10月5日 人とは戦わない。   申命記2919

新改訳 申 2:9-19

2:9
主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。

2:10
―そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。

2:11
アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。

2:12
ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。

2:13
今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。

2:14
カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。

2:15
まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。

2:16
戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、

2:17
主は私に告げて仰せられた。

2:18
「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。

2:19
それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。


先週は、回り道も失敗も神の導きの中にあり、失敗をしないようにと注意するよりも、失敗や試練を経て神と共に生きる道を見出すべきことを語りました。今日は、明確な敵であっても、決して自ら戦いを仕掛けてはならない、ということを語ります。

ヨハネ8章に姦淫の場で捕らえられた女性がイエス様の前に連れ出された記事があります。人々は、律法に従って彼女を石打ちの刑で死刑にしようとします。もし、イエス様がそれをさせれば、他の律法学者と同じで人を罰する者として人気は落ちますが、それを否定すれば、律法に違反することを教えようとする者として非難されます。

 ここで大事なことは、人々がイエス様は彼女を罰しないのではないかと考えていたことです。だからこそ「彼らはイエスを試して」いたのです。イエス様は、それに答えず、指で地面に何かを書いていました。そして、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われると、人々は年長者から離れて行ってしまいました。

 これも、多くの解釈者が、この女性は無理に姦淫をされたとか、境遇が悪かったなどと書きますが、それは全く適切ではないと思います。罪を犯すのに正当化はない、と聖書は明確に示しています。ですから、律法に従えば死刑が当然です。それでは、なぜ人々は、逃げ去ったのでしょうか。人々はイエス様の裁きの結果を知ることに興奮しているので、容易なことでは去らないでしょう。

 私は、イエス様は地面にそこにいる人々の罪状を名指しで書いたのではないかと思います。人々はびっくりして、その文字を追ううちに、自分が書かれるのを恐れて逃げたのではないでしょうか。

 しばらく前に私の公的な対処に対してあからさまに、非難をしてくる人がいました。私の指摘は、その人を公的なペナルティから守るものだったのに、自分を非難していると勘違いして攻撃してきたのです。私は、相手にせずにいます。ビルの購入の時期にも、法外なことを要求してきた会社がありました。祈りの結果、やはり相手をせずに神の手に委ねることにしました。購入や改装の大事な時に、そんなことを相手にしているほど愚かなことはありません。更に、些細なことで勘違いして文句を言ってきた人もいましたが、説明を聞かず、自分の主張を繰り返すばかりで会話が通じないので、相手をすることを諦めたこともあります。ともかく、攻撃に対して反撃することは愚かです。

 多くの人が時間を掛けて人を非難攻撃しています。人差し指で他人を指すと親指は天に向き、残りの3本は自分を向くことを話したことがあります。

 「すべて他人を裁く人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1)。

クリスチャンや牧師でさえ、人々を矯正しようとして罪を糾弾する人々がいます。他人の人格の中にまで立ち入って、批判や非難をすることは許されません。むろん、悪いことや間違ったことは指摘するべきです。犯罪であれば、黙認することなく警察に届けるべきであり、悪い習慣であれば、丁寧にアドバイスすることは必要であり、良いことです。ところが、ある人々は、自制ができなくてアドバイスではなく、批判や攻撃になってしまいます。そして、興奮するうちにさらにボルテージがあがり、自ら罪を犯すものとなってしまうのです。

モアブの王バラクは確かにイスラエルに対して姦計を図り、罠にはめようとしました。しかし、相手がどう思おうと親戚を攻撃してはならないのです。最近は、家族を殺したり、暴力を振るったりする事件が多くなっています。或いは、性格が悪い、付き合いが悪い、として親戚づきあいをやめることを正当化する人が多くいます。どんなに理由があっても、相性が悪くても家族を捨ててはいけません。神の前に正当化はないのです。

 信仰者ならば、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12・18)、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(12・21)。自分の主張が正しいとして、遠い所まで出て行って、裁判官になってはいけません。信仰者とは、神に裁きを委ね、自己の主張などに重きを置かずに神に従うものです。

 私に対して、非難や攻撃などをしてきた人は数多く、善意に対して悪意で答えた人も多く、勝手なことを言い、勝手なことをして被害を被らされた人も数知れずいます。しかし、そのようなことに囚われていては、神に仕えることはできません。私達にとって、過去は過ぎ去ったのです。あなたの恨み、悲しみ、苦しみ、苦味を打ち捨てなければ、新しい歩みをすることはできません。

 改装の時に、次から次へと問題が出てきましたが、気にしないので、監督や業者が感心していました。問題に囚われては、前進することはできません。後ろを振り返っていては戦うことができません。モアブ人やアモン人などを相手にしていてはならないのです。

 今回の購入改装は確かに費用が掛かり、資金がとても足りません。塔を建てる時、完成に十分な金があるかどうか、計算せずに着手したら敵にあざ笑われます(ルカ14・28)。「そういうわけで、あなたがたは誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14・33)。いつも命がけに生きたら、どうにかなります。神の業をしようとするのに、戦いがないはずがありません。勝利をするためには、戦わなければならないのです。しかし、それは肉的なものではありません。人の攻撃や弱さ、罪などに惑わされていてはいけません。人と戦うのではなく、霊的な闘いの場は私達の中にあります。



10月12日 白以外は黒という考え方。   申命記22434

新改訳 申 2:24-35

2:24
立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。

2:25
きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」

2:26
そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。

2:27
「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。

2:28
食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。

2:29
セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」

2:30
しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。

2:31
主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」

2:32
シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、

2:33
私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。

2:34
そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々――男、女および子ども――を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。



 欧米の論理は、敵味方、勝敗をはっきりさせるものです。これがそのまま聖書的というわけではありませんが、アメリカの大統領選挙と日本の首相の選び方を見ているとその違いがよくわかると思います。勝ち負け、優劣をはっきりさせないとその後の仕事がうまくいかないのです。有権者も所属政党の基本的姿勢を理解した上で、候補の実力と本質を見極めて投票します。そして勝った大統領で、絶対的な力を持ちます。日本では、民主党の比例代表制で議員になった人が二人も、脱党しながらそのまま国会議員を続けるというありえないことがまかり通っています。また、指導者の批判を公に発言するというマナー違反が多くあります。

 先週は、安易に敵を作ってはならないということを聖書からお話しましたが、今週は白黒をはっきりするということ、つまり立場を鮮明にして明確な敵とは断固として戦うべきということを語ります。こういうことが日本人はあいまいですが、それは罪をごまかして生きるという、まさに罪の文化の産物なのです。

 神なき〔神の存在を知らない〕社会では、ばれなければ問題にも罪にもなりません。汚染米事件も、ばれなければ平気として、関わった殆どの人が誤魔化しを続けています。産地偽装も、雪印がそれで潰れたのに、船場でも同じことして潰れました。魚沼産こしひかり、讃岐うどん、あさり、ミートホープ事件、うなぎと続いていますが、おそらく他にもあるでしょう。

 ティールーム・マーサの試飲では、コーヒーのサイフォンにおける混ぜ方で酸味や苦みが違ってしまうことがわかりました。料理のプロと下手くその明確な違いは、量をきちんとはかり、素材を吟味し、味を自分の舌で味わえるかどうかです。粉のかきまぜ方で味が違ってしまうことを「よくわかるね」と娘が言ったので、「しっかりと味わえば誰でもわかる。大事なことは、味がわからないと思いこんで飲食していることだよ。」と教えて、試飲させたところ、やはり違いがわかりました。先日も、出てきた水を「これは、うまくない。」と吟味したら、やはり入れ方が間違っていました。

 食べ物を扱う人が、素材を誤魔化せるということは、自分の仕事にいい加減だからです。ポットから熱湯で煎茶を入れる人が多いのに驚きます。どんなに良いお茶でも、うまみや香り味わいが無くなってしまいます。食事もまずいものがわからずに食べてるのに驚きます。それでは、人生の味わいも味わうことはできないでしょう。そして、善悪もわからず、不正にも気がつかないで済ましてしまうでしょう。味を誤魔化しても、味わいを知らない人々にはわからないのですが、わかる人にはすぐにばれてしまいます。そして、ばれたら倒産です。

 嘘をつき、自分しか知らないので、白を切ることを平然とする人々がいます。「誤魔化していない。」と平然と嘘を言う人が日本社会には多いのです。一度言ってしまうと、そのつもりで嘘を言い続けます。そういう人が、天国に行けないのはもちろんですが、この地上でも祝福されることはありません。

 日本では発砲ワインをシャンパンと言っていますが、それはシャンパーニュ地方産のものだけですし、ブルーマウンテンもジャマイカの標高800-1200mの特定エリアのものだけなのに、日本の販売量は輸入量の3倍にもなっているという不正が横行しています。食糧だけでなく、経営においても、組織においても皆が不正を平気で犯している社会が日本です。このようなことをいつもしている人々は、神の裁きと聞けば、自分が罰を受けるのが当然ですから、決して罪を認めて悔い改めることをしません。赦しや救いと言っても、白状すれば罰を受けるので「正直者は馬鹿を見る」と決して、自分の罪を正直に告白しません。そういう人々に聖霊なる神が、働くことはできないのです。

 神はエモリ人が、頑固な民族であり、長旅のイスラエル人に対して決して寛容ではないことを知っておられました。水も食べ物も支払い、寄り道はしない、と申し出ているのに、戦いを仕掛けてきます。私たちは、戦いを恐れてはいけません。恐れるが故に、罪と妥協するのです。すべての人に受け入れられ、評判を良くしようとしてはなりません。罠に陥ります。「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」(箴言8・13)。

 私たちは、このエモリ人のように自らの罪過と罪の中に死んでいたものであって、サタンの支配下にあるこの世の論理に従って歩んでいました(エペソ2・1-3)。本来、同じように「御怒りを受けるべき子らでした。」(3節)。ただ、「恵みのゆえに信仰によって救われたのです。・・・行いによるのではありません。」(89節)。

 自分を守ろうとして神に敵対する者は滅びます。しかし、キリスト・イエスは、その敵意を自らの身体ですべて引き受け、その上で私達に愛をお示しになり、救いの御業を成し遂げられたのです。そして、もしこの方を受け入れるならば、「あなた方は、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2・19

 神はエモリ人を憎んだのではなく、頑なな者を憎んだのです。皆さんの中で悔い改めの機会を失してしまった人はいないでしょうか。いくら一生懸命奉仕しても、忠実に献金しても、聖書を読み祈っても、嘘をついたまま、誤魔化したままでは、罪はあなたを離しません。

 砂の器という映画を20年くらい前に見た時の衝撃が忘れられません。過去を偽り、成功者になろうとしていた青年の前に、昔のことを知っている善良な老人が現れました。その人を殺し、自分の過去を知る者は誰もいないと思っていた犯人に、執念深い刑事が調べ上げて追及してきたのです。隠そうとしたが故に、大きな罪を犯してしまいました。神は、あなたの過去・現在・未来に亘る罪を身代りに引き受けてくださったのですが、あなた自身が隠し偽った者は、神の前に悔い改めるまでは、あなたを追い詰めて、地獄への引きづり落とします。正直に悔い改めてください。



10月19日 無神論との戦い。   箴言1431節、ルカ18914節 上原和雄師

新改訳 箴 14:31

14:31
寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。

新共同 箴 14:31

14:31
弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。

新共同 ルカ 18:9-14

18:9
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

18:10
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

18:11
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

18:12
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

18:13
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

18:14
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


10月26日 終末のしるし。   使徒の働き2章172432,33
使徒 2:17-2432.33

2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。

2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。

2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。

2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

2:32
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 世界大恐慌以来の不況が起こると予測され、地球温暖化や天候異変、そして犯罪やテロ、また食糧危機など、諸問題が次々に起こっています。人々は、このような時でも「自分の欲望に従って生活し」(Uペテロ3・2)、変わっていないと言います。しかし、「彼らは次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。」(Uペテロ3・5,6)。

 先週は、創造論の論理について学びました。確かに、地層の真っ直ぐな線は普通ではできるはずはなく、洪水によってしか形成されません。化石も急激な埋没でしかできないし、進化のしるしが現在までどのような形でも立証されていないことは知らされるべきであります。人体の精巧さと秩序は綿密なデザイン無しに形成されることはありえないのです。偶然ではどんな年月を経ても何も出来上がらないのです。講師は、謙遜な方ですから、「創造論を率直に言って人を躓かせてはならない」と強調されましたが、私は「いのちに至る門はせまく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7・14)として、敢えて創造論を信じ求める人に語りかけるのです。

 さて、今日はそのような終末のしるしの一つとしての聖霊のバプテスマについて、お話します。教会は、五旬節の日、つまりペンテコステの日に始まりました。イエス様が昇天された後、その命令(使徒1・4)に従って祈り待っていると、聖霊に満たされて異言を語り始めました(使徒2・4)。町の人々は、その異変に気がついて集まってきましたが、聖霊に満たされた彼らの興奮を見て、酒に酔っているのかと思ったのですが、それに対してペテロが説教しているのが、今日の聖句です。

 ヨエルの預言は、終末における聖霊のバプテスマ(充たされる)でした。パウロはそれが町の人々の前で起こっていると説明し、イエス・キリストが十字架に掛かって人の罪を負ったからこそ、人は罪から解放されて信仰者となり、聖霊のバプテスマを受ける状態になるのだと迫るのです。

 信仰者とは、理解によって生まれるものではありません。赤ちゃんは産まれる前は臍で酸素も栄養も供給されていたのが、産まれたとたん、オギャーと泣いて肺呼吸になるのです。それ以前だったらおぼれ死んでいます。同じように、魂の救いは、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)とあるように、「御霊によって生まれる」(3・6)ことが必要なのです。

 産まれる赤ちゃんには、何の知識も理解もありません。ただ、オギャーと泣くだけです。学者のニコデモはこれがわからないので、「老年になっていて、どのようにして」(3・4)と困り果てるのです。「風はその思いのままにふき、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3・8

 要するに、救いは理解や知識によって達成できるものではなく思い通りにならないのです。神に服従しなければ決して救われることはないのです。さらに、この典型が聖霊のバプテスマです。与えられるまで求めるしかないのです。ノウハウはありません。徒弟制度と似ています。どんなに努力しても、知識を積んでも、だめなものはだめであり、それがわかるのは親方であり、作品なのです。

 大親方である父なる神が認めなければ、誰も聖霊のバプテスマを受けることができません。異言らしい声マネをしても受けていない人は受けていないのであって、他人が受けたと認めたとしても、作品(御霊の実)を見て、確かにその人は聖霊のバプテスマを受けたとわかるのです。救われていない者に聖霊のバプテスマはなく、救われているからといって聖霊のバプテスマを受けるものでもありません。

 「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」(ルカ11・9)として、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(11・13)とイエス様は説明します。見つけられない人は、こんなに探したのにないのだから、ないに違いないと説明するために見つけるふりをします。見つける人は、見つけるために、知恵を絞り、探し続けます。

 同様に、こんなに伝道しているのに、あの人は救われないと自分の労苦を確認する人がいますが、そういう人はいくら伝道しても、人を救いに導けません。神学生が個人伝道法を教会員相手に練習しても良いかと連絡してきたので、練習された教会員が迷惑するから、練習ではなく真剣に伝道しなさい、と伝えました。この人を救いに導きたいという一心で伝道法を身につけるのなら良いのですが、伝道法を身につけて一人も伝道できなくなる頭でっかちな神学生が増えています。つまり、求道者にしても、伝道しようとする信者にしても、大事なことは理解の先に救いや聖霊の満たしがあるのではないことを悟らないといけないのです。

 テキストには、終わりの日とあります。教会時代は、この紀元二六年頃から二〇〇〇年間続くとも言われます。私たちはイエス様の地上再臨の前に七年間があると信じていますから、二〇一九年頃、携挙があり、大艱難時代が始まると言えないこともありません。「主の大いなる輝かしい日」(使徒2・20)とは地上再臨であり、「このイエスは、天に昇って行かれるのをあなたがたが見た時と同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)ということの実現です。新興宗教のように脅して信仰に熱心にさせるのに似ていますが、ありうると言っておきます。

 クリスチャンは、イエス様が神の子であり、救い主であり、天に昇られて私達の為にとりなしをしていてくださると信じているのですが、この方が実際にもう一度終わりの日に地上に戻ってくると語られたのを信じている人は少ないのです。しかし、確かに歴史も、地球も、社会も終末に向かって進んでいると思われます。「太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(使徒2・20)。聖書には、非常に多く終末予言が書かれていますが、なぜ、多くの人がそれを無視して信仰生活をいとなんでいるのでしょうか。マタイ24章をよく読んでください。


11月2日 家族を守るために。   申命記3章1828

新改訳 申 3:18 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。

3:19
ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。

3:20
主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」

3:21
私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。

3:22
彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

3:23
私は、そのとき、主に懇願して言った。

3:24
「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。

3:25
どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」

3:26
しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。

3:27
ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

3:28
ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

 イスラエルの二部族とマナセの半部族は、ヨルダン川の手前に所有地を与えられました。彼らは、自分たちの財産を与えられたことにホッとしたことでしょうが、この後はもっと大きな戦いと試練が彼らに残っていました。彼らは自ら約束した(民数記3216-19)とおりに、領地に妻子をおいて他の部族の先頭に立って戦わなければならないのでした。

 男というのは、女性とは違います。戦わなければならないのです。女性の社会進出や権利や立場の向上は当然なことですが、現在はかつてのウーマンリブのような男性と同じことをする、ということではなくて、女性は女性として社会的地位を獲得するということに変わってきています。野球やサッカーのような球技でも格闘技でも男女の差は明らかですから、女性に男性と同じようなことをさせるのが平等ではなく、却って差別になるのです。神は、男の助け手として女性を創られたということは、決して女性をマイナーなものとして捉えるべきではありません。

 妻と一緒にゴルフやスキューバをしてみてわかったことは、男性と同じような肉体鍛錬とか競技という意識よりは、楽しくスポーツをするという意識の方が強いということです。これは、総じて妻だけのことではないようです。ですから、夫婦が一緒にゴルフをしても、最後まで仲良く一緒に続けるのは難しくなるのです。私は、妻と一緒にクラブコンペに出ることは諦め、ともかく仲良くゴルフとすることに覚悟を決めました。それでも、男性は何らかのルールを作って自分を鍛練しようという傾向があるので、女性を同じような考え方にしようとしてしまいます。スポーツの世界で一流となっている女性は、これに身につけて鍛練しようとしているのでしょうが、妻や母と両立して社会の第一線に生きることは、それなりの覚悟が必要でしょう。現在の我が妻は、健康管理に気をつけてマイペースに生きながら家族や周囲の人を気遣うという女性としての生き方を身につけたように思われます。

 しかし、敵と戦い、攻撃したり、仕事に命がけになって働くということは、男ならではのことです。男性というのは、闘争的にできており、社会的、組織的、理論的に動くのが基本的な習性です。これが身についていないと社会的には成功することは殆どないので、妻が夫の上に立って叱咤激励をしたり、指導したりすると男性は闘争心をなくし、却ってうまくいかなくなります。戦後はマイホーム主義と言って家族を大事にする男性が多くなっていますが、家族を仕事よりも大事にする男性が社会的には成功するはずがなく、男性らしさがなくなっていって、問題が起こった時に対処できなくなる場合が増えていると思います。最近の家族問題や社会問題の根底には、父親の問題処理能力の減退が大きな要因だとおもっております。

 エペソ5章には、キリストが教会の為にご自身を捧げたように、夫も自分の妻を愛しなさい、とあります。つまり、家族を守るために命がけになれということです。男が愛するというのは、仲良くするということではないように思います。

 そういう面では、父なる神の愛というものを女性的に理解するのは難しいと思います。神の愛は、人間に理解されることが難しいほど、ある時は沈黙され、ある時は厳しいものとなります。従って、人間の弱さ・罪深さをご存じの大祭司なるイエスキリストのとりなしにすがる(へブル4・15)ということは、父なる神の強さとつりあう優しさともなります。

 今日の説教の要点は、次のとおりです。

1. 家族を守るために男性は戦いに出なければならない。

2. 戦うために男性は攻撃的、論理的、社会的に創られている。

3. 男性の力が損なわれた社会や家庭は崩壊する。

4. 父なる神の愛は、男性的なものとして捉えなければわからない。

5. 信仰の勝利は戦いによって勝ち取ることができる。

 先週、終末のことをお話しました。時代は、更に悪くなっていくでしょう。そのような時代にあって、必要なことは男性の強さです。家庭を守り、社会を築きあげるのは男性です。仕事というのは、妻子を家において、命をかけてしていることを、奥さんがたは理解してください。男女を差別するのではなく、違いを伝えているのです。男性は家庭を守るために外に出て、女性は家庭を守るために中にいるのです。そういうものとして互いを理解しないで、それぞれの要求を伴侶にすると、それぞれがストレスを抱えるのです。ただし、これは原則であって、状況と例外によって変わってきます。

 後半は、モーセがピスガの頂でカナンの地を眺めるところです。すべてが思うようにはならず、モーセはカナンに入ることを許されませんでした。先日、ある人が次世代に引き継がせることが使命だというので、どのくらいやるのかと聞いたら、数年試してみると言いました。私は、そんな無責任な人とは協力できないと、答えました。次世代や子供たちが私を引き継ぐかどうか、わかりません。ただ、自分の人生を思いっきり生きなければ、私の人生を与えてくださった神に申し訳ありません。私たちは、ただ一つのユニークな存在であり、自分の力と能力を出し切ることが肝要です。次世代がどのようにそれを捉えるかは次世代に任せるべきで、神がそれをどのようになさるか、私たちが干渉するのは越権です。

 戦士たちは自分が死んだら、妻子は路頭に迷うことにもなるかもしれないとおもったことでしょう。私も守るべき教会、仕事、家族がありますが、出て行って戦うことが神に与えられた使命です。先月末に知り合いの会社が倒産して、社長が自殺しました。悲しいことです。真理を知らず、救いを知らず、ただ一生懸命生きて死んでいく人ばかりではないですか。

 人を救いに導くというのは、戦いです。霊の戦いです。油断したり、甘えていては、負けてしまいます。「あなた方は罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(へブル12・4


11月9日 父なる神のコーチング。   申命記419

新改訳 申 4:1-9

4:1
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

4:2
私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

4:3
あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。

4:4
しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。

4:5
見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。

4:6
これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。

4:7
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。

4:8
また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。

4:9
ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。


 スポーツには必ずコーチがいます。自分で自分を点検することは不可能であるからです。マラソンの高橋尚子さんは小出監督と離れてコーチを置かなくなってから成績は落ちる一方のまま引退しました。最近は、スポーツ以外にもコーチングが必要なことが知られてきました。コーチとは馬車を意味し、人を目的地に運ぶところから、その人の目標達成に導く人をコーチというようになったそうです。学習は自分の判断で行い身につけるものですが、それでは身につかないことも多いのです。

 巨泉さんと一緒にゴルフした時に、「あなたはきちんとしたコーチに指導されなければだめだ」、と明確に指摘されました。確かに自己流のゴルフでは身につかないことが多いのですが、特に男性は人に指導されるのを嫌うようです。最近は指導される必要を感じているのですが、もはや時間のゆとりがありません。でも英会話については、レッスンを重ねて言い回しや発音、そして単語について指導されています。若い時には、先輩や指導者がいるのですが、歳をとってくると指導者がいなくなってきて、人格的な停滞をもたらしてしまうことがあります。

 神の教える「おきてと定めに聞き従う」ならば、「幸せになり、長く生き続ける」(4・40)ことができます。ところが、本人は聞き従っているつもりでも、実際は、そのことばに「付け加えたり、減らしたり」(4・2)して、勝手に適用したり、解釈したり、誤魔化したりする場合もあるのです。

 スポーツでは、コーチがいないと自分の身体に負担のあるトレーニングや練習を続けることができず、強くなることはできないそうです。だから、優秀なコーチは、当人をよく観察し、問題点や弱点を克服して強くなる課題を考えだして、繰り返して取り組ませるのだそうです。選手がそれを納得して、繰り返して取り組めば必ず強くなり、成長するのです。

 ところが、実際にはコーチに従わない人が多いのです。スポーツは成績が悪くなり、勝負に負けるので結果は明らかなのですが、言い訳を言ったり、自己流を変えない人はいるものです。どのようなものでも指導を受けるというのは、自我が強いと従えないものです。先日、寺田さんの親業講座がありましたが、聞いているだけなら良いのですが、ロールプレイがあります。私など、牧師ですから、うまくできなかったらどうしよう、などと不安になることもあります。本当は、うまくやる必要はなくて、失敗しながら身につければそれでよいのですが、なかなか緊張します。船橋から来た方が多かったようですが、親として成長しなければならない、という気概をもって自分を変えようとしている姿に感心しました。

 人生は戦いであると語っていますが、実際にはこれに気がつかずに生きている方が多いのです。コーチに従ってきちんとトレーニングをしないと、身体を強く維持できず、怪我をしたり、命を失うことさえあります。メンタルトレーニングは、身体や技術のトレーニングよりもハードかもしれません。ゴルフの石川遼選手が若くして優勝しましたが、急激な心身の強化に驚きます。

 聖書は、神に従わなかった者は死に、「主にすがって(しがみついて)きたあなたがたはみな、今日生きている。」(4・4)と生死の狭間を示します。実に40年かけて神はイスラエルの人々をコーチしてきたのであります。そして、国々の民に「あなた方の知恵と悟りを示すことになり、これらすべての掟を聞く彼らは、『この偉大な国民は確かに、知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう。」(4・6)。つまり、おきてと教えに聞き従う者は、知恵と悟りのある者なのであり、偉大になるのは、聞き従う謙遜さがあるからなのです。

 「私達の神、主は、私たちが呼ばわる時、いつも、近くにおられる。」(4・7)このような優秀で優しく働き者のコーチである神を私たちは、父なる神とさせていただいているのです。優秀な人ほど、優秀なコーチを探し求め、多くの犠牲を払っているのです。そして、コーチから指導されることを最優先にしているのです。

 皆さんは、聖書を読むこと、祈ることを最優先にしているでしょうか。仕事を優先したり、遊びや趣味を優先する人の人生は、心身共に破たんがきます。世の中のプレッシャーに対抗できなくなるのです。

 6月から9月にかけてすさまじく忙しかったのですが、私にとっては礼拝の準備や祈祷会・聖書研究会は神と交流する大事なものでした。10月からは、その間の知的トレーニングの不足を補うために既に10冊以上の本を読んでいます。英会話のレッスンも15回したし、スイミングも元のペースに戻しました。足腰の衰えを感じているので、散歩は強化しました。

 新しいプロジェクトを幾つも始めています。大きな事業になってきたので、自分を更に強化しなければやっていけません。ルカ14章には、塔を建てようとしたのに、基礎を築いただけで完成できなかったら物笑いの種になるとあります。自分を強くし成長させなかったら、神の業を成し遂げることはできませんし、神も私達に委ねません。そして、敵や誘惑に対して「ひたすら慎み、用心深く」(4・9)なければなりません。

 キリストにあるならば、新しく造り変えられ続けなければなりません。「自分はこういう人間だ。」などと定義する者は、神に用いられることもなく、サタンに誘惑されるだけです。神に従うということは、自分のあり方を変え続けるということです。全知全能なる神は、私たち一人ひとりに固有のコーチングプログラムを持っておいでなのです。私たちが自己主張をやめ、神に聞き従うことをしなければ、私たちは、もうしばらく地上の権力を握っているサタンに惑わされ負けてしまうのです。クリスチャンが自動的に勝利するほど、世の中は甘くありません。


11月16日 姿なき神を見ようとしない。   申命記41019

新改訳 申 4:10-19

4:10
あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

4:11
そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。

4:12
主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。

4:13
主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。

4:14
主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。

4:15
あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。

4:16
堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。

4:17
地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、

4:18
地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。

4:19
また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。

 「あしながおじさん」という小説を読んだことはあるでしょうか。孤児院の少女を経済的に支援する代わりに、毎月1回学業報告を手紙ですることを条件とした人への手紙でできた小説です。西日の中にその人が立っている長い影を見ただけで一度も会っていない人への親密な報告ですが、そのジュディは「足長おじさん」と呼んで慕うのでした。大学卒業後も足長おじさんへの手紙を書き続けるのですが、友人の親戚の青年から求婚され、孤児院出身であることを告白できずに拒絶したことを「おじさん」に手紙で相談します。苦悩しているジュディに初めて「おじさん」が会うことを告げて、会ってみると実はその青年だったのでした。

 私たちはいろいろと想像します。テレビや映画で理想的な家族を観ると、自分もそのようになりたいと願い、現実の生活に失望します。結婚相手も美男美女で学歴と教養があり優しくてスポーツマンであり、仕事もできて収入も良い、ついでに家事も一緒に手伝ってくれて旅行にも行く・・・。このような理想像を持った人と結婚した人は悲劇です。願う前に自分自身をよく見つめて分析をしなければなりませんが、そうすると悲観的になって誰とも結婚できない・・・などと失望してしまいます。理想的過ぎてもだめですが、現実に拘束されると強く生きることはできないものです。

 オバマ次期アメリカ大統領は、自分が大統領になることはアメリカの夢の実現であると演説し、国民を熱狂させました。誰がなるにしてもアメリカの将来は、それほど楽観的なものではありません。しかし、人々は、夢を描くのです。幸せな自分を願い、国の繁栄を願うのです。

 今日の聖句のポイントは、「自分の都合良いように神を見定めてはならない。」ということです。神は掟と定めを教え、それに従って、歩むように私たちをコーチングすると先週語りました。さて、その過程の中で神は、「十分に気をつけなさい。あなた方に話しかけた神の何の姿も見なかったからである。」と戒めています。自分たちのために神を定義づけてはいけない、と激しく禁じているのです。

 イエス様は、「『はい』と『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5・37)と言われました。自分の判断というものを強く持つことを警告されているのです。誓うということは、自分の判断を絶対とすることです。私達のやったことが良いことだとはわかりません。また失敗だと思われても、それが果して本当に益でなかったか、神の導きでなかったかもわかりません。大事なことは、ある出来事や経緯を勝手に判断したり、意味付けてはいけない、ということです。

 足長おじさんが、相手の青年であることを知っていたら、この本はドキドキしないものになっていたでしょうし、ジュディが足長おじさんを勝手に年寄りであると思わなかったら、本音が言えなくて、この青年の好意を得ることは難しかったかもしれません。人生は、夢見ることは楽しいし、自分の都合の良いように物事が進むのを望むものです。


 しかし、夢見るということと、神を自分の都合良いものとするということは全然違います。信仰にとって、神の御旨がどのようなものであるかわからない、ということは非常に大事であり、謙遜でなければ、どうしても自分勝手に意味づけをしてしまうのです。ジュディも自分が大学卒の快活な娘であるという印象を持たれることを優先し、孤児院育ちで家族がいないことを愛する青年に知られるよりは、拒絶することを選んだのでした。

 神は「あってあるもの」、つまり定義づけできない御方なのです。ですから、「神は愛である。」などという一面で神を定義づけるならば、世の中の争いや不公平に納得できなくなってしまうのです。さらに、自分の使命や目的なども決めつけてしまうと試練に対応できなくなってしまいます。長くても100年くらいしか生きない一人の人間の意味付けなど無駄なのです。

 アブラハムは、100歳にしてイサクを与えられました。ゲラルの王アビメレクはアブラハムが「何をしても神はあなたと共におられる。」と感嘆したように祝福の人でしたが、その一人子イサクを神は生贄として捧げろと命じられました。アブラハムは翌朝早くにそれを実行しようとして出かけるのです。

 私にもいろいろな願いがあります。子供達の救いと献身、教会の祝福・・・。思い通りにならないことばかりです。皆さんは私たちを祝福された者と見てくださいますが、実は私は思い通りにならないことを覚悟して神に従っているだけなのです。本当はこういう人生を歩むつもりはありませんでした。ただ、人の望むことと神の御旨を伺って、それを実行しているだけです。

 祈っても意味と目的のわからないことをやっています。多くの人は私が計画を持ち、準備をして緻密に生きていると見ているようです。私は、神が命じられることに備え、覚悟しているだけなのです。いつでも、破産し、名誉を失い、怪我をし、病気になり、子供たちが思うようにならなくなることを覚悟しています。神に従うことが、繁栄や成功だとは考えておりません。私は、自分が何をしても祝福されると信じていますが、反面、神の御旨ならば、すべてを失っても已むをえないことを知っています。つまり、自分の人生に意味付けなどする余地はないのです。

 祈ったらうまくいくために祈るのではありません。得や教養のために聖書を読むのでもありません。神がおられ、神が私達に語りかけるので、神に聞き、神の教えに耳を傾けるのです。私たちが神のものであるならば、神は私達と共におられ、神の祝福を注ぎ、神の業を行うことができるのです。大事なことは、自分の思うようになることではなく、神の御旨を生きることなのです。

 神を見ようとしてはいけません。神の御心の全体像や自分への計画は聞く必要はありません。現在の私は10年前では考えもつかないような者になっています。10年後にどうなっているか、神のみぞ知るであり、それは知ることができないことなのです。これまでの人生を振り返り、意味付けをしてはなりません。


11月23日 鉄の炉を経たのだから。   申命記42031

新改訳 申 4:20-31

4:20
主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。

4:21
しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。

4:22
私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。

4:23
気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。

4:24
あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。

4:25
あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、

4:26
私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。

4:27
主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。

4:28
あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。

4:29
そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

4:30
あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。

4:31
あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない

 明日のパーティーはスモークの食事を中心にしようと思い、既に下ごしらえは始めています。干したり、燻したり、手を加え時間をかけると、素材は元のものよりはるかにおいしくなります。

 教団総会がありました。若い教職の過激かつ感情的な発言を笑いながら聞いている自分に歳を感じました。自分にもそのような時があったことを懐かしく思い出します。今回は、謝罪や和解があり、大混乱かと思えたものが、うまく治まりました。謝ること、委ねること、譲ることなどがないと組織はまとまりません。自分が正しいと確信するからこそ強く発言し行動するのですが、それが人を傷つけ、攻撃することなり、思わぬ失敗に陥ります。すぐに、気がつくこともあり、気がつかないこともあるのですが、それでも謝罪したり、修正することはもっと難しいことです。

 日本は失敗を許さない社会ですが、失敗こそ味わい深い人間を作り出します。挫折、悲愴、苦しみ、艱難、これらを経てやっと情愛の深い人間が作り出されます。それらを経ても、嫌な人間になるのでしたら、素材が悪いのでしょう。素材が悪いとどのように味付けしても、調理を凝ってもおいしいものはできません。腐ってしまったら、おしまいなのです。

 イエス様は、この世は良い麦と毒麦が混ざっている畑のようなものだと教えておられます。「良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」(マタイ13・38)。良い麦を間違って抜き取らないように、収穫の時までそのままにしておくと言われます。

 艱難や試練は、誰にもあります。しかし、信仰者は苦しみや悲しみを経て味わいの深い、素晴らしい主の弟子に変えられていきます。これはなによりも「魂の救いを受けているからです。」(Tペテロ1・9)。ペテロは、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」(1・1)と語って、クリスチャンになる人は、神が予知し選んでおられることを示しました。

 今日の聖句で、「あなた方を鉄の炉エジプトから連れ出し」とあります。私は、自分が「魂の救いを得」てからは、それ以前の生活がまさにエジプトのような罪の奴隷であった生き方であったことを確信しました。そして、決して元には戻りたくない、と自分を戒めました。

 ここで、モーセはイスラエルの人々への指導のミスで神に怒られます。指導者と一般の信徒とは、責任が違うことを知らなければなりません。Tテモテ3章に「監督はこういう人でなければなりません。」(3・2)とありますが、一般信徒や執事よりもはるかに厳しい条件があります。牧師になるということを職業と考えて、自らを律しない人が牧師になることがあります。信者のリーダーと牧師は全く異なり、そのような意識で牧師になると、神の怒りとしての試練に遇います。イエス様は、「自分を捨て、自分の十字架を負わな」ければならないと弟子たちに要求しています(マタイ16・24)。「自分の十字架」とは、自分に関わる人の罪深さから来る弟子への重荷であり、苦しみであります。それは、自分自身の罪からくる咎ではありません。自分の咎を負うのは、当たり前のことですが、自分を捨てなければ、他の人の咎を負うことはできないのです。

 母親は、出産の苦しみを経て子供を得るので、既に母であり、愛情があるのですが、父親は、子供に意識的に関わり合わないと父になることはできず、愛情を持つことはできません。同様に、人が信仰者として、神の弟子になるためには、多くの自分と関わり合う人の苦しみを担い、助けることによってなのです。そういう面で、教会の重荷を負い、人々を助けることを願う人々が更に起こることを求めます。弟子になるということは、それによってしか達成できないのです。

 牧師になる、長老になる、執事になる、ということは、厳しいことだけでなく、うまく治められない場合には神の怒りを買うということでもあります。だからこそ、「よく指導の任に当たっている長老は、2重の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために骨折っている長老は特にそうです。」(Tテモテ5・17)とあるのです。

 ですから、信仰者が他の未信者とおなじような暮らしをしては、いけないのです。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(4・24)。もし、神を信じない人々と同じような堕落した人生を送るなら、神は私たちを罰し、神に立ち返るような試練と艱難を与えられるのです。それを嫌だと思い、更に堕落するならば、その人の救いは真実なものではなかったのです。

 信仰者が、真に魂の救いを得た人であるならば、この世と迎合し、この世の偶像を拝むことはしないのです。また、できないのです。この世の偶像とは、富であり、名誉であり、地位であり、それらは信仰者を堕落させるのです。富や名誉や地位が悪いものではありません。神を第一にするならば、神はそれらを添えて与えてくださると約束しておられます。(マタイ6・33)。

 そのようにして、私達信仰者は、「心を尽くし、精神を尽くして、切に主を慕い求め、主に会う。」(4・29)のです。


11月30日 幸せで長生きする為の訓練。   申命記42031


新改訳 申 4:32-40

4:32
さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

4:33
あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

4:34
あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

4:35
あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

4:36
主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。

4:37
主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。

4:38
それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。

4:39
きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。

4:40
きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。


 低血糖症治療の会の理事会があり、患者さんの社会復帰に大きな壁があることが語られました。親としては、失敗をして再び籠ってしまったり症状が悪化したらどうしようかと心配で、一人立ちをさせることができない、とのことでした。現実生活には常に失敗があり、挫折があるので、失敗を何度も体験させることのほうが改善には役立つのですが、失敗を受け入れない社会についてはどうしようもないので、それを恐れる親と本人の意識改革が必要です。

 イスラエルの人々も、奴隷であったエジプトからの脱出を願いながら、自由ということを恐れ、モーセや神に反発をしてきました。罪の奴隷である人の特徴はどんなものでしょうか。

1. 指導者や親への批判と不服従。

2. 前進したり、環境や自分を変える勇気を持たない。

3. 過去を美化し、自分の功績や努力に固執する。

4. 偶像である特定の価値観を重視して、そこから離れられない。

 そこで、神は語りかけ、奇跡をなし、力づくでエジプトから引き出したのです。それは、現代では神の奇跡と恵みにより教会に導かれたようなものです。しかし、それは「主だけが神であって、他には神はないことを、あなたがたが知るためであった。」(4・35)のです。そして、「あなたを訓練するため」(4・36)、聖書を私達に与えて、「御ことばを聞いた」のです。

 ここで、神は何のために私たちを訓練されるのか、しっかりと把握していなければなりません。それは、約束の地で「しあわせになり、・・・あなたが長く生き続けるためである。」(4・40)のです。

 訓練の目的は、私たちを規律の整った軍人にする為ではありません。私たちを能力の優れた人間にすることでもありません。遊び暮らしている青年に、「しっかりと勉強しなさい。」と忠告する人がいました。青年は何の為にと質問すると、「成功してお金持ちになるために」と答えました。青年は、「成功していないけれども金には苦労していないし、自由に気ままに生きているから、勉強する必要はない・」と答えました。

 親に守られ、金に不自由しなければ、努力する必要がありません。現代日本は、そのような青年たちが、拘束や失敗を恐れて、気ままに生きていることが多いようです。自由というのは、そういう気ままということではないのですが、訓練されていない人々は、罪の奴隷になってしまうのです。

 例えば、従順を身につけると多くの祝福を得ます。パウロは、使徒の務めは、「人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」(ローマ1・5)と言いました。信仰というのは、信じるべきことを信じるという単純なものです。しかし、理由を求める人々は、「なぜ」と聞いて従うことができないのです。納得しないと、上司でも親でも従わない人々が最近多くなりました。丁寧にお願いすれば、何でもやってもらえると誤解する自己中心な人々でもあります。つまり、人間関係の折り合いで物事を進めようとするのです。理由や折り合いを追及する人々は自分中心であり、服従を知らず、神をも自分中心な依頼の相手になってしまいます。

 私達夫婦が「篤姫」を観ている時、娘が「ビデオを取るから10秒だけ替えてよいか」と求めました。私は、「だめだ。」と答えました。当然なことです。それが親であり、子供は親が駄目だと言ったら、従わなければならないのです。娘は不満そうでしたが、私が怒ったので、後で「御免なさい。」と謝ってきました。この娘は、人に愛されるでしょう。現代の親は、そういう教育ができないので、子供が社会に出た時に、従うことができずに幸せになれないのです。

 良い親、良い指導者でなければ従うことができない人は、幸せになることはできません。その人は自己中心であって、納得いかなければ従わないのですから、いつも不満を持つのです。先々週「姿なき神を見ようとしない。」で語ったように、物事の意味付けをしようとすると、意味のわからないことができなくなるのです。人生において、成功確実なことなどありません。

 良い人でなければ愛せない人は、どんな人も愛せないでしょう。そういう面で、神は、悪い親でさえ「敬いなさい。・・・あなたの齢が長くなるためである。」と命じておられます。私の両親は明治生まれでしたから、反抗などありえませんでしたが、私だけは親が高齢になっても従い敬い通しました。親から愛され、喜ばれる人生を過ごした人間は、それだけでも幸せだと思います。

 同様に、「主の掟と命令とを守る」(4・40)というのは、納得がいってもいかなくても従うことが必要なのです。そうしたら、「幸せになり、約束の地で長く生き続ける」(40)ことができるのです。

 私は、殆どの聖書や人生の質問に答えられますが、それは納得のいかないことを覚悟して過ごした恵みだと考えています。納得のいくことしかしないならば、自分の理解できないことはいつまでも理解できないで終わってしまいます。すべての不幸と理不尽を覚悟すれば、後は良いことしか残らないのです。神を信頼するということは、そういうことです。

 他の人を変えることはできませんし、状況や環境を変えることも難しいでしょう。自分を変えることはもっと難しい。それならば、すべてを感謝し、いつも喜んでいれば、間違いなく幸せになれるのです。

 喜び感謝することが苦痛な時もありました。しかし、そうしなければ内在の聖霊が私に満ち溢れることがないのです。人を非難攻撃する人からは、聖霊が去っていきます。そして、神の祝福も去っていくのです。私は、聖霊が去った喜びのない信仰者を多く知っています。彼らは果たして神の国を受け継ぐのでしょうか。


12月7日 聞きなさい。神に選ばれた人々よ。   申命記517
新改訳 申 5:1-7

5:1
さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。

5:2
私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。

5:3
主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。

5:4
主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。

5:5
そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。

5:6
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

5:7
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。


 先週は、信仰者とは、努力ではなくて恵みによって祝福されるということをトレーニングされる必要があるとお話しました。自分の功績(努力や能力)を気にするから言い訳をし、誤魔化しをし、そして批判や攻撃をすることになるのです。但し、何の努力もしない、ということではありません。信仰によって生きる努力をする必要があるのです。

 信仰によって生きるということは、以下のようなことだと思います。

1. 神が自分を支配し守ってくださっていることを信じる。

2. 諸問題や困難を自分だけで解決しないで神を信じ、なすべきことをする。

3. 罪によって支配されることを拒み、快楽によって惑わされない。

4. 人生に意味付けをせず、うまくいかないことを受け入れる。 

 マリヤがまさに、そうであったからこそ、受胎告知の時にすみやかに受け入れたのです。マリヤは、受胎によって起こり得る全ての試練を受け入れ、神の守りを信じたのです。ルカ1・46からのマリヤ讃歌は、力強い信仰と人格を現しています。マリヤ・クリニックという名前をつけたのも、妻に開業する以上、マリヤのような勇気と信仰を持つように期待したからです。

 開業以来の試練と苦難、そして体力的な限界も大きなものでしたが、神と夫を信じて、良くやってきたと思います。毎週のようにクリニックに客が来て、私達夫婦の協働を褒めてくれますが、それを努力や人間性において理解しているようで、恵みによる信仰生活の結果であるとはわかるはずもありません。妻の努力にも関わらず、先日の偽医者よりも収入は少ないのですが、はるかに幸せであり、神に覚えられているのです。

 なぜ、多くの信仰者が神に祝福され、或いは、平安を得ていないのでしょうか。

 神に聞いていないからです。聖書をたまに読み、祈りは食事の時のおまじないのようなものだけで神に従った人生を送れるはずがありません。

 牧師と言えども、一生懸命働いているだけで、神には聞いていない人が殆どです。信者であれば、なおさらです。でも、皆がそうであれば、それもしょうがない、と考えるのが日本人ですから、祝福されようがありません。神を知っており、信じていても、神に従った人生を送らなければ、神のしもべとは言えないのです。そして、インマヌエル「神共にいます。」を体験できないのです。

 神はホレブで、イスラエルの人々と契約を結ばれました(2節)。しかし、その契約に従って、祝福され残っているのは、モーセとヨシュアとカレブだけです。だから、ここで改めて出エジプト記20章にある十戒を教えることになったのです。奇跡をもって救い出し、日毎の糧を超自然的に与えられても、神を信じないで滅びて行ったのです。恵みによって生きる、という簡単なことが、実は罪人には最も難しいことなのです。そして、自己の功績を確認しようとする人々は、その成果が明らかになるように勝手な働きを始めるのです。

 この教会では多額な献金しても表には出ず、奉仕をしても称賛されません。自分の能力や才能に自信があっても牧師が認めない限り奉仕はできません。目立とうとすることができないのです。ですから、奉仕に活躍して称賛されたい人は、ばからしくなってきます。私は、教会で熱心に奉仕することによって、満足するような教会員になってほしくないのです。自慢話をする人は、この教会では執事などになれません。仕えるということは、代価を求めないことであり、恵みで生きていることの証明なのです。

 「他の神々があってはならない。」(7節)とは、利益追求の否定です。世界経済の破綻は、架空利益の追求の結果であると思います。国家が経済に介入するほど、その利益を基に架空経済がはびこり、官僚や議員の不当利益が大きくなり、他方、誠実な労働の成果が庶民にもたらされないのです。

多くの宗教が利益追求と結びついて形成されてきました。しかし、絶対神を信じる唯一神教では、御利益を与える神ではなく、神の命令に従った者のみが天国へ行けるというはっきりとした来世思想があります。ですから殉教ということがあるのですが、最近のキリスト教は現世利益を強調する世俗宗教になってしまっています。利益というのは、それ自体で人間にとって神となるのです。

人間がそのように自己中心的であり、神をも支配目的や利益目的のために利用するが故に、御子イエスが、「神の在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2・6.7)。神の子が、馬屋で生まれ、貧しく育ち、そして、人々の上に君臨せずに、野山を歩きながら、神とその掟を教えられたのです。

ビルの購入契約の時に、それが流れて賠償金を払うのも覚悟していたのは、「貧しくなることが御心ならば、従う以外にない。」と決めていたからです。私は日本では珍しい事業家の牧師ですが、教会は事業ではありません。教会が大きくなって形骸化し、信徒の奉仕競争や指導者の君臨があってはなりません。奉仕いうのは、強制されたり、義務化されたりするものではないからです。ですから、奉仕が大変だという人がいたら、私はすぐに外れてもらうつもりでいます

キリスト・イエスが、その地位を捨て、報いのない惨めな生涯を福音のために歩まれたように、私も主に従って、牧師職を全うするつもりです。この教会は、主に仕え、十字架を負って人々の罪を覚悟して生きる人々によって構成されるものでなければなりません。そして、そういう生き方をする者だけが間違いなく、神の国に導かれると私は信じているのです。

自分を正当化して、教会に来なくなる人がいますが、「他の神々」に囚われていることは間違いないでしょう。教会が真実なものであるならば、信仰が真実でない人は、構成員でいることはできなくなります。悔い改めて、ご自分を吟味してください。決して自分を正当化してはいけません。


12月14日 生ける神の中に存在している。 新改訳 申 5:8-11

5:8
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

5:9
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

5:10
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

5:11
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

新改訳 使 17:26-30

17:26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

17:28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。

17:29
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

17:30
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。


 
 吉川栄治の作品の中で、宮本武蔵は一条下り松の決闘の際に少年を殺してしまった罪責感を償うために仏像を削り出し、菩提を弔うという場面があります。日本人の情緒にはぴったりで、武蔵の武士道の論理性と人格を現すものとして吉川栄治は、書き現したものでしょう。

日本人の宗教観というのは、そのようなもので、仏像などに自分の宗教思想を具現させようとします。つまり、それは宗教というよりは、自己練磨の投影であり、自己を何かに表したいという思いの現れのような気がします。私は実は、この偶像礼拝の禁止という意味合いがよく分かりませんでした。聖書通りであれば、マリヤ像や十字架についたキリスト像も偶像であることに変わりありません。像でなく絵ならば良いのか、ということもなく、自分の宗教心を生ける神以外のものに献げてはならないということなのです。果たして、そこまでの厳密性の意味合いはどういうものなのか、よくわからなかったのです。

申命記当時の偶像は、人をかたどった農耕の神であり、それは繁栄のための性的放縦も奨励されて、道徳的退廃をもたらすものでした。聖書の神の道徳性は、当時の状況の中では特異的なものでした。

或いは、森羅万象を拝み、オカルト的に超自然の力を求めるものもありましたが、それは鬼神礼拝のようなものであって、神の名を借りた宗教的独裁のようなものでした。聖書の神の人格的啓発は、やはり画期的なものです。

「十分に気をつけなさい。主が、あなた方に話しかけられた日に、あなた方は何の姿も見なかった。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像も造らないようにしなさい。」(申命記4・15.16)。堕落とは、自分の宗教心を意味づけることとなります。神は、こんな神、あんな神と定義することが、自分勝手な偶像となります。

十戒の一は、「他の神々があってはならない。」ということでしたが、第二戎では神とは言われておりません。「拝み、仕える」対象としての偶像です。自分が価値観をもっているものです。「神を愛し、神の命令を守る」(5・10)ことを脅かす価値観です。簡単に言えば、礼拝に来なくてもしょうがない、と思わせる優先事項をあなたがもっているならば、それが偶像なのです。

例えば、「今日は疲れているから礼拝は、出られない。」と考えるならば、健康が偶像であり、神が健康をも与えてくださることを信じていないのです。「今日は仕事が忙しいから。」と思うならば、仕事が偶像です。「家族の憩いも大事」と考えるならば、家族が偶像でしょう。「人から助けを求められた」ならば、評判や人間関係が偶像になっているのです。

これらのことは、日本的な考え方からは、「しょうがない」で済まされることでしょう。しかし、聖書的には、全くの偶像であって、神に否まれ罰せられるのです。日本人的には、「冗談じゃない・そんな神はご免だ。」となるでしょうしかし、「主であるわたしは、ねたむ神。」(5・9)とあります。神だけを信じていくしかないのです。そして、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(5・10)とあるのです。

 日本人の夫婦関係、親子関係、友人関係は希薄です。私達夫婦は例外であり、私達のどちらかが、他の異性と食事をするなどはありえないことです。趣味でも、仕事でも、旅行も一緒です。家内はどこまでも私についてくるので、私は妻を守り、妻を祝福します。

 神と私達の関係も同様です。論理的に考えて、論理的に交流するというのは、実は、論理という偶像の餌食になっているのです。夫は仕事をして、妻は家事をし、或いは、別々に使命をもって生きるというのは、効率という偶像の餌食なのです。それで幸せは獲得できません。ですから、夫婦別々に生きている日本人は、仲良くないのです。伴侶よりも、別のものを大事にしているからです。

 「主の名をみだりに唱えてはならない」とありますが、妻や夫の名を呼び捨てにして一方的に命令するようなものです。神は、御子を地上に下し、私達の主とし、友とし、そしていつも共にいる聖霊なる神を私達に与えてくださいました。その内なる神のことばに耳を傾け、語りあうならば、偶像など、他の価値観など何の意味がありましょう。そして、一方的に神に願ったり、神の名を語ったりするような傲慢なこともなくなるのです。

 神に知られていることをわからないから、自分の心情を重視するのです。偶像などに心を注ぐのは、神が内在しておらず、神に知られていることを体験していないからなのです。自分の悟りや考え方を重視したり、自分の信仰を力説するのは、神なき人であることを暴露しているにすぎません。

 パウロは、偶像の町アテネで、説教します。「神は、手でこしらえた宮には住みません。仕えられる必要もありません。人の時代と住まいの境界は、神を求めさせるためであって、探り求めるならば、見出すのです。神は、私たちから遠く離れていはいません。私達は、神の中に存在しているのです。そして、今や神は、すべての人に悔い改めを命じておられます。罪は明らかです。」(使徒17・24-31要約)。

 多くの人々は、パウロを嘲笑いましたが、「彼につき従って、信仰に入った人々もいた。」(17・34)。


12月21日 生命のパンの証拠   櫻井圀郎師
ルカ212
 直訳「これが汝らへの証拠なり。汝らは産着で包まれし赤児
を飼い葉桶の中に見出すべし。」


12月28日 狭き門から入りなさい。   マタイ7章1321
新改訳 マタ 7:13-21

7:13
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

7:14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

7:15
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

7:16
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

7:17
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

7:18
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

7:19
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

7:20
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。


 これまでと違い、日本だけではない世界規模の不況が訪れつつあります。加えて、天候異変、自然災害、健康不安、年金不安、政治不安など、迎える年の不安要因は多くあります。そのような中で、私達クリスチャンはいかに生きるべきでしょうか。

 聖書は、「狭い門から入りなさい。」と言います。広い門は誰でも通る門であり、安易に見つかります。他方、いのちに至る門は狭く、見つけるのは難しいとあります。なぜ、難しいのでしょうか。普通の人が考える考え方や生き方をしていたら、狭い門など探すことさえしないのです。誰もが生きる生き方を「変だ。嫌だ。」と考えなければ、狭い門など探すはずがないのです。

 広い門は、享楽の門であり、社会の栄達を求める者が入ろうとする門です。狭い門は、十字架を負ってイエス・キリストの後に従う者が入る門です。皆さんは、その門を間違えてはいませんか。狭い門から入っていながら、社会の栄達や享楽を求めるのは、お門違いです。狭い門からの道には向いていないので、広い門から入り直した方が良いでしょう。

 但し、広い門のだいたい見当がついてきたことが知れ渡ってきたようです。享楽と栄達は一部の人が得られたとしても束の間で、後は虚しさと不安、そして争いと敵意があるようです。ところが、広い門から入った人は、入る人が多過ぎて歩く速度が速いので、殆ど後戻りはできません。聖書は、それを「滅びに至る」と述べていますが、どこに行くのかもわからず、他の人と同じ道を歩んでいるのです。自分の人生の方向をしっかりと見定めていなければなりません。

 今日は、自分では狭い門だと思っていても、実際には広い門である場合の忠告をしたいと思います。聖書は、イエス様に向かって「主よ、主よ」という者がみな天の御国に入るのではなく、父なる神の御心を行う者が入ると語っています(21)。22節には、教会で奇跡やしるしをした者が実際には、神の国に入れないことがあるとイエス様が語っています。

 イエス様は「わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(ヨハネ10・9)と言われました。本当の狭い門を入った人は、この世が不況であろうと、社会不安、生活不安があろうと安らかに生活し、神からいのちのパンを受けるのです。つまり、人目につかない狭い門とは、人生の意味を求め魂の救いを求める者だけが見つけ出すことのできる門であり、その門を通るならばイエス・キリストによる救いを受けて、魂の平安と日々の喜びを得るのです。

 信仰の世界は、逆説の奥義で満ちています。「受けるよりも与えることが幸いです。」「自分の知恵によって神を知ることはできず、愚かな者を神は選ばれる。」「殉教することになっても、喜びます。」「私が弱い時にこそ、私は強いからです。」「神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」

 これらの究極は、神の子が十字架に架けられて死んでしまうということです。私の人生でも、報われないこと、迫害されること、理不尽な目に遭わされることは何度もありましたが、祈ると十字架に架けられたイエス様の執り成しが示されました。自分の人生がうまくいかないと不平を言うのは、イエス様に比べれば、申し訳ないことです。

 人々は、自分の労働の報いを求め、自分の功績を求めます。しかし、それは広き門です。そうではなく、何の成果もないからこそ、そこは狭い門であり、誰も見出さないのですが、それはいのちに至るのです。新しい年を未信者のように、祝福を求めるのではなく、主に従うことを求めることをお勧めします。