1月1日 神に非難されない者でありたい。 Tテモテ書6114

新改訳 Tテモ6:9-14

6:9
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

6:10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

6:11
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

6:12
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

6:13
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

6:14
私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。


今年の教会の標語は「終末に備えて良い基礎を築き上げる」です。確かに、終末の様相を呈する世の中になってきました。戦争や飢饉だけでなく、多くの人が、生きがいを失くし、互いに裏切りあい、憎みあい、愛が冷たくなる、というマタイ24章の預言が実際に起こってきています。

 特徴的なことは、その時、クリスチャンは迫害され、憎まれるということです。現在も既にこのような様相を呈している時代でありますから、クリスチャンに対する対応も消極的悲観的に把握して当然でありましょう。私は、そういう意味で現代教会が爆発的に増えることはないと思っています。大事なことは、終末の試練にもめげず負けないしっかりとした信仰者を養成することであると信じております。

  20世紀初頭にはクリスチャンが非常に少なくなり、21世紀には信仰者などいなくなると予想されましたが、1970年代以降非常にクリスチャンが増え、特に聖書をそのまま信じる福音派が増えました。世間から見たら、それは原理主義などと言われていますが、イスラム原理主義と同じような暴力的なものと誤解されるので、私たちはそのような言われ方を受け入れてはいけません。それでも、世の中一般の人から見たら、神を本気で信じ、聖書に基づいた誠実かつ真摯な生き方を実践するのですから、おかしなものと思われるかもしれません。事実、爆発的に増えた福音派、中でもペンテコステ派ですが、21世紀に入って、その勢いをなくしてしまっています。

  それは、神の祝福を世俗的な繁栄と一緒にしてしまったからです。経済的な祝福こそ、神の祝福であると誤解してしまったのです。そういう教会は、特に献金を強調してきたようです。新約聖書の中では、什一献金という言葉はありません。マラキ書には明確にあります。

  今日の聖句には「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」とあります。信仰者を形成する教会が、その組織を維持するために、什一献金を強調しすぎているように思われます。聖書には、もっと大事な救いや信仰に関することが多くあるのに、教会は「信仰者の大事な要件は什一献金であり、それが信仰のバロメーターである」、と主張します。

 つまり、教会自体が金銭に囚われているのです。それが、信仰者をおかしくしています。実際には、敬虔な信仰者になれば、什一献金は当然に行い、さらに多くの献げものとをし、また人々のために金銭を費やすことでしょう。それは、真実な信仰の結果であり、実なのです。信仰者が形成されるに連れて、金銭だけでなく、時間も労力も、他の人々のために費やされるのは当然なことです。ところが、什一献金を教会に献げるということが、信仰者の必要十分条件になり、それ以上のことは問われなくなってしまったのです。教会が金銭に左右された結果であり、まるでルターが抗議したカトリックの免罪符のようなものになっているのです。

 私自身は、終末の教会には多くの試練があり、経済的にもうまくいくはずがないと予想して、まず、経済基盤を自ら形成することに努力しました。日本人は宗教者に真摯な求道生活を要求します。仏教には、高額な報酬を払うからこそ、人生を掛けるほどのことを決して期待しません。キリスト教に対する要求は、他の宗教のどれよりも厳しい要求があるように思われます。それでありながら、そのキリスト教に帰依するクリスチャンが、世間離れした真摯な信仰生活をするとあざ笑い、憎むのです。でも、それは聖書が語る当然の姿なのです。罪人というのは、そういうもので、信仰者は憎まれるのです。なぜなら、その真摯な姿は、世の人の罪を指摘するものだからです。

 私たち夫婦は、什一献金を欠かさないだけでなく、教会や外部に多くの献げものと援助をしてきました。労力や時間も、自分のためにだけ用いることを罪であると自覚しております。ですから神は更に多くの祝福を私たちに注いでくださいました。

 「神の人よ。」と語られるのは、それを受け入れる人に対してです。自らを神の人と自覚し、神にあってなすべきことを見出し実行しようとする者は幸です。自分の時間・能力・金銭を自分のために費やしてはなりません。「持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25・29)。

  「金銭を追い求めることを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」ということは、「信仰の戦い」なのです。信仰というものは、優柔不断な者には、保つことはできません。自己中心な人、けちな人は、信仰を保てるはずがないのです。

  この世で非難されることは覚悟するべきです。しかし、神には「よくやった良い忠実なしもべだ。」(マタイ25・23)と褒められることを願い、この人生を生きるべきです。今年も多くの計画があります。信仰者になって30年、最近は昔では考えられないほど多くの大きなことができるようになりました。それは、絶えず神に仕え、神に喜ばれることを行なってきた結果であると感謝しております。主に生かされ、主に仕えていきましょう。


1月8日 良い基礎を築き上げる。 Tテモテ書61119

新改訳 Tテモ6:11-19

6:11
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

6:12
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

6:13
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

6:14
私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

6:15
その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

6:16
ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

6:17
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

6:18
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。

6:19
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

 私は、自分の人生設計については、マタイ7章にある「岩の上に家を建てる」ということを、いつも念頭においてきました。砂の上に家を建てるということは、簡単にできますが、岩の上というのは大変なことです。ただ、岩の上に建てただけでは、滑ってしまいます。岩を掘り、そこに土台を据えなければならないからです。それは、砂の土台よりも、数百倍、数千倍の労力がいると思います。

 岩というのは、イエス様のことです。マタイ16章18節には、「この岩の上にわたしの教会を建てます。」とイエス様は言われましたが、そこでは、キリストへの信仰という土台を意味しています。

 強固な建物というものは、岩盤に基礎を打ち込む、或いは、岩盤を削ってそこに基礎を入れるということをします。私たちの人生というものも、ただ神を信じている、というだけで人生設計をしたら、もろくも洪水や地震で崩れてしまうのです。

 それでは、実際に砂上の楼閣という人生はどのようなものでしょうか。

1. 一生懸命働いて生活を築き上げる。

  日本では、このような人が多いでしょう。しかし、このような家庭は必ず崩壊します。家族は働くことによって、その存在を認め合うものではないからです。最近は、単純に働くことを生きがいとする人は少なく、働かなければならない事情がある場合が多いようです。それでも、週一日を必ず休み、家族との憩いを持たない家族は、必ず崩壊します。

2. 金を儲けて幸せになる。

  最近は、この傾向が強いようです。しかし、こういう人は、損得で行動します。殆どの関心は金儲けです。心が金で縛られているので、人を愛することも、犠牲を払うこともしません。友人はできず、趣味は独りよがりで、自己満足な生活を送りますが、突然の経済的困窮で全てを失います。失わないとしても、孤独な生涯となるでしょう。

3. 家族を大事にして楽しく過ごす。

これがなぜ、悪いのかと思う人が多いでしょう。しかし、実際には、信仰を基盤にしない家族の交流は、子供の成長と共に断絶します。親は子供を愛し、大事にしようとしても、子供は自分勝手に生きようと願うからです。家族のために尽くしてきた親は、子供が成長して親を損なうとき絶望を感じるでしょう。信仰によって、その思いを一致していない家族には、ただ娯楽や金銭での交流しかなくなります。規制や命令によっても、家族の交流は回復しないものです。

4. 趣味や娯楽を大事にして生きがいを持つ。

 伝道者の書十一章には、心のおもむくまま、目の望むままに歩んでも、結局は「何の喜びもない」という日が来ると、警告しています。人生の先に、まだ行くべきところがあることを、私たちは考えて、この生涯を営まなければなりません。

 さて、聖書は、「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と警告します。そして、「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」と言います。

 当然、その通りに生きたら、騙されるかもしれません。マタイ10章16節で、クリスチャンがこの世で生きるのは、狼の中に子羊がいるようなものだと、イエス様は言われます。ですから、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」という注意深さが必要なのです。

 この地上で、クリスチャンが生きるのは、先週も言いましたように、信仰の戦いなのです。それは、命がけの戦いのなのです。そして、知恵を持って生き、神が「私たちに全ての物を豊かに与えて楽しませてくださる」ことを実現しなければならないのです。そういう面で私たちが、岩の上に人生を築き上げるのです。私なりの、人生訓を挙げましょう。

1. 毎日を神にあって生き、楽しく過ごす。知恵とは、そこから生まれる。

2. 神の祝福を求めて、誰よりも働く。労働の質を高めることに力を注ぐ。

3. 仕事は神と人に仕えるためにあり、人々に多くの利益を与えようと努める。

4. 自分の賜物、信念を大事にし、決して他人に迎合しない。

5. 無駄なこと、愚かなことをせず、時間を大事にする。

6. 安易に成果を求めず、天国に宝を積むつもりで努力を重ねる。

7. 全ての出来事と歩みの中に、神の御心を探り、導きを求める。

8. 自らの罪と咎を認め、その代償をすべて覚悟する。

9. 人が罪人であり、自己中心であることを悟り、赦す。そしてとりなす。

10
.神が全てのことを益としてくださることを信じ続ける。

 これらのことを幾つか、身に付け、また確認しておられる方がいるでしょう。ただ、私の経験では、これらの全てを意識しないと、主と共に生きることは難しいと思います。別に、私がそれらを体得しているわけではありませんが、そのように生きようと奮闘しています。「私は自分のからだを打ち叩いて従わせます。自分が失格者とならないためです。」(Tコリント9・27)


1月15日 主と共に生きる。 Tテサロニケ書5111

新改訳 Tテサ5:1-11

5:1
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。

5:2
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

5:3
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

5:4
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

5:5
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。

5:6
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

5:7
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。

5:8
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

5:9
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

5:10
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

5:11
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。


 ミレーの「晩鐘」の絵は、教会の鐘がなると仕事を休め、そのまま祈る農夫夫婦の姿が印象的です。彼は、祖母から「画家である前にクリスチャンであることを忘れてはいけません。」と教えられ、「自らを悪い作品の製作に許してはいけない。審判のラッパの響きを聞くことを瞬時も忘れてはいけない。」と諭されたそうです。ですから、貧困で二日間何も食べず、寒さの中で薪がなくても、決して金になる裸体画を描かなかった。友人が見かねてお金を渡すために訪問しなければ飢え死にしていたところでしょう。

 今日の聖句には「慎み深くしていましょう。」と二回書いてあります。それは、ミレーのように、どんなに世の中が悪に満ちても、その悪に染まらずに生きることです。最近は、この倫理性というのが社会に欠けています。そして、多くのクリスチャンが言い訳を言います。「しょうがなかった。」神の前では、どんな弁解も通用しません。もし、ミレーが裸体画を描いていたら、あのような感動的な絵を描けなかったでしょう。私自身も、倫理性が欠落していたら、決して神の言葉を真摯に語れないでしょう。

 人間性というのは、その人の行き方から形成されます。「私はだめだ。」「罪深い。」「弱い人間です。」と言うのは、その人が罪を犯しているからです。罪に対して優柔不断だから、人間性も頼りない人間になるのです。「神は愛だから、私のような罪人を赦し、助けてくださる。」などと自分勝手な思い違いをしないほうがいいでしょう。自らが罪を犯すことを「瞬時も許してはいけない。」のです。それは、聖霊が内在しているための必要条件です。

 私自身は、多くの牧師が言い訳を言いながら、くだらない冗談を言い、本音として罪深さを吐露しているのに慣れていました。ところが、昨年、それが自分にとって大変な堕落であり、とても神の前に立ち遂せないことを示されました。これからは、不信仰な牧師との交流は避けるつもりです。教会員の為にとりなしの祈りをしていると、どんなにとりなしても、自らが罪を犯していたらどうしようもないことを示されます。

 多くの人が月曜日に仕事の能率が悪いことが気になりました。彼らは、休日をだらけているのです。自分の自由になる時間だからと、くだらないことに費やしているのです。自由とは、罪を犯す自由ではありません。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とは、十戒の一つです。日曜日を堕落の日として過ごす人に神の祝福があるはずがありません。今年は、家族が憩いあい、語りあう日としてください。その拠り所として聖書通読や課題テキスト「人生を導く五つの目的」を読んでください。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」とは、私たちもまた、神の怒りにあう可能性があるからです。ですから、どんな時も主と共に生きなければならないのです。教会では、そのようにして互いに罪を犯さないように互いに励ましあわなければなりません。

教会で、自分の罪深さや未熟さを公にした時に牧師が黙っているのは、それに同意しているからではありません。そのような厚顔無恥な人は、自分の罪深さの中で、必ず困難に出会うから、とりなしの祈りをしているだけです。苦労の多さは、あなたが成熟したことのしるしではありません。罪深い証拠だけです。そういう面で、私は誰よりも多くの苦労をした罪びとです。しかし、私はその苦労や艱難が自らの罪ゆえであることを神にも人にも認め、悔い改めてきました。私に祝福があるとすれば、その悔い改めの故です。

四、五年葛藤してきたことが、信仰深くない人々との妥協でした。昨年末、その妥協は自分を滅ぼしてしまうことをはっきりと悟りました。私は、これから十五年が人生の最も働き盛りだと思います。つまらないことに時間を費やしている暇はありません。主の為に、自らを献げていこうと決心をしております。この世は暗闇であっても、私たちは光の子どもなのですから、光の子どもらしく生きるのです。

私自身は、教会にいるときや仕事のときと、我が家でのギャップに気がついていました。我が家も霊的になるように現在、大改造を計画中です。神にあって、自らの人生を再構築しようとしています。感動的な働きができそうです。自らの人生と日々に、感動することは、何よりもすばらしいものです。

今年の課題テキストをぜひ、購入してください。そして、何回も読んでください。心に浮かんでくることを、書きとめ、祈ってください。更に、もう一度読むまでしまって置いてください。神は、この終末の世において、あなたに目的を与えてくださいます。暗闇の者のように眠っていたり、酔っていてはなりません。

1月22日 福音を委ねられた者。 Tテモテ書1111

新改訳 Tテモ1:1-11

1:1
私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、

1:2
信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。

1:3
私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、

1:4
果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。

1:5
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

1:6
ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、

1:7
律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。

1:8
しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。

1:9
すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、

1:10
不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。

1:11
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。

 先週は、主と共に生きることを学びました。その中でも語りましたが、牧師が、いつの間にか堕落していくこともあるようです。今日は、そのような教師もあることを学んでいきます。

 この手紙が送られたテモテは、エペソの監督であったと思われますが、後に殉教しています。このエペソに対してパウロは後に起こる困難を預言しています。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20・29,30

 ですから、パウロは自らを「神の命令による使徒」として、その真実なわが子であるテモテと言って、エペソの人々にテモテの力添えをしたのです。「凶暴な狼」とまで

言われるような悪辣な人々が教会に入り込むことなど考えたくないという方も多いでしょう。しかし、教会が真実で、神のものだからこそ、そこには常に偽りでサタンに支配された偽教師が入り込むことがありうるのです。当然、偽教師だけでなく、偽信者も入り込みます。ですから、パウロは、自らの使徒職を強調し、テモテへの継続を強調したのです。

  教会は、話し合いによって営まれるものではありません。教会は、神の言葉に従い、それを教理的に説明できる教師ないし、牧師がまとめなければなりません。ですから、牧師には多くの権威があると共に責任があるのです。牧師は「卑しい利得を求める心からでなく、自ら進んで、心を込めて牧会をし、人々を支配するのではなく、模範となりなさい。」(1ペテロ5・2,3)ということが薦められます。

  そのような牧師のために、信者はいつも祈り、とりなし、その助けとなるように働くことが薦められます。祝福や繁栄は、話し合いや能力の結果ではなく、神が定めたそのような秩序の中で実現されます。

  但し、信者の生活を教会の中だけで限定してしまうと、あたかも信者は牧師のために存在するかのような誤解をもちます。間違った教え@を説く牧師は、そのように信者の生活を全て教会の存続と発展のためと教え込み、自らの「卑しい利得」に結び付けてしまいます。

  信者は、それぞれの社会との接点の中で、教会を証し福音を伝えなければならないのです。つまり、牧師の教えが、社会と教会の接点、聖書の真理の社会への適用でなければ、それは「果てしのない空想話や系図」Aのものであって虚しいものなのです。現代の教会に力がないのは、この偽教師が説教を力のない感想や評論Bにしてしまったからです。

 さて、ここまで、語るとこれらのことは、教会に限らず、世の偽宗教を見抜く術であることに気がつくと思います。宗教心というものは神が人の中に造られたので、誰にもあるのですが、その宗教心を利用して人々を操ろうと権力者やサタンがしたのです。そのような偽宗教を吟味するのが律法です。律法は、「律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく」C者たちを罰するためにあり、この律法に照らせば、真実なものか否かは簡単にわかるのです。

  つまり、神は真実な道、宗教を教え、その宗教に至る道を人間の心に備えておいでになるのですが、人間自身が罪によって惑わされているので、この教えに至らないのです。この教えは、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものであって」(4節)「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(5節)

  そういう点からも、この神の救いの計画に乗ることのできる人は少なく、この門は狭いのです。却って、「滅びに至る門は広く、その道は広い」(マタイ7・13)。

  それでは人はどのようにして救いに入るのでしょうか。

1. この社会の不正義、悪について疑問を持つ。

2. 真理を求め、自分なりの解決法を探る。

3. たどり着いた解決法や宗教に身を委ねてみる。

 さて、ここからが大事なことです。多くの人がここで終わります。それがキリスト教であろうと、偽宗教であろうと、或いは人生訓であろうと、処世術であろうと、そこで安住してしまうのです。それでは、牧師が偽教師であろうとなかろうと、その人自身の信仰が、自分の満足のためであって、

4.「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標として」いないのです。

  つまり、偽教師に惑わされているのは、自らが人を真実に愛するということを身に付けていない偽クリスチャン或いは、まだ成熟していないクリスチャンだからなのです。しかし、気をつけなければならないことは、牧師といえど完全ではなく、未熟なことや罪深いことはまだあるということです。

5.「祝福に満ちた神の、栄光の福音を委ねられている」(11節)、という確信と歩みこそが大事なのです。自分は、神に委ねているというこそが、信仰者の確信なのです。



1月29日 人々の見本になろう。 Tテモテ書11120

新改訳 Tテモ
1:11
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。

1:12
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

1:13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

1:14
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

1:15
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

1:16
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

1:17
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。  1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

1:19
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。 

1:20
その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。


 先週開かれた「低血糖症治療の会」は感激的なものでした。全国からこの為に多くの方が来られ、マリヤ・クリニックに至るまでの経緯、その治療の成果を涙ながらに語ってくださいました。親子三人で来られたり、まだ闘病中の患者本人が来られたり、本当にこの会に対する期待の大きさを感じさせられました。

 そこで、私は参加者にアピールしました。

 治療とは単に栄養剤を与えることではありません。その人の身体だけでなく心も診て、本当に良くなりたい、幸せになりたいという思いになるようにケアすることです。身体は栄養食品を摂取し、食べるものに気をつけるとある程度よくなります。しかし、その後の社会復帰や自立のためには、ケアする人の人格が必要です。傷ついた心は、良い本を読んでも自分を責め、苛立った心は、忍耐して努力することが難しいからです。

  精神的なダメージを持った人に対応するには、その人が自ら自分を注いで年月を掛けて治療を進めなければなりません。先日、新聞の取材がありましたが、牧師というものは、信者を牧会するのに自分の全てを注ぐ必要があると語りました。牧師でありながら、名声を求めたり、地位を得ようとするのは、愚かな話です。親が子供に自分の全てを注ぐからこそ、子供は幸せを体験するのです。そういう面で、何度も言いますが、私はこの教会が大きくなることよりも、教会員が一人ひとり神の弟子になり、祝福を獲得するように自立することを願います。

  「治療の会」の対象も拡げるつもりはありません。現在の会員が力を得て、他の患者を世話できるようになることが願いです。ですから、この会に掛ける人には力を注ぎますが、要求ばかりする人を相手にするつもりはありません。多くの人が誤解をしています。愛とは、不特定多数を愛するものではありません。特定な者を特別にひいきするものです。ですから、私は牧師としても、信仰に熱心で、神に掛ける人のためには真剣にいつも見守り祈りますが、打算や能力で生きる人には、義務的な祈りをするだけです。礼拝にあまり来ない人のためには、祈ることは少ないのが事実です。これがわからない人は、真剣に人を愛したことのない人でしょう。「主の恵みは、信仰と愛と共にますます満ち溢れる」(14節)のであって、神を信じ人を愛することが少ない人に恵みが少ない事は当然です。

  パウロは、クリスチャンを迫害し、命をも狙う敵対者でした。でもそれは、神と真理を知らなかったから、「憐みを受けた」(13節)のです。民数記にもあるように、誤って犯した罪の罰は軽いのです。そのような罪人が、救われて使徒となりました。パウロは自らの罪深さを知っているからこそ、使徒職が保たれるのです。

低血糖症に苦しんでいる人たちがどうにかしようと、マリヤ・クリニックまで至ったのは感動的でした。直りたい一心で探し回り、そして北海道や九州、沖縄から家族が泊りがけで来るのです。この人たちは日本で潜在的にいると思われる1千万人以上の患者の見本です。彼らが良くなるかどうかが、そして治療に加われるかどうかが、今後の低血糖症の治療を左右するでしょう。

  同様に今いる皆さんがクリスチャンになったのは、「今後キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々の見本にしようと、この上にない寛容を示してくださった」(16節)からに他なりません。

さて、低血糖症の治療で重要なことは、患者の自己意識が低いということです。それで、健康についても能力についても基準値が低く、少し良くなると直ったと思い込んでしまうのです。それは、栄養剤を補給して体調が良くなっただけで、体質の改善には6ヶ月は掛かるのです。それからやっと、充分な体力を基に自己形成が始まるのに、そういう意識付けをもたず、直ぐに何かやっては、だめだったと失望するのです。

  同様なことがクリスチャンにも見られます。罪によって心身共に損なわれ、傷ついているのに、クリスチャンになったら直ぐに神が味方だから、何をやっても成功すると信じてしまうのです。まずは「生まれたばかりの乳飲み子のように純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(1ペテロ2・2)

そして次第に硬い食物を食べれるようにするのです(ヘブル5・14)。

  ところが、直ぐに治療を止めた患者は、必ず前よりも悪くなります。身体が活性化しているのに、体力が付いていないので余計疲労するからです。そして、自分は良くならないのだ、治療は効かなかったのだと勝手に判断して、絶望して人生を滅ぼしてしまいます。

  同じように、自分はクリスチャンとして一人前になったのだと誤解して、教会はもう必要ない、強く生きれる、神は私の味方をしてくれる、と考えてしまうと、「信仰の破船に会います。」(19節)。破船というのは、船の底が破れて水が入ってきて沈没してしまうことです。教会から離れる人は、自分の能力に自信があるからでしょうし、治療を止めてしまう患者のように誤解しているからでしょう。そうなると、殆どの人が多くの問題を抱えても、「神様を信じたけれど何も良くならなかった。」と言いながら破滅していくのです。よくならずに破船したのは、自分自身を船としたからです。神を信じるとは、イエスキリストを箱舟としてその中に入ることのようです(1ペテロ3・20,21)。



2月5日 威厳と平安の一生を過ごす。 Tテモテ書217

新改訳 Tテモ2:1-7

2:1
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

2:2
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

2:3
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

2:5
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

2:6
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

2:7
そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。――信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。

 人生の意味や生きがいを考える人が最近いるのかと不思議に思うことがあります。自己実現欲求というものがあり、それは生存欲求や安全欲求のように満たされれば鎮静化する欲求とは異なり、それは満たされても拡大していくとマズローは定義しました。その後、人間はそのような行動仮説だけでなく、他の要素によっても大きく影響されていることが分析されてきました。基本的な欲求が満たされても、自己実現欲求に至らない人もいるし、自己実現欲求に到達して自らを下位欲求に囚われてしまう人もいます。

 そのような社会分析というものは、結局は結論のないものであります。先日、自称牧師という人の本を読んでいて、その人が一生懸命聖書を説明しようと、世の中の原理を引用しているので、直ぐにこの人が専門的には神学や聖書を学んでいないことに気がつきました。或いは、本当には神を信じていないのかもしれません。

 聖書というのは、神の言葉ですから、聖書の言葉から演繹的に世の中のことを説明し、解説するのが当然なのですが、その人は、帰納的に世の中のことから聖書を説明しようと論理を駆使していました。そうすると、その論理が不適切であることが判明すると聖書も正当化できなくなります。聖書を信じるというのは、「神を自分は神を信じ、聖書を信じる。」という主観的なものであって、信じる以上、その信仰生活は、神を信じた者としての信条的、道徳的な生き方をするというものです。

 ですから、神を信じていない人間に、そのように帰納的な聖書の弁証をしても、真に神を信じることにならないばかりか、却って、神を信じるということが、そのように世の中に説明できるかどうか、信仰生活の意義を現世的、帰納的に説明できるかどうか、ということに間違って理解されてしまうことがあります。

 「神を信じる。」ということは、それが他人に理解されなくても、利益がなくても、批判攻撃されても、全く関係のないものであって、個人の神との関係の確立を信仰の成長というのです。だからこそ、信仰の初期には、聖書だけを読むべきであって、或いは、信仰者の告白や信仰の歩みを読むべきなのです。ところが、日本人のクリスチャンや牧師は、世の中との関係で、クリスチャンの成長を判断し、世の中への効果や影響を考えるのです。

 それでは、クリスチャンは如何に生きるべきでしょうか。F・シェーファーは「もし、それによって社会を判定する絶対的なものがなければ、社会が絶対のものになる。」と語っていますが、現代日本はそのようなものでしょう。稲垣師がその解説の中で、「日本人大半の世界観はヒューマニズムの世界観の範疇にある」といっていますが、シェーファーは「ヒューマニズムには、意味と価値の領域で普遍的なものを見出す方法がない。」と指摘しています。

 例えば、多数の絶対性ですが、聖書の立場では、たとえ少数であっても、神を信じる者の声は絶対なのです。私が日本のキリスト教界に危惧することは、この道徳性、敬虔、従順などが多数の論理によって崩壊しつつあることです。

 私は、日本人クリスチャンが、「自分は社会で活躍しているから、仕事で忙しいから、教会の礼拝には出席できない。」と考えている方が多いことに気がつきました。それは、人間の評価を、社会的貢献や、稼ぎにおいていることになります。

 私たち信仰者の生き方は、たとえ社会的な指導者であろうと、大実業家であろうと、或いは障害者であろうと、神を信じる者としての筋一貫したものでなければなりません。そして、一貫した生き方ができず、或いはそれを損なってしまった場合に、自らの負い目を神にそのまま委ねるのです。それを正当化せず、神に弱さを明け渡すのです。これがヒューマニズムと違うところです。

 私は日曜朝に、これまで2度、全く動きが取れないほど、病気で体調が悪かったことがあります。でも、決してそれを礼拝欠席の言い訳とせず、痛みと戦いながら、歯を食いしばって参加しました。霊的な強さ、信仰的な強さといいますが、そういうことによって形成されます。

 例えば、阪神の金本選手は骨折しても試合に出場し続けました。身体を労わって野球をした選手よりも長く、現在37歳で昨年は本塁打をこれまでで最高の40本打っています。これを説明するのは、信念、或いは根性でしょう。

 さて、それだからこそ、クリスチャンに必要なことは、自分を含めた全ての人のために、以下の祈りをしなければなりません。それは自分にとって嫌な上司を含めてのことです。

@ その人の必要を覚えて、神に具体的に願う。

A その人の祝福のために祈る。

B その人の弱さや罪深さをとりなし、解決するように取り計らう。

C その人のすべてのことを感謝できるようになる。

 多くの人が楽をしようと言い訳をしながら、努力を怠っています。今日の総会資料のためにも多くの時間が掛かっています。牧師はコンピューターができるから、仕事が速いのでササッとやると思っているでしょうか。そんなことはありません。責任感と根性があるだけです。

 「威厳をもって平和で静かな一生を過ごす」ことを将来の目標としてはなりません。今日から始めるべきです。「真理を知る」ということは、真理の中に入るということです。受験勉強は、真剣にすると驚くほど能力がつきます。受験勉強というのは、言い訳ができず、一生懸命するしかないからです。ヤンキースの松井選手が、「100%の力をだすために、自分をコントロールしている、決して120%の力は願わない。」と語っているのを聞いて、さすがだと思いました。

 多くのクリスチャンが「「自分は罪深いです。弱いです。神さま助けてください。」と祈っています。とても真理を知ることのない姿勢です。あなたが失敗をしても、罪深くても神はあなたを見捨てません。真剣に、信仰生活を生きようとすると驚くほど、能力が付き、神に祝福されます。

@ 自分の必要を覚えて、具体的に毎日の生活を充実させましょう。

A 自らと周囲の人の祝福を真剣に祈ってください。

B 人を非難せず、自分をごまかさず、その弱さを認めて、なすべきことをする。

C 愚痴や言い訳、世間話をしないで、全てを受け入れ、神に委ねよう。

 キリストは、そのようなあなたと父なる神との「仲介者」(5節)として、あなたを祝福せずにはおられません。



2月12日 人の生き方と救い。 Tテモテ書2815

新改訳 Tテモ2:8-15

2:8
ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

2:9
同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、

2:10
むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。

2:11
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

2:12
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。

2:13
アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。

2:14
また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

2:15
しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



 今日の聖句は、いろいろと論議のあるところです。特に、「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」(12)に関して、多くの牧師が「間違っている。今は男女同権だから。」と否定した論議をし、解説書もそんなものです。

 先週少しお話しましたが、聖書の解釈を現実生活から結論付けることは、信仰的に極めて危険であり、信仰の破船に遭います。神は愛であって、人間を偏り見ることはないのだから、このパウロの見解はあくまで個人的なものであって、現代社会には適用するべきではないという主張は、非常にもっともらしいものです。しかし、人間の理性を元に、聖書を勝手に解釈すると、「私的解釈は身を滅ぼす」という大原則を侵すことになります。

 イエス様が「神の国では男も女もない」(マタイ2230から)と説明されたように、神の前では男も女もありません。つまり、男女同権とか、平等とかの考え方は、人間社会のものであり、この世の論理なのです。そこから、聖書を解釈すること自体、神よりも自分の判断を重視することで、信仰的な崩壊をもたらすのですが、女性の権利の強いアメリカでは、そんなことを言ったら、大変でした。今年の教会のサブ・テキストでは、リック・ウォーレンがその辺を適切に指導してます。アメリカも矯正されてきたようです。

 つまり、この聖書の箇所は、あくまで地上のものであり、神がこの地上の生き方の基準をパウロを通して語ったということを理解しなければならないのです。そして、多くのクリスチャンが、これと同じように自分の論理で神の基準を破っているのに、それを正当化しているということです。

1. 男は、怒ったり、言い争ったりしてはいけません。道徳的な清さ保ち、神を称える祈りをどこででもすることが大事です。

どこででもというのをどの教会でもと、解釈されるとしたら、その人は教会でしか祈らない人です。手を挙げてとは、立ち上がって祈る状態であって、膝まづいて祈るのは、悔い改めや誓願のときであったようです。

 男は、軽はずみな行動をするべきではなく、悔い改めるようなことになることは慎むべきです。そういう面では、怒ったり、言い争ったりする人間は愚かと言えましょう。男は、感情的に行動してはならない、ということです。

 また、誓願というのも、簡単にはすべきではなく、神に問いながら、自らの力を貯えて、忍耐しながら生きていかなければなりません。

2. 女は、人目を引くような服装は慎むべきで、良い行いを心がけるべきです。口うるさくなく、静かにしていて、従順な心をもって、指導に従うべきです。夫を支配する妻は、神の祝福を受けることはないでしょう。

 現代は、女性の力が強いので、これが否定されます。男性への指導は、当然として受け入れながら、欲情を煽り立てるような服装が構わないというのは、明確な聖書違反です。イスラム社会の女性の服装も異常ですが、肩や胸を露出し、水着のような服で外出するのは、もっと異常であることに、気がつかなければなりません。水着が露出しすぎであることは当然です。

 また、口やかましく、夫にも従わない女性が、幸せな家庭を築き上げるとは、到底思えません。教会では女性が多いので、牧師としては、こういうことを言うと女性の協力を仰げなくなるので、黙ってしまうようですが、夫婦が愛し合うことを最も妨げるのが、妻の不従順です。

 そういうと、夫がだらしない、愛してくれない、男らしくない、とか言われますが、エペソ5章でも「妻も、全てのことにおいて、夫に従うべきです。」とあります。

 もう一度、言いますが、この男女への戒めは、神の国の法則ではなくて、この世における男女がうまく折り合うための、聖書的処世術なのです。

3.女は、子を産むことによって救われます。

 これも、未婚の女性や、子供を産まなかった女性を差別しているとして否定される聖句です。

 ここを理解するためには、創世記三章を学ぶことが必要です。罪の結果として、女には「苦しんで子を産むこと」と「夫との交流の断絶」、男には「苦しんで働く」ことが課せられました。男が、食を得るために苦しんで働かざるを得ないことは、いつの時代でも同じです。しかし、あえて、それを喜んで働き、神と家族のために労を惜しまない時に、神は祝福を施されます。

 女性は、昔から多くの苦しみを持ち、特に子供を産むために多くの労を払ってきました。神は、それゆえに、「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。」(イザヤ541)と彼らを慰めたのです。ところが、最近は、自分の健康、生活方法などを優先して、子供を産まないとか、何人にするとか、計算する女性が多いのです。つまり、苦しみを避けて、安逸な道を選んでいるのです。自分の労苦を惜しんで、生活の快適さを求めてしまったら、そこに神の祝福は難しいのです。

 先日、妻が妊娠したのかというようなことがありましたが、私たちは、すぐにそれも神の導きと受け留めました。もし、そうなら52歳の超高齢出産です。おそらく命がけであり、クリニックも何も、辞めるしかないでしょう。しかし、私たちは、いつでも、神に従う意識でいるのです。実際は、そうではなく、本当にホッとしました。そのように、苦しみを予測されても逃げないで受け留めるから祝福があるのです。

 それは、同様に、夫との交流の断絶の苦しみを、解決しようと努力しない妻にも、災いをもたらすのです。つまり、夫婦の和解の責任は、失礼ながら、妻にあると、聖書は言うのです。そのようにしてこそ、夫は妻を「自分のからだのように愛せるのです。」(エペソ5・28)。

 確かに、私たち夫婦は愛し合っています。形式的、外面的には、夫である私の努力のほうがすごいと思われているかもしれません。しかし、私自身としては、妻の愛によって、現在の私があると、認めざるを得ません。黙って従ってきて、私を愛し、私のためにどんな労力も惜しまない妻によってこそ、現在の私は形成され、家族が形成されたのです。この妻無しでは、私は自分勝手であり、上昇欲の強い、嫌な人間であったと思われます。

罪とは、思い通りの人生を願うことです。苦労を避けてはいけません。


2月19日 敬虔によって教会を建て上げる。 Tテモテ書3章1〜16

新改訳 Tテモ3:8-16

3:8
執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、

3:9
きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。

3:10
まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。

3:11
婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

3:12
執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

3:13
というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。

3:14
私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。

3:15
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

3:16
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」


 多くの人が幸せになりたがっています。昔は、立身出世することが人々の夢であり、しばらく前は金持ちになることが夢でした。最近は、出世も金持ちも、それほど人々には魅力でなくなっているようです。ホリエモンも、それほど若い人々にはアピールしていなかったようです。そのような具体的目標や夢が、大したものではないと判ってきた富裕な現代日本ですが、それでも人々は幸せを求めます。そして、その幸せを、今は個人的な満足によって満たそうとし、愛しあう人を求めます。

 先週は、夫婦が愛し合うための基準をお話しました。神の前で基本的な罪を犯していることを気がついていないと、その後の人生はいくら努力してもうまくいきません。うまくいかないのは、相手の責任ではなく、自分の責任であり、二人の責任であるとお互いに気がつかなければ、決して夫婦が愛し合うことはありません。それを認めずに、他のことでいくら努力し、教会や社会でいくら努力しても幸せになることはないのです。

 先月は、愛するとは特別扱いであり、他の人はどうでも良いけれども、愛する人だけに多くの関心があるものであると説明しました。ところが、実際には、そのように特別に関心があっても、愛することにはならず、傷つけるものになります。それは、人間が罪人だからです。神を信じ、聖書の原則に従って生活をしなければ、決して愛しあうことはできないのです。

 それは、愛する対象を人格をもって見つめ、その人格の前に自分を適用しようと思わないからです。美しくなっても、人の愛を獲得することはできません。能力も努力も功績も効果は虚しいものです。妻が部屋をきれいにして、おいしい料理を作り、夫の仕事を手伝っても、その愛は獲得できません。夫が、一生懸命仕事をし、給料を家に納め、旅行に連れて行き、家事を手伝っても、それは束の間の愛を獲得できるだけです。聖書に従っていないからです。いくら、聖書を読んでも、自分のために読む人は、自分の顔を鏡で見て満足する人のようで、益になりません(ヤコブ1・23)。実行しないからです。

 さて、今日は、教会の牧師、執事、婦人執事への教えです。皆さんは、これを読んでどのように思うでしょうか。「いくらかは満たしている。」「殆ど平気だ。」「かなりまずい。」・・・・・ これらの条件は基本的なものです。「それでは、自分はだめだ。」と考える人がいるでしょう。

 人を愛するとき、自分は資格があるとか、ないとか考える人は、既に愛を受ける資格がありません。愛するとは、ひたむきになることなのです。

 「自分は駄目クリスチャンだ。信仰にも筋が通らないし、奉仕もあまりしていない。」と考える人も多いと思います。そうです。確かに、あなたの信仰生活はつまらないものになるでしょう。あなたは、愛されたことのない、かわいそうな人です。いや、愛されていることを知らない、というべきでしょう。自分のことを見つめ劣等感で苛まれているノイローゼのような人でしょうか。世の基準に洗脳され、問題ばかりをみているのでしょうか。

 この1テモテ1章15,16節を読んでください。キリストは、あなたを救うために、この世に来られたのです。パウロも罪人のかしらでした。そのパウロが憐みを受けたのです。そして、人々の見本にしようと寛容を示してくださいました。あなたは、おそらくパウロよりも罪人でしょう。それでは、もっと良い見本になります。神は、寛容を示してくださったからこそ、あなたは今もクリスチャンなのでしょう。

  大事なことは、自分の人生を計算せず、世の中の基準に飲まれず、神を愛することです。そして、最善を尽くせば、それで、いつの間にか、すばらしい執事の基準を満たしているのです。牧師の基準をも満たすのです。

  私は、自らのことを思うとき、牧師就任の23年前、この基準を満たすどころか、殆ど落第の牧師でした。今でも自分を三流牧師だと思っています。神を愛しているだけと思っていましたが、神は、はるかに私を愛して配慮してくださっていました。愛は盲目と言いますが、私たち夫婦は、自分をわきまえず、神を信じ、愛するだけで過ごしてきました。そして、皆さんも御承知のような今の恵みがあります。

 実際には、今でも多くの戦いがあり、油断はなりません。でも、「務めを果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト。イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」(313)というのは、真実であり、神は私を特別扱いに愛し、守ってくださるという強い確信があります。

 世の中は非難と批判ばっかりです。そのような中で育ったら、子供たちも人を愛せなくなるでしょう。夫婦が愛し合い、親子が愛しあうためには、神に愛されていうことの確認が必要です。キリスト・イエスはあなたを愛しています。あなたが、神の愛を信じないで、自分の殻に閉じこもって、すねていることが問題なのです。

 私は、日本人クリスチャンは「親に迷惑を掛けてはいけない」、「人様に迷惑を掛けるのは恥である」などという日本人の理念に惑わされていると思います。聖書よりも、社会道徳を優先しているのです。神の手の中に飛び込み、神の世話になればいいのです。

 子供達は、私たち夫婦が、案外、自分勝手であることを知っています。あまり理想主義にかぶれていません。牧師の子供たちですが、殆ど他の人につまずいて腹を立てることもないように思います。それは、あまり理想を追わず、欠点を補い合い、助け合って、楽しく過ごしているからです。

 理想とか、聖書の原則と言いますが、それは人を人格を持って見つめ、愛することです。そうすれば、欠点があろうと、癖があろうと、それを個性として受け留めることができるのです。あなたの欠点を隠したり、嫌がってはなりません。神の前にさらけ出し、気にしないで人生を生きるのです。そして、神に助けてもらいましょう。教会は、そのような人々によって、恵みのうちに、築き上げられるのです。そうして神の教会は敬虔な人が集まるのです。敬虔とは、自分の能力を誇らないことです。


2月26日 敬虔によって人を訓練する。 Tテモテ書4章1〜8

新改訳 Tテモ4:1-8

4:1
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

4:2
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

4:3
結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

4:4
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

4:5
神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

4:6
これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

4:7
俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。

4:8
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

 英会話を習っていますが、講師も日本人の習性をよく知っています。自らの意見ではなく、相手に合わせて曖昧な返事をします。厳しい講師は、はっきりと「英語というのは、英語の思考スタイルで考えなければ、考えることが通じるはずはない。」と言います。自分の意見をはっきりと表現し、ディベイト(論争)できなければ、言い回しだけを身に付けても役に立たず、外国人と交流することはできないでしょう。

 現代の青年は、自らの意見を持っておらず、安易に迎合する人が多いようで、しばらくすると、全く仕事には役立たず、かといって、それをまっすぐに指摘し指導すると、「自分は嫌われた、この仕事は合わない。」と言って辞めるようです。要するに、人間同士の交流に慣れておらず、仲間内の付き合いしか知らないので、少し問題が起こるとパニックになるのです。ところが、失敗経験もなく、社会というものも知らないので、案外自信家なところがあって、自分の思うとおりでない人を非難批判するのは得意です。

 実際には、青年に限らず、多くの人がこのパターンに陥っています。それは、子供を育て、躾ける落ち着いた家庭に育っていない場合によく当てはまります。また、そういう家庭に育っても、戦後の物質的繁栄が日本社会の道徳的価値観を損なって、基準、規範、道徳のない生き方を身に付けてしまいました。

 占いが流行っており、大晦日の紅白歌合戦に細木○○という人の裏番組がありましたが、そこまで占いが流行り人々の心を占有していることは驚きです。悪霊は将来を教えたり、超自然の現象を起こしたり、癒しをしたりして、人の関心をとります。悪霊というのは、人がイエス様を信じて救われなければそれでいいので、知識を教えたり、病を癒したり、快楽を味わさせたり、平気でするのです。

 つまり、将来を知りたい、快楽を貪りたい、自分の思い通りになりたい、と自分勝手な望みを持つ人々を、悪霊は罠に掛けるのです。信仰者でも、自分の思い通りの生活を楽をして手に入れたい、などと考えていると、悪霊の罠に掛かるのです。そして、この世の知識や教えに心を奪われるのです。

 信仰というものは、悔い改めが常に必要です。ところが、信仰生活が長くなると、悔い改めて自分の考えや習慣を変えることが億劫になってきます。「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Uコリント4・16)とあるように、信仰者は、もうこのくらいで良いじゃないか、という妥協は許されません。しかし、多くの信仰者が、「自分は普通のクリスチャンであって、特別な主の弟子ではないから、あまり目立つような強い信仰は持ちたくないし、試練にも遭いたくない」、などと考えているのです。

 聖霊の感化を受けなければ、私たちの霊は汚れてくるのです。「主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Uコリント3・18)とあるように、聖霊に満たされれば、絶えず変えられていくのですが、私たちの自我と罪性が清められることを拒むのです。

 クリスチャンは、真剣に聖書を読み、祈るならば、清められていきます。(5節)。ところが、しばらくすると悔い改めをしなくなるのです。それは、「主人の心を知りながら、その思い通りに用意もせず、働きもしなかったしもべ」(ルカ12・47)のようで、「ひどく鞭打たれます。」そして、不忠実な者たちと同じめに合わされると、いイエス様が言っています。

 教会というのは、そういうことを戒め、忍耐を持ち、着実な歩みをするように信者を教えるのです。「俗悪で具にもつかぬ空想話」というのは、神信仰を個人の繁栄の秘訣をして、利得の手段にしようと教えることです。それは、占いと同じであって、滅びをもたらすのです。悔い改めや清めのない聖書信仰というものはありません。私たちは、そのような敬虔を身に付けるように、教え導かれるべきなのです。

 私は、なるべく毎週二回泳ぐようにしています。そうすると健康が維持でき、少しずつ力がついてきます。英会話も二回習うようにしています。オリンピックが開催されていますが、選手は反復して練習し、技術と体力を身に付けます。未熟な人は、少ない練習で、うまくなろうとします。肉体の鍛錬というのも、その人の性格が現われます。しかし、ともかく、そのスポーツを続けると自分の弱さ、強さがわかってきます。そして、継続的な努力が必要なことを理解してきます。

 信仰者も、同じように継続的な努力をして、神のしもべ、神の器になろうとしなければなりません。それが敬虔の道なのです。それは、毎日の生活にも力を与え(今のいのち)、神の国にも繋がる(未来のいのち)、オリンピックよりも勝る栄冠を勝ち得る道なのです。

3月5日 自らと言うことに気をつける。 Tテモテ書4816

新改訳 Tテモ4:8-16

4:8
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

4:9
このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。

4:10
私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。

4:11
これらのことを命じ、また教えなさい。

4:12
年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

4:13
私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。

4:14
長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。

4:15
これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

4:16
自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。


 一億、総批評家と言われるように、日本人は批評、評価、そして批判が好きなようです。野球などの試合をテレビで見たものですが、自分は野球をやったこともないのに、ああだ、こうだ、と選手を分析します。サッカーなどは、自分がやった経験のある人が見る場合が多いようで、「あれは難しい。しょうがない。」などの同情的な分析が多いように見受けられます。解説者も、あまり批判的な人のものは聞き苦しく感じられます。まるで、自分は超一流の万能選手のような意識で、選手をこき下ろす人もいます。本当の超一流選手だった人は、その難しさを自ら知っていて、それを一つひとつ克服してきたのではないでしょうか。

  私は基本的な従業員教育は三年、管理者の養成は、まず十年掛かると思っています。信仰者の養成も三年、主の弟子になるには十五年は掛かると思います。短時間のセミナーでは、知識や情報、ノウハウを教えることしかできません。ですから、短期間で牧師養成セミナーとか、信者教育セミナーというのは、最初からおかしいと思って、参加をいたしません。しかし、礼拝は別です。神のみことばが示され、聖霊なる神が働くと、たちどころに人は新しい人に生まれ変わるのです。

 ところが、聖霊によって神に取り扱われることを体験すると、それを能力的なものであると誤解してしまうことがあります。救いというのは神の業であり、努力は人間の業です。その違いを理解していないで、努力をして自らを変えようとする信仰者が多いのです。品性というのは、御霊の実、つまり、聖霊なる神の働きの結果なのです。(ガラテヤ5・22)。これを人間の努力や意思によって形成しようとすると、御霊の実ではなく、肉の行い(ガラテヤ5・19)になって、敵意や争いをもたらします。

  ところが、「立派でない自分を何か立派であるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6・3)。努力によって自分を形成したと思うと、高慢になり、批判的になります。批判的な人間に祝福はありません。「もし、誰かが過ちに陥ったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。」(6・1)とありますが、それは「御霊の人であるあなたがた」だからこそできることなのです。

  ここで、「誘惑に陥らないように気をつける」とは、人が過ちに陥ったときに、責めてしまうことです。人を責めるならば、神の恵みからずり落ちてしまいます。御霊の人でなくなってしまうのです。ここで大事なことは、「互いの重荷を負いあう」(6・2)ことです。つまり、人は誰でも過ちを犯し、罪を犯すのですが、その重荷を他の人が持ってあげるのです。そして、その重荷を持った人も、罪を犯すのですが、その人は他の人がその重荷を負うのです。夫婦というのは、そのようにして伴侶の罪を負いあうことによって、絆を高めていくべきものです。

  ガラテヤ6章は、それこそが御霊の種まきであるというのです。そのように飽くことなく善を行い、失望しなければ必ず祝福を刈り取るのです。つまり、御霊の種蒔きとは、批判的になることなく、他の人の罪や弱さを助け、自らの弱さは隠さずに人に助けてもらうということです。

  先週も言いましたように、そのようにして敬虔を身に付けるように鍛錬するのです。鍛錬とは、願ったり思ったりすることではなく、それが身につくまで練習を繰り返すことです。自分の人間性を高めようと鍛錬するのではなく、他人の罪や弱さを助け補おうと鍛錬するのです。自らの弱さを認め、悔い改める鍛錬をするのです。

  特に、それは親しい人に対して行なわなければなりません。自分の家族が罪深く、平気で罪を犯して罪責感がないようであるならば、あなたがその家族をどこまでも助け励まさなければなりません。それは、「疑いを抱く人々を憐れみ、火の中から掴みだして救う」(ユダ23)ことです。世の中では、非難と批判が飛び交っています。そういう中でこそ、「あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」(4・15)。

  「あなたのうちにある聖霊の賜物」とは何でしょう。聖霊の賜物は、あなたが真に聖霊に満たされたら、わかるでしょう。「御霊のことは御霊によってわきまえる」(Tコリント2・14)ものですから、論理的に説明することは難しいでしょう。特に、頭の理解や常識に囚われている人が、聖霊の賜物を与えられることは難しいでしょう。自分の生活を自分の能力や努力によって、こなそうとする人は、いつまでも聖霊の賜物を与えられないでしょう。

  毎年忙しさは増すばかりです。この春は、二人の受験と卒業、3人の引越しと2件の家の購入、子供の婚約と結婚式、数件の機材の購入、2社と教会の決算、新しい会の発足、2冊の著作、人事と採用、3教会の主管事務、その他さまざまなことがあります。しかし、自らが作り出したのではない多くの仕事のうちに主の強い助けと介入を感じております。

  「聖霊による賜物を軽んじてはいけません。」あなたは自らの人生を、神の助けなしに生きようとはしていませんか。自らの能力や性格を限定してはいけません。「自分自身によく気をつけてください。」あなたは、まるで神の助けと祝福を信じていない人のように人生を生きていませんか。

  あなたの魂が救われたのは、自分の罪を認め、神の救いを信じたからです。あなたの人生が救われるのは、自分の力で生きようとする思いを悔い改め、神の助けを信じなければなりません。

  これらのことは、自らの弱さを自分の力で補おうとせず、自らは他の人の助けをしようとした人にはよくわかります。それが御霊のことを御霊によってわきまえるということです。祝福をいのります。

3月12日  一人の人の清純な花嫁。 Uコリント書1123

3月19日  教会員相互のケアの義務。 Tテモテ書5116

新改訳 Tテモ
5:1
年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、
5:2
年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。
5:3
やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。
5:4
しかし、もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。
5:5
ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、
5:6
自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。
5:7
彼女たちがそしりを受けることのないように、これらのことを命じなさい。
5:8
もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。
5:9
やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、
5:10
良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。
5:11
若いやもめは断わりなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、
5:12
初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。
5:13
そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。
5:14
ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。
5:15
というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。
5:16
もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。

 息子の結婚式では、教会員の皆さんに大変お世話になりました。教会は神の家族と言いながら、あまり人に迷惑をかけるなという日本の社会規範が強くて、あまり他の人に頼まず、助けるばかりのことが多いようです。

 ここで記されていることは、まるで家族の細かな配慮のようです。牧師としてのテモテに対する個人的な指導です。教会は、年齢や立場そして最近は民族も違う人々が集まります。それは、私たちの教会の理念にもあるように、神によって集められたのです。そのような集団というのは、あまり他にないように思われます。また、教会の構成が偏っているということは、不健全なものです。開拓期には、しょうがありませんが、次第に各世代にまたがり、立場や職種も違う人々が自然に集まってくるということが健全性のバロメーターでしょう。

 たとえば、家族で父親が疎外されるということが最近多くあるようですが、それは長年家族を配慮しないで仕事に没頭した罪の結果でしょう。子供に疎外されるとしたら、子供に押し付けて交流をしなかった咎でしょう。夫婦が互いに交流ができていないとすれば、互いの罪の結果です。同じことが教会にも言え、ある世代が抜けているとすれば、配慮や交流が損なわれた結果でしょう。無論、地域的環境的な要因もあるので、そうだからといって非難するものではありませんが。

 キリスト教は親や家族を捨てさせる理不尽な宗教なのだと思われることが、マタイ1929などからありますが、それは神に従うということを教えたのであって、この8節にあるように、クリスチャンは自分の家族を省みることが必須なことと指導されます。もし、あなたの信仰が家族から非難されるとしたら、短期的には別として、自らの信仰が不健全なものであるかもしれません。

 クリスチャンの家族形成の原則は、親の老後を世話するということです。忙しくて親の世話などできない、勝手に老人ホームに入ってほしいという人は、すばらしい家族の宝を捨ててしまっているようです。老人こそ、子供たちの話をゆっくりと聞いて見守ることができる子育ての名人です。あるいは丁寧な家事をしてくれます。但し、日本では狭い家の事情もありますが、近所に住むということもよいでしょう。

 私は、日本の多くの教会が、あたかも牧師の生活費を捻出するために献金をしているような状態であることが嫌いです。それは、教会観を台無しにします。信徒と教職にカトリックのような聖俗の違いを意識づけてはいけません。教会という組織を運営するために、いろいろな立場があるのです。牧師は決して信徒の世話係でもありません。牧師も執事も教会員もみな教会の形成のために共に労を担うのです。そういう面で、信者の奉仕者が、もしそれで生計を立てるならば給料を上げることも当然です。

 私自身はそのようにして、信者の模範として神に仕えているのであって、その分として必要な経費負担をしてもらっています。また、会堂は教会のものであって、私が他の牧師と代わることや、協同することもあるでしょう。

 さて、そのようにして、もし忠実な教会員生活を送って年をとり、老後の世話や金銭的補助をする者がいない教会員いたら、教会は積極的に面倒を見るべきだと考えています。

 私たちの教会は自由です。収入の十分の一を献金する人もいますし、決めた額をする人もいます。礼拝も忠実に参加する人も居ますし、暇があったら来る人もいます。奉仕を常時する人もいますし、やりたい時にする人もいます。

 聖書はここで、教会が責任を持つのは、その人の信仰による良い業が認められている人と言っています。神が責任を感じ、その人を祝福するのも、人生を神に掛けている人です。5節にあるように、望みを神においているのです。その人がもし、年をとり、老後が不安定になったら、何よりも教会がその世話をしなければなりません。だから、私はグループホームを立ち上げたいのです。

 そういうケアの精神こそ、キリスト教のものです。だからこそ、教会は普段から相互扶助を実践しなければなりません。そして、多くの日本人クリスチャンが実践しなければならないことは、人に助けられるということです。そして、「ありがとう」ということです。金銭的なお礼をせずに、助けを得るということは謙遜でなければできません。また、人を助けて、その対価をもらうというのでは、とても天に宝を積むということはできません。

 ひも付きの善意を偽善と言います。神の報いはありません。献金も不信仰な人にはできないものです。神社などでは、幾ら寄進したか貼り出されたりします。そうすると何百万円も寄進するのに、無記名では数百円しかしない人々が多いものです。

 信仰は付き合いや義理人情で入るものではありませんが、そういう入り方をした人は、そのままでは決して健全な信仰を保つことはなく、信仰を捨てることになります。先日の結婚式で、夫婦の愛とは結婚の誓いをしたから、どんな状態でも愛さなければならない、という覚悟の中で形成されるものだと語ってくださいました。同様に、信仰も決心以外の何者でもありません。神を信じて生きることに、保障はありません。

 信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるとあります(へブル111)。あなたが財産や能力に将来の保証を求めるならば、それは、財産や能力に信仰をおいているのです。神を信じるということは、あなたの生活の全てに及ぶべきです。そして、自分にあるものは、神に預けられたものに過ぎないことを認めてください。神はそれを神のものとして祝福し、私たちに使い方を導いてくださいます。自分のものを報いのないものに注いでみてください。


3月26日 尊敬されるべき教会役員の働き。 Tテモテ書51722

新改訳 Tテモ5:17-22

5:17
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

5:18
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

5:19
長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。

5:20
罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。

5:21
私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。

5:22
また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。


 先週、教会の献金が牧師の生活費に充当されるような考え方が、聖書的な教会形成を損なうとお話しました。そもそも、クリスチャンになるということは、お稽古事や何かの会員になるということとは異なり、魂の救いに関することです。

 最近は、誇りを持つとか、尊敬されるとか、志をもつとか、魂のあり方に関するものが少なくなってきました。アメリカに行くと、そのような言葉遣いが非常に多く、互いに誉めあうのがすごいので、何か、おだてられているような変な気持ちになります。そしてだんだん、誇りをもった人間になろうかという気持ちにもなってきます。それに比べると日本人の会話は、自分のことは低くして相手をおだてるようなものになるような気がします。

 ともかく、自分の心の状態に無頓着である人々が多くなっています。あるいは、自分が間違ったことを言わないかしないかと心配し、内面を見過ぎて悩んでいる人も多いようです。

 たとえば、お稽古事にしても、うまくなりたいという一心で、時間もお金も掛けるものです。趣味にしても同様です。私の場合、趣味が多く、何をしてもひたむきですが、一番の関心は信仰です。幾つもの仕事をしていますが、それは信仰のためです。趣味は信仰とは、直接は結びつかないのですが、神にある人生を喜び楽しむjものと心得ています。

 神の国とは、畑に蒔かれた種のようだとイエス様は言われます。(マタイ13章)。私たちの心次第で、多くの収穫を得ることも、その種を枯らしてしまうこともあります。信仰とか、教会生活もそのようなものです。信仰は義務ではありません。たとえば、日曜日に教会に来なければならない、と義務的に考えるだけで、信仰の喜びも力も自ら捨ててしまうようです。献金も奉仕も同様です。

 私にとって、信仰は人生そのものです。天と地を造られ、世を治める神が、私を守り、用いてくださる、なんとすばらしいことでしょうか。命を与えられ、能力も才能も、すべて神のもの、神にゆだね、後は好きにして好きなように生きれば良いのです。

 この2ヶ月は、すさまじく忙しいものでした。でも、うまくいかなくてもいいか、神の御心でなるようになる、と考えれば楽なものです。お金もすさまじく出ました。なくなったらなくなったで、破産したって、それも良い経験と、あまり気にもなりません。神に献金しているのは(教会にではない)、お金は神に預かっているという確認のために、神に返しているという気持ちですから、どうっていうことはありません。

 体調を崩して、まずいかな、と思ったこともありますが、死んでも天国ですからあまり気になりません。家族や教会員にも心配なことはあり、私がいなくなったら、大変だろうが、また良い経験だ、などと楽観しています。

さて、教会とは、そのように神に身を委ねた人たちによって、営まれます。損得を考えたり、義務的なものとか、奉仕によって神に功績を積もうとするならば、やめといたほうが良いでしょう。信仰とは、自発的なものであり、報いを求めないものです。テモテ3章に書かれていることを果たしながら、経済的にも保障されない、などということは、義務的にできるものではありません。

 献身とは、そういうことです。それは、自分の罪深さ、弱さ、勝手さを自覚し、神にすべてを委ねる人生を始めることなのです。教会の役員になるということは、そういう決心をしなければできるものではありません。

 人生はいくら十分に計画し準備し努力したところで、決して思いどおりにいくものではありません。多くの人がそれに気がつかず、神に委ねないで、自分なりの人生を送ろうと考えているのです。共産主義も人間の罪性と社会の矛盾、自然の驚異の前に、頭で考えた理念は無益であることを証明しました。

 軽々しく按手をするな、とは簡単に人を神の働きに任命するなということです。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言1022)とあるように、努力や苦労によって人生を構築しようとする人は、人を裏切り、犠牲も惜しみ、自分の功績を重視しようとするのです。

 「他人の罪に関わりを持つな」とは、人がいくら努力しても、他の人の罪を軽減できないことを知らなければなりません。罪赦されたからといって、あなたがいかに努力しても、人の悔い改めに導くことはできないのです。それは、神の業です。

 つまり、長老、執事などになるということは、人間の働きというものが、それだけでは何らの成果を獲得しえないということを悟るということなのです。そして、それを悟った上で、自らのなすべきことを果たし、神に仕え、人に仕えるということを平然となすべきなのです。自らの行いの成果を求めること自体が、信仰ではなく、不信仰なのです。

 牧師になる者を求めます。どうせなら、人生を神に委ね、教会に仕えることを第一としたほうが良いと決心するなら、資格十分です。執事になるということも、世の中で働き過ごしながら、教会に仕えることを第一とする、という覚悟をしていると思われる人を推薦しています。受諾するということは、それを受け入れているのだと私は判断しています。

 人生というのは、神にすべてを委ねると、うまく回っていきます。なぜなら、うまくいかないことが気にならなくなるからです。ですから、うまくいくしかないのです。神を信じるとは、そういうものです。

 忠実に礼拝を守り、奉仕をし、献金を果たし、とりなしの祈りを果たしている協会の執事さんたちを、こころから尊敬し、賞賛します。神は、あなた方を祝福せずにはおられません。