7月4日 実を結ぶ人生を与えます。   マルコ福音書5章120


7月11日 ノアは全き人であった。  創世記6章9〜16節

新改訳 創 6:9-16

6:9
これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

6:10
ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

6:11
地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

6:12
神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

6:13
そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

6:14
あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。

6:15
それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。

6:16
箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。


  欠陥住宅というものをテレビで見ました。建物が傾いていたり、土台が浮いていたり、壁が割れたり、水が漏れたり・・・・、住んでいる人にとっては大変なことです。昔、田んぼであったり、沼であったりするところも造成すると立派な住宅地です。稲毛に来て22年が経ちますが、どんどん住宅ができています。昔何があったか知っている者にとっては心配です。

  土台とか、建付けとか、しっかりすると建物は非常に耐久性の良いものになります。最近、レンガで花壇を造りました。8月にはバーベキュー棚と燻製を作る窯、屋外の洗い場をレンガで造ろうとしています。土台を作り、レンガをくっつけるのに、あれほどのセメントをいるとは思いませんでした。330枚のレンガによる花壇に300キロのモルタルを必要としたのです。その代わり、頑丈です。?

  ノアは全き人でありました。全き人であるということはどういうことでしょうか。

「主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。」(詩篇3718,19)「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。」(詩篇3737)。「すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。」詩篇644,9-10

このように全き人は、神に目を留められて、試練の時も結局は守られ、祝福を得るということがわかります。新約を見ますと、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ32)として、完全な人は、言葉を制御する人であることが説明されます。コロサイ4・12には、「あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう」とあって、完全な人は、神の御心を確信して日々を歩む人であると説明されます。



  また、ゴルフのことを話して恐縮ですが、ゴルフは成績の自己申告制をとっています。フェアにやらなければペナルティーがつきますが、これも自己申告です。誤魔化すと反って心が動揺して成績が悪くなります。強情な人で、不正の評判が立つと、ゴルフに誘われなくなります。自分のことだけ考え、マナーの悪い人もゴルフをすることはできなくなります。成績が悪いと感情が荒れます。恐ろしいスポーツです。角田先生が指導しておられるボクシングの世界タイトルマッチやk1の試合を見ましたが、スポーツはその人の中身がそのまま出ます。

  ノアは、家族と一緒に巨大な箱舟を作り上げるのに100年ほど掛かったようです。神から寸法や造り方を細かく言いつけられています。長さ133m、幅22m、高さ13mの巨大な箱舟を作り、その中を部屋に分け、内外を木のヤニで塗るということは大変な労力です。それを海辺ではない所に建てるのだから、周囲の堕落した人々に攻撃され、馬鹿にされ、邪魔されたことは間違いないでしょう。

  全き人というのは、そういうことをコツコツと行なう人です。土台が狂い、寸法を間違えることはあるでしょう。そしたら、また修正して作り直すのです。ゴルフでも、下手でも、失敗しても正直に自分の弱さを認め、正しく自分のスコアを申告し、周囲の人を配慮して楽しくプレーすることが大事なのです。失敗をしないのではなく、失敗を正しく認め、修正することが大事なのです。

  現代社会でクリスチャンが全き人であるということは、どういうことでしょうか。それは、箱舟ならぬ教会を作り続けるということです

Tペテロ3・20)。人々が自分の快楽や利益の為に生きている時に、たとえ嘲られ、愚かに見られても、教会を建て上げることに専念するのです。教会とは、信仰者であるあなた自身であり、他の人と信仰を共有することです。あなたの生き方があなた自身の真の姿です。夫婦や家族がどのような状態かということも、あなた自身なのです。自己申告しなくても、神の目には明らかです。全き人生を歩みましょう。



7月18日 箱舟に入りなさい。  創世記6章17節〜7章5

6:17
わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。

6:18
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。

6:19
またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。

6:20
また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

6:21
あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」  6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。

7:1
主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

7:2
あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、  7:3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。   7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」

7:5
ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。

  「いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼす」と神は仰せられています。「神は愛である。」と考え、自分勝手に歩んでいる人には、このような神の言葉は衝撃だと思います。

 神学校の教師会で21世紀の問題が取り上げられました。

1.モラトリアム

 大人になりえない人間が多く、自己の確立が出来ていないので、状況によって対応が異なってしまう。

2.ポスト・モダニズム

 絶対的なものがないと考えられ、状況によって自分が判断することが大切なものとなってきた。

3.多元的宗教観の採用

 統計や経験が聖書の言葉よりも重要なものと捉えられるようになった。神の権威よりも、人間の物語を語り、状況に対応する判断の参考になればよいと考えられるようになって来た。

 確かに、このような状況に左右される信仰者が増えてきました。神の命令や社会的規範というものは、状況によって左右されるものではなく、必ず果たさなければいけないものです。ところが、現代では、状況によって果たさなくてもしょうがないと考えられるようになってきました。例えば、実際に殺人を犯しても、状況的に無罪となることがあるのです。そこでは、いかに多くの人の共感を得るか、正当性を主張するかが重要なこととなってくるのです。

 小泉首相の言動を見ると、その特質をもった最も現代的な政治家であると思われます。これまでの道徳観、倫理感をもった政治家では果たし得ない無責任な行動を取っています。状況的に自衛隊を海外に派遣しなければならないのだから、しょうがないじゃないかというのです。憲法も、これまでの約束事もないのです。これらの人は、「神を恐れずに犯した行為、また神を恐れない罪人どもが神に言い逆らった無礼」(ユダ15)とあるように、裁きの日に裁かれる人であって、反キリストの様相を呈してます。

  信仰とは、コミットメントと言われます。それは、神への誓約、責任、献身、約束というものです。例えば、私は神学校入学の時に、自分の献身の祝福を願い、一日一食の断食というコミットメントをしたのです。ですから、どんなに級友が勧め、教師が命じても、或いは自分の体力が衰え、疲れ果てて、病気になっても、それは守らなければならないのです。それはまた、自分の牧師としての能力や成果にも関わらないことであって、そのコミットメントこそ、自分の存在理由なのです。

  ですから、どんなに経済的に困窮していても自分の属する教会に什一献金を献げ続けましたし、日曜礼拝も続けました。このようなことに、自分の判断や状況、言い訳を入れてはいけないのです。

  神は、その御心に適わない者を滅ぼすと言われました。それは神の基準であって、人の基準ではなく、申し開きはできないのです。状況的な猶予、情状酌量というものはないのです。信仰者とは、どんなに状況が困難であっても問題が大きくても、罪を犯すことをしないのです。

  私たち夫婦は、どんなに体調が悪くても礼拝を守り通しました。健康だからできたのだと言う人がいたら、私たちのことを知らない人です。私は「礼拝に出て、死んでも構わない」、いや「神は、その名に懸けて神にコミットする者を守り祝福するはずだ。」と信じてきたのです。忙しいと言ったら、私たちほど忙しい人も少ないと思います。能力ではありません。ただ、神の国とその義を第一にしてきたのです。

  私は言い訳を言いながら罪を犯す自称信仰者を多く見てきました。いつまで経っても祝福がありません。自分に与えられた金銭、物品、能力、時間、それらの十分の一以上を必ず、神に、他の人に注ぐならば、神はあなたを祝福されます。信仰によって毎日を積み重ねるならば、必ず、洪水のとき、あなたは救われます。救われる動物は、自ら箱舟に乗り込みました。20節。神の目を恐れなければなりません。


7月25日 


8月1日 神が後ろの扉を閉められた  創世記7624

創世記7:6 大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。 
7:7
ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。  
7:8
きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、 
7:9
神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た。
7:10
それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。 
7:11
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。 
7:12
そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。 
7:13
ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。 
7:14
彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。 
7:15
こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。 
7:16
はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
7:17
それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。 
7:18
水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。 
7:19
水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。 
7:20
水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。 
7:21
こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。 
7:22
いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。
7:23
こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。
7:24
水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。

  ノアの父、レメクは182歳でノアを生み、777年生きたのですから、ノアが600歳になる直前に死んでいます。祖父メトシェラは187歳でレメクを生み、最長寿の969年生きたので、丁度大洪水の年に死んだことになります。大洪水の後、人間の寿命は急激に短くなり、神が定められた120歳を超えないようになっていきます。

ところで、このように寿命を調べていると、アブラハムはノアやセムの生存中に生まれていることがわかります。アブラハムの不屈の信仰は、このような長老たちの教えに基づいていることを想像することは凄いことです。創世記の記述は、このようにして時間を掛けて口伝されてきたのです。その言い伝えの中でも、大洪水のことは衝撃的なものだったでしょう。確かに、洪水伝説は、世界中にあり、考古学的にはこの地方一帯に巨大な洪水があったことが実証されています。

箱舟ができあがり、食料や水が準備されると、不思議なことに動物たちが次々と、つがいで自ら箱舟に入り始めます。7日間掛けて彼らが入り、ノアと3人の息子とその妻たちが箱舟に入ると、突然神が箱舟の戸を外から閉められます。人間の意志で開けることはできないのです。

人々は、動物が次々に入るのを見て驚きながら、それでもノアたちを馬鹿にします。このことは、ノアたちの語ることを聞いていながら、堕落していったアブラハムの周囲の人々と同様です。しかし、その大きな扉が神の業で外から超自然的に閉められた時、神の裁きを知るのです。

扉が閉まると同時に大雨が降り始めます。「天の水門が開かれ」(11)とあるように、これまで温暖な気候を形成していた「大空の上にある水」(17)がいっきに落ちてきたのです。バケツの水をひっくり返す、以上の雨が降り続け、人々は逃れようがありません。箱舟のところに来てすがりついても大雨に流されてしまいます。ノアと子ども達は、戸を開けることも出来ないのですから、ただ神の裁きの恐怖におののくだけです。動物たちは、真っ暗な天変地異の現象に対して冬眠状態になり、動きを停止していたことでしょう。水が箱舟を押し上げた時、人々にとってさばきの水が、彼らを救い上げる水でもあったのです。ノアは単に箱舟を造っていただけではありません。人々に「義を宣べ伝え」(Uペテロ2・5)敬虔に歩んだのです。

  箱舟は、「水を通って救われる」(Tペテロ3・20)洗礼の型でもあります。大事なことは箱舟に入った人だけが救われたということです。自称クリスチャンとか、神を信じている、という人が多くいます。しかし、神を信じているということは、信仰行為を公に果たしてから始まり、また証明されるのです。洗礼を受けていないで、その人をクリスチャンと証明するものはありません。自分の流儀で神の免許をもらうことは無理です。

  また、自分はクリスチャンだけれども、教会には属していない、という人も箱舟に入っていません。箱舟とは教会なのです。そして、教会とは地域教会と考えて当然なのです。箱舟を造るということは、時も金銭も労も心も掛けるものなのです。教会にたまに来て、説教を聴き、クリスチャンと交流することで自分は信仰者だと思うならばとんでもないことです。教会は、そのような人々をいつも受け入れ、愛し続けます。それは、私たちが神を信じ、義を宣べ伝える責任があるからです。しかし、自ら犠牲を払って教会に参画する人と、教会を利用する人とは全く違うことは、誰の目にも明らかです。

  祈祷会で、効果なナルドの香油をイエス様に注いで埋葬の準備をしたマリヤの行為は、マリヤの記念になるとイエス様が言われました。20周年の記念は、この教会にとって牧師夫妻と一部の教会員の記念でありました。次の30周年記念会は、多くの教会員の信仰の記念であることを願うものです。この教会はですから、忠実な献金と奉仕を継続的に献げる人を教会員として認定しているのです。牧師は、そのような人を自信をもって神に推薦できるのです。

  「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Uコリ6・2)しかし、裁きの日は近づいているのです。


8月8日 神の主権と被造物の立場  創世記8122

 先日会った女性が、大きな犬を飼っていると言う。我が家のゴールデン・レトリバーよりも大きいので、平気ですかと尋ねると、「私は犬と本気で戦って勝ちましたから、私に服従します。」とのことでした。

  民主主義とか平等というと、権利を主張するだけで人や組織に従わなくてもよいと、考える人々が多いようです。社会の秩序のためには権力が必要です。そして自ら権威を認め従うという姿勢が重要です。聖書は、はっきりと「権威に従うべきです。」(ローマ13・1)と断言しています。しかし、専制的な社会においては、権威者がその権威にふさわしい人格、道徳を有しない場合が多く、退廃した社会においては、権威に伴う責任を回避して権威を行使しないということも起こってきます。アジアの後進国では前者が多く、日本は後者のように感じられます。

  家長の責任を行使しない男性は、自らの家族への指導権を放棄し、道徳的にも退廃して自分勝手な生活を送り、家庭は崩壊します。そのように育った子ども達は、成人しても責任ある行動をとることができません。判断力、決断と責任は、権威に付随するものです。

  日本において、キリスト教の絶対神、唯一神という宗教観が受け入れられないのは、この権威に対する忠実ということが崩壊したからかもしれません。民主化した韓国でもクリスチャンの数が増えなくなったという報告があります。江戸時代のような封建制は、指導者に対する絶対性はなく、明治以来の軍国主義においてはありましたが、それは人格の形成を促すようなものではない、天皇を現人神化する洗脳教育でありました。

  前置きが長くなりましたが、大洪水の裁きは、神の主権であり、人がそれに対して意見をいう権利はないのです。罪を犯した者が、その判決に対して意見をいう権利はなく、ただその裁きを受けるだけであるということ以上の絶対的な主権です。そして、箱舟に入るなら救われると言われたら、速やかに入ればいいのです。要は従順です。

  聖書研究会でローマ書の学びが終わりました。そのテーマは、「信仰の従順」でした。要約すれば、信仰とは、神への従順なのです。思い通りにならない、苦労の多い人生に不満を持つのは、神に従っていないからです。ローマ書は「キリストでさえ、ご自信を喜ばせることはなさらなかったのです。」(14・3)と語っています。

  犬や動物は権威に従うようにできています。人間が権威を行使しないで好きなようにさせると、ストレスを感じ、身体に変調をきたします。私たちも、権威に従わないで、いろいろ言い訳を考え、自分の立場を主張したり、反発していると、問題が起こってきて状況は悪くなる一方です。過ちを認め、悔い改めて、神に従うと、祝福がついてきます。

  「人の心の思い計ることは、初めから悪である」ことを知っておられる神は、私たちに完全を要求することはありません。ただ、@ 自らの罪を認めること。

A 神が愛であって、キリストの十字架は私たちの罪の身代わりであることを信じること。

B 信じた者の罪は、神の前で許されていることを受け入れる。

ことが必要です。人間に要求される従順とは、この3ポイントを受入れ、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」という人生を、神に従って生きることです。

  犬のジョイのために、この暑さの中、いろいろと世話を焼いています。綱に繋がれて可哀想にとも思うのですが、気持ちよさそうに寝ていると、これで幸せなのかと、心の中が分からないなりに判断しています。しかし、神は、私たちの一人ひとりを十分に知ることが出来、そして愛してくださっているのです。神に従っていきましょう。


8月15日

8月22日 あなたがたに委ねている。  創世記917

  地上には、ノアとその家族しか人間はいなくなりました。その孤独、その責任はいかばかりかと思います。

  先週は、終戦記念日であり、世界平和を祈る日でもありました。戦争で家族が死に、例えば一人だけ残されたらどのような思いでありましょうか。また、愛する祖国、故郷が焼け野原になり、荒れ果ててしまったら、どうでしょうか。その他、家族が虐殺されたり、他人の過失で死んでしまったら、いかな状態になるでしょうか。ノアの洪水を含めて、これらは人の罪ゆえに起こったことなのです。

  人は一人では生きていけません。希望がなくても生きていけません。愛と希望が必要なのです。戦後の日本の復興は目覚しいものでした。それは、戦争の悲しみ、苦しみ、痛みに勝る、自由への希望があったからでしょう。でも、子どもが死に、子孫がいない親たちの孤独は、彼らの死と共に忘れられていったのです。

  歴史や事件を集団的に見てはなりません。全ての出来事の中に、個人が存在し、その当人と家族、友人たちの喜び、悲しみが存在するのです。自分の出来事、自分の結果だけを覚えている人になってはいけません。過去を事件や時代としか見られない人は、人の心がわからないでしょう。拉致事件にしても、事件ではなく、子供が突然いなくなってしまった親の心情を考えれば、到底、放っておけるものではありません。横田めぐみさんのご両親は、そのような経緯の中で敬虔なクリスチャンになったと聞いております。

  神は、大洪水後のノア達に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられ、動物たちを含めて世界を人間に「委ねている」と仰せられました。委ねられながら、このときは、創世記1章と異なって動物も食することが認められています。どうも、既に一般的になっていた肉食の是認であると思われます。しかし、ここでは、律法に見られる清い動物とか、汚れた動物という区別はありません。とにかく、罪や欲望の中で、人間に「管理」や「制御する」ということが必要なものと指摘されたのです。

  祝福の人生を生きるために管理を怠ってはなりません。身体を管理しなければ、病気や障害が起こり、精神疾患になることを、マリヤ・クリニックで解明してきたのは、このような経緯でした。心を管理して、知性を磨き、知識を蓄え、知恵を訓練しなければ、いつしか、希望のない状況に左右される生活を送ることになります。霊性をも管理し、欲望や罪を制御しなければ、必ず人生に破綻がきます。

  最近、ボケるということを学びました。ボケの多くは、脳血管障害から来ています。食事に気をつけ、ストレスに対処していないと、脳梗塞が間違いなく起こり、痴呆になっていくのです。脳梗塞になっても、適切な運動と栄養を取り、脳を活性化する刺激をあたえるような行動をする人は、他の血管ができて再生するのです。ところが、ボケてしまうと、自分のことばかり考え、人を愛するとか希望を持つということが出来なくなってしまうのです。

妻と休暇の旅行をして、一緒にいる時の判断を皆、私がやってきたことの失敗を痛感しました。長らく運転をさせなかったので、車の知恵が全くなくなっており、機転も利かなくなって老眼にもなっているのに驚きました。妻をボケさせたら大変なことになると、刺激を与え、趣味を持つことを勧めようと反省しております。

  イザヤ40・31「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」

  私は、千葉で開拓を始めて7,8年して教会員が殆どいなくなってしまったとき、「信仰者が自分しかいない」、という孤独と絶望を味わったことがあります。その時、自らの行動が自分中心であることを認め悔い改めて、自分の成果よりも、主イエスを見て歩むべきことを教えられました。今や、この教会は、「ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊か」になり、「キリストについての証しが」教会の中で「確かになった」(Tコリント1・5.6)となってきました。


8月29日 虹の契約を立てる。  創世記9817

新改訳 創 9:8-17

9:8
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

9:9
「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。

9:10
また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。

9:11
わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

9:12
さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。

9:13
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

9:14
わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。

9:15
わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

9:16
虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

9:17
こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 イラクの戦争やテロの中で、どうにかオリンピックを平和のうちに終えられそうです。サッカーのイラクの活躍は驚きでしたが、イタリヤとの3位決定戦の前にテロでイタリヤの記者が殺されたことが印象的でした。平和を願う思いがオリンピックにおいて集約されたといっても、政治には全く影響を与えないようです。それでも、スポーツにおける勝敗は、負けた者も潔いことがさわやかです。

  虹は快晴の時には、現れません。ノアの大洪水の後の大きな暗雲の間に虹が鮮やかに掛かったのでしょう。おそらく、箱舟から出たノア達が、神の裁きの後の恐れの中で全焼のいけにえを献げた直後に虹が出たのでしょう。何でも知っておられる裁きの神に対して、罪なく大胆に御前に出られる人は誰もいません。神の方から、虹を見せてくださり、人間を慰めてくださったのです。

  人の心に大きな影響を与えるのが恐れです。オリンピックの野球で監督無しに派遣をする指導者達の無知と愚かさに呆れていました。試合というものは能力や体力だけで戦えるものではありません。気力と言うよりもむしろ、心全体の調整が必要なのです。指導者は、選手の心を整え、知恵を与え、試合に対応させるように全員の能力を調整するのが役割です。けなしてばかりいる指導者がいますが、決して能力を引き出すことは出来ません。絶えず研修し、最新の知識を獲得し続け、選手の個性を生かすように訓練し育てなければならないのです。タイガー・ウッズもコーチと喧嘩し、継続した指導者を持たなくなってからメジャーで勝てなくなってしまいました。自分の能力を過信したのでしょう。

  「黙って俺について来い!」と牧師が言っていては、教会は形成されません。教会は、信徒達を整えて奉仕の働きをさせ、成長させて互いに一致するようになることが目的の一つです。人生の様々な局面にあって、右往左往し、信仰をどのように適用していくべきか、わからず、また自らの弱さ、罪深さに途方にくれるのが現実の人生です。ウッズのようにコーチいらず、として牧師に従わず、教会を離れることもあるのが人生です。

 教会を離れ、神を信頼しなかったら、問題が起こり、苦しむのは当然です。でも、その時こそ、教会に立ち戻り、虹のような神の励ましを受けることができるのです。

  それでは、虹の契約とはいかなるものでしょうか。そもそも神と人との間に対等な契約など成り立つはずがありません。神の側は、約束したことは絶対に果たすのですが、人間は能力からも品性からも決して果たすことができません。それで、人間社会における契約は、履行しない場合の罰則を明記し、その罰をもって契約を果たさない場合に備え、それで許すようにするのです。人間社会では、ミスを前提として約束や契約を結ぶのが当たり前で、日本社会はミスをしないようにと指導するのですから、人間の能力の過信です。スポーツの世界でも、そのように指導するのですから、選手には恐れが付きまとい、萎縮するのは当然です。

  虹は人間がどのようにできるものでもありません。そして、自然界に出来る神の栄光、輝きのようなものです。(エゼキエル1・28)。神の人間との契約は、一方的な祝福の約束なのです。神は、いちいち人の罪に対応して、罰したりしないということなのです。子孫を断ち切るような絶対的な介入をしないということです。

当然、聖書が語っているように、人は各々その行なったことの裁きを受けなければなりません。クリスチャンは、神の前で罪許され裁きにあうことはありませんが、それでも、この世における自らの罪の結果を甘んじて覚悟するのが、罪を認めた者の悟りです。しかし、神は、私たちを祝福するという確信をもって人生を歩まなければならないのです。十字架を信じるとは、そのようなことです。虹を見て、神の愛を信じるということも、同じようなことなのです。

これはノア契約と言われ、後のアブラハム契約や十戒などと違うと言う人もいるが、それは契約がより具体的に示されただけで、決して違うものではありません。私たちには、神を信じる、神を信頼するということが、契約の条件として必要なのです。


9月5日 父を敬う。  創世記91829
  

新改訳 創 9:18-29
9:18
箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。

9:19
この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。

9:20
さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。

9:21
ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

9:22
カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

9:23
それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

9:24
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、

9:25
言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

9:26
また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。

9:27
神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」

9:28
ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。

9:29
ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

新改訳 申5:16 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

 

 人類は、遺伝子の研究からも一人の祖先から始まっていることがわかっています。ノアの子ども達が、その後の人種に関わってきます。ここでも子ども達同士が結婚することによって遺伝子情報は特有なものとなっていきます。十章には、セム、ハム、ヤペテの子孫が地上に別れ、諸氏族となっていくと説明されます。

  セムは長男であって、いわゆる黄色人種の祖先でアブラハムらが子孫となります。ハム族には、クシュというのはエチオピア人で、ミツライムはエジプト人、カナンはカナンに定住して後にヘブル人と常に敵対する民族です。アッシリヤ人やペリシテ人もハム族で、後にヘブル人と対立することが多い民族です。ヤペテは、インド・ヨーロッパ人種と言われます。実際には、その後は血が混じりあいますので、民族として純粋なものはヘブル人くらいになってしまいます。そして混血したものが閉鎖的な場所に暮らしを共にすることによって、民族的特性を有してくるのです。例えば日本人にしても多くの人種が混血することによって日本民族になってきたと言われています。それでも蒙古斑によって素性の由来は類推することができます。

  今日の聖句は、ノアが酔いつぶれることから始まります。葡萄というのは、量がたくさん取れるからでしょうか、農産物としては昔から重要なものです。ぶどう酒に慣れていないので、酔いつぶれてしまったのでしょうか。天幕の中で裸になって寝てしまいました。カナンの父ハムは、と書かれているのは、カナンがその裸を見つけ父親のハムに言いつけたのでしょう。カナンは、祖父の裸を見て大騒ぎをしたのでしょう。ハムも、裸の父を見つめ、それを見て父をバカにした言動を取り、セムとヤペテに面白がって告げます。それを聞いた二人は、直ちに着物を取り、二人の肩の間に掛けて後ろ向きに歩き、父の裸を見ないようにして、着物を掛けました。

  この出来事を読んで、皆さんはどのように感じたでしょうか。

十戒には、「父と母を敬いなさい。」とあります。

「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13・17)

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」Tテモ2:1-2

  親や指導者の悪口、非難をする人が多くいます。敬うと言うことは、良い親や指導者ならば敬う、ということではなくて、良くても悪くても敬うということです。これら聖句に共通することは、そのように目上の人を敬う人は、長生きして幸せになれるということです。「良い親に恵まれたから、批判的にならないのだ」と言う人がいるかもしれません。しかし、同じノアという親に対して、対応が分かれたように、それはあなた自身の問題なのです。

  どんなに正当性があっても、親を決して非難してはなりません。非難したら、あなたが罪に定められます。親の罪に気が付いたら、黙ってその過失を覆い、償いをしたら良いのです。上司批判の人が会社や社会で成功することは決してありません。自分の魂を健全に保つためには、多くの祈りをして、自分の中から苛立ちを追い出し、御霊に満たされている必要があります。そうすれば、人の弱さ、罪深さなど気にならなくなります。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」レビ 19:32

年長者に敬意を払わない人は、神をも恐れない人です。注意すべきは、老人と親しくすれば良いということではなく、敬うということです。


9月12日 神と並び立とうとする誘惑。  創世記1119

新改訳 創 11:1-9

11:1
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

11:2
そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

11:3
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

11:4
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

11:5
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

11:6
主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

11:7
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

11:8
こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

11:9
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 天守閣というのは織田信長の建てた安土城が最初で、当初は天主閣と呼び、キリスト教の神を祭ることも意味したのだそうです。一説には鯱も魚をもって現すキリストの印でもあったと言うのですが如何でしょうか。ともかく、昔は高いお城、現代は高いビルが建ち誇っています。ピラミッドでもそうですが、高かったり大きかったりする建造物は権勢を誇示するために政治や宗教でよく用いられます。聖書信仰者は、そういう面で外面的な荘厳さに宗教性を見出すようなことの無いように気をつけなければなりません。

 イザヤ14・12〜15はサタンの経緯であると言われています。サタンは天使長でしたが、神と競い会おうとして従う天使を配下にして堕落したと言われています。しかし、サタンというのは天使が神に反抗したものですから、能力は神とは比べものにはなりません。偏在ではないので、多くの悪霊を組織して情報を収集して、全知なる神と対抗しようとするのです。また人が悪霊になることはありません。聖書ははっきりと死後に人はハデスにいくと明記してあり(黙示2013)、悪霊が生きている人を脅かすために人を装っているのです。天使には階級があり、能力に違いがあるのです。悪霊とは堕落天使であって、ダニエル書などに出てくる「〜の君」というのは、その地方に権力をもつ悪霊の指導者です。しかし、聖霊の臨在している人や所に立ち入ることはできません。サタンは神を信じない人、快楽に惑わされている人、罪を悔い改めず頑固な人に影響を与えるのです。サタンに怯えている人こそ、サタンの格好の餌なのです。そういう面で、不信仰な言葉、不謹慎な言葉を口に出すべきではありません。悪霊は私たちの心の中までは知ることは出来ず、言葉や様子によって察知し、必要なことをサタンに報告するのです。「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4・7)。

 さて、そのように支配階級というものは、支配者の高慢を許し、神に対抗しようとして人間を組織化するものに他なりません。ですから、神はイスラエルに王権を許さず、神権政治をしていたのですが、民の求めによって王を認めたのです(サムエルT八章)。民は戦いに勝つために王を求めました。でも結局その王が国を滅ぼしていくのです。聖書信仰は秩序を重んじるため、権力者を社会的には認めますが、本来は「上に立つものは仕えるものであれ」という論理なのです。

 さて、神は人の世界に混乱と境界、そして相互理解の困難さを与えました。「これは神を求めさせるためであって」(使徒17・26.27)、神を通してのみ、真理を知り、和解があるのです。私たちは自らを理解してもらおうとして言葉を尽くします。しかし、実はいくら語っても、愛し合うことはできないのです。完全な御性質をもっておられる神以外のものが、もし、人の全てを理解してしまったらどんなに恐ろしいことでしょう。黙示録には、天上で聖徒たちが、その涙をぬぐいさってもらって神をほめたたえている様子が描かれています。あなたのことを知っておられるのは神であり、罪をも赦し愛してくださるのです。

1. 私たちは、この地上で自らが権力を持ち、他の人を思うとおりに動かそうとする願いを捨てなければなりません。

2. 私たちは、自らが罪人であることを悟れば、他の人に自分を知ってもらう何ほどのものもないことを知るのです。

3. たとえ、人を理解し、すばらしい知恵者になったところで、人を変えたり、社会を動かすことはできないことを悟るべきです。

4. もし、これらのことに気が付かなければ、私たちはサタンの罠に陥るでしょう。それは、権力欲であり、知識欲であり、神と並び立とうとする罪の欲求です。


9月19日


9月26日 神に導かれる人生。 創世記1127124

新改訳 創 11:27-3212:1-4   

11:27
これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。

11:28
ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。

11:29
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。

11:30
サライは不妊の女で、子どもがなかった。11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。

12:1
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

12:3
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

12:4
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

 今日は、有名な信仰の父、信仰によって生きた初めての人、アブラハムの信仰人生の始まりの話です。父親のテラは、俗悪なカルデヤのウルを出て、カナンに行く途中カランに寄り、そこに住み着いてしまいました。テラは205歳で死ぬことになりますが、テラが145歳の時、長男のアブラムが、神の呼びかけに応えてカナンに向けて旅たちます。私は、聖書の示す寿命をそのまま書き記して比べていますが、アブラハムはノアと五十六,七年は生存期間が重複するのです。私には、まだ存命の父を残しても、神に従ってカランを出てしまうのですから、信仰的には父親よりもむしろノアやセムなどの大長老の影響が多いように思われます。彼らから大洪水の話などを聞くからこそ、アブラハムは、あのような神を信じ従う忠実かつ、真実な信仰が形成されたのではないでしょうか。

  「自分の生まれ故郷、父の家を出て、神の示す地へ行く。」ということは、どういうことなのでしょうか。

  アブラハムが生まれたウルは、1854年テーラーによって発掘が始められ、1922年ウーリー卿が豪華な遺跡を発掘しました。そこは偶像の神を祭るジグラッドなどが発見されています。カランはユーフラテス川上流にある交易の中心地で、考古学によると紀元前19世紀に大繁栄したそうです。

このような都会を去り、アブラハムは、荒野を経てカナンに行こうとします。彼は、山地を回りながら天幕で生涯生活をするのです。それは、彼が神を待ち望み、天にある神の国のことを考えていたからです(ヘブル11・8〜16)。

この地上のものを大事にし、それを基準に考える人は、神の国に入ることはできません。イエス様は、「金持ちが天の御国に入るのは難しい。」(マタイ19・23)と言われました。神のために家、家族、畑、財産を捨てるならば、その幾倍も受ける。」(マタイ19・29)とは、どういうことなのでしょうか。

  自分の財産、家族、それらを自分の考えや計算でどうにかして域用と考える人は、その執着の中で、神を信じることができないのです。神を信じるとは、神は第一に信頼することであって、その他のものは、あてにならないことを受け入れることなのです。財産をどうするとか、家族が思うままにならないとか、仕事がうまくいかないとか、色々なことを自分の能力で対応し、信仰も神のこともぜんぜん考えないで、日曜日だけ教会にきて、「自分は神を信じている。」と思っても、「行ないのない信仰は死んでいる。」(ヤコブ2・26)のであって、神の国に入ることはできないのです。

  悪霊でさえ、神がおられることを知っています。神を信じていも、神を信じて、その命じる歩み、行ないをしなければ信仰者とはいえないのです。そして、神を信じる人は、この世に対する愛着を捨て、神の国を待ち望むのです。

  これらを捨てた者は、「幾倍もの祝福を受ける。」ということは、ここから始まるのです。多くの人が、自分の財産、家族、仕事、その他者もろのことを自分の所有として思い通りに動かしたくて思い煩うのです。

1. 色々な問題、困難があろうと、神を信じて歩み、問題にこだわらない生活をするべきです。

2. あなたは、この世に属する人ではないことを確認し、未信者とは相容れないものであることを悟る必要があります。

3. あなたが神の国の住民として生きたら、神の祝福はあなたの上に注ぐでしょう。

4. 教会に集い、洗礼を受けたからといって、これらのことが出来るわけではありません。しかし、教会に集わず、洗礼も受けない人が神を信じているということは、殆ど神には認められないでしょう。自分勝手な信仰というものは、祝福がありませんが、それは神の責任ではありません。