4月3日 イエス様の励まし。 ルカ243053

新改訳 ルカ
24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
24:37
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:41
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43
イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
24:44
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48
あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。

 先週の町田先生が説明されたカラヴァッジオの「トマスの不信」はユニークな絵でした。まさか、イエス様の槍で突かれた脇腹に本当にトマスが指を差し込んだとは思われません。それでも、その真剣な表情とイエス様の穏やかで優しそうな顔とは非常に印象的なものでした。トマスの手首を掴んで、本当のことを教え諭そうとするイエス様の意思の強さをも感じられました。

 弟子たちの中で、意思の強そうな、しっかりとした考えを持っていた者は、イエス様の復活を信じませんでした。ヨハネ20章を読むと、ペテロとヨハネは、イエス様への愛着からも遺体のある墓のことが気になっていました。そして、空の墓にイエス様の頭に巻かれていた布がそのまま脱げているのを見て復活を信じたとあります。他の弟子は、その後にイエス様が彼らに現れてくださったので、復活を信じました。頑ななトマスは、さらに1週間後にイエス様に出会っています。

 ルカ24章に出てくる二人の弟子は、復活の日曜日に、エルサレムから出て十一キロ離れたエマオへの道を歩いていました。クレオパとその妻であるとも言われており、着いた家は彼らの住まいであると思われます。クレオパは、妻に信仰者の悲劇や苦しさを説いていた時に、主に出会ったのかもしれません。私自身は、単純で純粋な妻に、「信仰とは、そんなに簡単なものではない」、などと説いているので、この二人が夫婦であるならば、まるで自分たちのような気もしてきます。

 クレオパは、イエス様の能力と教えのすばらしさに感嘆し、弟子となっていました。そして、自分の国の復興をイエス様に期待していたのです。しかし、その感動と期待は、イエス様の十字架の死でもろくも崩れ果て、失望のうちに我が家への帰途にあったのです。もはや他の弟子たちが、イエス様の復活を報告しても、とても信じられない妄想として、馬鹿にしていました。

 神を信じるということは非常に単純なことです。多くの人は、それを馬鹿にしてしまいます。そして、単純に信じるということよりも、信仰に基づく鍛錬や苦行、精神修養を重要なものと考えます。

 しかし、「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1コリント1・21)とあります。

 神を信じる必要性はあるのでしょうか。

 当然あります。しかし、その必要性をいくら唱えて強調しても信じない人は信じません。聖書は、はっきりとそれを言っています。私たちの罪のために十字架につけられ、私たちに永遠のいのちを約束する復活をしたイエス様を信じる。ただ、それだけのことです。

 私たちは、人の弱さや罪深さに敏感です。他の人に関してはそれで、批判的になり、自分に関しては憂鬱になります。

 しかし、聖霊に満たされ、神を信じているならば、そんなことはありません。私は、聖霊に満たされて、怒っている人を見たことがありません。聖霊に満たされて、悩んでいる人も見たことがありません。イエス様が一緒におられるならば「心はうちに燃えて」(24・32)いるのです。「非常な喜びを抱いて、神をほめたたえ」(24・52,53)ていられるのです。

 「自分はなんてだめなのだろう。」などと内面を見つめてはいけません。問題や事件を見て悲観すると、一緒にイエス様がいても気がつきません。
 イエス様を見つめるのです。

 私たちにも試練があり、苦しみを受けるのは当然だと考えればよいのです。「なぜ、試練があるのだろう。なぜ、こんな苦しみがあるのだろう。」などと考えるならば、イエス様の十字架もないほうが良いことになります。

 大事なことは、ただ神を信じることです。

 神を信頼して生きることです。

 桜の花がなかなか咲きません。まるで、枯れ枝、枯れ木のようです。全く死んでいるようです。ところが、しばらくすると、すばらしく綺麗に咲き誇ります。そして若葉をつけます。遠くから見るといのちのないような木に、そのような花や若葉をつけるとてつもなく大きな力が隠れているのです。あなたは、それを信じているのでしょうか。

 人生にも、自分にも失望してはいけません。ただ神を信じるべきです。

 


4月10日 罪人のためのとりなし。 創世記181933

新改訳 創 18:19-33

18:19
わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

18:20
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

18:21
わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

18:22
その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

18:23
アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

18:24
もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。

18:25
正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」

18:26
主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

18:27
アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。

18:28
もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」

18:29
そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」

18:30
また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」

18:31
彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」

18:32
彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

18:33
主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。


 アブラハムが神に選ばれたのは、その子孫であるイスラエル民族に対して代々次のことをさせるためでした。

1. 主の道を守る。

2. 正義と公正を行う。

3. 神の約束を成就させる。

 神が私たちを救われたのは、同様にこれらのことをさせるためですが、実際にはおろそかになっている人が多いようです。

1. 主の道を守る。

 偶像に頼ることをしないで、目に見えない神を信じ、誘惑から自分を遠ざけて、律法を守って生きることです。先日、英会話のレッスンで、最も大事なものは何ですかと、講師が聞いたら、若い女性は「金です。お金があれば、何でもできます。健康にもなれるし、勉強もできる。遊べるし、旅にも行ける。」と答えました。

 私は、宗教と答えました。「世界中で多くの人が、信仰のために命をもかけているし、病にも克服して平安でいられる。お金を得ようとしても争いが起こるだけだし、助け合う、愛し合うということは何にも掛けがたい。」と答えたら、怪訝な顔をしていました。

 主の道を守るということは、健康にも家族にも能力にも財政にも依存しないで、自らを神と共に生きるように律するということです。

2. 正義と公正を行う。

 正義を行うとは、積極的なことです。最近は正義とか公正ということがどういうことか、わからない人が多いように見受けられます。

 先日、従業員研修会でマナーを学びましたが、礼儀もマナーも知らないので驚きました。公正とは誰に対しても正しく振舞うことですが、礼儀を知らない人が公正を保てるとは思いません。自分の行動についてずぼらでありながら、正義を行うはずもありません。

3. 神の約束を成就する。

 これは、さらに積極的な行動です。使命感のない人は、解決や判断能力がありません。神の御旨を実行しようとする人は、いつも自らなすべきことを模索するのです。

 神は、そのような忠実な僕、アブラハムに対して、その為そうとすることを隠しておくことはできませんでした。ソドム・ゴモラへの裁きを伝えたのです。

  アブラハムは、自らが正義と公正を行なっているので、神に対して、正面から訴えることができました。「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」と神に対して堂々と抗議しています。

 あなたがその組織の中で、とりなしができるためには、常日頃、その組織のために貢献し、公正な歩みをしていなければなりません。普段自分勝手に行きている人が、とりなしをしてもそれは形だけのものなのです。

 義人、そして信仰の勇者アブラハムのとりなしは神をも動かすものでした。俗悪な町ソドムとゴモラのためにとりなして、とうとう十人の正しい人がいたら滅ぼさないという約束を獲得してしまいました。

 しかし、実は、「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。」(エレミヤ5・1)と言われるように、神は一人の義人がいたら、その町を滅ぼさないのです。

 つまり、アブラハムの甥ロトを含めても一人も義人はいなかったのです。来週語るように、そのロトはアブラハムの甥であるという故に、天使によって助け出されるのですが、助け出されても結局罪人にはろくな結末がありません。

 さて、このように神の命令をまともに果たせない多くの信仰者がいるにも関わらず、実はキリスト・イエスが私たちのためにとりなしをしてくださっているのです。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8・34)そして、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8・26)

 私たちは、他の人を非難するのではなく、とりなしをすることができるように自らを制御しなければなりません。「まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1テモテ2・1)それは、「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(2・2,3)


4月17日 ロトの失敗と教訓。 創世記19129

新改訳 創 19:12-28

19:12
ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。

19:13
わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

19:14
そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。

19:15
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」

19:16
しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

19:17
彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

19:18
ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。

19:19
ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。

19:20
ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」

19:21
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。

19:22
急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。

19:23
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。

19:24
そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、

19:25
これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。

19:26
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

19:27
翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。

19:28
彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。

 主を残して二人の御使いが人の姿をとり、ソドムに着きます。ロトは一目見るなり、彼らが普通の人でないことに気がつきます。そして、直ぐに自分の家に招き入れ、翌朝早く町を出るように勧めます。旅人は、普通広場に泊まったようですが、ロトはそれをさせないためにこのようなことをしたと思われます。

 つまり、ソドムの町は、この後に記されているように非常に俗悪な町であり、強姦、男色、暴力などが公然とされていた恐るべき町だったのです。ロトは、旅人が大変な目にあったことを何度も目撃していたのです。

 ロトが同じような目にあったかどうかはわかりません。しかし、いつもそのようなことをされそうな恐怖にさらされていたと思われます。それでは、なぜ、そのような町から逃げ出さなかったのでしょう。

 それは、この後、神の裁きがソドムとゴモラの町に下り、天から硫黄の火が降ったとき、未練がましくロトの妻が振り返ったことからも類推されます。神の使いは、「決して後ろを振り返ってはいけない。」と言っていたのにも関わらず、彼女は振り返ったのです。娘たちのその後の行動を見ても、この町の俗悪さが影響を与えていることがわかります。彼女たちは、歓楽の町ソドムが好きだったのです。そして、悪に染まっていたのです。

 私たちは、現代が俗悪な社会であることを意識し、それに惑わされない、染まらないように注意をしなければなりません。以前は、携帯のメールだけだった性風俗の勧誘が、最近はPCのメールにもくるようになりました。恐ろしい内容です。性的な堕落は、人格的な破壊につながります。

 昨日は、後輩の牧師の結婚式がありました。教会の結婚式では必ず、新郎新婦に、「いのちの日の限り、伴侶に対して堅く節操を守ることを誓いますか。」という誓約をさせます。これは、妻以外の女性を愛さない、好きにならない、という誓いです。「好きになってしまったからしょうがない。」などと言い訳しても、そういうことは本人の人生を破壊させます。

 ロトは、断固として家族を率いて、この町から脱出するべきでした。あなたもまた、性的な惑わしから抜け出さなければなりません。独身の人が、伴侶を求めるのは、正当なことです。しかし、性的な誘惑からは身を守り、純潔を貫かなければなりません。もし、過去に過ちがあったとしても、これからはしてはなりません。それは、あなた自身の幸せのためです。

 娘たちの婚約者は、神の裁きのことを聞いても冗談だと思いました。確かに、Uペテロ三章を読むと、不敬虔な者は、神の裁きを聞いても、あざけるだけだと書いてあります。犯罪や不道徳を犯している者は、それがばれない、裁かれないと思っているようです。しかし、実際に、警察につかまり、罰を受けるときになった、自分の犯した過ちの大きさに気がつくようです。

 夫婦が愛し合わない、ということは大きな罪です。そこには、お互いの間に大きな罪が存在することは明らかです。人を愛せない、ということも大きな罪の結果です。罪を犯しているうちに、心が麻痺してしまっているのです。神の前に出てから気がつくようでは遅いのです。

 御使いの忠告に対して、ロトはためらっています。それは、財産を置いてきてしまうことを恐れたからでしょう。そして、ロトは「低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」と言われたのに、願い出て近くにあるツォアルという町に逃げるだけにしてもらった。生計を立てるのに山地では無理だと考えたのでしょう。

 多くの人が打算で生きています。打算というのは、自分の生産能力や予測どおりに物事が進んでいくことを考えています。信仰者と言いながらも、信仰と生活を別なものと考えている人が多いようです。聖書は、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労はそれに何も加えない。」と言っています。打算で生きる者は、予想通りに行かないと失望し、失敗したり、破産したりすると、生きる甲斐をなくします。

 確かに、打算で肥沃な低地を選んだロトの人生は、虚しいものになりました。ツォオルの町にも住めなくなり、結局娘たちと三人だけで人里離れた山地に住むことになり、さらに大きな悲劇も起こってしまうのです。

 「主の祝福が人を富ませ」というと、祝福を主に願い祈り求める人が多いようです。主の祝福を得る秘訣は、神を恐れ、敬虔に生きて、悪や誘惑と戦うということです。真実な信仰というものは、神に祝福を求めて生きるのではなく、神の愛と真実を知り、神に喜ばれる人生を生きるものです。

1. 罪は、どんな罪でも避けるべきです。

2. 罪を犯すと、人を愛せなくなります。

3. 罪を犯している人は、罪のもたらす罰や災いに気がつきません。

4. 打算で生きる人は、失敗を重ねると生きて行けなくなります。

主の祝福を得られるような信仰の人生を生きましょう

4月24日 


5月1日 家庭の形成。 創世記21章1〜21節

新改訳 創 21:1-21
21:1
主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

21:3
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

21:9
そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」

21:11
このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。

21:13
しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

 アブラハムが百歳、サラが九十歳になって、イサクを産みました。有り得ないことですが、神は信仰の父、アブラハムに多くの試練と忍耐、教訓を与えた後、約束の子、イサクを与えたのです。アブラハムが信仰によって、生まれ故郷を出て、約束の地カナンに旅立ったのは七十五歳の時でした。アブラハムは、敬虔で信仰深く、忍耐力もある傑出した指導者ですが、妻サライとのことだけは、何回も失敗を重ねています。イサクを産み、国々の母というサラと名前を変えた妻が、多くの苦難に耐えながらアブラハムと同行し従者たちを指導し、また王からも何度も求婚されたことからも、やはり傑出した能力をもった女性であり、大変美しく、若々しかったことは、間違いないでしょう。

 そのような夫婦ですが、やはり家庭形成や夫婦間の交流、子育てには、一般の家庭と変わらない多くの困難があり、過ちを犯し、そして次第に成熟していったことは、私たちにも教訓となります。

1. 財産問題

 卓越した能力を持っていたこの夫婦は、神の祝福をも獲得する信仰深さを持っていました。しかし、子供がいないこともあって、財産の処理に困っていました。それで、甥のロトを同行させ、後で問題を何回も起こされていますし、女奴隷から子供を得て、家族争議にまで至っています。

2. 夫婦問題

 能力があり、口うるさくもあったサラをアブラハムは、扱いかねていたようでもあります。歳をとっても王様に求婚されるのですから、かなり魅力的な女性であったでしょうが、アブラハムは、サラに促されるまで女奴隷にも手をつけなかったことからも、女性は苦手な存在だったのかもしれません。サラに言われるままに行動しながら、後でそのこと故に怒られたり、問題となってしまっています。

3. 家族問題

 イシュマエルを産んだハガルとサラとの女同士の抗争、息子イシュマエルが幼いイサクへもつ敵意や苛立ちなど、サラだけでなく家族が増えるとどのように対応してよいかわからなくなっている様子が見られます。

他方、従者たちの訓練や敵との戦い方などは見事なものですし、信仰者としての姿勢は確かに信仰の父と呼ばれるにふさわしいものです。指導力、知恵、忍耐力、才覚、洞察力、謙遜さなど申し分ありません。

 当時の社会状況の中ではアブラハムがとったサラへの態度は、比較的良いものでしょう。しかし、新約聖書で示される夫婦の基準からは、間違いなくそれています。妻を愛し、妻のために自分を献げ、清めて聖なるものとなし、この世の苦しみのない栄光の姿を自分の前にたたせなければなりません。自分自身のように愛し、妻を養い育てるのです(エペソ五章)。このような夫の務めは、聖書の教えや義務というよりも、普遍的な夫婦の法則として、夫婦関係を拘束しているのです。つまり、妻を慈しみ、大事にしなければ、不平や不満を言われ、家庭は苦痛の場となるのです。 せっかく与えられた子供でさえ、愛するものでありながら、いつもそこから問題が生じてくるのです。

 自分の伴侶の人格を認め、決してそれを損なってはなりません。アブラハムは妻の同意を得て、アビメレク王に召しだしたのですが、それがサラの苛立ちや夫への反抗、不安を起こしたことは間違いありません。王様のように妻に敬われたければ、妻を女王のように接しなければなりません。

 子供のことや家庭のことは、決して判断の責任を夫は譲ってはなりません。女性は最終責任を負うストレスに耐えられません。妻がその場の状況に応じて、いろいろな提案をしても、その提案を信用してはなりません。もし、女性が論理的な存在ならば、夫や子供を愛することはできないでしょう。女性の愛は非論理的だからこそ、気高いのです。それともあなたは自分の妻からの愛を合理的なものであると思うほどうぬぼれているのでしょうか。女性は、非論理的な存在であり、責任を負うことはできないのです。そして、責任を負うことをしない男性は、もはや男として認められません。言い訳を言い、愚痴を言う男性は、家庭だけでなく、社会でまともな暮らしを営むことはできません。妻もまた、夫を決して責めてはいけません。夫を責める女性は、夫を家庭から追い出しているのです。

 夫も妻も、その人生の成果を見出し、お互いに認め合うようにしなければなりません。自らの人生の後を見て、笑いをもつことはなんとすばらしいことでしょうか。他の人が知らなくても、夫婦だけはお互いの忍耐、労苦、努力、そして人格を認め合って生きなければ。その人生は全く虚しいものとなるでしょう。

 歳をとり、仲良くお茶を飲みながら、ともに歩んだ苦労を分かちあうならば、あなたの人生は、報われているのです。信仰者の人生は、そのようにして形成されるのです。そのように人の人格を認めないで、果たして信仰者といえるでしょうか。神に受け入れられたいと望むのならば、その前に伴侶に受け入れられるように、心から悔い改めてください。


5月15日 ペンテコステの出来事。 使徒の働き2章1424

新改訳 使徒
2:14
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

2:15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。


 世界アッセンブリー大会は世界中から集まったアッセンブリー教団の代表たちの素晴らしい祭典でした。現在のアッセンブリー人口は世界で五千二百万人だそうで、おそらくプロテスタントでは最大級の勢力になってきたと思われます。印象深いのは、イラクや中東から来た代表で、少し前まで信仰の故に牢獄に入っていたそうです。

スリランカの代表は洪水で妻子や五〇名の教会員が死に、暴徒が教会に乱入してきたそうですが、全てのことに耐え、天において妻子と会えることを待ち望んでいると感動的な報告でした。その災害の時には、アメリカアッセンブリーから数百人のボランティアが駆けつけたので、教会への迫害がなくなり、人々が教会に集うようになったと報告され、アメリカ・アッセンブリーの力強さを痛感しました。

オーストラリアの印象は、因習や拘束のない新興国で、人々が力いっぱい生きているという感じでした。日本からヒル教会の神学校に通っている留学生が十八人もいて、日系人の女性伝道師と共に一生懸命、日本人ツアーのために協力し助けてくれました。純粋に信仰をもって学び、奉仕している姿に感銘を受けました。モンドも全ての集会に参加し、彼らとの交流を喜んでいました。

世界アッセンブリー総裁のトラスク師の説教は圧巻でした。「国々を主のために勝ち取り、世界を揺り動かせ」という大会のテーマを使徒の働きから、力強く語り、まさに地が揺れ動くほどの説教でした。この説教は、DVDを購入しましたので英語がわかる方はお聞きください。

女性たちが力強く活躍している姿も印象に残りました。これからの日本は、このように女性たちが活躍するかどうかが祝福の鍵を握っていると思います。男性の陰に隠れていないで、積極的に自らの人生に意味づけをすることが大事です。

さて、今日はペンテコステ(五旬節)です。イエス様は復活されてから四十日間、弟子たちとともにおられました。イエス様の生涯は、十字架に掛かることに方向付けられ、復活は神の大能の証明として神の国を明らかにしました。四十日後、イエス様は昇天されましたが、再び地上に終末のときに裁きのために来られると預言されております。

イエス様は、昇天前に、父なる神の約束である聖霊のバプテスマを待ちなさいと命令されました。そして、聖霊が信者に臨まれるとき、信者は力を受け、世界中に伝道するようになると言われました。聖霊のバプテスマは伝道のパワーを与えます。私たちがペンテコステ派と言われるのは、このペンテコステの日の聖霊のバプテスマを強調するからですが、まさに伝道の力は、アッセンブリー教団を短期間に世界中に拡大させました。

  大会ではイスラムの国々でもアッセンブリーは飛躍的に拡がっていることが報告され、沈滞していたヨーロッパでも伸びてることが示されました。次回の二〇〇八年はポルトガルでひらかれます。南米ではプロテスタントの殆どがアッセンブリー教団です。日本でも、他教団に比べたら伸びていますが、アッセンブリーとしては恥ずかしいような状況です。

  ヒル教会の日系人女性伝道師が言っていましたが、日本人の信者や神学生が日本に帰ってからのことが心配だそうです。日本では、配慮やコンセンサスが重視され、組織や集団が優先されます。神を信じ、聖霊に満たされるためには、個人としての存在感・自覚が必要です。自分は何をしたいのか。それを考えずに毎日を過ごしている人がなんと多くいることでしょう。

  先日、近くに引っ越してきた福音派の教会員が、牧師からペンテコステ派への批判を教え込まれて当教会の礼拝に参加しました。聖霊のバプテスマは、神を信じるときに聖霊が働いてくださるときのことであると力説していました。当教団は日本福音同盟の重要メンバーであり、理事長がその同盟の副理事長を務めたこともあります。また、世界のプロテスタントの半分が現在ペンテコステ派であるという事実から離れて、いまだに教理論争をして批判する牧師がいるということに驚きました。私たちが聖書から聖霊のバプテスマの体験を再確認し、体験しているということを認めないで、『おろかで無知な思弁』(Uテモテ2・23)をしているのです。

  ペンテコステの日、人々は驚くべき現象を見て、「どうしたらよいでしょう。」と尋ねました。ペテロは「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(水の洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう〔聖霊のバプテスマ〕。」(使徒2・38)と教えました。

  聖霊のバプテスマは神がプレゼントとして与えるものです。「どうすれば、どういう者が、どうして」なのか、わかりません。求め続けるしかないのです。聖書を読みこなしても、何時間祈っても、断食しても、受けるとは限りません。主権は神にあるのです。これが聖霊のバプテスマの凄さであり、すばらしさなのです。信仰生活とは、聖霊のバプテスマを受けるときのようなものです。祝福を求め、諦めないで、信じ続けなければならないのです。人間の能力や努力は神の前には無駄なのです。

  当然、聖霊のバプテスマを受けなくても信仰生活は可能です。あなたが神を信じたのは聖霊によります。しかし、聖霊のバプテスマは、あなたに力を与えます。もはや、難しく神を考えたり論じたりしなくてもすみます。聖霊があなたの口を借りて、あなたのためにとりなしを神にしてくださるのです。奥義を語ってくださるのです。

5月22日  何をしても祝福される。 創世記212233

新改訳 創 21:22-33

21:22
そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。

21:23
それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」
21:24
するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。
21:25
また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。
21:26
アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」
21:27
そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。
21:28
アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。
21:29
するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。
21:30
アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。
21:31
それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。
21:32
彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。
21:33
アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。

 アビメレク王と将軍ピコルが供を連れてアブラハムに会いに来ました。流浪する羊飼いの族長にわざわざ王と将軍が訪れるということは変なことです。二十五節にある井戸のことで、また神に呪われては大変だという心配と共に、いざとなったら武力で攻撃するぞという脅しも含んで将軍を連れてきたのかもしれません。アブラハムが五人の王の軍と戦って勝っていることも知っているので、やはり恐れていたのでしょう。アビメレクはアブラハムが「何をしても神が共にいて勝利し祝福されている」のを知っていました。

1. 荒廃した山地に住んでいるのに家畜も一族も増えている。

2. 五人の王の軍を一族で負かしてしまった。

3. 自分を富ませるのは神であると告白している。(14・18〜23)

4. アブラハムの家族に干渉する者は神から災いを受ける。(二十章)

5. 百歳にして自分の子供を得た。

6. いのちの源である井戸をいつも獲得している。

7. 信仰によって歩んでいることを皆が知っている。

 これらのことは、神からの約束でもあります。

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」〔創世記12・2,3〕

 そのために神が命じられたことは、「あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」ということでした。これは、どういうことでしょう。

 これは神に頼って生きるということです。昔は、結婚式の前夜に娘は三つ指をついて父に挨拶をし、父は「二度とこの家の敷居をまたぐな。」と帰ってくることを禁じて結婚の決意を促したそうです。

 私の妻は大変な家柄で貧しい生活をしたことはなく、料理も裁縫も掃除も買い物もしたことのない人でした。結婚する前に、『買い物はいつも日本橋三越でした。』というのを聞いて、こんな人を一緒にやっていけるのかと心配になりました。両親と初めて会った中華街の高級料理屋であれやこれやと注文し、何人前も食べているのを見て、これは無理かと思いました。現在、義理の兄は鹿嶋市の市長であり、選挙の時は、一族が総力を挙げて支援します。義父は県のライオンズ・クラブの会長を続けており、大変な力を持っていました。

 そんな妻が、貧しい商人の息子で、これから牧師になるという馬の骨と結婚する

と言うのです。当時は、その家がどんなものかわからずに、勝手なことをする義父に腹がたったものです。今でも私などは、その家では何の役にも立ちません。

 しかし、妻は医者として働きながら食費にも困窮する開拓伝道の家を支え、子供を五人も育てあげています。そして、テレビにも出る有名な医者として、内田家でも認められるようになりました。妻は、神と夫である私を頼り、医者としての自分に頼ったのではないのです。今日の午後も医者が二十名以上集まる記念会で最初の挨拶をするように頼まれています。口下手で不器用で、単純な妻がこのように活躍するのは、まさに神の祝福でしょう。

  また、「恐れるな。」とも十五章で神は命じております。恐れる人は、前進できません。たった三十万円で開業し、一日でも病で休めば、資金に行き詰まるような中で、決して不正診療はせず、多くの攻撃と困難な中で栄養療法を続けてきました。

  さらに、『神の前を歩み、全き者であれ。』(十七章)と言われました。多くの人が、「神様祝福してください。助けてください。教えてください。」と祈り、神にすがっています。神の教えは聖書に書いてあります。いまさら、教えられなくても、クリスチャンとして為すべきことは、「人を愛し、人に仕え、人に与え、全てに感謝し、いつも祈って、喜んで生きること」であることは明白です。それなのに、神からの確約がなければ生きられないとすれば、それは神を利用し、自分の繁栄を求める不信仰者の姿です。

  自分の祝福を求め、自分に関わることしか、考えていない人は、神の祝福を得ることはできません。先週の聖霊待望会では、他の人のために一生懸命祈りあいました。

 「この人はまだ受けられないだろう。」「一生懸命祈る愛着を感じない。」「自分は体調が悪いので、あまり一生懸命祈れない。」「もっと悔い改めないといけない。」などと、考えていると助祷(助ける祈り)はできません。また、自らもそんなことを考えていると聖霊に満たされることはありません。

  祝福を受ける秘訣は、そのように問題点を見つめないことです。

  「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」〔箴言10・22〕

 『全き者』とは、神を心から信頼する者のことです。自分の能力や信仰を誇っても、恥じてもいけません。ただ、神を信じて人々の祝福を願っていれば、それでよいのです。

  もし、あなたが、自分が変わること、神の器になること、成功することを考えているとすれば、いつまでたっても、あなたの信仰は、苦しく、批判的なものになるでしょう。そのような信仰者が世の中にはたくさんいます。

 「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」〔U歴代16・9〕



5月29日 自分のひとり子さえ惜しまず献げ。 創世記22114

新改訳 創22:1
22:1
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4
三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5
それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

 この箇所は、「神はアブラハムを試練に会わせられた。」というすごい言葉で始まっています。確かに、この出来事は、人類史上でも最大の出来事かもしれません。

 百歳という高齢で与えられた自分の息子イサクを、全焼のいけにえとして神にささげなさいという、これまでのアブラハムの信仰生活でも考えられない無慈悲な神の要求を受けることになります。既に、奴隷ハガルによって生まれたイシュマエルは、母親と一緒に追い出しています。イサクが死んだら、もはや跡継ぎはいなくなります。「神は愛である。」という定義だけで神を考え、信仰生活を歩もうとしている信者ならば、たちどころに理不尽として拒否をしたでしょう。

 実際、社会は御利益中心の宗教が幅をきかせています。よくあたると言われる占いなどは、評判になって多くの人が集まっています。最近は駅やデパートにも占いのコーナーがあって、驚きます。幸せや一攫千金を占い任せにするのですから、まともに考えたらおかしなものなのに、それに気がつきません。結婚相手も占いで決め、交際している相手も相性が悪いと言われたら、付き合いをやめるというのですから、異常です。

 他方、戒律を重視し、厳しい修行を強調する宗教も最近復権してきたようです。あまりに社会が乱れてきたので、嫌気がさした純粋な人々が俗世を離れ、戒律的な宗教の世界に飛び込むこともあるようです。また、世に生き抜き、自分を強くさせるための精神修養として、しばらくの間、宗教に浸かるということもあるようです。

 しかし、これらはみな、人間中心の宗教論理であって、唯一神教の宗教観とは異なります。クリスチャンでさえ、日本では汎神論的な宗教観が強く、宗教は人間がうまく利用すれば祝福を得られる異次元的エネルギー、霊力などと考えてしまう人々が多いようです。例えば、聖霊のバプテスマは、聖霊の霊力を得るためのもので、受けると癒しや信仰的な力が与えられると考える人々が多くいます。

 聖霊のバプテスマは、言葉では語りえない神との交流であり、聖霊が私たちの言葉を借りてとりなしをするものです。ですから、確かに聖霊に満たされるために大きく関与しますが、それは人間力、超自然的パワーを増大させるものではありません。

 聖書信仰というものは、絶対神への信頼を確立し、信じる者同士で助け合いながら教会を形成し、人生そのものの価値と喜びを世の中に証ししていくことに意義があります。ですから、勝利とか成功とかという結果よりも過程を大事にします。

 さて、アブラハムですが、驚くべきことに、翌朝早く、イサクを連れてモリヤの山を目指して出掛けます。私たちは、このような行動の中に彼の絶対的な神への信頼と忠誠心を見出すのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記171.2)と語られた神を信頼するのです。

 神への信頼、信仰心というものは、能力ではありません。「強い信仰を与えてください。」と祈る人がいますが、それは年月を経て獲得した神への信頼です。今日は結婚セミナーがありますが、夫婦の信頼もまた、年月を経て培われるものです。時がよくても悪くても、健やかでも病んでも、相手を労わり、配慮し、優しく愛し続けるからこそ、深い信頼が形成されるのです。夫婦の信頼は神への信仰と似ていると思います。どんな時でも伴侶を信頼できない人に、神への信仰が培われているとは思えません。

 イサクもまた、父を信頼していました。三日間も歩いているうちに、父が全焼の生贄となる羊を用意していないことに気がついていました。イサクの生涯は従順によって特徴付けられますが、青年に達していた彼は、自らが父の手によって神に献げられることをも受け入れたのです。

 長い信仰生活を経て、親子三人の葛藤にも関わらず、神への従順は優先されるべきものとして定着しておりました。神は、自らが子なる神イエスを地に下し、十字架に献げることを決意しておられました。人を救うために、自らの子を犠牲にする、このことをアブラハムは、神への強い信頼によって、確認していたのです。

 当然、神はイサクを生贄とすることを許さず、雄羊を用意されていました。

 私たち夫婦も、この四月で結婚二十五年を経ました。神に献身するものとして結婚し、その全てを教会と伝道のために費やしてきたつもりです。熱心さの中で、息子を火傷にさらし、子育ても十分にせずに非行させてしまったときは、断腸の思いでした。信者を躓かせ、信仰の破船に追いやったこともあります。主に従っているつもりが、未熟さ故に多くの失敗をしてきました。その苦しさ、悲しさを妻と共有できたことは、慰めであり、幸いでした。

 いつでも、牧師を辞職する覚悟でいました。クリニックの破産も、人々の非難も、多くの困難も、家庭の崩壊も覚悟していました。伝道者として献身するということは、そのくらいの覚悟をしなければ、神に仕えるということはできません。「十字架を負ってイエス様に従う。」(マタイ16・24)ということは、そういうことです。自分が恥をかこうが、失敗をしようが、神の御旨であれば、それでよいのです。信者の皆さんに、そのような信仰を強いるつもりは全くありません。しかし、神への信頼とはそういうものです。


6月5日 神はあなたを大いに祝福する。 創世記221419

新改訳 創 22:14-19

22:14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

22:15
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

22:16
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

22:17
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

22:18
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

22:19
こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

 しばらく前、ライブドアの堀江社長が大変話題になっていました。若いのに、会社を創設し、大会社と渡り合い、プロ球団買収だけでなく、ラジオ局、さらにテレビ局まで自分の傘下に入れようとしたのですから、たいしたものです。好き嫌い、いろいろな見解もあるでしょうが、私は、その根性と発想そして野心に感心しています。

 宝くじの発売がありましたが、いつも一攫千金を苦労なくして得ようとするばかりです。今週はマリヤ・クリニックの診察予約システムとそれに伴うホームページの大修正に手間取りました。そう言うと、「先生はすごい、直ぐにやってしまうのだから」と感心して、「自分はそういうことはできない」という人が殆どです。私がどんなに時間を掛けて努力をしてきたか、わからないと思います。今回だって、たかが数行のヘッダーというところのために、試行錯誤して五,六時間は掛けています。その他のところは、以前に数十時間を掛けて学習したものです。やり始めると夜中の二時くらいになってしまいます。でも翌朝はいつもの通り仕事をします。

 長男が売掛金の未回収を何時間も掛けてこつこつとチェックしました。黙っていましたが、そういうことができる人は、どんな仕事もできるので、将来について心配をしていません。英会話の学校で、ボキャブラリーが豊富だと感心されましたが、大学院時代に毎日何時間も原書を読み続けたのですから当然です。

 私は、能力というのは努力ができるか否かだと思っています。私も妻も、自発的に普通の人の数倍は働いていると思います。その努力を既に四十年間はしてきたのですから、普通より仕事ができるようにはなったと思います。

自分は頭が良くないと思っている人もいます。でも集中して勉強すると物事はわかるようになるのです。仕事が遅いと思っている人もいます。でも慣れると早くなるのです。ごめんなさい、自慢話をしたいわけでも、あなたを責めたいわけでもありません。

私が説明したいことは、信仰の父、勇者、アブラハムの祝福は、特別な選びであるとか、ラッキーであるとかいうことではないということです。

あなたが、今何かを始めたら祝福されるとか、どうしたら勝利できるか、などという短期的なことで、信仰を考えてはいけないのです。

天国への道を歩むということです。

成果などを短期的に求めないで、ともかく神を信じ、神に仕え、聖書のことばをできるだけ実行し、敬虔に努力を続けて人生を歩むのです。

あなたは一日何時間、神にあって価値ある生活を送っていますか。

 「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。」(Tテサロニケ5・16-18)は、予断なく神と共に歩まなければ実行できないのです。

 「自分は、世の中の仕事をしているから、そうはいかない。」と考えるのなら、あなたの仕事に神の祝福を求めることはおかしいでしょう。

私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトス212-14

 私たちはアブラハムの人生を学んできました。何を学び、何を得たのでしょうか。

1. アブラハムは信じたのです。

  あなたは何を信じているのでしょうか。自分の人生が神に用いられること、神があなたの人生に関与していることを信じているのでしょうか。教会に来て、礼拝の時だけ祝福を信じても、あなたの人生は変わらないでしょう。「仕事が大変だ、今は忙しい」と考えて礼拝に来ないで、神に祝福や助けを求めても、却ってあなたの人生はおかしくなるばかりです。自分中心ではなく、神中心に考えて人生を考えるならば、あなたは神に用いられるようになるでしょう。そして祝福が来るでしょう。

2. アブラハムは、試練に耐え、努力を続けたのです。

  あまりに忙しく、あまりに疲れ、あまりに苦しむ時があります。何度も体験すると神の臨在がそんな時こそ強く感じられることに気がついてきます。もし、そうでなかったら、あなたの苦しみは、自分の罪ゆえの苦しみでしょう。悔い改めなければ、あなたの苦しみは深くなり、嵐が襲ってくるでしょう。私は多くの信者が、そのようにして信仰を失ってきたのを見ています。

3. アブラハムは戦い続けたのです。

人生は天国へ行くまでの戦いです。自分の罪と戦わなければなりません。人々の罪にも負けてはいけません。サタンの惑わしや誘惑にも負けてはいけません。

「そんなに忙しい、苦しい人生は送りたくない。」という方がいるかもしれません。自由気儘に生きることは、実は罪の虜になっているのです。その結果、あなたは家族から見放され、心の友もいないで、孤独な人生を過ごすだけなのです。

この世では、人を愛さなければ愛されることはありません。そして、人を愛さなければ、神を見出し神に愛されることもありません。


6月12日


6月19日 跡を継ぐ者。 創世記24章1〜9 

新改訳 創 24:1-9
24:1
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2
そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3
私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4
あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5
しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6
アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7
私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8
もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9
それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。

 アブラハムは幾多の試練を乗り越えて、祝福を勝ち取っていました。しかし、まだアブラハムの使命は達成されたわけではありません。

信仰というものは、個人を用い、個人の能力や才能が生かされますが、それは神の器として、用具として用いられるのです。先週、櫻井先生が仕事とは主に仕えることであると言われましたが、さらにその仕事は引き継がれ、神の業として継承されながら、発展していくのです。ですから、短期的な成功・不成功は信仰者にとって、取るに足りないことなのです。

御存知のように、聖書は救いの計画を記していますが、その救済計画は数千年にも及ぶものです。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(へブル1113

 信仰者は、地上のことに目を留めません。神に目を留め、神の国を待ち望むのです。

 先週、愛するN・S平さんが天に召されました。大きなお風呂屋さんを代々営んでいたのですが、そこにクリスチャンのS子さんが嫁に来ました。S子さんは教会に行くことを禁じられ、朝早くから夜遅くまで明るく忠実に働きました。時間を見つけては聖書を読み、教会に駆け込んでいたようです。そして、夫のために十九年祈り続けました。夫のS平さんは病になり、死に掛けた中で神と出会い、劇的な回心をしました。しかし、クリスチャンになり、信仰を告白した夫婦は、その風呂屋を継ぐことを禁じられ、追い出されることとなりました。そして、Nさんは仕事務めをして働き、一九九二年に千葉に引っ越してきました。そして、皆さんがよく知っているように、決して愚痴をこぼすことなく、いつも祈り、感謝し、喜んで夫婦仲良く信仰を保ちました。

 詳細に書くことがはばかれるほど、多くの苦難があり、二〇〇二年九月には、愛する妻、S子さんが交通事故で突然死しても、全て感謝、主に委ねますと、変わらぬ信仰を告白しておりました。そして、今年、結核の疑いで入院したときに、私たち夫婦に「先生、さすがに疲れました。もう早く天国で待っているS子のところへ行きたいと願っております。」と語っていました。

  傍目に見たら、苦しいだけの生涯であったかもしれません。しかし、私たち夫婦は、N夫妻によってどれだけ祈られ、またその姿勢に励まされたか知れません。もし、この苦難の夫婦がいなかったら、私たちの人生は変わっていたと思います。確かに私たちにも多くの苦難があり、理不尽な仕打ちを受けたことは限りがありません。しかし、N兄姉に比べたら、恥ずかしい限りです。

  人の成功・不成功を決して、その人個人の功績にしてはなりません。ヘブル書にあるように、信仰の勇者たちが、雲のように私たちを取り巻いて励ましてくれているのです。(12・1)

  アブラハムは、カナンの地を子孫によって支配する約束を神から受けています。神の約束は、それを全うしようと信仰をもって受け留める者によって実現するのです。多くの人が、神の祝福を自ら実現しようとする努力と忍耐に欠けています。

  アブラハムは、自分の信仰と使命を継承するイサクには、同じ信仰を保持する妻が必要であると信じていました。基本的にクリスチャンの結婚というものは、その夫婦が一つになって神に与えられた使命を実現しようという目的の一致によって結び合わされ、結婚生活の経過によって獲得されていくのです。そういう点からも、クリスチャンが未信者と結婚しようとすることは、そこに結婚自体の実りを期待できないのです。

  しかし、S子さんは、その長い忍耐と祈りの中で、夫の救いを達成し、その逆境、試練こそが、N夫妻の結婚に多くの実りをもたらしたのです。

  アブラハムは、今や、完全に神の御旨と導きを確信していました。あったこともないのに、生まれ故郷には神が備えた嫁がいると信じたのです。

  あなたは、自分の人生は神の備えたもので、神がいつも導いてくださるという確信を持ち、またそのような歩みをしているでしょうか。

  あなたが信仰をもって歩むならば、神はその働きの継承者を備えておられるのです。歳をとろうと、能力や力が衰えようと、神の業には、受け継ぐべきものがいるのです。

  N夫妻は、共に天に凱旋し、今や手を取り合って、私たちを見守っていますが、その働きは、この千葉福音キリスト教会において、確かに大きな実りを得、継承されているのです。彼らの働きは、祈りであり、忍耐であり、喜びでした。天においても、地上のこの教会においても確かに大きな基礎を築き上げたのです。

  自分の考えや働きを書きとめ、後世に残そうとしても、それは忘れられ、また神の前には残らないのです。教会は、幾千万の信仰の勇者によって築き上げられてきました。それは忘れ去られることのない、いのちの書に書き記され、また私たちは永遠に神の教会の一員として、神の国に住まうのです。

  残念ながら、この教会でN・S平兄の葬儀をすることはできませんでしたが、私たちはいつまでも、この夫妻と結ばれているのです。

 


6月26日 日ごろの備え。 創世記24章1061

新改訳 創 24:58
24:48
そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。
24:49
それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」
24:50
するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」
24:52
アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。
24:53
そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。
24:54
それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください。」と言った。
24:55
すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。24:56 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。
24:57
彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」
24:58
それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。
 

 私は、牧師でありながら、会社を経営し、クリニックを運営しています。協会についても同様ですが、関心があることは、すばらしい人材育成をしていきたいと願っております。世の中においても、教会においても、うまく行くかどうかは、その組織が指導者のもとにしっかりとした理念をもって運営されるかに掛かっております。

  ある無教会派の集会に出たことがあります。秩序のないことに驚き、説教者に品性が感じられないことに失望し、その説教の内容の検証を聖書ではなく、一般論でしていることに驚きました。しばらく前は非常に多くの人を集めていたようですが、あと数年したら崩壊していくでしょう。キリスト教の基本的要素に欠落していました。

  さて、今日はアブラハムの下僕とリベカの話です。両者の行動がいちいち信仰に基づき、すばらしい品性を感じさせられるものです。

10
節 しもべは、自分の主人の財産から、主人の息子の婚約者を得るために必要なものを自分で選ぶことができる優秀な管理人でした。

11
節 彼は、娘の品性を直ぐに見抜く最も懸命な方法を知っていました。

12
節 彼は、自分で探したのではなく、神に委ね、取り計らってくださること、恵みを待ち望んだのです。

13
節 彼は、優秀な娘は、最初に泉を汲みにくることを知っていました。

14
節 十頭のらくだに水を飲ませる作業は大変なものであり、それを自ら申し出る娘は、旅人の疲れを理解し、配慮する優しい娘であることを知っていました。

15
節 信仰者は神の時に応じた行動をとります。

16
節 身だしなみに注意し、自らを美しく装う女性は、自己管理に秀でています。

17
節〜20節 リベカは期待どおりの行動を、すばやく行なった。

21
節 信仰者はおしゃべりではありません。

22
節 信仰者は大胆であり、価値のあるものには、多くの犠牲をすすんで払います。

23
節 間髪をいれず、必要なことだけを聞いています。

24
節 主は、結婚相手を備えていました。

25
節 しっかりとした娘は、相手を見抜いたら直ぐに責任ある答えをして、相手を安心させます。

26
節 彼は、直ぐに感謝の祈りを神に献げています。

27
節 自慢をせず、神に栄光を帰しています。

28
節 娘は、機敏で、なすべきことを知っています。

33
節 彼は、食欲にとらわれることなく、真剣になすべきことを優先しました。

34
節〜36節 的確に要領よく自己紹介をしています。

37
節〜41節 主人の言葉を省略することなく、伝えています。

42
節〜48節 自分の信仰に神がはっきりと答えて、現実が起こったことを証しています。ことは、神の業であることを伝えているのです。

49
節 相手に決断を迫っています。信仰は、迅速に対応しなければ、迷いが生じます。人を恐れる人や、優柔不断な人は、信仰の結果を得られません。

50
節 相手も、簡単にことが神の業であることを同意しています。

52
節   人の前でも、平気で神に礼拝を献げています。

53
節  直ぐに、プレゼントを与えてしまう。仕事の遅い人は、失敗することが多い。

54
節  翌朝早く、主人のもとに帰ろうとしている。仕事が終わるまで決して油断しない。自分の身体や願いよりも、使命を全うすることに集中している。

58
節 神からの導きと確信したら、全てを直ぐに覚悟してしまうリベカ。献身をした勇気ある信仰者の姿。親から独立した成熟した考え方。

  すばらしい信仰者同士の応対です。リベカは、親よりも友人への配慮よりも神を優先していました。また、このしもべがまさにアブラハムの信仰と勇気を理解し、従ってきた信仰の勇者、同労者であることが理解できます。このようなしもべがいるのですから、アブラハム一族が神に祝福され、歴戦の勇士であることは当然なことです。そして、リベカを得て、さらにこの一族は祝福の一族として発展していくのです。

  家族の祝福、人生の祝福は、このように各自の信仰の姿勢が問われ、現れた結果なのです。確かに、多くの試練や苦しみを体験し、思うようにならないこともあるかと思います。しかし、例えば、三浦綾子さん、星野富弘さん、その他の信仰者は、自らの深い信仰の故に、肉体上の試練をものともしていないのです。