4月5日 人の栄光、神の栄光。  ヨハネ12918
 
新改訳 ヨハ 12:9-18

12:9
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。

12:10
祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

12:11
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

12:12
その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

12:13
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

12:14
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

12:15
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

12:16
初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

12:17
イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。

12:18
そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。

 枯れたような枝から若葉が出てくるのを見ると感動します。梅の若葉も例年より一月遅く、心配していました。枯れたような木から一斉に花が咲き、ピンク色に染まるのは見事です。そしてさっと花を散らし、緑の芽を出します。そこに、一斉に虫がたかり、実を実らせます。花梨の花もピンクの花を咲かせ、8ヶ月後に実が熟します。私は、それらを見守りながら神の御業を想います。

人の人生も、この自然の営みのようで、神の御手の中にあります。花を咲かせたからといって、高ぶってはなりません。力尽きて、枯れたかのように思っても、時が来ると芽を出してきます。だから、若葉を見ると涙が出てきます。教会を離れた人々のことが私の思いから消えることはありません。いつか、帰ってくるのだろうかと祈りを積み重ねます。

イースターの前の日曜日を「シュロの主日」と呼びます。人々は、ラザロを甦らせたイエス様を褒め称え、預言(ゼカリヤ9・9)のとおりにロバの子に乗ってエルサレムに入城されるイエス様を、勝利の王メシヤであると確信するのでした。そこで、しゅろの葉を道に敷き詰め、或いは振りかざして、占領するローマ軍を打ち破る王となることを期待するのです。

人はみな、自分の願いが適うことを期待します。神にも祈り、自らが勝利者になるために戦うのです。そして、神が自分の味方になるように努力するのが信仰者で、自らの力と才覚で戦おうとするのが、不信仰者のように思われています。そういう時に、神の御心を問う人は少なく、関心は自分を助けてくれるのかどうか、というところにあります。

モーセの後継者ヨシュアが初めての戦いにエリコに向かう途中、神の使いが抜き身の剣をもって立ちふさぎました。ヨシュアは、「あなたは私達の味方ですか、敵ですか。」と聞きますが、彼は「主の軍の将として来た。」と答えます(ヨシュア5・14)。人生で大事なことは、神の御心を実行するか否かなのですが、多くの人が自分の人生に神の御心を問わないで、その日暮らしで生きています。

花は神の栄光を褒め称えるために咲き誇ります。私達は、それを眺め、そのおすそ分けを受けているにすぎません。私達もまた、本来は、神の栄光を褒め称えるために存在をしているのです。

しかし、多くの人が誤解をしています。私達が成功者にならなければ、神の栄光があらわれないと考え、一生懸命努力をしているのです。はたして、人の栄光とは、成功者になることでしょうか。お金持ちになり、名誉も地位も得ることでしょうか。皆さんは、政財界の指導者たちを見て、そのようになりたいと考えているのでしょうか。

当時のエルサレムは、ローマ軍に占領されて支配下にあり、神の民であることを誇りとするユダヤ人には我慢ならないことでした。そこで、神の国の王であるメシヤを期待したのです。ダビデが当時の世界に君臨したようにイエス様によってユダヤの王となられると期待したのです。

  しかし、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったことでしょう。」(ヨハネ18・36)。イエス様は、神の国の王であり、私達が神の国の住民となられることを願って、王子が送られてきたのです。

  ピラトは聞きました。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしは真理の証しをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者は皆、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18・37)。

  わたしたちクリスチャンは、この世の成功者になるために、救われたのではありません。神の国の住民として生きるために救われたのです。そして、最も大事なことは、神の声に聞き従って生きることなのです。

  神の声が聞こえないという人がいるでしょうか。

  イエス様は、しばしば、「耳のある者は聞きなさい。」と言われます。神の住民としてふさわしいものは、神の声を聞こうとするものです。この世の価値観に囚われている人は、神の国を聞こうとしないのです。

  人間の耳というものは、聞こうとするものしか聞こえない不思議なものです。訓練すれば、オーケストラの数十の楽器の一つの音程の間違いさえも聞き分けられるのです。大事なことは、神の声を聞こうとしていないこと、聞こえるとさえ思っていないことを悔い改めることです。

  イエス様は、立って大声で言われました。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7・38


4月12日 生きているうちに神を信じる。  Tコリント15314

新改訳 Tコリ15:3-14

15:3
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

15:4
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

15:5
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

15:6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

15:7
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

15:8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

15:9
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

15:10
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

15:11
そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

15:12
ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

15:13
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。


 私が28mの海底に潜ったことはお話しました。何でそんなことをするのですか。という質問が殆ど言われます。私は、人生が死と隣り合わせなことを実感し、命がけで生きるためのセルフコントロールです、と答えます。殆どの人は、死の直前まで自分が死ぬとは考えていません。末期ガンで身体が言うことを効かなくても、死を考えようとしないのです。

ルカ12章に、金持ちの話をイエス様がしています。豊作だったので、蔵を大きなものに建て替えて何年も安心して食べて飲んで楽しんだ生活ができると喜んでいました。ところが、神は、「愚か者、お前の魂は今夜お前から取り去られる。そうしたら、お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。」

人が頭の中で計算し、準備したものが実際にそのとおりになることは、殆どないことを私は、悟っています。だから、労苦が人を富ませるのではなく、主の祝福だけが重要であることを知っています。頭で考え図ることは、信仰ではなく、考えです。神は、そういう人を助けることはしません。この金持ちのように人の計画というのは、浅はかなものです。

「来年は、神を信じて・・・をしよう」、「これがうまくいったら、・・・しよう」などは、この世のことを考え、それに囚われている証拠なのです。自分のために生きて、繁栄を図る人を神が守ることはありません。しばしば、「そのうちに教会に戻ります。」「神は信じているのだけれど、礼拝に行けません。私の信仰は、神はご存じのはずです。」などと調子の良いことをいう人がいますが、そういう人に神が応答することはありません。

神は、人格的に神に頼り信じて生きている人には、人格的に応答しますが、そうでない人々には、法則的に対応しているように思います。前者は、マタイ10章36節にあるように自分の十字架を負って主に従う人で、そういう人を神は「受け入れるのです」(マタイ10・40,41)。神を信じ、そのために犠牲を払っていない人を、神は信仰者として認めません。だから、裁きの時に、そういう人を知らない、と神は言われるのです。

今日は復活祭です。キリスト教というものは、死者が復活するという望みを信じることです。そして、自分の罪を認め、その罪が自らを滅びに至らしめることを悟ることが必要です。罪というものを自覚しないで、キリストが自分の罪を負って死んでくださったことを信じるということは、ないのです。良いことをすることが神を信じるということではありません。良いことができないことを、悟ることが救いを求める状態なのです。これらは、すべて聖霊なる神の介在によって、なしえますから、聖霊なる神を受け入れる謙遜さが必要なのです。

親が子供を甘やかすと子供はだめになり、魂の平安も救いもえられることはなくなります。同様に、私達は神を信じてほしいために、伝道する人々に対して甘くなり、悔い改めをきちんと伝えることをないがしろにしがちです。神を信じてもらう、などという対応は、その人の救いを不可能なものにしてしまいます。

救いがなければ、天国に行くこともありません。ですからその人に復活はないのです。イエス・キリストはよみがえられました。ですから、私達も死んでもよみがえるのです。これを信じていなければ、私達の「信仰は虚しく、今もなお、自分の罪の中にいる」(Tコリント15・17)ことになるのです。世の中の人々は、死んだらおしまい、の生活をしていますが、私達は、死んでもよみがえる、の生活をするのです。

  「復活がなくてもあっても、どちらでもよい、自分は神を信じている。」という人がいますが、そういう人は、神を信じたふりをしているだけです。キリスト教というのは、「キリストが復活されなかったら、私達の宣教は実質のないものになり、信仰も実質のないものになる」(Tコリント15・14)のです。

  天国や極楽があるという教えは、多くの宗教にあります。ですから、見えない極楽浄土を教え広めるということは、容易にできます。実態も保障もいらないからです。それは、他の人に危害を加えることもなく、干渉することもない宗教の教えです。キリスト教がもし、そういうものであったなら、歴史上の迫害はなかったでしょうし、また、人々も命がけで宣教しなかったでしょうから、いまや絶滅した宗教になっているかもしれません。

  どうして初代教会の信者たちは、殉教しても神を信じつづけたのでしょうか。それは復活を信じたからです。神を真に信じる者だけが、復活して新天新地で永遠に暮らす、という教えがあるからこそ、いのちがけで信仰を貫くのです。

  歴史上、キリスト教が沈滞しているのは、教会に本物のクリスチャンが少なく、形式的なクリスチャンが占めているときでありました。聖書は、どのような状況の中でも人の心に働きかけ、聖霊の介在で人を救い出します。しかし、魂の救われていない人々が、クリスチャンを自称する時に、教会は本来の働きを失い、宣教をしなくなるのです。

  家族の救いを願い、いつも伝道するのが、救われたクリスチャンの使命です。いつ人が死ぬかもわからないからこそ、いつでも伝道しなければならないのです。


4月19日 結婚と姦淫。  Tコリント6920


新改訳 Tコリ6:9-20

6:9
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

6:10
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

6:11
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

6:12
すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

6:13
食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。

6:14
神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。

6:15
あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

6:16
遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。

6:17
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

6:18
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

6:19
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

6:20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。


今日は十戒の「姦淫してはならない」ということを学びます。神は、人を男と女に創造し、「生めよ、増えよ」とセックスを奨励し(創世記1・27)。「人がひとりでいるのは良くない」(2・18)と結婚を奨励しております。結婚において、夫婦が裸であっても恥ずかしいと思わず結びあい、一体となって愛しあうことは、奥義ともされています(エペソ5・32)。セックスにおいて、夫婦が伴侶を自分と同様に愛するということを学んでいくとあるのです。

 ところが、これが夫婦間でなければ罪となります。「レメクはふたりの妻をめとった。」(創4・19)と記されていることから、それが良くないということが示されます。創世記6章の「神の子ら」が人の娘たちと結婚したという記述は、セツ以来の信仰者の系図が、容貌を見た婚姻によって損なわれていったことを示しています。そして、結婚というものが、信仰や愛によって結ばれなくなっていったことを物語ります。

  サラを召しいれようとしたアビメレク王に対して、神は「あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」(創20・3)と語ることから、姦淫は死罪であることが神の法則として人々に理解されていたことが分かります。11節には、神を恐れる人は、姦淫を犯すことがないことが示されますが、アブラハムがまだ信仰者としては未熟で、人を恐れていることも明らかになってしまいます。忠実な信仰者イサクは、一夫一婦制を守り、リベカを愛して過ごしますが、その子エサウはこの世的な妻を二人ももって、両親から嫌われます。ヤコブは、母リベカの教えに従って、ラケルを妻として願うのですが、おじラバンに騙されてラケルの姉レアをも妻とさせられます。さらに骨肉の争いの中で、それぞれの女奴隷をも召しいれることになります。

  そのような性的な放縦さの罪深さを知っているその子ヨセフは、女主人から誘惑された時、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(創39・9)と、姦淫が大きな罪であることを自覚しています。モーセ律法である十戒は、このようにして姦淫をなくすために、死刑を命じているのです。

  イスラエル民族を守り、育てるための律法は、現実の人々の罪深さのために、次第に空文化してきました。特に不倫、姦淫は、日常化してしまったので、イエス様は、マタイ5章や19章で不貞がある場合には、離婚を認めるというような基準を下げ、姦淫の現場で捕まった女性にも、赦しを宣言し、二度と罪を犯さないようにと諭しています。この場合には、この女性の環境的な弱者であることを、酌量したのだと言われています。同じように、夫でない者と同棲しているサマリヤの女に対しても、同情的です。社会的弱者である人々への、憐れみが示されます。

  しかし、イエス様は、決して不倫や姦淫などの性的な罪に対して、基準を落としたのではありません。「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5・28)と厳しく戒め、そういう者は「ゲヘナに投げ込まれると裁きを宣言しています。

  このような律法とイエス様の教えの裁きの違いは、イエス様が地上の罰を超えた神の基準があり、それを破れば、いかに地上の罰を免れたとしても、神の国にはいくことはできず、永遠の罰が与えられることを指摘しているからです。そして、多くの人は、実際の犯罪を犯していないとか、不倫をしていないとか、人の目につく犯罪を気にしているのに対して、いかに地上での裁判では罰がなかろうと、神の基準では、人間みな罪をもっており、神の裁きを免れることはできない、ということをイエス様は宣言しているのです。

  それでは、自分は性欲がなかったり、性的不能だから罪を犯さない、で済むかというと、「自分の妻を自分の身体のように愛さなければなりません。」(エペソ5・28)の命令があり、「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。」(Tコリント7・3)と、性的満足を与えることを命じられています。人間というのは、理性や感情だけで動くものではなく、身体的満足も必要であるということを、ここで指摘されます。当然、性的に喜ばせれば、それで良いということではなく、ともかく人格的に伴侶を満足させなければならないということです。

  そういう面で、肉体的に性欲がなくなったので、高齢者は独身でも良い、ということではありません。夫婦という関係が人間には必要であり、互いにいたわり合い、助け合い、必要として、心を通わせる伴侶が必要なのです。これは、友人や家族というものとは違う、まさに一心同体となる相手が必要なのです。しかし、それはまた、死別した伴侶に対する愛慕によって満たされる場合もあり、何が何でも結婚しろというものでもありません。

  「正しくない者は神の国を相続できません」とありますが、まさに正しいかどうかは、伴侶と愛しあっているか、どうかによって識別されるでしょう。一緒に過ごし、何でも知られている伴侶を幸せにし、喜ばせた人は、まちがいなく神にも認められるのです。このことは、伴侶がクリスチャンであるかどうかに関わりなく、私達の真実性を吟味する試金石になると思われます。自分の伴侶をないがしろにしてはなりません。


4月26日 全地は神のものなのに。  詩篇50編723

新改訳 詩 50:7-23

50:7
「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。

50:8
いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。

50:9
わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

50:10
森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

50:11
わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

50:12
わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

50:13
わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。

50:14
感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

50:15
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」

50:16
しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

50:17
おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

50:18
おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

50:19
おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

50:20
おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。

50:21
こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

50:22
神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。

50:23
感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」

 十戒の盗んではならない、ということの前に人の所有について、聖書的に学びたい。トルストイの短編に、一日で歩いた分だけ土地を与えられるということで、力の限り歩きまわるけれども、結局疲れ果てて死んでしまい、与えられたのは、狭い墓の部分だけだったというのがあります。私達は、自分の所有だと思っているものが、果たして本当に自分のものなのでしょうか。

 タラントのたとえはよく知られています(マタイ25章)。主人は、自分の財産を、しもべ達にそれぞれの能力に応じて、分配して預けます。帰ってきた時に、その預けた財産をどのように使ったかが、主人に評価されます。その働きに応じて、褒美を得るのですが、預けられたものを用いなかった者は、罰を受けます。そのたとえが天国に行くかどうかの評価基準であるとイエス様が言われているのです。つまり、この世のものは、すべて神のものであって、人に預けられたものがあるというのです。私達は、能力というものを、その人の遺伝や環境、あるいはその人の努力の結果と見るので、自分の固有のものであると考えます。

 自分の体格や容姿、家柄や家族、その後の環境、そして得意・不得意、能力や経験、それらは自分のものであって、神から預けられ、与えられたものであると意識する日本人は殆どいないと思われます。「天与の才」などと言いますが、神から与えられたなどとは思わず、生まれつきの才能と考え、優劣を確認します。能力のある人間は自分を誇り、才能に恵まれていなかったり、障害をもっている人は、自分をだめだと思うのです。

 ところが、聖書は、それを神から与えられたものであって、大事なことはその使い方であると言います。「多く与えられた者は、多く求められ」(ルカ12・48)ということで、多才の人が他の人と同じことをしていたら、咎められることとなります。確かに、日本以外では、金持ちや多才の人は、喜捨や援助を当然なことを要求されるようです。

  日本では、才能は努力の結果とされて、誰でも努力すれば何にでもなれると教えられます。しかし、それは実は金持ちや知恵者の論理で、貧者や弱者には厳しいものになります。機会は均等ではありません。能力や環境も大きな違いがあります。だから、政府や社会は、弱者に対して、いつも援助をしなければならないのです。金持ちや優秀な者は、貧者や弱者を助けなければならないのです。「人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、更にその上に増し加えられます。」(マルコ4・24)とイエス様は警告しています。

  その聖句の後に「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」と忠告されます。それも神の国のたとえです。つまり、持っているとは、ここでは心が良い地のような状態のことで、聖書の言葉を聞いて受け入れ、収穫の実を多く上げる人のことです。

  つまり、大事なことは、神を信じて、それぞれの環境の中で、いかに耕していくかということなのです。

 栄養療法をしていますが、掛かる費用だけでその治療を否定してしまった管理栄養士がいました。その方は、自分や患者さんがその代価よりも健康の方が価値があることを信じることができなかったのです。「不正の富で、自分のために友を作りなさい。」(ルカ16・9)とありますが、「不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたにまことの富を任せるでしょう。」として、この世の金銭など、しょせん不正な富であって、それを使うか使われるかが、神への忠実さが問われるのです。

 中卒ですが、良く仕事をするので、大卒並みの給料を払った人が辞めてしましました。金銭を使って幸せになるという余裕がないのでしょう。残念なことです。経済的収入も、神から預かっているのです。大事なことは、金銭を使って、自分も家族も他人も幸せにするということです。そうしたら、それらの価値が上がり、神から預かった財産が増えるのです。

  お金を自分の価値を高めるために使えず、自分の欲望や消費のために使う人は、お金の奴隷になっているのです。お金を貯めているだけで使えない人も、同様です。私達は、神様から人生を預かっているのです。自分の身体も能力も環境も、神から預かっているのです。自分のものではないのです。素敵な服も買わず、おいしい物も食べず、趣味もスポーツもしないで、節制をして、お金を貯めても、自分を高めない人のお金は、くだらないことに消費してなくなってしまいます。

  時間もまた、同様です。忙しく働いて何かを成し遂げたとしても、自らのいのちと人生を喜ばなかったら、奴隷です。人を愛し、自分を愛するために使わない時間は虚しいものです。今回、名誉ある働きと地位を辞退しましたが、趣味や憩いの時間を持てないで仕事ばっかりしても、神と共に生きることにはなりません。

  名誉ある仕事をしたら神のためになる、などという誘いは、仕事の奴隷になる惑わしです。6月に、患者の会の法人格をとって理事長になる予定ですが、名誉でも利益でもなく、自分の時間を神に捧げ、自分の能力を発揮し、人々をこの働きに参画させるためです。

  私は、自分のリーダーシップを、人々を神の働きに引きづり込み、一緒に喜び楽しむために用いるつもりです。神の働きをすれば、神が味方になってくださるのです。


5月3日 クリスチャンライフ  ルカ福音書183543節 (説教:米沢福音キリスト教会 大久保仁先生)

新改訳 ルカ 18:35-43

18:35
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。

18:36
群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。

18:37
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、

18:38
彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。

18:39
彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

18:40
イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。

18:41
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。

18:42
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、

18:43
彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。


5月10日 女性に愛される者は幸せ  創世記245867

新改訳 創 24:58-67

24:58
それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。

24:59
そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。

24:60
彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

24:61
リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

24:62
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。

24:63
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

24:64
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、

24:65
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

24:66
しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。

24:67
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。


 信仰者としてイサクは理想的な落ち着いた生涯を歩み、どんなに敵が攻撃して来ても、決して報復せずに神を信じ、祝福を得てきた人です。その子ヤコブは、波乱万丈な人生を歩んだ挙句、大信仰者としてイスラエル(神の王子)と呼ばれるような人です。彼らにとって、妻であり、母であるリベカの存在が大きかったことを、今日の母の日にお話ししたいと思います。

  創世記24章15節から記されているように、リベカは働き者であり、旅で疲れている旅人とそのラクダにまで水を汲んであげる心優しい女性でした。おそらく自分の家で飼っている動物たちにも優しかったから、そのような配慮ができたのでしょう。

  また突然の結婚の申し込みに対して、相手と会ってもいないのに、神の導きであるというアブラハムの下僕の言葉を信じて、受け入れるのです。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11・1)というように、普段から、自らの結婚を、見えるものである財産や能力、そして容姿などではなく、信仰によって神に誓願していたからであります。

 私たち夫婦のことを申しますと、誕生日が同じだけでなく出会いも神がかりでありました。しかし、結婚に関しては、神の導きとしるしを確かめてのものでしたから、その後に続く多くの試練や苦難にも関わらずに、共に歩んで来れたものと考えております。

キリスト教の結婚式では、「神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19・6)と、宣言しますが、これはキリスト教の結婚だけが神の介入があったというわけではなく、すべての夫婦の結婚の背後に神の導きがあるということであります。ところが、人間の側、つまり夫婦それぞれに神が合わせたという自覚が足らないので、「性格の不一致」などと後で理由をつけて自ら、相手から引き離してしまうのです。「好きだから」という理由で結婚したら、「好きでなくなったら」離婚してしまいます。相手の性格や能力、相性などを考えたところで、そんなものは歳がたったら変わってしまいます。「破れ鍋にとじ蓋」という諺は、「破損した鍋にも、それに合う蓋がある」ということで、似合いの夫婦ということですが、これには理屈はないのです。「いやだ」と考え始めたら、いやになるのですが、聖書はそういう心の向き方を禁じるのです。

美しく心優しい働き者のリベカは、会ったこともないイサクの妻になるために、家族が誰も付き添わないで、旅に出ます。イサクもまた、神が自分に相応しい妻を与えてくださると信じ、40歳になっても平安に過ごしています。63節から67節の彼らの出会いは、ものすごく絵画的・ロマン的です。「イサクは母の亡き後、慰めを得た。」という言葉は、イサクが母を慕っていたこと、影響されていたこと、母が死んでもその天幕を守りながら、母との思い出を守る情緒的な人であったことを示しています。更に、妻は、夫にとって、母の役割をも果たすものであることを示しています。創世記の表現は、「イサクの歴史」、「ヤコブの歴史」と書いて、実際はその子供たちのことを記しています。つまり、その人の歴史とは、その人の子供がどのように歩むかによって記されるということになります。これは、神の契約と存在を示すべき使命を与えられていたイスラエル民族の特徴であります。ただし、新約の時代では、子供に受け継ぐべき使命としての人生というよりも、神の前の一人一人が問われるものとなっています。「神は、一人一人に、その人の行いに従って報いをお与えになります。」(ローマ2・6

 さて、そのようにしてイサクと結婚したリベカは、双子を産みますが、兄エサウと弟ヤコブは全く性格が異なっていました。リベカは、「穏やかな人」(25・27)であるヤコブを愛し、粗野なエサウを嫌っていました。エサウが母リベカとは全く異なるタイプの女性を何人も妻にしていることからも、母を全く尊重していないことは明らかです。リベカは、「イサクの歴史」となる祝福の系図は、ヤコブであるべきであると信じ、「わが子よ。あなたの呪いは私が受けます。」(27・13)と言って、何としても父の祝福をエサウから奪いなさいと指導します。これは偏愛ではなく、信仰者としての誠実かつ真摯な判断から来た行動であります。

  ヤコブの悲劇は、母や祖母のような信仰深い妻を得なかったからですが、それはおじラバンに騙されて、その二人の娘の両方と結婚してしまったからでもあります。リベカは、兄ラバンがそのような打算的な人であることを知っており、そこから一人で抜け出してイサクと結婚したのです。母リベカに促されて、父と兄を騙したヤコブは、自分をも騙される悲劇となりました。その経緯には、イサクが、自らの後継者をはっきりとヤコブであると認定することができない、父としては優柔不断なところが原因となっております。実際には、父であっても血気盛んな息子を制御することは難しいところですが、母が命がけで行っていることに比べれば、やはり責任は父にあります。

  ヤコブ自身も、二人の妻を制御できず、結局は子供たちを内輪もめさせて、最愛の子ヨセフをエジプトに奴隷として他の子供たちに売られてしまうことにも至ることになります。新約の時代である現代では、一人ひとりの行いが神に問われるのですが、やはりそれは、自らの人生をいかに歩んだかに現れ、子供がいる場合には、その子にどのように人生を教えたかが問われるものとなりましょう。子供がいない場合には、他の人々にどのような影響を与えたかが問われるでしょう。

  「人が、一人でいるのは良くない。」(創世記2・18)のですが、妻を助け手として夫婦の使命を果たしながら、愛し会って生きるかどうかが、私たちの人生で神に問われるものとなります。そういう面で、妻にも母にも愛されるかどうかが、男としての尺度になり、夫をも子供をも愛するかどうかが女の尺度になるのではないでしょうか。


5月17日 聖霊は助け主  ヨハネ福音書141627

新改訳 ヨハ 14:14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

14:18
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

14:19
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

14:20
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

14:22
イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

14:23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

14:24
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

14:25
このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。

14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

14:27
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。


 ペンテコステの日が近づいているので、聖霊について語ります。イエスさまは、ご自分が人間の助け主であるのと同様に、聖霊様が助け主であることを語っておられます。帰って、聖霊なる神のほうが人としての身体を持たないだけに、偏在という神本来の働きをして、「いつまでも、ともにおられる」ことができるのです。

聖霊なる神は、真理を教えるのですが、世の中の人々は、この方に触れることも影響されることもありません。聖霊は、「罪について、義について、さばきについて」(ヨハネ16・8)教えるのですが、聖なる霊とあるように、清さを求めない人には内在することができません。「真理によって彼らを聖め別ってください。」(17・17)とあるように、真理である聖書の言葉に従う人と従わない人との間に、聖さという分かれ目があるのです。

大事なことは聖書に従うということです。自分の理性に照らして聖書を理解し従うのではないのです。自分が納得のいくことを信じるということは、信じているのではなく、考えているだけなのです。例えば、人を愛するということは、愛するべきことをしたら愛するのではなくて、自分の納得のいかないことや嫌なことが相手にあっても愛するということなのです。相手が自分の要求に適ったら愛するのでは、上下関係の褒美であって、愛とは言えないのです。伴侶を愛する、子供を愛する、親を愛するというのは、そういう面で相手の従順を要求するものではないのです。しかし、以前、「愛とは、相手が自分を愛するようになることを願って愛するものであって、一方的な自己満足は愛とは言えない。」と語ったことも真実です。大事なことは、相手を服従させようとするものではないことです。

そういう面で、神の愛とは、人をして神の愛に応答して無私な愛をもって生きることを願うものなのです。もし、神が、勝手なことをして生きている人に、祝福を注ぎ、助けたら、世の中の秩序は崩壊するのです。ですから、聖書のことばを、自分の確認できるものだけを理解し、道徳や教養、そして教訓の書として受け入れている人に、聖霊なる神が助け主として助けてくださることはありません。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、なんでもあなたがたの欲しいものを求めなさい。」(15・7)というイエス様の言葉は、打算で生きる者に当てはまることはありません。

「わたしがあなたがたに命じることをあなた方が行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(15・14)とイエスさまは言ってくださいます。その命令とは、「あなたがたが互いに愛し合うこと」(15・17)であって、難しいことではありません。ところが、実際には、人は、他の人を思い通りに動かそうとして要求しているだけであって、愛していることは殆どありません。利用しあうことによって、関係が維持されているのが、世の中なのです。

「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおり」(Uコリント9・7)に善を行なうことが大事なのです。義務や意地で人を世話したところで、それは神の報いはないのです。聖霊なる神に愛され、助けられる人は、報いを求めない善意の人でなければならないのです。

 そういう面で、自分勝手な人、自分の考えに囚われる人、人に見せるために善行をする人が聖霊に満たされることはありません。たとえ、感情的な興奮があったとしても、それは聖霊ではありません。聖霊なる神は、悔い改めた人、聖さを求める人にしか、充満することはないのです。大きな声を上げたり、感情的になったりすることが聖霊に満たされる方法ではないのです。

  「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」(14・21)とイエスさまは言われ、その人を愛して、イエス様の実在を現わすと言われました。私たちクリスチャンにとって、大事なことは、礼拝に出席するとか、献金をするとかということを義務としてすることではなく、心からイエス様を愛して毎日を生きることなのです。信仰を義務的、戒律的なものにしてしまったら、聖霊なる神に満たされることや、その喜び、平安はなくなってしまうのです。

  信仰を義務的なものにしてしまったら、報いを求めるものになります。そして、苛立ちのある毎日を送ることになります。聖書の教えは、理解するものではありません。実行するものです。どんなに医学の知識を積んだところで、医師という資格を得るための努力をした上で治療をしなければ、役にたちません。お金を数え、或いは財産を積んだところで、それを用いて幸せにならなければ何にもなりません。神様を信じていても、信仰を実践しなければ、祝福はありません。

  聖霊なる神は、毎日の生活でいつも私たちを助けるために、働いてくださるお方です。その神の人格と存在を認めて生きなければ、信仰は自己満足なもの、独りよがりなものになるのです。

  聖霊なる神が、あなたに内在したら、自分の罪深さがわかるからまずいと、恐れる人がいるかもしれません。神は、あなたの罪に対しては寛容です。どうせ赦してくださるのですから、自分の罪深さなどにこだわってはなりません。むしろ、善を行わないこと、神の命令を実行しないで毎日を無為に生きていることが、いけないのです。あなたを「孤児にはしません。」(14・17)とは、神の子供としての使命を果たすべく、あなたを守り助けるということなのです。

  もう一度、言います。大事なことは、聖霊に満たされて信仰生活を生きることです。信仰は義務ではなく、奥義であり、祝福です。


5月24日 聖霊はあなたを導く  ヨハネ福音書16716
新改訳 ヨハ 16:7-16

16:7
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

16:8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

16:9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

16:10
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

16:11
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

16:12
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

16:14
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

16:15
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

16:16
しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」


 神を信じるということは、そんなに難しいことではありません。イエスさまは、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。父よ。これが御心にかなったことでした。」(ルカ10・21)と語っておられます。

イエス様の言葉や奇跡、そして救い主であることのしるしを見ても、人々は、神を信じるということをしていません。彼らは、神を信じ従うよりも、「自分の正しさを示そうとして」(ルカ10・29)いるのです。そこで、イエスさまは、良きサマリヤ人の喩えを離されます。そして、「あなたも行って、同じようにしなさい。」(37)と指導されますが、人々は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。またあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(27)ということを実行しようとはしません。

皆さんはいかがでしょうか。要するに、信仰というのは、教理の理解や聖書を読むことなどではないのです。心から神を愛し、人を愛する人しか、神を信じることはできないのです。

そういう面では、過去に神を信じ、洗礼を受け、さらに聖霊のバプテスマを受けたところで、これらを実践しない人からは、聖霊なる神は、離れて行ってしまうのです。実際、私は多くの信仰者や牧師が、「自分の正しさを示そうとして」信仰生活を送っているのを知っています。自分の罪深さを過去のものとして、他人の罪深さを指摘しているようでは、聖霊なる神に満たされることも、導かれることもないでしょう。

確認しましょう。先
週、あなたは、教会を離れたところで、他の人のためにとりなしの祈りをし、他の人のために犠牲を払ったでしょうか。

私が心がけていることをお伝えしましょう。私は、自分が自分勝手であり、よほど意識しないと、好きなように生きてしまう人間であることを自覚しております。ですから、いつもこれらの原則を意識します。

@ 他の人の益の為に自分の時間と力を注ごうとする。

A 自分と考え方・性格・立場の違う人に関心を持つ。無視しない。

B 計画を練り行動を吟味し、かつそれらを全て捨てる覚悟を常にする。

C 効率的な生き方をしない。

D 慣例や慣行、人の目や意見を気にしない。

内村鑑三が西郷隆盛の朴訥さを讃えています。西郷は、人を訪問する時に、相手を煩わせることを厭い、誰か出てくるか、帰ってくるまで、外で待ち続けたということです。皇居の帰り、自分の下駄がなくなったけれど、それを口にすると人が怒られることを案じ、裸足で帰ったそうです。若い時には、薩摩藩を頼って逃れて来た僧を守れないと知ると、共に入水自殺をして義を貫こうとしたそうです。自分の益を考えない人だからこそ、多くの人々が彼を慕い、官軍の江戸城の無血入城を果たして、日本の荒廃を避けることができたのでしょう。

  信仰生活というのは、キリスト教という宗教に縛られるものではありません。宗教的儀礼だけでなく、社会的規範や慣例、価値観に縛られずに、人を愛し、人を助け、それら全ての中に聖霊なる神の導きを求めることこそ、神に喜ばれる生活を送ることができるのです。

  トルストイの小編を読みました。靴屋のマルチンは、妻も子供も死んで虚しく過ごしておりましたが、聖書を読み始め、人生がすっかり変わります。ある日、イエスさんが彼の家に訪れるという声を聞きました。窓から見ていて、通りがかりの人を助けます。貧しい掃除夫、リンゴを盗もうとした子供、金もなく寒さに凍える乳児と母親。夕方になって、イエスさまは来なかったと思ったら、彼らにしたことは、わたしにしたことであると、イエス様の語りかけを聞きます。

 聖霊に導かれるということを、宗教的なものだと勘違いしてはなりません。むろん、私たちの考えは、大人になるにつれ、この世に毒されてきておりますから、聖書をしっかりと読んで、神様の御心を悟るようにすることが大事です。「賢さや知恵のある者」は、人間の知恵で世の中を生き抜こうと考えています。一人の人の浅知恵など、世の中の流れに流され、利用されるのが落ちです。

  朝に昼に夜に、天に向かって真心を注ぎだし、如何に生きるべきか、何を為すべきか、あなたの周囲に人は幸せに生きているか、自分のしたことは間違っていないか、神と語りあうようにしてみてください。

 神との語りあいを保ち、自己吟味するならば、あなたの人生は、神が導いてくださいます。「神の声が聞こえない。なんだかわからない。」というのは、あなたが自分のことばかり考えているからです。「神が語りかけた」というならば、「自分の正しさを示そうとして」いないかどうか、しっかりと吟味してください。旧約聖書の偽預言者は、「神がこう言われた。」と言って、自分の都合の良いことを行い、身に滅びを招いています。

  多くの人が、自分のことばかり考えています。それであるならば、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に見力を現わしてくださるのです。」(U歴代16・9


5月31日 聖霊を求める人に注ぐ  使徒の働き2章141421

新改訳 使 2:1-414-21

2:1
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2:2
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

2:3
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

2:4
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

2:14
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

2:15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。

2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』


 今日は、ペンテコステの日です。旧約聖書では,「七週の祭り」(出エジプト3422,申命1610),または「刈り入れの祭り」(出エジプト2316)と呼ばれて,過越の祭に続く種を入れないパンの祭で大麦の初穂をささげてから七週間後,50日目の祭です。このことから,ギリシヤ語のペンテーコストス(50番目の)を語源として,五旬節とも呼ばれます。

 旧訳時代には、聖霊なる神が、一部の人に臨むことがありましたが、このペンテコステの日以後、17節にあるように「全ての人に注ぐ」ようになるのです。ですから、「刈り入れの祭り」が続くということ、つまり諸国の人々の霊的刈り入れ、救いが始まるということなのです。もちろん、全ての人とは、神を求め、聖霊の満たしを求める「全ての人」であって、無選択に注がれるものではありません。

 イエスさまは、使徒1章4節に、この聖霊の注ぎ、聖霊のバプテスマが父なる神からの祝福の約束であり、これを待ち望むようにと語られ、8節に聖霊なる神が臨まれた時、その人は力を受けると言われました。

 一般社団法人低血糖症治療の会が設立され、私はその理事長になりました。多くの人が、身体的要因で精神に不安定を期していますが、それを精神病とされて向精神病薬を処方され、一生その薬を飲まなければならないと指導されています。そもそもは、妻が低血糖症であったことから、日本で最初の治療を始めたわけですが、わたしどもはその長い試練の中から、同じ境遇と苦しみにある多くの方々がいることを放っておけなくなり、治療の会を始めたわけであります。幸いなことに会員は200名を超え、活動に加わってくださる理事も与えられ、このほど法人設立となったわけであります。これから果たさなければ課題も多くあります。その他、教会のこと、クリニックと会社のこと、多くの従業員、更に最近は教団のことなどもあります。しかし、大事なことは聖霊に満たされることであります。

 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4・6)とありますが、物事は、人の能力や権力、組織の力などでなるものではありません。エペソ2章には、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、…この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(1-2節)とあるように、サタンに惑わされているのが、多くの人々です。クリスチャンでさえも、常識という「この世の流れ」に惑わされているのです。神の言葉に従順にならなければ、サタンの惑わしから勝利・脱却できないのです。神の霊である聖霊に満たされなければ、神の業をすることはできないのであります。

 ですから、イエス様を裏切り、自分たちの身の安全を図ってしまった弟子たちは、復活のイエス様に出会い、その愛を知って、自らの罪深さ、無能力を悟って、神に祈り、聖霊なる神の満たしを求めたのです。


 聖霊のバプテスマを受けるのに、必要なことは自らの罪と無能力の自覚、そして聖霊への飢え渇きです。「受けても受けなくても良い」という人に、聖霊が注がれたら、その人に人生にとって、却って益とはなりません。与えられたものを活用し、その力を用いるのは、その人自身だからです。

 既に聖霊のバプテスマを受けた人にも、お勧めします。ルカ11章24節から、汚れた霊が人から出て行った話があります。悪霊に憑かれた人というのがいますが、悪霊が人から出て行くのは、聖霊の働きに寄ります。しかし、聖霊によって満たされた人が、平気で人を批判し攻撃し罪を行うと、聖霊なる神は、その人の中に留まることができなくなります。聖霊によって片付かれたその人の霊の部分が空洞になると、悪霊の影響を受けやすくなるのです。そして、「その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなるのです。」(ルカ11・26

  つまり、私たちは、聖霊なる神が私たちに注がれる必要があり、満たされ続ける必要がある罪の世に生きているのです。聖霊に満たされなければ、サタンの惑わしに負けるでしょう。エペソ書には、「悪魔の策略に対して立ち向かう」(6・10)ことが述べられています。「触らぬ神にたたりなし」などと恐れて、何もしないように考えている人がいるようです。人生は戦わなければ負けます。

  幸せになるために戦わなければ不幸になるのです。自分の罪を正当化して誤魔化していれば、生活は崩壊してくるのです。神は全てを御存じですが、サタンも良く人のことを知っています。弱気なあなたを虜にするのは容易なことでしょう。

 「邪悪な日に際して対抗できるように」、また「一切を成し遂げて、堅くたつことができるように」神の武具を身につけることが必要なのです。人生の勝利には、人間的な武器ではなく、神の武具が必要なのです。聖霊を求めましょう。


6月7日 神を畏れ幸せになるように  申命記52633

5:26 いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。

5:27
あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」

5:28
主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。

5:29
どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。

5:30
さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。

5:31
しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令――おきてと定め――を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」

5:32
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。

5:33
あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。


 再び、申命記の連続説教に戻ります。盗んではならない。偽証してはならない。他人の物を欲しがってはならない。という3点が残っています。礼拝は、神を信じる者、或いは求める者の集いなので、これらのことは当然履行していると思うのですが、実はそうでもありません。

 現在、課題図書として「境界線」を学んでおりますが、人の権利・人格まで差し入って干渉する人が多く、また自らの境界線を保持できなくて周りの人の意のままに生きることが、忍耐であり寛容であり博愛であると誤解している人も多いのであります。

 人間の持つもので最も価値あるものが時間であり、権利であります。これは平等に与えられているのですが、権力者は人々の権利を掌握・操作しようとするのであります。信仰者というのは、神の前に霊と誠をもって礼拝するべく(ヨハネ4・24)、人格を持った歩みが必要なものとなります。ですから、権力や権威に対して自らの見解を持ち、自らの判断をもって対応することが必要なのです。

 ですから、信仰者は自らの権利を自覚すると共に、他人の権利を深く認めなければならないのであります。決して自ら主張する正当性をもって、他人の権利に浸食してはならないのであります。ところが、人間は本来的に罪人であって、自分が正しいと思えば、他人に干渉し、その権利を損なおうとし、またそれを正義だと誤認してしまうのであります。

 これまでの人生経験では、多くの悪人や詐欺師に出会ってきました。不思議なことに、かれらはその当座の行為において、自らの行動を正当なものと確信して、犯罪を犯すのであります。親不幸者が親に対する愛情であると自らを正当化して親を虐げ、不仲の夫婦が相手の薄情を根拠に完膚なほどに迫害し、不器用な同僚に対して迷惑を被っているとして馬鹿にし批判するように、犯罪者は自らの犯罪を正当化しているのです。

 彼らは罪の奴隷となり、欲に惑わされているのに、あたかも自分が審判者になったかのように、弱者に対して犯罪を犯すのです。人に向かって「能なし」「ばか者」と言う者は地獄に投げ込まれると、イエス様が忠告されたのを忘れてはいけません。

 自分の主義主張や立場を絶対間違いのないものと、傲慢にも思いこんでもいけません。自分が正しいと思うから、人を批判し、中傷するのです。誰も神の裁きの前に立ち遂せません。

 幸せを物によって確保することはできません。貧しい者が豊かになりたいと思うのは当然だと思っている現代日本人が多いようです。しかし、貧しさに育ったとしても、それが幸せであった人は、反動的な拝金主義には陥っていないのです。幸せでなかった人々が、金銭や富を求めたのです。そして、殆どの日本人は、仕事や家庭に生きがいを求め、責任ある平凡な生活で満足していたのです。家庭が崩壊したからこそ、拝金主義が起こってきたのです。

 「服装も自由、行動も自由で、何をやっても構わない。神はわたしたちを愛しておられるから決して、わたしたちを責めない。」などと教える牧師がいます。「もし、あなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14・15)とイエスさまは言われます。多くのクリスチャンが、キリストにある自由は、律法からの解放であって、戒律はもたないと誤解しています。それは、怠惰や堕落であって、自分を律することができないならばキリストの弟子とは言えません。

 「堅苦しい服は嫌いだ。ラフな服と態度で暮らしたい。」と考え、生きることは自由です。そして服装に頓着せず、飲み食いには拘泥し、自己主張を繰り広げるとしたら、この日本社会では信用を得ることはできません。最近、そのような牧師が増えています。社会的な影響力を持つことを諦め、単に趣味で牧師をしようとしているのでしょう。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Tヨハネ2・6

 「主が命じられたすべての道を歩まなければならない。」(5・33)。神の命令に対して忠実にそれを果たそうとすることが祝福と幸せの秘訣です。しかし、実際には自分の判断で、自分にとって都合の良い教えだけを受け入れて生きているのが、多くのクリスチャンの姿でしょう。これでは、神は祝福するわけにはいかないのです


6月14日 父の祝福を受けるため  創世記492533
新改訳 創 49:25-33

49:25
あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。

49:26
あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。

49:27
ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」

49:28
これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

49:29
彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。

49:30
そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。

49:31
そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。

49:32
その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」

49:33
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。


 創世記37章2節に「これはヤコブの歴史である。」と書いてありますが、そこ以降に書いてあるのは、ヤコブの子供たちの歩みです。ヤコブ自身の歩みは、「イサクの歴史である。」と記される25勝19節以降です。つまり、その子供の歩みが父の歴史として聖書では記されているのです。ヤコブという人間が、多くの苦労をして形成され、子供の歩みの中でそれがヤコブ自身の足跡として記録されるのです。そういう面で、安易に「子供がなくても良い」とか、「産みたくない」などという夫婦は、足跡のないものとなってしまうので、注意しなければなりません。つまり、人生とは神に与えられたものなので、自らの足跡を残そうとすることは大事で、損得や労苦を避けた人生は、意味のないものとなるのです。その意味からも、離婚をする人々は、自らの人生を放棄してしまうこととなる可能性が大きいので、よくよく注意しなければなりません。

 現代社会は、個人の好みや考え方、そして損得が人生を左右しています。そして仕事も収入の良いことが基準となってしまっています。そのような自分の利益を中心としたような生き方が、そもそも神の祝福から離れているのです。家内が5人の子供を育てて開業医であるということに、患者さんから感嘆の声が多く寄せられます。「今は子供は無理」などという自己中心な考え方をしていたら、我が家の子供は誰も産めなかったでしょう。5人の子供それぞれの出産の時の状況は、全く困難でありました。しかし、私も妻も、良いものも悪いものも全て受け入れて、最善を尽くして生きてきました。子供が与えられて、苦労が増えることなどは、当然なものと思いました。そこに、信仰が与えられ、経験が積まれ、困難に耐える忍耐が生まれたのです。

 ヤコブは、イスラエル民族の祖であり、多くの苦労の末に神の祝福を勝ち得てきた大人物です。しかし、自らを「私の齢の年月はわずかで、不幸せで」(47・9)と言っていますが、エジプトのパロ王を祝福するほどの貫録を示すのです。

クリニックの聖書を読む会で、「父は家庭を平和にするものである。」とヨハネ14章からお話ししました。どんなに困難が起ころうと、家長である父が問題ではない、と決めたら問題ではないのです。「心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14・27)とあるように、万事を益としてくださる神がおられることを長い年月の間に確信したら、もはやどのような問題も家庭の平安を覆すことはないのです。

そのような苦労をヤコブはしてきました。知恵が働き、策に溺れ、人を騙しても来たのですが、それは結局は自分に帰ってくることを悟ったのです。誰よりも知恵を弄してきたヤコブが、結局のところ恐れの中で、神の人にすがり、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」というように、神の祝福こそが解決と勝利の源であることを悟ってくるのです。

私たちの教団も、結成60年となり、日本では有数の力ある教団となりました。日本では一つの教団で3000名以上集めることのできる教団は、もはやアッセンブリーくらいであると自負しても良いかと思います。しかし、宣教力アップなどと方策に捉われるようになったことが心配です。キリスト教の歴史は、神の祝福をもたらす神の僕、神の人によってしかリバイバルが起こっていないし、また信仰というものは、策に捉われては成り立たないものだからです。

 傲慢になって言っているつもりはありません。我が家の祝福は、家長である私に依存します。この教会の祝福も牧師である私が、神のしもべとして真摯に歩むことによって得られるものと信じております。神の祝福は指導者によるのです。企業の成長も指導者によります。指導者が富を追うような企業が、成長発展するはずがありません。アメリカの破綻は、指導者が富と権力を求めたからでしょう。日本の企業もまた、どうような傾向にあります。

  壮年の皆さん。あなた方は、家族を祝福していますか。ヤコブが、大いなる神の人として子供たちを祝福し、子孫はまさにその通りに歩みました。家長であるあなたが、祝福を注ぐだけの力を神から受けなければ、あなたの家族は人生で勝利を得ることはできないのです。祝福を得ることはできないのです。

  人間みな平等などという言葉は、責任ある者が言ってはならないのです。妻が不満を持つのは、あなたの力が弱いからです。妻を祝福しないからです。子供たちが、社会で勝利できないのは、あなたの祝福がないからです。

  私たち夫婦は、全くお金がない中で結婚し、多くの問題と困難を抱えていました。批判され、攻撃され、馬鹿にされ、騙されてきました。そんな中でゼロから教会を始め、子供を5人育て、クリニックを開業し、会社を始め、今回は一般社団法人を設立しました。私たちが、強いはずがありません。力があったはずがありません。能力があったのでもありません。運が良かったら、もう少し楽だったでしょう。

  ただ、神を信じ、試練に負けないで、祈り耐えてきたのです。そして、それが親というものです。父親というのは、弱音を吐いてはいけないのです。神を信じるとは、そういうことなのです。罪に惑わされた堕落の道を歩みながら、安逸を貪り、「恵みだ。平安だ。」などと言っていたら、罠に陥って抜け出せなくなるのです。

 人々は、祝福をする者に集まります。神の祝福は神と共に歩む者に集まります。父親が祝福を注がなければ、家族は去っていきます。


6月21日 心を尽くして神を愛する。  申命記619

新改訳 申 6:1-9

6:1
これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令――おきてと定め――である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。

6:2
それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。

6:3
イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

6:4
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。

6:5
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

6:6
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

6:7
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

6:8
これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

6:9
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。


  尾山令仁師の講演を聞きました。戦後日本のキリスト教を代表する神の器であり、今なお活躍する最後の一人かもしれません。一人で現代訳聖書を訳してしまい、聖書講解の本も殆ど全巻に近いでしょう。練馬にある地上7階、地下2階の大会堂は、文明堂の工場を改装したものであり、日本でも有数の大教会を形成しています。キリスト者学生会を設立し、日本福音同盟の結成にも関わり、ウィキペディアにも載っています。

  この先生が、「つじつまの合わない生活をしてはならない。」と最後に言われました。信仰者として、神にも人にも恥じない生活を送るならば、必ず神は祝福されると淡々と語る経歴は、神の御業の列挙でした。

  「イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」と神は言われます。神の言葉である聖書に従い、守り行なうならば、幸せになり、祝福されるのです。

  ところが、殆どの日本人は建前と本音を使い分け、実際の生活で真摯に生きることはありません。聖研で、抑圧的な指導者にどのように対応するか、と質問しました。95%の日本人は、本音を言わず、じっと我慢して生き、耐えられなくなったら、そこから逃げる、という感想でした。

  福音書を映画化した「ジーザス」という映画をアジアやアフリカで映写すると、多くの人々が福音を信じ、救われたということです。私の妻は、テレビや映画のドラマを本当のことと信じてしまうので、後でいちいち解説しなければなりません。歴史上の事実と、ドラマとしての脚色を区別したうえで、自分の判断の中に取り入れなければならないのです。更に、妻は私の言うことを何でも信じてしまうので、決してごまかしは言えません。でも、だからこそ、聖書の言葉に従い、よく祈り、神にも夫にも従っているのでしょう。

  クリニックに、昔、なんでも自分の判断を絶対として、院長にも他の人にも従わない看護師がいました。罪とは、自己中心ということであるとしみじみ思ったものです。信仰を自分の判断の下においてはなりません。自分の判断を信仰の下におくのです。尾山先生は、聖書をそのまま受け入れ、自分の判断を聖書から成否を確認して行ってきたから祝福されたのです。

  「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり、信仰に進ませるからです。義人は信仰によって生きる、と書いてある通りです。」(ローマ1・17)とあるように、最初から最後まで信仰によって生きる人を、神は正しいとされるのです。

  「心を尽くし」とは、どういうことでしょうか。考えることが、すべて神に向いているということです。例えば、青春時代における恋は、考えることが殆ど恋する人に向いているようなものです。恋する人に心を向けられるために、いろいろと心を尽くします。私たちは、神に対してそのようでありたいと願うべきです。

  「精神を尽くし」とは、どういうことでしょうか。尾山先生は、すべて聖書は何と言っているかを調べつくして、難関に対処したようです。私は数学が得意で、あまり勉強もせずにかなり良い成績を取りました。理由は、わからない問題は、わかるまで探ったというだけです。多くの人が、数学や物理を解く時、公式を適用するパズルのように考えています。私は、その公式がなぜ、そうなるのか、わかるまで考えました。公式の根拠がわかれば、適用は簡単です。神の法則を徹底して探るのです。そして、その公式に従って、人生を送れば、間違いなく祝福されるのです。

  私にとって、精神を尽くしとは、神に喜ばれることは何であるか、しっかりと考え祈り尽くすことだと捉えています。その原則は、「与える」、「献げる」、「自分に得にならないことをして人を助ける」、「計算をした上で、神に委ねる」、「自分を正しいと思わない」、「思う通りにならないことを当然とする」、「当たり前のことをしないで、自分のやりたいことをやる」、「どんなことも喜ぶ」などでしょうか。

  「力を尽くして」とは、自分の能力や判断、財産や体力など、自分がもっているもので、物事に対応しないことです。神がわたしにさせようとしておられることは何なのか、を祈り、するべきと思ったら、全てをそこに注ぐことです。能力や財産を分割して物事に当たるならば、力はそがれます。余力を考えたら、全力を尽くすことはできません。私は、物事に全力で当たる人が殆どいないことを知っています。そういう人は、いつも敗北する言い訳や備えをしているのです。

  吉川栄治の「三国志」を読みました。栄枯盛衰、騙す人は騙され、小知恵を使う人は、小知恵によって滅びます。国を守る戦いというものが、策謀の限りを尽くすのだということは、教えられました。日本人を騙し、搾取するのは、政治家にとって簡単なことでしょう。権利を守り、平和を作り出すために、世界中で命がけの戦いが繰り広げられています。

  私たちは、神に救われた者として、どれだけ神に仕え、神のために命を献げて生きているでしょうか。尾山先生のような者が100人もいたら、日本にリバイバルがおこるでしょう。私は、その一人になりたいと願う者です。


6月28日 主を試みてはならない。  申命記61019

新改訳 申 6:10-19

6:10
あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、

6:11
あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、

6:12
あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

6:13
あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

6:14
ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。

6:15
あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。

6:16
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

6:17
あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。

6:18
主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。

6:19
そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。


  罪責感は、歳と共に変移するように思われます。幼児期においては、基本的に罪責感はないのが普通で、怒られたり罰を受けたりするのが怖くてすくんでしまうことはあります。この時期に適切な指導を受けないと生涯、健全な自己規制や倫理観が形成されない場合もあるのではないでしょうか。

  児童期は自己意識が形成される時期なので、賞罰や訓戒が最も有効な時期だと思います。ティーンエイジャーは、心身の急激な成長期で性的な欲求や願いも強い時なので、規律的な生活を集団として形成させないと暴走することがあります。罪責感も最も強い時期です。これが大人や社会に対する攻撃にも振り向けられます。

  18くらいから20代に掛けて、自分というものをつかんでくる時期ですが、この時期にもなお、罪責感が強いとうつ病の様相も呈してきます。ふつうは、人は皆ある程度、罪深く、自分勝手なものであるという認識をしてくるのです。

  30代は、思う通りにならない所属組織の中で、最も多様かつ煩雑な問題が積み重なり、罪責感ではなく、不満が募ることが多いでしょう。40代になるとある程度安定してくるのですが、心を通わせる友人知人がいない現実に気が付き悲観的になるものです。50代になると、自らの弱さに気がついて、優しくなってきますが、社会的対応能力がついただけで、罪責感などはなくなっています。60代になると自らの足跡を何らかの形で残したいのですが、ふつうは人生を反省することなどはありません。過去を懐かしみ始めます。70代になると、難しいことは考えず、ただ平穏無事に暮らしたいのみです。

  そういう面で、自らの罪を認めて悔い改め神の救いを求めるということは、10代から20代が最も良いのですが、現代社会は彼らに欲望のはけ口としての享楽を提供しているので、そのようなものの充足をもたらす宗教しか、寄りつこうとしません。

  しかし、そのような状況の中で、うつ病になる率は、10%位であると言われています。うつ症状ではなく、うつ病になるのが、治る人も含めて生涯では10人に一人というのは、驚くべきことです。統合失調症も含めて、セロトニンやドーパミンなどの分泌異常も原因とされおり、低血糖症ではその内科的な治療をもくろんでいます。しかし、私としては、その内科的異常をもたらす精神的な原因が気になります。年代的な罪責感の分析を長々としましたが、聖書は年代に関わらず罪の問題が、私たちに襲いかかると指摘するのです。

「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。」(Tヨハネ1・8.9)。どんなに自らを正当化し、他人や社会を悪く言っても、心は自らの罪深さを知っており、欺くことはできないのです。悔い改めない者に平安はないのです。

 「マサで試みたように、主を試みてはならない。」とはどういうことでしょうか。出エジプト17章を読むと、飲み水がないと言って不満を言い、指導者モーセに逆らったことを指摘しています。7節には、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。と書かれています。

  聖書では、神がおられることを信ぜず、毎日の生活に不満を言うのが、神を試みることであり、罪なのです。申命記6章には、「、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」(17-19)とあります。

 私のことを「祝されている、ラッキーだ。」と言う人がいます。ラッキーでつかんだ幸せはアンラッキーで失います。毎年毎年、試練の連続です。眠れぬ夜は相変わらず続きます。神に叫び、もだえ苦しみます。私には、なぜ多くの人々が祈らずに過ごせるのか不思議でなりません。彼らは、主がおられないとして、主を試みることもせずに不信仰の生活を送っているからです。

  幸せになるためには、信じなければなりません。結婚しようとする者は、「結婚して幸せになる。」と信じるから結婚するのです。さらに、「この人を幸せにしよう。」といつも伴侶のことを思っていれば、必ず幸せになるのです。仕事にかまけて妻を喜ばそうとしていない夫が、妻から喜びを得ようとするのは、「妻を試みているのです。」妻は、あなたの生活の中にいるのです。あなたの片割れなのです。「妻が私を愛しているか、いないのか。」などと試みる夫は、必ず妻に虐げられます。妻に対する健全な罪責感をもたなければなりません。

  「仕事が大変で家族のことなど考えていられない。」という人は、心をゴマ化しているのです。本当ならば、「仕事が大変で、家族に十分な時間を割けなくて申し訳ない。」と考えるのが正当なのです。罪人の論理は、自己中心的であり、人から愛されることはありません。

  去年の信仰で今年も過ごせたら何と楽なことでしょう。なぜ、いつも試練が続くのでしょう。皆さんには、良い結果しか報告しておりません。しかし、良い結果は、神の祝福のおかげであり、そのためには、主を試みない、忠実な信仰が必要なのです。マサの時のように不満を言ってはなりません。不満を言う人に神の祝福はありません。うまくいかなくて良いのです。思う通りに行かなくてよいのです。ただ、主に喜ばれる良いことをしていけば、それで良いのです。自分に納得のいく証拠やしるしを求めなければ前進しない人を不信仰というのです。

  実際、今年も試練の連続です。疲れ果て、眠れぬ夜を何度過ごしたことでしょう。私は、神なくして生きることはできません。主よ、私を助けたまえ。と祈りながら、進むのです。今年の結果も皆さんは、後に知るでしょう。それは神の御心次第です。