を比較し、自らが優秀であり、一生懸命働いていることを示そうとするのです。

しかし、魂の救われた神の国の子は、そんなことをする必要はありません。御霊が神の愛と神の国の平和、義を教えてくれるのです。 

 神の国に入っていないで、神の国の子のそぶりをする人の特徴は以下のとおりです。「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(Tコリント6・9.10)偽クリスチャンとはそういう者で、決して悔い改めることができず、他の人を巻き込もうと罠を掛けるのです。気を付けなければなりません。

 純粋にイエス・キリストを神の子と信じ、そして生きるということが簡単であり、新しく生まれていない人には難しいことなのです。


3月6日 御霊にも好き嫌いがある。   ヨハネ33~12 
新改訳 ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

3:7
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

3:9
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

3:11
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

3:12
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

3:12
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

3:13
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

3:14
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」


 大川従道牧師が、この聖句から風がその思いのままに吹くように、御霊も思いのままに働くので、聖霊なる神に好かれるように歩むと良い、と話されたことを思い出します。教団の教職研修会があり、いろいろな牧師さんたちと会い、話をしましたが、やはり話しやすい人と、話しづらい人、相手をしたくない人もいるものです。なぜ、相手をしたくないかというと、攻撃的・批判的・独善的な人の場合です。

 それでも友人が批判的な質問をしていたので、後で部屋を訪ね、『一体どうしたの、あなたらしくないよ。』と語りかけると、自分の主義主張が理解されなくて、つい興奮してしまったと、悔いていました。他にも、信者さんに裏切られた、とか、一生懸命働いているのに理解されない、報いられない、などという苦労・不満などもあります。教団運営や在り方についての不満や意見もあります。普段一生懸命、牧会しているからこそ、不満や意見も持つのでしょうが、主義主張というのは、両刃の剣です。人も攻撃しますが、自分も傷つけます。私自身は、後輩牧師に、主義主張を持てば持つほど、信者に対する要求も募り、自分の生き方にも無理が出てくるので、なるべく持たないようにしている、と語りました。

 例えば、世の中の仕事をしないで貧しい時から牧師だけをした人もいます。断食を繰り返し、祈りに専念した人もいます。信者であれば、礼拝を厳守した人もいれば、身体を壊して休みがちな人もいます。世の中で失敗ばかりをする人もいれば、うまく立ち回り、成功し続ける人もいます。センスの良い人もいれば、不器用な人もいます。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見を裁いてはいけません。何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜より他には食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人を裁いてはいけません。」(ローマ14・1-3)。

 人間は、自分以外の人は理解できないものです(Tコリント2・15)。そして、上司や親に理解されないと腹が立つものですが、仲の良い友達同士だと、お互いのことを良く知っているので、腹が立たないのです。牧師というのは、献身したというだけあって主義主張が強いのですが、その分、理想を追い求めて、社会や人々と相容れない人も多いようです。やはり、好かれるタイプは、善良で温厚な人です。そして、信者に愛される牧師のタイプもあることに気が付き、聖霊に愛されるタイプもあることに気が付きます。

 Tコリント2・11に、「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに誰が知っているでしょう。」とあります。自分の心も治められない人が多いのですが、聖霊は私たちの心を理解し、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために執り成してくださいます。」(ローマ8・26)。心の葛藤や不満を、異言の祈りをすることによって、聖霊は私たちから取り除いてくださるのです。ですから、異言の祈りをする人は、いつも心の重荷を取り除かれて、すっきりとしますが、祈らない人は、自分の葛藤を解決することなく、不満や怒りを抱えていて、人にも御霊にも好かれなくなっていくのです。

 そういう面で祈っていない人は、生まれながらの人のようで、「神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」8Tコリント2・14)。牧師でさえ、祈らなくなっていると感情を抑えることができません。感情や欲の強い人は、ある程度祈っても、御霊の支配下に入ることは難しいように思われます。

 祈っていない人は、地上のことに囚われます。地上のことを信仰をもって捉えられない時に、その人が神の国の住民でなくなっていることは、自明なのです。この地上の人生を神を信じ、全ての地上の栄枯盛衰、喜怒哀楽の事象の上に、神が働いておられることを信じられるのが、御霊の人です。

 苦しみや悲しみと共にある神の御旨を見られる人は、御霊によって導かれ、御霊によって生きている人です。生まれつきの人間のように、物事や人物を、直感や判断で評価してはなりません。御霊の人は、「弱さの内に完全に現れる」神の力を信じるのです(Uコリント12・9)。ですから、不満や怒りなどが、現れることはないのです。

 御霊が人を選り好みするのではなく、私たち自身が御霊の働きや実の現れやすいかどうかを自分で定めてしまっているのです。神の働きを信じるには、御霊に満たされることを求め続けなければなりません。



3月13日 揺れ動く地に立ちて。   使徒16章9~18  

新改訳 使徒16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。

16:10
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

16:11
そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。

16:12
それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

16:13
安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

16:14
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

16:15
そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

16:16
私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。

16:17
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。

16:18
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。



東北地方に大地震が起こりました。当教会員には、大きな支障はなかったようですが、東北教区の13教会は連絡が取れない所もあり、大きな被害を受けた所もあります。クリニックのビルは水道管が破裂し、1,2階が水浸しになりました。従業員を二人我が家に宿泊させ、二人には自転車を貸し出し、二人は私たち夫婦が近くまで車で送って行き、夜中に帰ってきました。翌日も、朝から復旧に勤め、患者さんを迎えました。教会堂と牧師宅は何事もありませんでした。丈夫にしておいて良かったと感謝しました。クリニックとしては、医薬品と男性看護師を現地に派遣しようと考えております。

何事もなく過ごしていた現地の人々にとっては、寝耳に水のような驚きだったことでしょう。Uペテロ3章には、主の裁きの日は盗人のようにやってくると書かれています。人々は、誠実に生きている信仰者を嘲り、欲望に従って生きているけれども、そんな時に突然、裁きの日が来るのです。

先週卒業した伝道師が、大学生伝道の研修会に行ったまま地震の中、何の連絡もなく、何度もメールを送った翌日の夜に簡単なメールを返したままで寝てしまっていました。人々の弱さ・苦しみを助け、救いだす伝道師としては、最初から失格です。いくら神学を学んだところで、自分のために生きるのでは、何の役にも立ちません。人々の苦しみを思いやり、助けたいという動機があってこその伝道者なのです。今日は就任式ですが、皆さんの判断を待ちます。

人の苦しみや悲しみを理解するには、自らが苦しみを体験しなければ、なかなか難しいのです。頭は良くても危機管理・対策ができない若者が多いようです。自分の生存が保障されるように見える世の中では、ペテロ書の人々のように裁きの日が来て、自分が突然逃れ得ない艱難にあうなどと考えも及ばないのでしょう。だからまた、そのような目に遭った人々を助けるなども考えてもみないのでしょう。

裁きの主は、盗人のように思いがけない時に来ます(マタイ24・42-44)。最近は、夜中に泥棒に入られる人も少ないでしょうが、子どもの頃、前橋の我が家に泥棒が何回か入り、翌朝の家族の恐怖と驚きは忘れることはできません。車などの事故もそうです。愚かな人は、人が突然、車の前に飛び出してくるとは思わず軽率な運転をします。伝道師にも何回か注意しました。「あなたは人が飛び出して来ないと思い込んで運転しているが、もし人を引き殺したら伝道者を辞めなければならないこと。その人の人生もあなたの人生も破綻するのは覚悟しているのですか。」失敗してから反省するのでは遅いのです。

 生きるということはいのち掛けのことなのです。自分の命も人の命も簡単になくなるのです。大地が動かないものだと信じ込んでいる者にとって、地震は驚きでしょう。中国やアメリカには地震がなかったそうですが、ロスや四川の大地震は、安定した大地などないことを証明しています。先程、讃美した「遠き国や」という聖歌は、1923年9月1日の関東大震災の夜に、人々を見舞い、助けた英語教師マーティンが、余震に震え、瓦礫の中でさまよう人々の為に執り成して祈っている時に、示された言葉でした。

2. 水はあふれ 火は燃えて 死は手ひろげ 待つ間にも 慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けリ 慰めもて ながために 慰めもて 我がために 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ

3. 仰ぎ見れば など恐れん 憂いあらず 罪も消ゆ  慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けリ  慰めもて ながために 慰めもて 我がために  揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ 

 人のいのちもはかなく、人生もあやふやなものです。しかし、私は福音に触れ、神の言葉の真実さと神の国の現実を知り、生きる意味を悟って、確信を得た人生観を持ち、これまで生き抜いてきました。揺れ動く地で危うい命、しかし、神の言葉は信じる者にとっては、力強い神の力なのです。


3月20日 暁を呼び起こそう!   詩編571~11

新改訳 詩編57:1 神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。

57:2
私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。

57:3
神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ 神は恵みとまことを送られるのです。

57:4
私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。

57:5
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。

57:6
彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ

57:7
神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。

57:8
私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。

57:9
主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。

57:10
あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

57:11
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。

大変な災害が起こりました。どうしてと問う方もおられるでしょう。イエス様は言われます。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18名は、他の者よりも罪深い人だったと思うのか。そうではない。」つまり、人生には試練や災害というのは、あるのです。しかし、イエス様は更に続けます。「あなた方も悔い改めないのなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13・4,5)。

 災害の中で人は、安逸を貪る生活を悔い、神の前に自分の放漫を悔い改めるのです。それは、被災者に対する警告ではなく、全ての人々に対する警告です。それは、人知の限界と愚かさを悟り、大能の神の前にへりくだるための警告です。

 当教団ではない宣教師から原発の怖さと避難を迫るメールが毎日届いています。逃げろ、逃げろ、と言い、逃げない人を愚か呼ばわりして、外国では微量の放射線でも怖がっているのに、なぜ日本人は逃げないのか、政府に騙されている、と騒いでいます。外国に行った宣教師は勝手です。彼らは、そこに生活の基盤があるのですから、逃げてその地に行ったら、良いかもしれません。でも、日本人は、そういう民族ではないのです。故郷を愛し、その人々と分かちがたく、そして逃げないで我慢することを信条としているのです。外国人が放射線を恐れて、国外退去するのは勝手ですが、逃げないでいることをバカ呼ばわりされたくありません。原発が危険であり、好ましくないことくらいは知っています。政府が頼りないこともわかっています。でも、自分が逃げたら、逃げ場がない友人が困ってしまうと考えると逃げられない人もいるのです。逃げたからといって生活できる場所があるとも思えないのです。そういう年寄りや人々がいることくらいは理解して欲しいのです。私は、試練にある人に怒ったり脅したりする人が嫌いです。平気だよ、と声を掛け、少し助けるくらいしかできませんが、興奮して自分の考える通りに人を動かそうとする人が大嫌いです。

 祈っていると、詩編57編が浮かんできました。神よ、彼らを憐れんでください、あなたの御翼の陰に身を避けさせてください。奥田先生に月曜に逃げてくるように電話で伝えたのですが、ガソリンがないので動けないとのことです。火曜になっても動けないとのこと、歯がゆくて、どうしようもなく、夕方に本田先生に電話すると、明日ガソリンを買いにいくとのことでした。私はそれでは遅い、なにかあったらどうするか、と思い、自分が迎えに行くとその場で伝えました。

 私は、いつも神と対峙しています。神が私を用い、私を助けてくださるのは知っています。神の御用になれるために、心身の訓練と強化を心がけています。神は、私が与える時に与えてくださり、助ける時に助けてくださいます。行動しなければ、神は沈黙しています。しかし、この災害は大きすぎます。どうしようもありません、と神に語ると、自分にできることだけを神は私に求めておられることを示されました。迎えに行ってみれば、大したことはありません。浅野姉が、「ヨルダン川を渡る時のようですね。進み続け、足を上げなければ流れは止まらないのですね。」と語りました。神の働きは、神ご自身もするけれど、私たち信仰者がしなければならないこともあるのです。

 マリヤ・クリニックでは、なんとしても診療は続けると宣言し、停電でも手書きで処方箋を書き、人力で治療を行う、決して逃げない、と言うと、未信者の従業員たちも進んで協力をしてくれています。用意し備えていた災害用品が少なすぎたことを悔いました。あまりに微力なことを神に祈り続けました。

 すると、この7,8節が聖霊に示されました。わが魂よ、目を覚ませ、心を揺るがせてはいけない。たて琴をかき鳴らし、心を奮い立たせて、暁を呼び起こそうと、私の霊が奮い叫んだのです。暁を呼び起こす、とは、真夜中のような試練の只中で、なんとしても光を見出すために奮闘するということです。その魂の叫びと神への期待に神は応答してくださると、霊の激動が来ました。

 さらに、イザヤ40章1節「慰めよ、慰めよ、わたしの民をとあなたがたの神は仰せられる。」とも示されました。「主の道を整えよ。・・・全ての谷は埋められ、全ての山や丘は低くなる。」「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。見よ、その報いは主と共にあり、その報酬は主の前にある。」


3月27日 地の基を置かれた方   イザヤ4021~31 
新改訳 イザ40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

40:23
君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。

40:24
彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。

40:25
「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。

40:26
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。

40:27
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。

40:28
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

40:29
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

40:30
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

40:31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。


 大地を揺り動かす天変地異、私たちは人類の科学と知恵も、全く歯が立たないことを思い知らされました。それでも日本人の忍耐力と誠実な歩みは世界の人々を驚かせています。なんと、凄い国民なのでしょう。

 しかし、いくら耐え、我慢しても、家がなくなり、家族が死んでしまった悲しみは如何ばかりでしょうか。神は、そのような人々に、「慰めよ、慰めよ。わたしの民を。」(イザヤ40・1)と仰せられます。慰めるのは、私たちなのです。「荒野に呼ばわる者の声がする。主の道を整えよ。」これは、マルコの1章に書いてあるバプテスマのヨハネへの預言でした。しかし、預言というのは、二重性があり、終末に向けてのメッセージが事実であることを示すものであるということは、知っておかなければなりません。

 バプテスマのヨハネは、荒野に現れて、イエス様の先駆けとなり、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマアを説きました。ローマに支配され、苦しみの中にいた多くのユダヤ人が、それに応じて洗礼を受けたのでした。そして、その後に現れたイエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたのです。

 慰めとはどのようなものでしょうか。イザヤ四〇章によれば、「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主から受けたと、呼びかけよ。」ということです。

 イザヤ書は、六十六章あり、聖書の六十六巻と同じように、四十番目から突然、福音のメッセージになるのです。新約聖書の教えは、行いによるのではなく、信仰により恵みによる救いです。むろん、イザヤ四十章は、バビロン捕囚以前のものであり、実際にはこの後、バビロン捕囚の大試練がおこり、更に後、神の国の教えの預言の成就としてバビロンからの解放があるのです。それは、イエス様の預言にも引き継がれるのですが、実際には、まだバビロンからの解放においても、イエス様の福音のメッセージの魂の救いにおいても、完全に成就したものではありません。完全な成就というのは、神の国の実現であり、実際の終末の後にあるものなのです。

 福音的クリスチャンというのは、神の国を死後のものとしてではなく、現実に私たちが肉体をもって生きる、この世において実現するものとして信じるものであることを知っていなければなりません。聖書は、この世界が全く滅びるのを終末と言っているのではありません。終末というのは、神様が忍耐をもって世界を見守り、福音をもって人々を救おうとされる時代の終わりなのです。つまり、終末としての天変地異や試練や困難の後、人々の行いを裁く、裁き主なるイエス様が人々の前に現れるということが聖書に書いてあるのです。イエス様が、神の国は近くなった。悔い改めなさい、と言われる時代が過ぎ、悔い改めないで罪をもっている人々が裁かれる時がくるのだということなのです。自分の罪を認めず、世の享楽の中で生きている者に、神の裁きが現実であることを示すために、災害があると聖書は言うのです。

 それでは、それが慰めになるのでしょうか。もう一度、聖書を読むと、「慰めよ、わたしの民を」とあり、神を信じながら、世の中で報われず苦しんでいる信仰者に対して「慰めよ」ということなのです。

 こういうことを言うと、日本人の感覚では、嫌がられます。災害で苦しんでいる人々を裁くのか、呪うのか、と非難もされましょう。しかし、聖書は、人生は束の間であり、神の国は永遠であること、そして、罪を悔い改めない者は、地獄に行くと書いてあるのです。それならば、どんなにいろいろなことがあっても、悔い改めて、神の前に救いを求めたほうが良いでしょう。

 ところが、多くの日本人クリスチャンは、この神の裁きを信じていないで、神は愛である、と聞きざわりの良いことを伝えるのが常です。人間的に優しく、人の苦労を思いやる気持ちが強いので、聖書をそのまま伝えられないのです。また、忍耐深く、善良な人が多いので、神がそんな怖いことをするはずがないと、たかをくくっているのです。

 万引きにしても、痴漢にしても、コソ泥や暴力にしても、逮捕されてから、その代償の大きさに驚くものです。何気なく安易にしたことが、その人の人生を崩壊させます。不倫や姦淫というのも、現代日本では、隠れて安易に行われています。つまり、表立っては、罪を犯していないけれども、実際には、罪びとであることは、神の前では明白なのです。

 全く、善良に生きてきた私の母が、私の家に寄留した時に、臍についていたゴミが取れたということで、神を恐れ信じました。私は、全ての人は、いくら善良に生きても、内心の罪性に怯えていることを、母の悔い改めで、よくわかりました。私たち、クリスチャンが、罪の悔い改めをはっきり語らないのならば、人々の心を真に『慰める』ことはできないのです。

 この大地震の試練に生き抜くには、神を信じ、罪を悔い改めて生きることこそ、必要であると、聖書は語っています。皆さんは、それを語る誠実さをもっていますか。