7月5日 子供たちを戒める。  申命記62025

新改訳 申 6:20-25

6:20
後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、

6:21
あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。

6:22
主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、

6:23
私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。

6:24
それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

6:25
私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」


 この聖句で、息子に神の掟と定めを問われた時の答え方を教えられています。父として息子にしっかりと神の定めと社会に決まりを教えられるならば、その人の人生は間違いのないものであることが証明されます。

  ところが、多くの親が子供を諌めることも、社会の約束事を教えることもできません。なぜなら、親自身がそれらを守っていないからです。訓戒というのは、学校の教師や牧師に求めるものではありません。親自身が神の掟を守り従って生きるからこそ、子供に教えることができるのです。

  息子が同棲していたけれども別れてしまったことに対して、元クリスチャンの母親が「あなた方は未熟だから駄目なのだ。」と諭したそうです。結婚や男女交際を世の中の方便と考えているのでしょうか。私ははっきりと言いました。「同棲などする人間が幸せになれるはずがない。」人生を試すことなどできません。同棲してうまくいったら結婚する、などという気持ちで生きる人間は、罪に囚われておかしくなるのが当然です。特に、同棲などは女性の方が被害者になるので、そういうことをする男は、神の呪いを受けます。

  人を馬鹿にしたり、侮辱したり、あざけったりする人間が幸せになれないのは当然です。先日、友人たちに「一緒に仲良く夫婦がゴルフをすることは、スコア以上に大事なものであり、成績が悪くても不運でも、労りあい、助けあうことを心がけるべきである。」と語りました。私は妻と仲良くゴルフをするために、スコアを気にすることは辞めました。お風呂の中で、「自分の夫は成績が悪くなったので、私に見せたくないと言って私とは最近一緒にゴルフをしないの」という女性の会話を妻が聞いたそうです。自分の強いところ、社会での実力を妻に自慢したいという夫たちは、真に妻からの愛情を受け取ることはできないでしょう。

  尾山令仁師が「つじつまの合わない人生を生きてはならない。」と言われたことは、やはり信仰の奥義でしょう。人間としての交流は、自分が上に立つことを前提としたり、威張っていたら決してできません。子供を諭し、妻を従順な女性に保つためには、夫が心から家族を愛していなければ達成できないのです。

  女性たちが若い時は優しく従順であるのに、結婚をして40歳を過ぎた頃には気の強い、自分勝手な姿に変わっているのは、夫たちに責任があるように思います。歳をとっても優しい女性の背後には、必ずその妻をしっかり守る夫がいるものです。更に、試練があり、不運が付きまとっても、努力を続ける青年たちの背後には、我が子を気遣い、配慮しながらも、決して社会的な不道徳をさせないしっかりとした親たちがいるのです。

  「私たちは、エジプトで奴隷であったが」という弱さ、罪深さの自覚こそ、自らが主の訓戒を守る基礎であります。妻子に、自らの強さや能力や地位を自慢する男性が、主の訓戒を大事にするはずがありません。先ほどの母親も、自らの罪の自覚が聖霊によるものでなかったから、教会を離れたのでしょう。私自身は、丁度その前日に彼女の為に祈っていましたが、やはり真の悔い改めのない信仰生活だったのでしょう。罪の自覚のある人は、子供の罪を黙認できません。

 「主が、力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。」という自覚こそ、神への感謝であり、信仰生活の源であります。私たち夫婦も確かに今は、裕福になり、力も与えられました。しかし、私たちは、罪の奴隷であったのを、イエス様の愛によって救い出されたのであります。何事も、主の恵みと助けのおかげなのです。高慢になり、自らを誇るものなど何も持っていないのです。

  「そこから連れ出されたのは、誓われた地を私たちに与えるためであった。」だからこそ、自分の栄誉のためではなく、神の栄光のために私たちは戦い、勝利を得なければならないのです。私たち夫婦が奮闘努力しているのは、自分のためではありません。神の栄光を現わすために、私たちは神の奴隷として自らを意識し、多くの人を救いに導くために生きているのです。

  自分の権利や主義、正しさを主張するのは、クリスチャンとしてはみっともないことです。家族にはもちろんのこと、人々に対して、自分を主張するのは愚かでしかありません。ところが、多くのクリスチャンが、そういうことに明け暮れています。大事なことは、「私たち自身が主の命令を守り行い、幸せであり、生き残ることなのです。」ゴルフでも、スコアを気にする人は、他の人と仲良くできませんし、楽しさをエンジョイできません。金儲けとか、地位が上がるとか、仕事をやり遂げるとか、そういうことは結果なのです。プロセスを大事にして誠実かつ謙遜に生きなければ、結果にさえ喜ぶことはできないのです。また、一緒に喜ぶ人がいなくなるのです。

「しあわせであり」ということは、結果ではなく、いつでも獲得できるプロセスなのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」(マタイ6・33)は真実です。

あなたの人格、性格、能力、実績、地位など結局のところ罪であって、何の誇ることもできず、そんなものに固執するからしあわせになれないのです。しあわせは求めるものではないのに、殆どの人が求めて自分勝手な歩みをしています。しあわせは、「神の国とその義とを第一に」したら、「与えられ」るものなのです。神が与えてくださるものなのです。そして、そのしあわせは、他の求めてもいない祝福をももたらすのです。

自分勝手な人が幸せになることは決してありません。おいしいものを食べ、やりたいことをして、他の人に関わりなく生きることは、決して幸せではありません。それは、歴史も社会も人生も証明しています。しかし、罪というものは、そのようなものを求めさせて幸せを求めさせ、人間を罪の奴隷としてしまうのです。神の戒めを守る人は幸いです。


7月12日 あなたを愛されたから。  申命記7715

7:7-15

7:7
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

7:8
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

7:9
あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、

7:10
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。

7:11
私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。

7:12
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、

7:13
あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。

7:14
あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。

7:15
主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。

 「夫婦は他人であって、離婚すれば縁が切れるけれど、親子は血で繋がっている。」などと血の繋がりを優先する人々は、愛するということを知らない人々です。ゴルフのミケルソンが全英オープンを妻のガンの手術の後なので、欠場するそうですが、現役最長のメジャー出場記録を止めることになります。外国では、家族がこのように愛し合い、仕事よりも大事にしているのに、日本ではどうでしょうか。

  まず、愛されたことがない人が多いようです。愛するとは、相手から愛されることを求めて行動することであるとは何回も言っております。イエスさまは、私たちを愛し、神である在り方を変えることができないとは考えないで、人となられました。さらには、人が愛に答えるものになるためには、救いが必要であることを知っておられるので、十字架において人の罪の身代りに罰を受けられて、死ぬほどに私たちを愛してくださったのです。

  青年時代に恋をするということは大事なことです。恋する人に気に入られるために、自分を変え、努力をし、いつもその人のことを考えているということが恋ですが、自分に捉われている人は、そういう犠牲を払おうとしないのです。夫婦の愛も、この恋の継続でなければなりません。仕事よりも名誉よりも家族を大事にするということは、愛としては当然なことです。ところが自分勝手な人は、愛する人を大事にするということができないので、愛には、魂の救いと人間性の成熟が必要なのです。

  神は私たちを愛してくださいました。しかし、その愛を理解し、深めるためには、私たちも愛をもって応じなければなりません。愛されることを求める人々が多いのですが、それは要求と願いでしかありません。愛するということは、非常に人格的であり、愛するということをしない人は、決して成熟はしません。Tコリント13章を読んでください。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。全てをがまんし、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍びます。」

  私は多くの夫婦や家族を見ていますが、自分の要求をぶつけ、勝手にふるまい、相手を利用しようとしています。まるで、敵のように伴侶に対するのです。これでは、幸せになることはありません。相手から愛が返ってくることを期待して、相手のことを考え行動するのに、相手から攻撃され無視されるのでは、愛も冷えてしまいます。自分が愛さないで勝手なことをしているのを、仕事や体調などのせいにしていたら、相手よりも自分を優先していることを証明しているのであり、愛を受ける資格はなくなります。

  はっきり言いますとこれらは法則なのです。眠らなかったり、食事を取らなかったり、息をしなければ人は死にます。運動をせずに、好きなだけ食べていたら肥満になり、病気になります。働かなければ、飢えることになります。それと同じように人を愛さなければ幸せにはなれないのです。愛さずして愛されることはないのです。こんな当然なことを罪人は、わからないのです。

 昨日、お中元が届きました。20年も前に自殺をしようとした人を思い留まらせるために、身体を壊すほどに労苦した人からです。「あの時の恩は忘れません。本当に幸せになりました。」と電話を掛けたらお礼を言われました。報われないことを覚悟しなければ、人を愛することはできません。「私は不器用だから。人間関係が下手だから。人の気持ちがわからないから。」などと言い訳をする人がいます。不器用でも、人を愛する人は、伝わります。愛というのは、そんなに器用でもなく、ごまかしのできないものだからです。

 主は、「誠実な神」(7・9)です。元日銀総裁の速水さんが敬虔なクリスチャンで、礼拝を欠かさず、教会から仕事に行くこともあったと朝日新聞に書いてありました。先日あった会合で、酒好きな医師でしたが、「私は牧師ですから酒は飲みません。」と伝えたら尊重してくださり、却って親睦を深めました。私たち夫婦が、どんなことがあっても礼拝を守ることは、既に皆が知っており、却って私たちを信頼してくださいます。人や情況によって、態度や行動を変える人は、信頼を失います。

  昨年のハワイ旅行では、調べておいた所に教会がなく、1時間以上探してもわからないので、長い信仰生活で初めて日曜礼拝を保てないのかと、必死に祈りました。目を上げたら、そこに十字架が見えたのでした。どんな理由をつけても礼拝を保たなかったことは一度もありません。どんなにお金がなくても、収入の十分の一と感謝の献金を欠かしたこともありません。「信仰者として、自分を救って下さった神に対して誠実に歩む。」ことを守ってきたつもりです。妻は私の信仰の証人であり、私も妻の信仰の証人であります。

  結婚した以上、自分だけを喜ばせることは制限し、伴侶と一緒に喜ぶことを全てにおいて心がけなければなりません。そうすれば、伴侶と共に何よりも勝る祝福を獲得するでしょう。

信仰を持った以上、神に喜ばれる生活を送ることを心がけるならば、神は、私たちを祝福せずにはおきません。信仰を建前とするような人間は、神にも人にも信頼されないのです。

愛するということは、そういう面で、簡単に済ますことではないのです。妻を愛しながら、他の女性と親しくなることはあり得ないのです。神と富とは両立しないとあるように、地位や富を求めて、神に愛されることはないのです。富も地位も健康も幸せも、信仰の副産物です。副産物を求めても、得ることはできません。神を信じ、愛するという人生を優先することが祝福の唯一の道であります。


7月19日 直ぐにではなく徐々に解決  申命記71726

新改訳 申 7:17-26

7:17
あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、

7:18
彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。

7:19
あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。

7:20
あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。

7:21
彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。

7:22
あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。

7:23
あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。

7:24
また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。

7:25
あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。

7:26
忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。

 
 人生が思う通りにいったら何と楽なことでしょうか。なんでも祈れば叶えられると考えている人がいます。確かに、「何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなた方のためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7.cf.マタイ18・19.Tヨハネ5・15)とありますが、「神は罪人のいうことはお聞きになりません。」(ヨハネ9・31)ともあります。信仰者なのだから、神は聞いてくださるに違いないと、考えるようですが、祈ったら全て叶えられるなら、おそらく信仰はいらないし、御霊の実としての品性が形成されることもないでしょう。

 私たちに問題が起こったら、どうするのですか。争いが起こったらどうするのですか。「祈っています。」という人がいますが、それは神を私たちの思い通りに動かそうとするごまかしの言い訳です。問題の原因を見極め、自らの弱さや罪深さを認め、或いは相手と語りあって問題を解決するために祈るのであって、祈るのは神を手下にすることではなく、主なる神に祈って導きを求めることなのです。だから、人に恨まれていることを思い出したら、祭壇に献げものをしようとしている時でも、供え物はそのままにして相手と仲直りをしなさい(マタイ5・24)とあるのです。食べ物に事欠いてる人に、祝福の祈りをしても何も必要な物を与えないのならば、行いのない信仰として意味がないのです(ヤコブ2・16)。ですから、私たちは具体的な対応方法を身につけ、成熟していくために、この人生があるのです。

 クリニックでも、治療の会でも、教会でも、教団の仕事でさえ、勝手に判断されて批判されることが、しばしばあります。先日も、私を批判し、ついでに聖句を添えている文書がありました。善意や無報酬でしているからといって、非難されないなどということはありません。しかし、実際は、そのような批判や問題が起こるからこそ、私たちの真実が試されるのです。更に、家庭でそのような不満を述べると、家族は批判的で、イライラし、厭世感のある考え方が形成されます。敵対的思考を持つと、その人は平安を失い、健康をも損ねます。

  人生には、敵や問題が多く、思い通りにならないものです。そんな時でも「彼らを恐れてはならない。」(7・18)のです。但し、20節で彼らを滅ぼされる、と記されていますが、実際には長い時間と出来事が連なっているのです。そして、人々は出くわした試練に、不平を言い、つぶやき、指導者を非難しており、そのような人は罪の中で死んでいっているのです。民族としては、守られ、救われ、祝福を受けているのですが、個々の人々は、その信仰と行いに応じた結果をもたらしているのです。荒野を渡りきり、40年の後にカナンに入ったのは二人だけなのです。

 来週は開拓25周年記念礼拝ですが、当時のことを思い出すと今でも涙が浮かんできます。妻は礼拝を守り、祈とう会を守るために、医局の人からは、いつもキツイ言葉を言われていました。子供を産むと、何人産むつもりかと怒られました。伝道は厳しく、毎日チラシを配り続けて20万枚くらい配った一年度に初めて明確に救われた人が起こりました。ところが、いろいろな人が出入りして、教会員を連れ去っていきました。そして私も病気になってしまいました。

最初の一〇年は、牧師を辞めることを年に何度も考えていました。子供たちの笑顔が支えでしたが、子供にいら立った様子を見せてはいけないと思っても、出てしまうことがよくありました。覚悟を決めたのは、不整脈で死を感じ、自らの不信仰とキリストの愛を悟って、復活のイエスの大能を体験したからでした。確かに、この世の出来事に「おののいてはならない。」(21節)のです。

 その後もいつも試練と戦いは付きまといます。しかし、「義人の道は平らです。」(イザヤ26・7)。神ご自身が、神を信じ信頼して歩む人の前に立ちはだかる山を取り除いて平らにしてしまうのです。「だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。」(23)とある通りです。大事なことは、立ちはだかっているような人や問題を恐れず、進み続けることなのです。決して、人を自ら攻撃してはなりません。問題に向かっていってはなりません。目的に向かって進むのです。

 私を中傷する文章が多くの教職に送られました。完璧な論理で感心しました。頭の良い人は、こんなに論理立てて人を非難できるのです。自分で自分の義を唱えるのは愚かなことです。私は神にあって非難されることをしておりません。注意するべきは、私がこれらの言葉によって平安や喜びを失ったり、攻撃的になることです。これで、教団の仕事がなくなれば、それはそれで感謝なことです。神以外のものに頼ってはなりません。金や銀を欲しがってはなりません(25節)。私に罠を掛ける者は、自ら、その罠に陥るでしょう。

 私たちは、本来的に罪人ですから、自分の思う通りになったら、危険です。敵がいるから野の獣がはびこらないのです。人は自分の義を主張しすぎるから、自分の理解を超えた人や考え方の違う人を攻撃します。しかし、そんなことにいちいち対応していたら、私たちは人を愛することと、自分の人生を味わうことができなくなってしまいます。

 私の神、主は、いろいろな問題を徐々に私の前から追い払ってくださいます。私は祈りながら、自らの為すべきことを見極め、あるいは、自分の心を見張って、罪や欠点を修正し、悔い改めて生きるのです。もし、私が神と共に歩むならば、誰も立ちはだかることはできないし、そうでなかったら、ゆっくりと宿営の中で自らを再点検すればそれで良いのです。そして、私の目的地は、神の国なのです。


           開拓25周年記念礼拝 
7月26日 新しく前進! ヨシュア記1章1〜9節  説教 船津行雄牧師(金沢基督教会)



8月2日 訓練される人生の果てにあるもの  申命記8110 

新改訳 申 8:1-10

8:1
私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

8:2
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

8:3
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

8:4
この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

8:5
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

8:6
あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

8:7
あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、

8:8
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。

8:9
そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。

8:10
あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

 先週は、開拓25周年記念礼拝でした。その写される過去の写真や出来事を思い起こしながら、よくやって来れたものだと涙が出てきます。伝道の難しさや生活の厳しさに耐えながら、伝道者としての辛さに何度涙を流したことでしょう。神が伝道者に召したという自覚がなければ、とても耐えられなかったと思います。「権勢に寄らず、能力に寄らず、神の霊によって」と、ただ伝道者として召されたこと、それ以外の人生はないということを意識していました。神を知らない世の人々は、思うままに生き、楽な人生を歩んでいます。なんでこんな苦労をしなければならないのだと、神に訴え、もがき苦しんだことを忘れることはできません。救霊のために召しを共にする妻がいなければ、とても耐えられなかったことでしょう。

 荒野という人生、「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(2節)ということを実感します。多くの試練を通して、人に頼らず、能力に頼らず、情況に左右されず、ただ神の御旨を為すことを使命として生きるべきことを身につけてきました。もし、試練がなければ、自分勝手で生意気な人間として、形式的な信仰者として過ごしたことでしょう。「苦しめ、飢えさせ」(3節)られて、神にすがって生きることを学びました。

 私は、「主があなたを訓練されることを知らなければならない。」ことを知っています。訓練されたからこそ、信仰の奥義を身につけました。そして、神が共におられ、神の国に行くべき備えをさせられていることを感じています。信仰と言うものが甘ったれたものではないことを知っています。だから、神を信じ信頼して生きない人が、神の祝福を受けるはずもないことを知っています。言い訳を言いながら、礼拝に参加せず、伝道をせず、人を助けることもしない人が、神の国にいくことはないことを知っています。

 イエスさまは、はっきりと「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22・14)と言われ、空腹な人を助けず、自分勝手に歩んでいる人々に対して「呪われた者ども、わたしから離れて、悪魔とその使いたちの為に用意された永遠の火に入れ。」と宣言されるのです。神の「慈愛と忍耐と寛容を軽んじている」人は、「神の正しい裁きの現れる日の御怒りを、自分のために積み上げているのです。」(ローマ2・4.5)。「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって、善を行い、栄光と誉と不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ2・6-8

  人の心は、傲慢なものです。他人の弱さ、罪深さを見て、それを非難し、自らの罪を正当化するのです。他の職員を非難し、我慢ならないと言って辞めた職員がいました。他人の罪に躓いて、自分の理性を放棄し、落ち着いた正しい生活を捨てる人は、崩壊した人生を送ることになります。人生は荒野です。それを如何に生きるかは、その人自身が決めるのです。幸せになろうと決心しなければ、決して幸せにはなれません。罪は、不正を正当化するのです。

人が罪を犯した時、会社や組織が不正を犯した時、社会が罪に染まった時、あなたの心に中にあるものが現れます。どんな悪に対しても、罪を犯してはならないのです。私たちは、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12・21)。

 特に、家族に対して自分の本性が現れます。よそ様に対して親切で礼儀正しくても、家族に対して乱暴で無愛想ならば、その人は偽善者です。ある人は愛せても、ある人は許せないという人がいるならば、あなたの行動は罪に支配されています。多くの人は、罪人ですが、その罪に左右されて行動するのは、あなたが今もなお罪の中にいるからです。そのようにして、「あなたの心のうちにあるもの知るため」(2節)の人生が、言い逃れのできない証拠物件として、神の前で提示されるのです。

 悔い改めなしに人生が変わることはありません。自分の生き方や考え方を正当化する人は、罪の中に生きて、苦き心にさいなまれるのです。そういう人は、必ず見事な言い訳を言います。しかし、どんなに自分の罪を正当化しようとも、悔い改めなしには、裁きがあるのです。自称信仰者でも、神の前には明らかになります。「すべて他人を裁く人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたが、それと同じことを行っているからです。」(ローマ2・1

 C・H・マッキントシュは荒野の試練の効果について、次のように述べています。

 「性格に深さと円満さを与え、我らから、すべての粗野な気まぐれと空白な理屈を取り去り、一方に偏った極端から救うものである。そして、我らを他人に対して優しく、思慮深く、思いやりある者となし、他人の行動に対して過酷な批判をやめさせて、出来うる限り善意に解釈しようとの望みを持たしめ、あいまいと思われる場合にも、その動機を最善に摂るようにさせるものである。これらのことは荒野の経験の尊い結果であり、我らが熱心に慕うべきものである。」


8月9日 なぜ試練が続くのですか  申命記81120節  

新改訳 申 8:11-20  8:11 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

8:12
あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、

8:13
あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、

8:14
あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、

8:15
燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

8:16
あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。――

8:17
あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。

8:18
あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

8:19
あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。

8:20
主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。

 若い人々の血気盛んな言動に、心配しながらも、力強さを感じます。歳をとると涙もろくなると言いますが、先日も夫婦で涙を流しました。神の前で吠えるように祈りながら、人の罪、未熟さ、その過ちをとりなします。祈り心で見渡せば、人々は罪ある判断、罪の行動ばかりです。つまらないことで、感情に左右され、自分の心を管理することができずに、自分を破壊していきます。自分の主義主張や建前、欲望を自分の幸せよりも、重視してしまっているのです。ひとたび敵意をもてば、自分を破滅させても、攻撃の手を緩めることができないのです。

  トルストイの民話に、隣どおし仲良く助け合う二つの農家の話があります。息子通しの世代になって、鶏が隣で卵を産み、それがなくなったことで嫁と向かいのばあさんが口喧嘩になってしまいます。喧嘩はエスカレートして家どうしのものとなり、裁判にもなりました。裁判は郡裁判まで行き、些細なことでも殴り合うまでになってしまいました。イワンは多くの金を使ったので、身重の自分の嫁を、酒を飲んでいたガブリーロが殴ったということで、彼を20回の鞭打ちの刑にすることができました。

 裁判官は、二人の喧嘩に呆れ、判決をもなしにするから仲直りするように勧めますが、却って興奮するだけです。イワンが帰ると、年老いた喘息の父が、「他人の罪は目の前だから見えるが、自分の罪は背中だから見えない。あの男だけが悪いことをしたのなら、喧嘩の起こるわけがない。」と諭します。「仲の良い時は、両家とも豊かだったけれども、今は働く者が多いのに、本当に貧しくなった。女たちの言葉に惑わされて、男までが喧嘩に肩入れするのは、もっての他だ。人から何と言われても、お前は口答えするな。そうすれば、相手の良心が自分で自分を責めておしまいになる。キリスト様は、人が自分の頬を打ったら、別の頬を向けろと、言っているではないか。つまらむことに威張るでねえ。」と言います。

 「火は初めのうちに消さないと燃え上ってしまって消せなくなる。早く仲直りしろ」との父の言葉に、イワンは反省してガブリーロの家に行こうとするのですが、片づけをするうちに日が沈んでしまい、忘れてしまいます。しかし、ガブリーロの言葉が気になって、夜中に見回ると果たして、ガブリーロが藁に火をつけ、納屋を燃やそうとしています。イワンは、藁の火を消すよりも、ガブリーロを捕まえることに夢中になります。そして気がついた時には、火は彼の家を焼きつくし、ガブリーロの家も燃やしてしまします。

 瀕死の父親がイワンに諭します。「これは誰の罪だい。」イワンは、ハッと気がついて、自分の罪であることを認めます。父は、どうするべきか、イワンに語ります。「誰が火をつけたかを決して言うな。お前が人の罪を赦すならば、神は赦してくださる。」そして、息を引き取るのでした。ガブリーロは、イワンが自分の罪をばらさないので、そのうちに慣れてきて、仲良くなり、両家は次第に豊かになってきました。そして、イワンは、悪口に悪口で返すことなく、優しく接するように家族に言い聞かせ、家族は幸せになっていったのでした。私たちは、決して裁判官になり、物事を裁いてはいけないのです。裁きは神に任せればよいのです。

 「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4・18

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・13

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2・5

  人生になぜ、試練があるのでしょうか。それは、試練がなければ、「心高ぶり、あなたの神、主を忘れる」(14節)からです。高慢な人に、聖霊は働きかけることができません。かたくなな心は、どのような感化も受け付けないのです。だから、試練や挫折によるへりくだりが必要なのです。聖霊の感化なしに、謙遜な人など、あり得ないのです。聖書が言っているのです。

  キリスト教が教会を維持し、そこに奉仕することによって、神に認められ、神の国に繋がるなどという人為的なものになってはいけません。教会は神の御霊によってのみ、維持がされるのです。教会は荒野である人間社会における神の集会なのです。教会にも教会に属する人にも、試練はあって当然なのです。

  そういう面で試練から逃げ、問題に立ち向かおうとしない人々は、聖霊の感化を受けることができないのです。なぜ、試練から逃げてはいけないのでしょうか。それは、試練とは、人間を愛することから生じるからです。先日も、試練の中にある人のことを語った後で、平気で冗談を言い、自分の日常生活に拘泥している人がいました。こういう人々は、人の試練にも同情しないし、自分の霊性にも目覚めない人です。彼らは、まさにかたくななのです。イエス様は、こういう人々を「笛を吹いても踊らない。弔いの歌を歌っても、悲しまない。」と嘆かれるのです(マタイ11・17)。

  イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」(マタイ11・28)。と言われます。人は、聖霊によらなければ救われません。あなたがキリスト教に納得し、洗礼を受け、自分を信仰者だと思っていたところで、聖霊があなたに臨んでいなければ、あなたは神の子ではないのです。また、あなたが一度は聖霊に満たされ、救いを受けたとしても、平気で罪を犯し、強情を張り、かたくなであり続けるならば、聖霊はあなたから去っていくのです。

この聖霊に満たされるということは、聖霊のバプテスマを受けたとか異言をいうとかということではありません。私は、異言の祈りをよくしながら、少しも聖霊に満たされていない人々を多く知っております。要するに、かたくなな人には、決して聖霊は、その人の心を満たすことはできないのであります。だからこそ、人生には試練が付き物であり、神の助けなしには生きられないのであります。


8月23日 人の正しさなど何ほどのものか  申命記91節〜8節 

新改訳 申 9:1-11

9:1
聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。

9:2
その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」

9:3
きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。

9:4
あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。

9:5
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。

9:6
知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。

9:7
あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。

9:8
あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。

 カナダの旅行で、2度も交通違反を摘発されてしまいました。一度は、カーブに車が近く停まっていたのでしょう。研究所に訪問した1時間の最初の方で摘発され違反切符が前のガラスに乗せられていました。2度目は、おいしいと紹介された日本料理の店を探すべく公共駐車場ビルに留めて日本のように出た時に払おうと思っていたら、パーキングメータのような前払い制で、しっかりと罰金が請求されていました。日本では、全く問題にならないと思われますが、請求書にはどのような言い訳も効かないと書かれており、7日以内に支払わなければ、倍額になるとありました。

 アメリカやカナダでは、法律の適用が厳格で、守らなかったら直ぐに罰せられます。聖書的な性悪説が前提で、日本のような言い訳は全く通用しません。法律さえ守っていたら、非常に自由で個人への干渉はありません。順番を待つのも辛抱強く待ちますが、これも社会的訓練の賜物で、それぞれの人が忍耐深いわけではありません。公共の場で大きな声を上げたり、マナー違反をしないように幼児の頃から躾けられているのをよく見ます。中国人と韓国人の旅行者は大きな声で喋りながら歩くのですぐにわかります。どこに行っても日本食がブームですが、丁寧なサービスが売り物のようです。どこに行っても繁盛していました。

 ブッチャード・ガーデンの見事さは忘れようのないものです。採石場を見事に庭園に変えたブッチャート夫人の人間性が現れているようで感激でした。今回初めて個人経営のBedBreakfastに泊まりました。二部屋しかないのですが、丁寧な朝食と応対が嬉しかったもので、夫人の人柄が偲ばれます。

 旅の当初は何でも私任せの妻に腹が立ったのですが、旅で喧嘩しても始まらないと、ずっと手をつないで歩いていました。ゴルフも現地の人と回った時は、よくボールを探してくれたのですが、二人だけではボールを見失ってしまい、スコアは散々でした。

 私は旅が好きですが、旅は日常生活では気づかないことを教えてくれます。今日の聖句では、人生という旅の成功を自分の正しさの結果などと思ってはならないということで、訓戒しております。日常生活では、誰が正しいか、どのような功績があるか、何をしたか、などが問われ、優劣を競うことが多くあります。しかし、旅では、そんなことよりも仲良く楽しんで過ごすことが大事です。互いに労りあい、助け合って生きることの重要性を、旅という不安定な生活が気づかせてくれるのです。

 ヨルダン川を渡るに際して、モーセという指導者はいなくなります。もはや彼らが自ら、戦いの中で土地を勝ち取らなければならないのです。40年前、巨人のアナク人に怯えて、約束の土地に入ることを拒んだイスラエル民族ですが、そのような罪深さは、今もなお変わってはいないのです。しかし、今回は、彼らは戦いに勝つことが約束されています。それは、自らの功績ではないのです。

 自分の功績を誇る者は、規則や組織、指導者に従うことがありません。特別な関係を頼って、ペナルティを逃げようとすれば、更に大きなペナルティが課せられるのです。伝手や縁故、功績を信仰者は主張してはならないのです。

 お金で旅をしようとするとサービスとしては良いものを得ることができますが、味わい深い旅をするかどうかは、その人自身の心の姿勢に因ります。自分を満足させるために旅をするならば、その人は旅自慢しか後には残りません。自らで旅を計画し、歩んで行きながら、人々と交流し、問題に取り組んでいくならば、旅によって多くの成長をすることができます。

 人生という旅を、安易なものにしようとしてはなりません。金銭で飲み食いし、自らの安楽を買い取ろうとしてはなりません。私はパックツアーというものをしたことがありません。金銭で人任せに旅をして、見聞を広めるということはありません。

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Tコリント8・1-2)。

毎日を同じように生きて、何の軋轢もないとしたら、あなたは信仰者としての旅を歩んでいないのです。天路歴程という本にあるように、あなたの信仰が生きたものであるならば、喜怒哀楽があるのです。必ず失敗があり、挫折があり、悲しみがあり、そして成功があり、勝利があり、喜びがあるのです。そういう道は、家族や友と一緒に助け合わなければ進むことはできないのです。そして、信仰を持ち、神に従って生きるならば、いつか多くの祝福と地歩を築いていくのです。

安易に生きることを幸いだと思い、問題がないことを神の祝福かと思う人が多いのです。それは罪による自分勝手な妄想です。イエス様は、「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16・24.25)と言われたのです。

私自身、クリスチャンになってから、何と多くの試練と困難にあったことでしょう。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました。」(詩篇119・71)。苦しみに会わなければ、私たちは成長しないのです。苦しみの中で信仰とは何かを知り、神の法則に従うことを学んだのです。

私たち夫婦は、新たな道を歩もうとしているという感覚があります。「狭い門から入りなさい。・・・いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7・13)。連れ添う人が少なくなることは覚悟しなければなりません。しかし、もはや歩むしかありません。私たちは、約束の地を勝ち取る責任があるのです。カレブは、「あなたの足が踏みゆく地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。」との言葉を受けました。私も、かつてない神の祝福を勝ち取りたいものです。


8月30日 神の怒りを引き起こす我らの罪  申命記915節〜27節   

新改訳 申9:15 私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。

9:16
私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。

9:17
それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。

9:18
そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、   9:19 主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。

9:20
主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。

9:21
私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。

9:22
あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。

9:23
主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。

9:24
私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。

9:25
それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。

9:26
私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。

9:27
あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。


 モーセがシナイ山[ホレブ]に登り、神ご自身が石板に書き記した十戒を与えられ、その他の戒めを教えられている四〇日の間に、民は待ちきれなくて勝手に金の子牛を造ってそれを拝んでいました。それを取り仕切っていたのは、なんと兄のアロンではありませんか。モーセは怒り、この民は神との契約に相応しくないとしてその貴重な石板を砕いてしまいます。

 そして、四〇日間、断食をしていたのに、さらに40日間断食をして神の前に、民の執り成しをしました。それは、神の怒りと民のどうしようもない罪深さをうめいたからです。

 「神は愛であって私たちを罰することはない。」などと誤解して、罪の中に歩んでいる人がいます。自称クリスチャンでも、平気で罪を犯し、好き勝手に生きている人がいます。芸能人で麻薬に染まっていることが発覚して、捕えられた女性が「隠れて吸っていたらわからないだろうと思っていた。」とのことですが、その地位も仕事も収入も、全て失って罰を受けることになります。

 先日、他教団のクリスチャンと話をしたら、「神を信じているのにうまくいかないので、教会を代えることした。」と言うので、驚きました。どうも鬱病の傾向があるようで、自分たちの抱えている問題に悩んでいるようです。アロンも、民全体がモーセが帰って来ないのに不満を持ち、脅かしてくるので仕方がなく、偶像を造ったのでしょう。でも、艱難や試練、迫害を理由にしても、罪を犯すことは許されないのです。

 ルターは、罪責感というものは、聖なる神の前で、自らの罪の大きさに絶望を感じ、救われえない者であるという恐怖と共にあり、そこに一方的な救いがなされるのであると論じました。イスラエルの民も、神の大能によるエジプトからの脱出を経て、自分たちを選びの民とうぬぼれ、好き勝手にしようとした罪の放縦があったのです。そこに、「わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天から消し去ろう。」と神が怒られたのだから、彼らは恐怖におののいたことでしょう。

 救いとは、そのような絶望的罪責感の先にあるのです。ですから、「神を信じても良い。」「神がいるなら、そのしるしを見せろ。」などという人の魂が救われることなどないのです。救いというのは、神の側だけに主権がある恩寵であり、恵みであります。いくら一生懸命奉仕をしようと献金をしようと、そんなことで代価になるほど、魂は安っぽいものではありません。

 試練や問題に絶望する人は、信仰がないのです。更に言います。試練や悲しみにある人を同情して、慰めを言う人もまた神を信じてはいないのです。信仰とは、万事を益としてくださる神を信じるということであり、自分の努力の結果としてのものではなく、神の大能に全てを委ねることなのです。つまり、試練に絶望する人は、自分の能力にうぬぼれていたから、絶望し悲しむのです。問題は、私たちの運や能力ではなく、先週お話したように正しさでもありません。自分に囚われるということこそ、絶望するべきことなのです。

モーセは、アロンを含めた人々の罪を知るや、直ちに40日間の断食の祈りと執り成しに入りました。私たちは、人の運不運、幸不幸を論じてはいけません。「あなた方の悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ16・20)とイエス様は言われました。ともかく、神に祈るのです。自分の判断など差し入れてはなりません。

私も、自分の不幸を嘆く小児まひの女性の癒しの為に21日間の断食の祈りをしたことがあります。ところが、それで良くなったのに彼女は、更なる癒しを求めて他の教会に行ってしまいました。それが人間という者の罪性なのです。教会に問題が起こったり、牧師が自分の言うことを聞いてくれなかったりすると、教会を変わったり、他の宗教に行くのでは、モーセが帰って来なかったので、金の子牛を造り、神から滅びを宣告された人々と変わりがありません。

ですから、私は今でも、教会を去ったそのような人々の執り成しをしております。牧師と言うのは、洗礼を受け、この教会に籍を置いている全ての人の救いと祝福の為に責任を負っているのです。牧師というのは、説教や事務能力の優劣や教会員へのサービス精神などで、評価されるものではありません。教会員のために、執り成しをするべく責任と使命を与えられたものなのです。

先日、私への中傷があったことをお話ししました。それに関しては根拠のないことですが、私は自己存在として絶望的な罪責感を持っているので、何も弁解できない存在であることを自認し、そんなことがあっても当然であると放っておきました。ところが、事実が次第に明らかになり、私を中傷した人たちが恥をかくようになりました。自らを自らの努力や功績によって救うことはできません。私たちは、どうしようもなく、いさおしもない罪人なのです。しかし、そこにこそ、神の大能による救いがあり、助けがあるのであります。

私のことを「幸せだ。うまくいっている。運が良い。」などとうらやむ人が、最近は多くいるようです。そのように考える人は、私の立場になったら1ヵ月ももたないでしょう。労は多く、責任は重く、課題は果てしなく、そして歳をとり、身体は弱くなっております。神の大能に任せるから、思いわずらうことなく、日々を喜びと平安の内に歩むことができるのです。

嘘をつき、不正をし、快楽に溺れ、思い煩いに心を委ねるならば、聖霊なる神は私たちから去っていきます。怒りや絶望に心を奪われ、罪を犯すならば、その人はもはや戻ることが難しいペナルティを受けることになります。犯罪を犯した人々は、いくら悔やんでも元に戻ることは難しくなります。

どんなに試練があっても神を呪ってはいけません。両親や指導者の悪口や批判をする者は、祝福と喜びを失います。皆さんは、私が聖霊に満たされていることを容易に知ることができます。物事や情況に捉われずに、私が喜んでおり、平安であり、人を攻撃していなければ、聖霊に満たされているのです。そして、残念なことに多くのクリスチャンや牧師が、思い煩いに囚われ、聖霊の満たしを失っていることは事実なのです。


9月6日 2回目の石板。  申命記101節〜11節 

申命記10:1 そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。

10:2
その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」

10:3
そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。

10:4
主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。

10:5
私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。

10:6
――イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。

10:7
そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。

10:8
そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。

10:9
それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。――

10:10
私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。

10:11
そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。


 イスラエルの人々が、偶像を拝み、神の戒めを破って快楽に溺れたので、モーセが十戒の書かれた石板を砕いてしまったことを先週お話ししました。そして、神の前の罪責感と悔い改めこそが大事なことを説明しました。

 その代わりに、彼ら自身が石板を造り、さらに今回はその石板を守るための木の箱も造って、モーセが山に登ることになります。さて、ここで出エジプト記34章28節によれば、モーセ自身が石板に十戒を刻んだとあります。つまり、前回は神ご自身が石板を造り、文字を刻んでくださったのだけれど、罪を犯した後は、民の責任者モーセが、自らの責務としてそれを為したということです。

 ここで私たちは、恵みを素直に受け取らず、罪を犯したならば、咎を負うことを覚悟して、自らコツコツと労働しなければならないという法則を知ることができます。ところが、多くの人は、罪を犯していながら、咎を覚悟しない、つまりその罰を果たす義務を認めていないのです。それでは、罪を悔い改めたということにはなりません。そういう法律的、法則的なことを受け入れなければ、決して赦しと回復はないのです。人に対して、失礼なことをなし、侮辱したり、損害を与えたならば、必ずお詫びの物や賠償を提供しなければ、物事は解決しないのです。謝ったら良いだろうというのは、神の法則を知らない愚か者であり、そういうことを知っているからこそ、罪を犯すことを警戒し、人に対しても礼儀正しくあることができるのです。

 次にアロンが死に、レビ族が選ばれて主に仕えることが突然記されています。これは、アロンが、この大きな罪の中でも悔い改めることをせず、言い訳を言っていたことによる裁きとしての死を明確にする為かと思われます。アロンは、金を火の中に投げ入れたら、金の子牛が出て来たなどという誤魔化しを神とモーセの前にしているのです(出32・24)。

 この時、レビ族だけが、神の側に立ち、このような罪が死に値することを認めて、淫らな偶像礼拝をしている人々を罰しました(29)。シメオンとレビは、ハマルの一族を騙して皆殺しにした(創34・25)ことで、ヤコブからは呪いを受けています(創49・7)。確かに、シメオンはその後、部族的な祝福を持たずにユダ部族に吸収されていきます。しかし、レビ族は、このような明確な悔い改めにより、「主が彼の相続地である」(申10・9)としてアロンの職務を継ぐことになるのです。

  ここで、私たちは第2の奥義を学ぶことになります。たとえ、神が怒り、罰を宣言したところで、明確に悔い改め、咎を負うならば、神は呪いを祝福に変えてくださるのです。「ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」(ゼカリヤ8・13)。

 私は神の前の罪を意識し、よく覚えています。過去のことは忘れやすく、人のしたことも忘れてしまいます。しかし、神の前の罪だけは、自分のことだけでなく、人の罪も覚えています。自分の罪に関しては、第一の法則のように咎を覚悟します。そうすると法則ではなく、祝福に至る第2の奥義に代わってしまうのです。

 ところが、多くの人が自分の犯した罪を忘れてしまいます。いや、むしろ忘れようとするのです。自分のした悪や罪を忘れようとすれば、その人の脳は祝福を失い、物事を覚えていることも、できなくなるような痴呆になってくるのです。全ての老人性痴呆の人のことを、このように指摘するのではありません。しかし、過去を誤魔化そうとすれば、その人の脳がそれだけでなく、異常をきたすのはありうることです。うつ病もまた、全ての人を指摘するのではありませんが、自分の罪を正当化しようとすると、心はごまかせず、言い訳をあれこれと考えてきりがなくなり、鬱になることはありうることです。

 心というのは、自分の意識の下にはありません。

 誤魔化す人の心は、不安と恐れで一杯になります。

 人を批判する人の心は、怒りと恨みで自分を破滅させていきます。

 利得を求め、快楽を求める心は、荒んできます。

 「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」箴言4・23

 人生の成功や祝福を、能力や知識、権力や交渉力で獲得しようとする者は、必ず挫折します。過去に犯した不正や嘘、これらをしっかりと清算して悔い改め、咎を負い、弁済しなければ、呪いとなって、私たちに襲いかかります。私たちの罪性というものは、それを忘れさせよとするのです。

 「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」(詩篇40・12

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イザヤ59・1..2

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。」(詩篇65・3

 神の前に悔い改め、その恵みの救いを得ようではありませんか。


9月13日 年老いた者が夢を見る。  ヨエル2章21節〜29節 櫻井圀郎師


新改訳 ヨエ 2:21-29

2:21
地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。

2:22
野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。

2:23
シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。

2:24
打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。

2:25
いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。

2:26
あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。

2:27
あなたがたは、イスラエルの真中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。

2:28
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。


9月20日 先頭に立って進め。  申命記10章10節〜22  

新改訳 申 10:10-22

10:10
私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。

10:11
そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。

10:12
イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、

10:13
あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

10:14
見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。

10:15
主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。

10:16
あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

10:17
あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、

10:18
みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。

10:19
あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。

10:20
あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。

10:21
主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。

10:22
あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。



 聖書の神を信じるということは、どういうことなのか、はっきりと語らなければなりません。多くの人は、「神を知ることである」と言いますが、ヤコブ書には悪霊も神を知っているので、行いがない信仰は、救いに至らないと教えています。ところが、ローマ書には、「行いによっては義とされない」とあるので、教会に休まずに集うとか、奉仕をするとかで、その人の信仰を保証するものではないことが、はっきりとわかります。

 魂をイエス・キリストによって救われている人は、他の救われている人がわかるものですが、救われていない人は、誰が救われているか、自分が救われているかもわからないものなのです。ですから、「救われている」という基準を確認しようとするのです。救われた者にとっては、聖書によって神を知り、神のために奉仕をするということは当然なのですが、救われていない者が同じことをしても、それは自らの成長にはつながらないのです。

 俗な言い方をすれば、社員でない者がその会社の為にいくら働いても給料はでないようなものです。会社のサービスによって利益や恩恵を得ることはできても、給料はないのです。教会が提供するサービスを享受したとしても、教会員でなければ、その祝福を自分のものにすることはできないのです。

 社員になるためには、採用されなければなりません。指定する資格がなければ応募することもできず、採用面接を受けたところで、条件に合い、受け入れなければ、入社できないのです。社員として長く勤めていたところで、資格を偽っていたとしたら、罰を受け解雇されます。会社では、自分のやりたいことをするのではなく、会社の利益と発展のために働きます。

 櫻井先生は、クリスチャンは神の代官であり、神の権利と支配の代行者なのだと教えてくださいました。更に、人間は動物ではなく、自由意思をもった人格的存在なので、肉体的能力に依存するものではないことを教えてくださいました。

 民主党が政権を握るようになって、これまで政府の役人のトップである官僚が、自分たちの保全のために国家予算の多くを費やしてきたことがわかってきました。それどころか、自分たちが支払い積み立ててきた年金も納付記録をきちんとつけていないことがばれてしまいました。ルカ福音書に「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは誰でしょう。」とイエス様が問うています(12・42)。ところが、4547節にあるように、その管理人は、不忠実に働いていたので、厳しく罰せられます。アメリカであるならば、このような搾取をした官僚たちは、犯罪として厳しい罰を受けるでしょう。日本では、政権の代わる直前に天下りする官僚が続出しました。彼らは、罰を受けるということは思いもよらずに、利権に群がったのです。

 ところが、聖書は人生という代官期間の裁きをつける主権者がいるということを示しています。神は、人間の歩みの全てをみて裁きを付けるのです。まず、教会に属しているかどうかが、判断の第一の基準です。

教会に正規に属しているということは、その人の罰が全て主権者であるイエス・キリストによって免除されていることから始まり、報酬と栄誉しかないのです。

 はっきりと理解するべきは、クリスチャンにとっては、報酬と栄誉しかないのですから、自分の品性や罪深さなどに頓着せず、神のために一生懸命働くことなのです。

 私が気がつくことは、他人の能力にケチをつけ、自分の能力を自慢する人が、日本には非常に多いことです。そういう人々は、会社の為と言うよりも、自分の好きなように仕事をするものです。まるで、官僚政治のようです。自分の思うように仕事をするのではなく、会社のために働くから報酬がでるのです。能力の劣る人を助け、カバーし、成長させるならば、それが会社の利益になるのです。非難批判する人は、自分の思い通りに人を動かそうとするからなのです。

  聖句に戻ります。だから、モーセに対して、「先頭に立って、進め」と命じ、成果を勝ち取れと神は言われるのです。そして、「主が求めておられることは何か。」と、「主を恐れ、主の全ての道を歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」と教えるのです。まるで、社員教育の教えのようです。仕事とはそういうものであり、人生とは、そのように神にために生きて働くことなのです。

神のために働くとは、牧師になるということではありません。教会での教えが牧師によってされるので、神の為に働くことが聖書を良く読んで神学的に確立することのように、牧師という賜物の観点で教えられてしまうのです。ローマ12章にあるように、私たちは異なった賜物を持っているので、奉仕をしたり、教えたり、分け与えたり、指導したり、慈善を行ったりするのです(6-8)。そして、それを愛の動機によって行うのです。

 パウロは、「私は勇敢に戦い、走るべきのりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Uテモテ4・7)と自分の人生を振り返り、また誰でも同じようになれると勧めているのです。

  だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしのを悟らなかった。 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(ヘブル3・10-15


9月27日 見たのはあなたである。  申命記111節〜12 
新改訳 申11:1 あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。

11:2
きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。

11:3
これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、

11:4
また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。――彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。――

11:5
また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、

11:6
また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。

11:7
これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。

11:8
あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、     11:9 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。

11:10
なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。

11:11
しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。

11:12
そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。


 モーセがここで語るのは、子供たちに対してではなく、神の奇跡や裁き、そして罰や怒りを体験した大人たちに対してであります。先週は伊勢湾台風の50周年でした。体験した方々の苦しみ、家族を失った方々の苦しみは、語りようがないでしょう。阪神大震災もすぐに救援に行きましたが、当事者の思いや体験とは比べようがありません。原爆に関しても、アメリカでは戦争を長引かせないために必要なことだったという意見が大勢を占めています。原爆というものがどんなに悲惨であり、多くの市民を一瞬にして殺し、生涯癒えない傷を負わせたものかは理解されていません。

 日本伝道会議で、キリスト教指導者の戦争責任や過去のクリスチャンの過ちを確認することがなされていました。しかし、その当事者が過ちを認めていなかったという事実は、その世代でない私たち信仰者にとって、現実感のない歴史認識で終わってしまいます。韓国に行くと親兄弟を日本軍によって殺害暴行された人々が多くいて、私たちは何も知らされていないので、驚くばかりです。当事者である世代が、「しょうがなかったのだ。」という言い訳で時代のせいにするからです。ドイツ国民がナチスの働きを自らのものと認めて、はっきりと否定し、それを踏襲しようとする者を犯罪として罰するのとは大きな違いです。韓国や中国が日本人の歴史認識を今でも責めるのは、日本人と日本国が、自らの過ちをはっきりと認めていないからです。

 ダム建設を反対してきたやんばダムの住民が、移転が済んでしまったら、今度はダム建設をやめる政府を総出で反対するという面白い現象が起こっています。郷土を愛するとか、自然を守るということよりも、生活を優先する日本人特有の成り行きです。善悪や正誤よりも、生きるということが基準となっているのです。善悪を裁く絶対神の存在を信じていない日本人の特徴でもあります。

 イスラエル人が見たのは何だったのでしょうか。

1. 神の民イスラエルに対して酷い仕打ちをするエジプト人とその王パロに対する罰であり、何としてもイスラエルを救いだそうとする神の大いなる業でした。

2. 追ってくるエジプトの軍勢を海の水で溺れさせた勝利の主でした。

3. 荒野で40年間も200万人以上の民を養い育てた恵み深い主でした。

4. 神の僕モーセに反逆する人々を地の底に落として罰した神の裁きの恐ろしさでした。

 「これら主が為された偉大な御業の全てをその目で見たのは、あなた方である。」と言われます。大事なことは、魂を救われ、奇跡を体験したのは、私たちであって、私たちは、それを確認して、絶対なる服従を守って信仰者として歩むことなのです。イスラエルが救われ、助けられ、守られ、養われたのは、その能力によってではないのです。

 人間というのは、自分を誇り、自分を主張し、それができないと悩み苦しみます。エジプトの地では、「自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。」(10節)、しかし、これから所有する地は、「天の雨で潤っている。」(11節)。自分の力を主張し、驕る人は、神を信じ従って生きることはできません。

 信仰とは神への依存です。依存するからこそ、神を信じ従うのです。

 自分の力で生きる人は、情況によって信仰を捨てます。なぜ、戦争時のキリスト教指導者が政府に迎合して、靖国神社参拝を同意したのでしょうか。自分の命を自分で守ろうとしたからです。なぜ、多くの日本人が平気で韓国や中国の人々を殺したのでしょうか。自分の命を自分で守らなければならないと信じたからです。そういう正当性が、絶対神の前で裁かれるということを信じないからです。

 先週の結婚式で、誓いというものは自分というものを掛けて約束するのだから、何よりも尊いのだということを話しました。金や地位、能力や学歴が結婚の保証であれば、それは安っぽいものになります。人は結婚した以上、どんなことをしても伴侶を愛し、幸せにする責任があるのです。相手の性格が悪い、趣味があわない、働きが悪い、などと伴侶を非難する人は、信仰者とは言えません。状況に左右されている人は、決して神の祝福を受けることはできないのです。

 子供たちと旅をして、「お母さんって本当に面白い、変わっている。」と妻について知らないことがあったことに気がついたようです。確かに私の妻は、変わっていて一人ではとても生きていけないでしょう。そんな妻を守り、愛するから私には祝福が付きまとうのです。子供達を誉める人もいますが、別に普通の子供達です。しかし、親としてはどんなことがあっても子供を愛し、守ります。妻子の為には、命を掛けることをいつも覚悟しております。神を信じるということは、そういうことなのです。「命令をすべて守りなさい。」(8節)というのは、神の命令に対して斟酌をしないで従うということなのです。

 10章には「在留異国人を愛しなさい」とありました。教会に来ている外国人に関しては、特別に配慮することが神の命令です。私たちは、人の定めた国の命令に反しても信仰をもった在留異国人を守る必要があります。「国が命令したからしょうがない。」「当時の状況では、人を殺してもしょうがない。」などという誤魔化しは神の前に通用しません。法律を犯したからといって、家族を捨てるような人は、信仰者とは言えません。その家族が、罪深く、信仰をもっていないとしても、家族というのは愛するべきものとして神から与えられたものなのです。信仰を守るということは、そのように絶対的なことなのです。

 そのように自分の基準ではなく、神の基準を守れば、自分で努力しなくても神が祝福してくださるのです。なぜなら、「あなたの神、主が絶えずその上に目を留めておられる」(12節)からなのです。私は、自分の行く道が必ず主に祝福されるという確信を持っています。しかしまた、状況に左右され怖れて神の命令を二の次にすれば、すぐに祝福は去り、自分の能力で生きなければならないことも、気がついてきました。