7月 4日 御霊と知恵に満ちた評判の良い人によって。  使徒61~7

6:1
そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

6:2
そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

6:3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

6:4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

6:5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

6:6
この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。

6:7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。


 日本の教育が、知恵や交渉力そして、社会で現実に必要とする能力を提供するように意図されていないことが、現代社会と経済の停滞をもたらしていることをどのくらいの人々が気付いているでしょうか。

 学校では、頑張れば褒められ、休んでも努力しなくても問題を起こさなければ、無事に卒業できます。有能な人間は、大学に通いながら専門学校やアルバイトなど学校以外で力をつけようとし、個性的・独創的な人間は、しばしば学校では阻害されます。他国では、社会で働いた後も実力をつけようとして再び大学院などで学び、それがまた評価されますが、日本ではしばしば社会に適用できない人間が研究室にこもって勉強するのだと低く評価されたりします。

 ただ真面目で従順であれば良いという封建社会の名残は、権力者が勝手に生きるためのものであって、現在のようなグローバルな競争的情報社会では、知恵のない者がうまく生き抜くことができるはずはなく、搾取される側になることは自明なものとなっています。しかし、現実には、小知恵、つまり要領のよさが、身についてしまって、若い人々に人格が形成していないことが感じられています。

 今年の教会テーマは「地の塩として生きよ」ということですが、ずる賢さや要領の良さ、知恵のなさ、では地の塩として、社会に啓発する生き方ができるはずもありません。これまでいろいろな聖書の原則をお話してきましたが、要するに私たちは、この世にクリスチャンとして知恵をもって生きていかなければならないのです。ですから、今日の聖句で「御霊と知恵に満ちた評判の良い人」こそ、地の塩であるということができるのです。

 「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。」(Tコリント2・14)とあるように、いくら考えても御霊に満ちた人になることはできません。生まれながらの自分の考え・生き方・能力・立場を放棄し、キリストにあって死ななければならないのです。

 その後の3章に、その救いという土台の上に、どのような人生を築き上げるかで、「各人の働きは明瞭になります。」(Tコリ3・13)とあります。試練や苦難など人生の様々な様相で、「各人の働きの真価を試す」のです。試練に逃げ、弱音を吐く人が知恵に満たされることも、聖霊に満たされることもあるはずがありません。

 ヤコブ1章に、知恵を与えられたいと願う人は、試練にあっても忍耐を続け、「忍耐を完全に働かせなさい。」とあります。ただ、黙って我慢しているのではなく、忍耐を働かせ、知恵を与えられるのです。この忍耐がなく、挫折する人間を神は嫌います。「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」解決しよう、勝利をしようとして、忍耐をしながら、知恵を働かせる人を神は喜び、聖霊に満たされる人は、そのようにして神の助けを得るのです。

 聖霊に満たされたと言って、大言壮語したり、都合の良いことを願ったり、神がかりなことをしようとする人は、成長を遂げることも、信仰者として成熟することもありません。火によって(試練によって)燃え尽きてしまう建物のようです。金銀宝石で家を建てるとは、試練に動じないで人生を築き上げることなのです。

 教会で奉仕し、教会員は自分たちの活動を始めるべきです。責任をもって、自分たちの活動を運営し、社会や人々に教会の働きを推し進めるのです。それ以前に、例えば、壮年・婦人・青年の各会でも、単に祈りあうだけでなく、外向けの活動を始めないなら、組織として成長することもなく、信仰者・指導者として知恵が与えられ、成熟することもありません。「知恵の正しいことは、その行いが証明するのです。」(マタイ11・19

 教会における働きを知るためにTコリント12章から学びましょう。

1. 教会には御霊の現れとしての超自然的な賜物があります。8-11

  知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける・・・

2. 教会には、神が与えられた奉仕の賜物があります。ローマ12・7-8

奉仕、教える、勧める、分け与える、指導する、慈善を行う・・・

3. 教会には、働きの賜物があります。エペソ4・11-12

牧師、伝道者、教師、執事、婦人執事、奉仕者、受付、事務、

 教会は「キリストの身体であって、一人ひとりは各器官なのです。」(Tコリント12・27)そして、そのような御霊の現れ、奉仕の賜物、働きの賜物がごちゃまぜになって、教会を形成するのです。そして、そのような実際の働きの中で、愛と敬虔が信者の中に形成されていくのです。


7月11日 聖霊に逆らう人々。  使徒751~60節 
新改訳 使 7:51-60

7:51
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

7:52
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

7:53
あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

7:54
人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

7:55
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

7:57
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

7:58
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

7:59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」

7:60
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。


 今日はステパノの命がけの大説教ですので、前置き・緒論を話すのは失礼ですから、そのまま聖書に聞いていきましょう。この説教の後、実際にステパノは石で撃ち殺されるのです。人は真理よりも、歴史的な証明よりも、信仰に訴えるよりも実利を求め、罪に負けて、人を殺してしまうのです。

 アブラハムは、神の命令によって生まれ故郷と家族から離れて、遠く約束の地に入りましたが、生前その約束が成就されることはなく、「足の踏み場となるだけのものさえも」(7・5)与えられることはなかったのです。却って、子孫が400年間奴隷となるとも言われます。信仰の父アブラハムは、その生涯戦いの連続であり、勝利を続けましたが、それでもなお彼は約束を得ていなかったのです。

 ヨセフも神が共におられ、「あらゆる艱難から彼を救いだし」(7・10)たのですが、それでも異国の地で死にました。モーセは、「自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」(7・25)。モーセは40年間荒野で神による不思議としるしをおこない、「生ける御ことばを授かり、彼らにあたえたのです」(7・38)が、民は「彼を退け」たのです。 ダビデも、「神の前に恵みをいただき」(7・46)ましたが、神殿を作ることはできませんでした。

 「あなたがたの父祖たちが、迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。」とステパノは、正しい者を迫害する人々、彼の目の前にいて、彼を殺そうとする人々を、糾弾します。イエス様を殺したことによって、「今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」(7・52

 クリスチャンの皆さん、報いを求めるような軽薄な信仰であってはなりません。アブラハムは報いられなかったのです。この世は旅であり、神の国への遠い道のりです。それならば、報いを求め、自分の財産と名誉を確保しようとするよりも、むしろ、この旅を味わい、通りがかりの人々に良きサマリヤ人のように善をおこなっていこうではありませんか。(ルカ10章)。聖書は、

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えました。

 ある人が、エルサレムからエリコへの道で強盗に襲われました。着物を剥ぎ取られ、半殺しにされました。それを助けるのは、だれでしょうか。

 私も長い人生を歩んできました。助けた人から、助けが十分でないと攻撃され、非難されたこともあります。良くなった後に、財産を持って行かれたこともあります。騙されたこともあります。居座って、勝手なことをされ、苦労したこともあります。人と関わりたくなくなる時も多くあります。祭司もレビ人も、この哀れに傷ついて倒れている人を見て、人を助けることなどこりごりだと思うような経験があったかもしれません。多くの説教者が彼らのようになるなと、警告し非難して語ります。しかし、そのように思い、語る人々は、本当に人を助け、尽くしたことがあるのかと疑います。世の中は、いくら善行をしても報われません。弱い人々を助けると殆どしっぺ返しを食らいます。

 ところが、このサマリヤ人だけがなぜ、彼を助け介抱し、費用まで払ったのでしょうか。ルカ3・37に「あなたも行って同じようにしなさい。」とイエス様は言われました。彼は、自分が旅の途中、人に助けられ、救われたのか、或いは、そういうことが自分の身にありうると考えたのです。

 私は多くの人を助けていますが、この人は私の善行を他の人に返す思いやりのない人だと判断したら、その人を助けることをやめます。祝福というのは、水のようです。神の祝福の雨が降り注いだら、他の人に流していけば、いつしか海にそそぎ、また雨となって戻ってくるのです。溜めた水は腐り、ボウフラがわくだけです。

献金の先を吟味することはしないし、自分の善行の結果を探ることもしません。ただ、したくない人にはしません。そのポイントは聖霊が私を導いています。罪多く、裏切る人は、私の冷たさをなじるかもしれません。そんな理由を説明する必要はありません。大事なことは、聖霊に導かれることです。

神に導かれる人は、祝福するべき人を知っています。自分に与えられたものを人に注ぎだす人です。アブラハムも、注ぎだしてその人生を全うしましたが、罪人であるロトとは決別し、イシュマエルとも別れたのです。ヨセフも、神の僕として自覚しているからこそ、兄弟の過去の罪をうやむやにはしなかったのです。悔い改めない人に祝福はないからです。ダビデも、戦う相手を知っていました。そして、自らに神殿を建てあげる聖さがないことを認めたのです。

ステパノは自分を殺そうとする人々の前で、助命を願うことをするよりもむしろ、悔い改めを迫ったのです。人は、自らの犯した罪に対して謝罪することよりも、その罪を指摘する者を攻撃します。それで、多くの日本人は罪に対してあいまいになります。他人の罪に対してあいまいになると、必ず自らも罪を犯します。だから、罪人を祝福しても、助けてもいけないのです。ステパノは、神に感謝しながら、自らの正当化と人への殺意を持つ人々を罪に断じたのです。

 ステパノの殉教を通して、パウロが救われ、大使徒となっていきました。私は大きな戦いを覚悟し、前進を始めました。それは、このような文では書けません。神は、ご存じであり、私を導いてくださると信じています。天に通じる道を歩むのみです。


7月18日 金で手に入れた物は滅びる。  使徒814~24節 

新改訳 使 8:14-24

8:14
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

8:15
ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

8:16
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

8:17
ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

8:18
使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

8:19
「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。

8:20
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。

8:21
あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。

8:22
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。

8:23
あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」

8:24
シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」



 サマリヤという地方は、ヨルダン川の西で、ガリラヤとユダヤに挟まれています。元はイスラエル北王国の首都で、アッシリヤに攻められて滅びた後、異民族が入り込み、混血のユダヤ人が住んでゲリジム山で独自の礼拝をしたので、ユダヤ人からは嫌われ、さげすまされていました。ガリラヤからエルサレムへ行く近道でありながら、ユダヤ人はそこを遠回りしていくのですが、イエス様は「サマリヤを通って行かなければならなかった。」(ヨハネ4・4)として、サマリヤ人の中でも軽蔑されていた女性の伝道をしたのでした。先週お話しした良きサマリヤ人の例えも、イエス様がわざわざ嫌われているサマリヤ人を例話にして、人を差別せず善行をするべきことを教えているのでした。

 ユダヤではありえない魔術をして金儲けと権勢を誇るシモンも、サマリヤならではのことでしょう。そこに執事に選ばれたピリポが伝道したのです。筆頭執事のステパノが伝道の末に殉教し、ピリポも「信仰と聖霊に満ちた人」らしく、福音を語り、しるしを行っていたのです。悪霊を追い出し、癒しの業を行いました。

 このような力ある業を見て、これまで魔術をもって人々を脅かし、威張っていたシモンがイエス・キリストを信じてバプテスマを受けたのです。伝道に必要なことは、力ある業です。現代キリスト教は、教理や宗教的行為に重点が置かれていますが、人というのは、そういうもので救いを受け、人間性が変わるということは殆どないのです。悟りと言うものは、考え方にヒントを得たと言うだけのもので、救いには繋がりません。救いとは、神の業であり、神の業は自らの業を放棄した人間に与えられる恵みなのです。

 ですから祈っても、聖書を読んでも、それだけでは救いや神の業が起こるものではありません。祈りや御言葉は、聖霊に満たされ、神に導かれる為のプロセスなのです。誤解を恐れずに語れば、祈りや聖書を読むことを絶対視する現代のキリスト教の傾向こそが、形骸化をもたらしているのです。それらは、人間側の悟りや成長を重視しており、神に依存し、神に満たされるというキリスト信仰の超自然的側面を無視してしまっているのです。

 福音というものは、神の力の現れとして世界に示され、世界を変えてきたのです。「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Tコリント4・20)。パウロは、このコリント書で、言葉が達者な思いあがっている人々に対して、力ある業をし、「私にならう者となってください。」(4・16)というのです。力ある生き方こそ、聖霊に満たされているしるしであり、神を信じる者は、奇跡やしるしを求めて生きるものなのです。

 シモンは、「いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て驚いていた。」(使徒8・13)。更に最も驚いたことは、聖霊のバプテスマを受けることでした。これを見て、聖霊のバプテスマを与える権威を買い取ろうとして、使徒たちの前にお金を置いたのでした。単純ですが、思わず大金を払いたくなるほど、聖霊のバプテスマは凄いものだったのです。

 更に語弊恐れずに言えば、私たちアッセンブリー教団は、聖霊のバプテスマを受けたしるしを異言によって証明していますが、異言を受ければそれで事足りた、と思わせてしまっているとも言えます。聖霊のバプテスマは、異言を言うということで済んでしまうようなものではありません。

 現代日本は拝金主義です。これはもう宗教です。金がないと幸せになれないと考えています。聖書の神様にもお金を与えられることを求め、豊かになることが神の祝福と考えていますから、クリスチャンでさえ、偶像崇拝に陥っているといえます。お金に左右されないためには、金を基準とせずに神を基準として生きることが大事です。それは、お金を使うということだけでなく、お金を使わずに倹約している人もまた、拝金主義の影響を受けていると言えます。

 聖霊に満たされるということを大きな声で祈るとか、神懸かりになることだと勘違いする人も多くおります。聖霊なる神は、悪霊とは違いますから、私たちの心を占領したり、興奮して過激なことをさせるということではありません。消去法で行くと、聖霊に満たされるということは、感情にも、常識にも、健康にも、経済にも、状況にも、能力にも、左右されないことです。聖霊に満たされたら、聖書の御言葉がその人の頭にも感情にも口にもあり、神にある為すべきことを示され、行動する信仰が(思いが)与えられます。

 聖霊満たされるために、悔い改めることが必要です(22)。済まない、とか申し訳ないとか、懺悔ではなく、自らの存在を神の前に献げることです。それでは、私自身がそうかというと、恥ずかしながらいつも聖霊に満たされているほどのものではありません。ただ、悔い改める時、申し開きをしないことです。全てを神に明渡し、神の示すことはなんでも受け入れるという覚悟です。そういうことによって、これまで多くの試練を聖霊に導かれてしのぐことができました。

 これらは、能力ではありません。多くの人が、自分の能力に依存して生きています。能力がある人はあると思って、能力で生き、能力のない人は、ないと思って悲観的消極的に生きます。これでは、神の御霊に導かれることはないのです。

 これらの始めが聖霊のバプテスマという体験なのです。それはあまりに凄いので、金で買いたくなるほどですが、金で考えると全てがだめになるのです。「苦い胆汁」というのは、人間性そのものの罪深さ、どうしようもなさを意味し、「不義の絆」とは、くだらない人間関係に拘束されていることを意味します。聖霊に満たされるためには、それらを吐き捨てなければならないのです。


7月25日 石を枕として。   創世記2810~22節 石原嘉宣師

新改訳 創世記28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。

28:11
ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

28:12
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

28:13
そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

28:15
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

28:17
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

28:19
そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

28:20
それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、

28:21
私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、

28:22
私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

新改訳 使 9:31

9:31
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。



8月1日 導く人がなければわからない。   使徒の働き826~39 

使徒8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)

8:27
そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、

8:28
いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

8:29
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

8:30
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。

8:31
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

8:32
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

8:33
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」

8:34
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」

8:35
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

8:36
道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」

8:38
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

8:39
水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。



 
ピリポはサマリヤの町で大きな働きをし、エルサレムに帰って行きます。その途中で、天使が語りかけ、ガザに下る荒れ果てた道に向かいなさいと言います。このピリポの働きは、あちらこちらと動き回るもので、心情的には疲れるものだったと思います。献身とはそういうもので、自分の都合の良い生活を諦めることから始まります。

 自分の考え方や生活を変えるということはなかなかできないことですが、神に導かれるということは、主が語ったら、その通りに方向を変えて向かうということです。ところが、この献身という意味合いが、自分の考え方や願いを捨てることだと考える人が多いのです。捨てるのではなく、変えるのです。考え方も希望もない人は、会社でも社会でも用いようがないのです。回心であって、改心ではないのです。悔い改めというと一生懸命反省して、もう二度と過ちを犯さないことであると、一般論で聖書の教えを守ろうとする人が多いのです。大事なことは、主に聞いて、何度でも方向や生き方を変えるということです。

サマリヤからガザへの道は、エルサレムを通り越して南西に行くので、南へということは、エルサレムへの道を外れて、山道を行くことになるかと思います。休む暇もなく、ピリポは荒野を歩かされるのです。そうすると豪華な馬車がエルサレムからの道を下りているのに出会います。書物を読むということは、大きな声で読み上げるというのが、通常でした。ピリポが聖霊に促されて駆け寄ると、イザヤ書を読み上げる声が聞こえます。

ピリポは、すかさず、その聖書の意味がわかりますか、と尋ねます。それはイザヤ53章の苦難のしもべとしてのキリスト預言でした。人々は、救い主は栄光の主であり、勝利の中に現れると信じておりました。しかし、実際には、全ての人の罪の身代わりとして罰を受け、殺される為にイエス・キリストは生まれたのです。自らの罪を認めない人々は、その贖いの意味を理解せず、却って、救い主を迫害する者となったのでした。

エチオピアの女王に仕えていた宦官は、財産をも預かっていたというからかなりの高官でしょう。その人がエルサレムへの長い旅路を礼拝に上ったというのですから、大変信仰深かったのでしょう。自分の職務をも賭して、神への信仰を現わしたのです。ところが、エルサレムの神殿は、異邦人、とりわけ宦官に対しては、厳しく差別して、その礼拝を認めないものだったと思われます。

 宦官は、ピリポに対して、この聖句に示される賤しめられ、罰せられながら、黙々とその罰に服した人物に関心を持ちました。高い身分がありながら、エルサレムという遠い国にある信仰の都を目指して旅立ちました。ところが、彼は、賤しめられ、軽蔑され、侮辱されたのです。彼は、自らの信仰の故に、甘んじてその侮辱を我慢しました。そして、その形式的な虚栄に満ちた礼拝所に失望したのでした。

 それでももう一度、聖書を読むと、イザヤ書53章が開かれ、その内容に自分の境遇と同じ屈辱される人物を見たのです。彼は質問します。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。」

 ピリポは、まさにそのお方こそ、エルサレムで殺された救い主であることを説明します。聖書の教えは、奥義です。悲しむ者、義に飢え渇く者、義の為に迫害されている者(マタイ5章)、さらに「神は知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。」(Tコリント1・27-28)とあるのです。

 つまり、高い身分にありながら、侮辱・虐げを受け、それでも神への信仰を保った、この宦官を神は選び、わざわざピリポを遣わしたのです。思う通りに行かない時、試練や苦しみの中にこそ、その人の実態は現れるのです。

 わたしにとって、伝道者になることを決心してからの10年間ほど、報われず、苦しく、侮辱された日々はありませんでした。熱心に伝道をしているのに、人々は私を批判し、責め、そして教会から去って行くのでした。執り成しの祈りを尽くした人から、馬鹿にされ攻撃された悲しみと苦しみは、伝道者であることを放棄したくなるほどの精神的・信仰的戦いでした。「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・7)。

 間違っては、なりません。十字架を負うということは、自分の罪ゆえの試練ではなく、他の人の罪ゆえの試練です。自分の未熟さや罪深さのゆえの試練もありますが、そういうものは、自分に責任があるので、受け入れるしかないとも思うものです。しかし、十字架を負うということは、他人の罪深さ、自分勝手が、あなたを試練と苦しみに追い込むということなのです。

 マタイ10章には、家族までも信仰の故に敵となると書いてあります。その罪深さを覚悟して、神に従い、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(10・38)とイエス様が言われるのです。

 宦官は、神が自分の信仰を試し、確認して認めてくださったからこそ、ピリポが現れたことを確信し、洗礼を受けて、信仰者となることを申し出るのでした。そして、かれこそが、異邦人クリスチャン第一号となったのです。洗礼を授けると、聖霊がピリポを連れ去って、疲れ果てた彼を慰めたのでした。


8月8日 伝道とは勇気です。   使徒の働き910~19 

新改訳 使徒9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。

9:11
すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。

9:12
彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

9:13
しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。

9:14
彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

9:15
しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

9:16
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

9:17
そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

9:18
するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、

9:19
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。



 パウロの元の名前であるサウロは、ステパノを殺して神への反逆在とすることに賛成する過激的なパリサイ派の青年で、ローマの市民権を持つほどの裕福かつ地位の高い、知性的な指導者でした。8章3節には、「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」とあるので、宗教的な一途さは、恐ろしい迫害をする当事者としてしまっていました。9章1,2節には、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃え、・・・この道のものであれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いてくる」という残虐な殺戮者になっています。

 いつの時代でも日和見な人間は多くいるもので、一途になることのない人間は、状況によって右にも左にもずれるので信用はできません。パウロは胆汁質、多血質の性格を持っているのでしょうが、そのパウロも後年、粘液質や涙もろい性格にもなって行きます。

 私なども、性格的にはパウロに似ていると思っています。聖書の言葉と真理には、どこまでも忠実でなければならないと考えており、説教でも聴く者には厳しい言葉が出ます。神学校卒業後の私は、そういう面では神にある熱心が過ぎて、妻にも信者にも厳しかったと思いだします。

 日本の戦時下の憲兵やナチスの秘密警察ゲシュタポのような存在だったのでしょう。サウロは、クリスチャンにとっては、名前を聞くだけでも恐怖でした。そのサウロに、イエス様が直接、介入します。光に打たれ、地に倒れて、神の声を聞きます。私も何度も体験していますが、幻というものは、他の人には見えず、聞こえないのです。実際に、サウロの目は、見えなくなってしまいました。そして、3日間、飲み食いもせずに、のたうちまわって苦しんでいたのです。正義感に燃えて迫害していたことが、全く逆に神に敵対する悪魔の手下になっていたのですから、良心の苦しみも耐えがたいものだったでしょう。

さて、そんな中にアナニヤという主の弟子が、イエス様に幻によって語りかけられます。そして、なんと恐るべきサウロに手を置いて祈れ、と言われます。憲兵隊長かゲシュタポの隊長に伝道しろというのですから、アナニヤはびっくりし、恐怖におののきます。しかし、アナニヤは、真の弟子です。サウロに手をおいて、兄弟サウロと呼びかけ、祈るのです。

パウロは、後に牢獄において「いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストが崇められることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1・20.21)と殉教しています。黙示録でイエス様は「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏し物はなにもないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示録3・16.17)と警告されています。それは、終末期の信仰者に対する言葉です。あなたはいかがでしょうか。

 生身の人間にとって、いくら聖書の言葉、信仰であっても、真っ直ぐな警告を聞くことは厳しいものです。語る者を嫌い、避け、楽な道を歩みたがるものです。

「もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」エゼキエル3・20.21.

 説教者というのは、命を掛けて、神の言葉をいうべき使命を持った者です。教会に集まる人々に、面白い話、参考になる話をして、教訓を与えるのではないのです。神の言葉を語り、悔い改めを迫る職務なのです。

 私は現在、教団の監事ですが、この職務の公正性と責任に自らを掛け、再任や評判をうかがうことなどは論外のことと意識しています。罪や弱さに妥協したら、神の審判の日に立ちおおすことはできないのです。

 昔の幕末の志士は、国の為に命を捨て、義の為に命を掛けたのでした。もし、彼らが妥協し、生ぬるい生き方をしていたら、日本は列強の属国となり、支配されていたでしょう。日露戦争も負けたら、ロシアの植民地になっていたのです。同様に、私たちも罪や弱さに妥協していたら、サタンの支配に陥るのです。

 ダビデが罪を犯した時、3年の飢饉、3か月の敵による攻撃、3日間の主の剣、疫病のどれを受けるかと、神に問われました(T歴代誌21・12.)。ダビデは、疫病の災いの中で、それを自分の身に受けさせてくださいと求め、災いは去りました。罪を犯すと災いがあります。それは、神が罰すると言うよりも、神の祝福がなくなるから、と言ったほうが良いでしょう。

 神の言葉で悔い改める人は、幸いです。イエス様が、その罰も呪いも受けてくださるからです。悔い改めないで言い訳を言っている人は、いつまでも災いがさらず、何年も試練が続くことでしょう。

 サウロは、神の警告に直ぐに応じました。アナニヤも神の命令に、命がけで従いました。そして、大使徒パウロが生まれたのです。


8月22日 大胆にならなければ幸せになれない。   使徒の働き919~30 

新改訳 使徒9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

9:20
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

9:21
これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」

9:22
しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

9:23
多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、

9:24
その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。

9:25
そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。

9:26
サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

9:27
ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

9:28
それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。

9:29
そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。

9:30
兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。


 プリンスエドワード島はのどかな田舎で、人々は島を愛し自然を守って暮らしているように思われました。ところが、田舎の港町では漁師レストランで透き通るほど薄くて小さい牡蠣やなんでもないサンドイッチを高額で出されました。商店は閑散としており、人々は皆肥満で、私などは痩せて見るのではないか、と妻に語ったものです。物価は高く、消費税は17%、観光客が来るのは束の間なので、暮らしていくのは大変でしょう。

 他方、モントリオールはモダンな街でスタイルの良い美男美女ばかりで、却って物価は安く、住み心地の良い便利な大都会でした。しかし、乞食も多く、猥雑な所もあり、夜は不安を覚えます。今や世界の果ても、消費経済の渦に巻き込まれています。プリンスエドワード島に行って、日本の昔からの観光地の頽廃ぶりを思わせられました。人の寄りつく観光地は、つまらない物を高く売って、誰も買わないように思われました。なんでもない周囲の自然が素晴らしくきれいだっただけに、アンバランスが目立ちました。現代に生きるとはどういうことでしょう。私はパウロの時代と変わらないように思われます。

 現代日本におけるキリスト教と教会の困難状況、宗教的対立、利害の対立、人間関係の複雑さというものは、実は歴史と諸地域において繰り返して存続してきたものだと思います。旅行中に、司馬遼太郎の「世に棲む日々」という吉田松陰と高杉晋作の小説4巻ものを読みました。吉田松陰は、信念に純粋で殉教し、その弟子の高杉晋作は信念を大胆に貫いて、長州藩を困難から勝利させて、やはり同年齢で病死しました。いつの時代にも、困難はあり、試練や敵対は起こって来るのです。松陰が「狂人でなければ、物事はやり遂げられない。」と語ったことが印象に残ります。晋作は、狂人として、長州藩を幕府に勝利させるに至ったのです。

 マルコ3章で、イエス様は気が狂ったと人々に言われました。それは、これまでの宗教的教えから逸脱して、人の病を癒し、悪霊を追い出し、尋常な仕方でなく教えを広めたからです(3・21)。パウロもまた、アグリッパ王と総督フェストの前で、大胆に福音を語り、死からのよみがえりや超自然的な奇蹟を語ったので、気が狂っていると言われました。パウロはそれに対して「気は狂っておりません。私は、真面目な真理のことばを話しています。」(使徒26・25)と臆することなく、総督フェストに語っています。

 パウロは、Uコリント5章で、「私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり」(5・13)と言って、異常なほどの伝道的熱心さを自覚しています。それをある程度の、分かりやすさ、優しさを、忍耐をもって示しながら教えるのは「正気であるとすれば、それはただあなた方のためです。」と狂気になるほどに、神に熱心なのに、そうであると驚かれ、恐れられてしまうので、伝道と教育のために、落ち着こうと努力しているパウロの様子が見られます。

 それらは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と言い、こんなに神に愛されているのだから、もはや落ち着いてなどいられない、と情熱的に言うのです。今日の聖句の箇所は、まさにパウロがイエス様の愛に打たれ、真実に目覚めた感動の中で、歩んだ姿であります。

 結婚する時の夫婦の状態は、このように熱烈なものであるべきだと思います。「愛して愛して、離れることはできないほどに愛おしい。」もし、そうでなければ、結婚はつまらないものになるでしょう。そう言っても、私たちの結婚の時は、あまりに問題が山積みで、愛し合うというよりも生きていくことに精いっぱいでした。それは、夫婦お互いに神にある熱心が、優先していたのです。

 もし、夫婦が熱烈かつ大胆に愛し合っていないのなら、何かに惑わされています。働くことが優先しているのでしょうか。能力や趣味や性格が違うのでしょうか。たまたま結婚したのでしょうか。独身の人ならば、愛するほどの人に会っていないのでしょうか。夫婦の愛とは、他人を見てはいけないのです。比較してはいけないのです。この人しか、いないのです。ただ、伴侶に全てを献げるのです。そうしなければ、愛することはできないのです。

 私たち夫婦は、何事にも一生懸命なところは似ています。良く働き、誤魔化すことや、適当な仕事は嫌いです。自分の言葉と仕事に責任を持ち、そのために犠牲を厭いません。人の目など気にしていたら、生きていけません。30年間、何もない中から死に物狂いに神のため、人のために生きてきました。

 カナダを旅行し、運転し、列車に乗りながら、神への賛美と感謝が湧き上がって来ました。神は、尋常でなく神に頼って生きてきた私たちを守ってくださいました。共にいてくださいました。命の危機が夫婦共に何度あったことでしょう。危害を加えられ、攻撃されることがいつものことでした。正しく生き、誠実に仕えて来たのに誤解され、馬鹿にされ、報いられないことばかりでした。神を信じるとは、このような人の目に映ること、人の評価など気にしていたら、何もできないことでした。今でも戦いばかりです。

 束の間の旅行で、日常生活から離れ、夫婦が戦友であり、同志であり、共に辛苦を分け合ってきたものとして、慰め合い、憩うという時を、神にあって感謝しております。パウロは、神を信じる者として、この世のあり様、人の思惑を超えて、大胆に生き、大胆に語って来ました。私たち夫婦も、今、神にあって恥じるところはありません。むろん、弱さもあり、愚かでもあり、罪深くもあり、無能でもあります。しかし、自分の能力で判断して、失敗を恐れ、人の目を意識して、自己規制して生きることは、ありませんでした。

 財産も、現在の立場も、名誉も、キリストに明渡します。子供に残す必要はありません。この人生を生き抜き、パウロのように生きたい。キリストにある狂人として歩みたいと、願っているものです。


8月29日 立ちあがり、自分で整える。   使徒の働き931~35節 
新改訳 使 9:31-35

9:31
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

9:32
さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。

9:33
彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。

9:34
ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。

9:35
ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。



 31節にあるように、@「教会は築き上げられ」なければなりません。また、それはA「平安を保ちながら」で、B「主イエスを信じ恐れかしこむ謙遜さ」も必要で、C「困難の中でも聖霊に励まされ」ながらD「前進する」ことが大事です。

 教会というのは、建物ではなく、人によって築き上げられる組織ですが、指導者は上に立つのか、下で支えるのか、ということが問われます。「土台はイエス・キリストです」(Tコリント3・11)が、「あなた方は使徒と預言者という土台の上に建てられており」(エペソ2・20)ともあるので、韓国やアメリカで言われるリーダーシップ型の組織とは、発想が全く逆ともなります。つまり、「俺についてこい。」型の強いリーダーによって教会が建て上げられるものではないということです。

 「キリストにあって組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり」(エペソ2・21)とあるのは、私たち信者が組み合わされて神の宮となる教会を築き上げるということであって、物質的な建物を意味しているのではありません。

 エペソ4章には、牧師などの教職の働きは、信者を整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げる(4・12)とあるように、信者一人一人を成長させることが役目となります。そして、その成長とは、信仰と聖書の知識を一致させることが大事であるとあります。各々勝手な聖書観や信仰姿勢を持っていては、全体としては成長することもなく、調和することもないのです。

 16節にあるように、一人ひとりの信者が、その力量にふさわしく働き、そして結び目となる人が、それぞれをしっかりと愛によって結びつけることが築き上げられるために必要となります。

 アイネヤという人は、中風でした。チュウブとは、脳梗塞や脳溢血などで、半身不随や手足のまひなどを起こす症状です。このような病気の人が、良くなるとは自他ともに思えないものです。そのアイネヤにペテロは、「イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で布団を畳みなさい。」と語りかけます。

 「治りたい。良くなりたい。」とは、長く病気に掛かっている人は、治るとは思えなくなって、いくら語りかけても聞かないものです。例えば、糖尿病の人でも、初期では食生活を注意し、運動を心がければ、改善もし、長い人でも注意さえすれば、悪化はしないものですが、そういうことができないから糖尿病になるとも言えるのです。ガンの治療に対しても、治ったら幸い、という気持ちで治療をする人が多いように思われます。重症に気がついて、真剣に直さなければ、と思う時には既に遅い場合が多いようです。

 「幸せになりたい。」と思っても、そのように努力し、自己管理する人は殆どいません。先週、幸せになるためには、人の目など気にしない大胆さを持たなければならないと語りましたが、そのように決心して行動した人は少ないでしょう。

 アイネヤは、直ちに立ち上がりました。信仰とは、そういうものです。理由はわかりません。ある人は、信じていのちを得、ある人は、信じようともしないで、救われないのです。私たちは、信じ続ける必要があります。Aの平安を保つ、ということは、信仰なしには無理なことです。そして、艱難の時に、平安を持とうとすることで、信仰が試されるのです。平安を保てないのに、言い訳を言ってはなりません。双六のように後戻りして、平安から出発するのです。

 B主を恐れかしこみ、とは、癒してくださり、救ってくださったのは主であり、神から離れ、傲慢になったら、また病と不幸の中に入ることもあるのだと悟ることです。罰や訓戒、思うようにならないことに、不満ばかりを持つ人がいます。彼らが成長し、成熟することはないでしょう。イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われます。

 C聖霊に励まされる体験は、試練によって心細くなり、苦しむことがなければ、起こり得ないということは、真理です。人生とは、それほど楽なものではありません。私は患者さんに「幸せになるためには、丁寧に生きなければならないのですよ。」と言います。男の孫が生まれて、長男を産んだ時のことを思い出しました。結婚しても試練ばかりで、良いことは何も起こらないように感じた日々でした。モンドの笑い声が、ただ一つの励ましで、妻も授乳をしながら、うつ病が癒されていったように思います。今でも良く祈る妻ですが、聖霊の励ましがなければ、私たちはとても耐えられなかったと思います。

 D前進する、ことは大事です。ダビデも戦いの前線から身を引いた時に罪を犯しました。会社の社長になって最前線から引いた3年の間に思いもよらないような背任行為をされました。あやうく倒産するところでしたが、6ヶ月間ですっかり立て直し、業績は却って延びました。教会も、会堂ができて7年ですが、新たな増設ができてうれしく思います。これで良いなどと思っては堕落します。

 教会とは、このようにして歩む指導者が、信仰の新しい人々、信仰の停滞している人々、問題を抱えている人々を支え、愛によってその土台となってこそ、成長するものなのです。子どもを支え、見守りながら育てる親のようなものだと思います。子どもに干渉しても、子どもは自立的に成長するものではありません。

 最近、クリスチャン二世の子どもたちが、親によって丁寧に育てられていないことに気がついています。伝道や教会のために子育てが疎かになった、などと言い訳を言っても、どのように人と付き合い、組織に働き、自分を管理し高めていくかを知らないで、神を信じながら、社会に適応できない子どもにしてしまった責任を逃れることはできないと思います。私は、牧師として、皆さんを社会に強く生きる人であるために、支え守り、祈って生きたいと思っております。


9月5日 良い業と施しをする生涯。   使徒の働き936~43 
新改訳 使 9:36-43

9:36
ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。

9:37
ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。

9:38
ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。

9:39
そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

9:40
ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。

9:41
そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。

9:42
このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。

9:43
そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた



 ドルカスおばさんは、「多くの良い業と施しをしていた」人で、心が行き届いた親切さを持ち、気前が良く、誰にでも愛されていました。貧しい人の為に、下着や上着を作るのですから休む暇もありません。とうとう、病気になってしまいました。愚痴も言わず、働き続けるドルカスですから、人々が彼女が病気だなどと思ってもみないで、頼み事や相談ばかりをしていました。しかし、実はドルカスに世話になる人々よりも、ドルカスのほうが経済的にも肉体的にも苦しかったのではないでしょうか。

 「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Uコリント6・12)、とあるように、特に日本人は、卑屈な人が多いようです。信仰者でさえ、行動するのに損得や功利の基準で判断するのです。損得で生きる人は、周囲の人にその心がばれてしまい、信用されることがありません。損得で判断する人に付いて行ったら、必ずうまくいかない時には、見放されるからです。

 娘たちは、私が「どこかへ食べに行こう」と誘ったら、都合がつく限りは来ます。私が、おいしい物を御馳走することを知っているからです。もし食べた後に、自分の分を払わせたら、今後は来なくなるかもしれません。

 商売というのも同様で、儲けようと考えている人は、失敗します。世の中にぼろ儲けする商売があったら、他の人が始めています。後から始めても、既に追随者が多くいるので、うまくいかないのです。仕事でも、給料が多くて楽な仕事を求める人を雇う会社はありません。雇った人が、上司や社長になんでも聞いてきて、教えたりアドバイスをしなければ何もできないことを当然と思っている場合が最近多いように思われます。学校は、月謝を払っているので、あり得るのですが、給料を払いながら従業員を教え育てるのが、当然な社会になりつつあります。これでは、日本経済が立ち行かなくなるのも当たり前です。

教会ならば、なおのこと、信者を集めて儲けようとか、成功しようなどと牧師は考えてはなりません。信者も、自分の家族や友人たちを自分の思い通りに動かそうとしてはいけません。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている時に世話をし、この世から自分を清く守ることです。」(ヤコブ1・27)。この世は損得で動いているので、損得でなく生きることが、信仰者として自分を清く守るこつなのです。ドルカスは、損得や打算でなく、自分の身体に鞭うって働き、自分のいのちを犠牲にしました。しかし、神は生きていて、ドルカスをよみがえらせたのです。

先程のUコリント6章を初めから読んでみましょう。パウロは、「神と共に働く者としてあなたがたに懇願します。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。」魂の救いやその後の祝福は、恵み以外の何物でもありません。私たちは、それにふさわしいことをしていないからです。しかし、パウロは、キリスト信仰というものが「人につまずきを与えないようにと、神のしもべとして」働くのです。

 パウロの行動は、「褒められたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したり」するけれども、いずれにしても、それはパウロが神のしもべとしてこの世の基準とは違うもので生きているからなのです。

 私たち夫婦も、伝道の困難な千葉にわざわざ来て、5人の子どもを育てながら、長年に渡り収入の殆どを教会に費やして働いてきました。豊かでないのに、成果のでない教会の働きに自分たちを献げてきたのです。効果など考えたら愚かであり、自分たちの必要は二の次にして、教会のために働いてきました。献身して30年、評判が良くなったのは、ここ5年くらいのものです。

 クリニックも攻撃され、批判されながら栄養医学と進めてきました。やっと成果が出たと思ったら、他の人に持って行かれ利用され、それでも大事に患者さんを治療してきたら、評判が良くなってきました。毎日毎日、自分の身体に鞭を打って働いてきました。今、自閉症の治療を始めています。尊敬する先生が、キレーションは危険だから止めたほうが良い、とアドバイスをしてくれています。経済的にもやっと安定してきたので、このままでと思う気持ちもあります。しかし、長年苦しんできた症状が改善した子どもを見る親の喜びをないがしろにすることはできません。好評を受けている時に、更に先に進むのは、勇気がいります。しかし、苦しみを覚悟して人として生まれなさったイエス・キリストを思う時、自分の心を不安によって窮屈にするわけにはいかないのです。

 牧師としても、教団人としても、前進しようと考えています。自分の能力と時間を考えた時、これ以上何ができるのかと考えるのが、「自分の心で自分を窮屈にする」ことなのです。長男や長女夫婦に手伝いを頼むのは簡単ですが、それは自分をこれ以上成長させない言い訳なのです。

 これから宣教師、教師、事務スタッフを募集します。教会は、これから柏崎牧師という個人の牧会を超えて、大きく前進拡大するのです。その為には、損得を超えた判断をもって神と教会に仕える人々を確保しなければなりません。そして、利益を求める人々に教会が報いを求めない利益を与え続けるのです。それこそが、この教会が地の塩としてこの世に働きかける方策であると祈るものです。


9月12日 エジプトの王をも祝福する老人。   創世記475~12 
新改訳 創 47:5-12

47:5
その後、パロはヨセフに言った。「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところに来た。

47:6
エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。彼らはゴシェンの地に住むようにしなさい。もし彼らの中に力のある者がいるのを知っていたら、その者を私の家畜の係長としなさい。」

47:7
それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。

47:8
パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」

47:9
ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

47:10
ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。

47:11
ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。

47:12
またヨセフは父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。



 ヤコブは、息子のヨゼフがエジプトの宰相になっていたので、飢饉のカナンを逃れて家族66名と共に、家畜や財産を持ってエジプトに避難しました。ヨセフは、エジプト人と争いを起こすことを恐れ、自由に生きるためにも羊飼いであることをパロに示すように前もって家族に諭しておきます。人から忌み嫌われても、自由に清く生きることは、信仰者にとっては大事なことです。

 宰相の家族がはるばる異国から来たというのでパロが会うのですが、パロの前にヨセフは父を立たせ、ヤコブはパロを祝福したのです。42章6節で、兄弟たちがヨセフであることを知らずに、その前で地に顔を付けて伏し拝んだことと比べると大きな違いであり、ヤコブの貫禄の違いが明らかとなっています。

 実は、私は大学生の頃から、貫禄があると言われてきました。別に威張っていることはないと思いますが、我ながらどうしてだろうと考えたことがあります。自分の特徴としては、「人に媚びない・迎合しない。」、「他人の目を気にせずに自分の判断をもって行動する。」、「人や物、金銭などの価値観などに囚われない。」などがあります。小さい時から歴史小説が好きで、物事に動じない人間になりたい、信念をもって生きる人間になりたいと願っていたことも大きいと思います。

幾つかの恥ずかしい思い出もあります。小学に入る前に、お菓子をもらう時に大人の真似ごとで遠慮していたら、そのおばさんから「子供らしくない子だねえ。」と言われて、我ながら馬鹿らしいと思ったことがありました。小学2年で担任の先生が病気で長期欠席したので、クラスを分けて1組に編入した時、友達を作ろうと授業中に他の子に話しかける習慣が付いてしまい、目崎先生が戻った時、「柏崎君はこんな子ではなかったのに、先生が悪かったわね。」と涙を流したことが、とても恥ずかしかったことも忘れられません。末っ子なので、赤面症で恥ずかしがり屋だったことも嫌で、中学生の時に性格改造を決心したこともありました。ともかく、「自らを恥じるような生き方はするまい」、といつも考えていたのです。

私などは、どうということはありませんが、ヤコブは自分の130年の人生を「齢はわずかで不幸せでした」(創世記47・9)というのです。聖書の中でヤコブほど波乱万丈な人生を送った人はいないでしょう。週報に載せたドラクロアの絵も、必死に天使と格闘しているヤコブの姿があります。天使の表情には余裕があります。ところが、天使は「彼に勝てないのを見てとって」(創世記32・25)とあり、股関節を外してしまいます。そして「わたしを去らせよ。予が明けるから」と言うのですが、ヤコブは「私があなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と天使にすがり付きます。

後輩の牧師から、牧師としての必須な要件を聞かれました。私は、根性、と言いました。失敗をして立ち直るために必要なのは、根性です。知性も理性も、能力も地位も名誉も、状況も立場も、いざとなると何の役にも立ちません。

 ヤコブは誰よりも多く失敗をしました。特に家族のことで失敗を繰り返し、悲しみの連続でした。自分は「不幸せだった」というヤコブの告白には、その苦悩が刻まれています。信仰者と言えど、人生は苦労ばかりが繰り返されます。神の前に泣き叫び、解決を求めて格闘します。天使と戦うヤコブのようであり、たとえ股関節を外されても、絶対にギブアップしない根性が必要なのです。

 根性とはスピリットであり、霊力です。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2・28)。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・30,31

 祈りのない人は、霊力が弱いので物事に動じます。神の前に立つ者、信仰者に引退はありません。ヤコブのようにパロに対しても、立ち上がり祝福をするのです。

 多くの人々が、嘆き、悩み、苦しんでいる世の中です。人生の辛酸を舐め、苦労を積み重ねてきたご老人方よ、若い人々に対して、祝福を語って欲しいものです。神の祝福こそ、人生の力であり、源です。祝福する者であってください。私もまた、皆さんを祝福します。



9月19日 神は偏ったことをなさらない。   使徒の働き1025~35

新改訳 使徒10:25 ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。

10:26
するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。

10:27
それから、コルネリオとことばをかわしながら家にはいり、多くの人が集まっているのを見て、

10:28
彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。

10:29
それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」

10:30
するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、

10:31
こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。

10:32
それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』

10:33
それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」

10:34
そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、

10:35
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。


 私達は、みな偏見を持っています。偏見とは偏った見方ということですが、人間は自己中心で有限な存在であり、よほど意識しても偏ってしまうものです。神が人を男と女に創られたということは、男女の考え方や構造、働きが違うように創られながら、敢えて求め合い夫婦となるようにされたということです。

 ですから、男だけ、女だけで交流し、お互いの違いを乗り越えられない人は、人間として成長・形成できません。男女の関係は、国によっても違います。年齢の違いの対応も同様ですし、地位や職種に対する対応も異なります。日本、中国、韓国、アメリカがそれぞれ、異なる人間関係を形成しています。

 ともかく、現代日本においては、この違いを克服できない人が多いのです。私は、結婚以来20年くらいは妻のことがよくわからず、怒ったり批判したものです。仕事も忙しく、経済的にも厳しかったので、余計ストレスとなり、仲良くできなかったのです。これは、交流がないことと、丁寧に相手を理解しようとする努力を重ねないからです。つまり、愛する為に結婚したのに、努力をしないで相手を利用しようとするから、却って憎み合ったりしてしまうのです。

 ユダヤ人は、28節にあるように、外国人と交流したり、家に訪問しないものであり、そのことは彼らが命がけで守る律法に示されています。日本人のしきたりとか、中国人の考え方とか、韓国人の習慣とか、アメリカ人のライフスタイルとか、全く違いますが、それに固執して批判をいう人々がいます。

 歳をとって外国へ行くと、「やはり日本が一番良い。あの国の風習やマナーはおかしい。」と言うことが多くなります。こういう人は、外国に行って、その国の人々と交流せずに、ただ観光だけをしたのです。何十年も一緒に暮らしてきたのに、伴侶に対して、「あの人はおかしい。私は自分勝手に生きるしかない。」という人は、自分という殻を捨てることができず、孤独に死んでいくのです。

 「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17)とは、自分の先入観、殻、考え方を捨てることから始まります。

 ペテロは、律法に従う、という最優先の判断・生活基準を捨てたのです。そして、異邦人の家に入って行ったのです。「神は私に、どんな人も清くないとか、汚れているとか、言ってはならないことを示してくださいました。」つまり、人を差別したり、判断してはいけないのです。

 妻とは、絶対に仲良くしようと決心しました。そうすると、会話ができるようになりました。多くの人が、非難されることを恐れて、言い訳をしながら、本音を言わずに、相手を探っています。ですから、話をしても、内容がない、心の通わない会話をしてしまうのです。内心は、自分が勝手なことをいうことに気がついているので、非難されないように注意しながら、自分の要求を言うのです。「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイ7・12)とイエス様は言われました。妻にも他人にも、自分の要求を二の次にすると、交流が始まります。会話も自分の言いたいことよりも、聞くことを優先すると、心のこもったものになります。夫婦で裁き合わないと、本当に一緒にいることが楽しくなります。

 ペテロが、ひれ伏して拝もうとするコルネリオを立ち上がらせ、対等に相手をした時から、神の業が始まったのです。人を裁き、見下げるところからは、何の良きものも生まれるはずがないのです。

 コルネリオもまた、神の声を聞き、率直に行動した純粋な人です。また、集まった人々も、卑屈な思いや偏見を捨て、神の声を聞こうと集まっていたのです。ですから、「神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」

 「日本人こそ、素晴らしい。」、「クリスチャンは救われている。選ばれている。」、「自分は、こういう人間であって、このように生きてきた。」、などというのは、偏見であって、神に受け入れられません。救われている、と言うならば、古き自分を捨て、すべての人を受け入れ、変えようとせずに愛し使えれば、主の僕として主がそばにいてくださるのです。